2016/10/22 - 2016/10/25
372位(同エリア703件中)
明石DSさん
カーテンを開ければ晴天のようでホッとする。
大通りに面した部屋で眺望も良し
三連泊なので有り難い
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2日目:10月23日(日):晴れ
午前中、厦門自由行動:午後、鼓浪嶼へ
2016/平成28年10月23日(日)
■初日厦門の朝からいきなりの自由行動
心配だった天気も雨ではなく晴れで朝を迎えた。天気だけはいかんともしがたく運命に任せるしかない。そして旅の成否も天気に大きく左右される。来る前までの天気予報では晴れマークがなく雨、一時雨、曇りといった予報ばかりだったが出発日の小雨と三日目に少し雨があったが持参した傘を出すことなく天気に恵まれた。
10階窓からの景色を見れば眼下に大きな陸上競技場。その南にには高層マンション群がある。グランドでは多くの人がトラックを歩いたりジョギングする姿が見える。グランド中央は人工芝のサッカー場。厦門の早朝7時前。
7時からバイキング形式の朝食。2階レストランに行く。四つ星の金威大酒店の朝食は如何に?広いレストランに赤いテーブルクロスが掛けられた丸テーブルが並んでいる。ツアー同行者の姿も見えず適当に皿に盛って誰もいないテーブルの一つに座る。スイカが美味かった。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
眼下に広がるグランドでは早朝から運動する人多し
シリアやイラク、アフガニスタンでの早朝の様子は如何に -
旅慣れ見慣れた朝食風景
日本人客は我らの他に見当たらず -
朝食あるのはありがたいが
スイカはスイカ、玉子は玉子の味だが
他はどうもあまりは美味くない -
平成10年上海旅行が中国への第一歩
当時はまだ金持ちもごく一部のような気がしたが
今では中国人の日本への爆買い観光客も普通になった
10年後の日本、そして中国は如何に? -
初めての厦門で土地勘もまったくないけど
この辺りは買い物の人通りも多く店の数も多い
歩き回り見て回る。これぞ旅、面白いなァ~
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■厦門の散策
食後はいきなりの自由行動、集合時間も場所もはっきり聞いていなかったので“Oさん”の携帯に電話をして確認した。「集合時間は昼の12時、場所はホテルロビー」とのこと。私は中国一人旅で慣れているので全然構わないが「他の人たちはどうなんだろう?」と心配していたが心配は不要だった。
太極拳6名グループ内にも中国語堪能の女性がおり、その女性は日中友好協会を通じて頻繁に行き来し活動をしている方だった。男性二人連れも海外旅行は慣れた人たち。私も食後早速散策に出かけた。行き先は市場があって人も多く賑やかだろう?厦門の旧市区と言われる厦禾路(シャーハールー Sh?・ h?・ l?・)と中山路を挟んだ辺り。
https://www.google.co.jp/maps/place/Xia+He+Lu,+Siming+Qu,+Xiamen+Shi,+Fujian+Sheng,+%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD/@24.4562511,118.0780843,16.36z/data=!4m5!3m4!1s0x341484b96d59e4af:0x8477b806bf1e96fa!8m2!3d24.4644223!4d118.0973845?hl=ja
思明北路(スーミンベイルー S?・ m?・ng b?・i l?・)・開平路・開元路・道平路 そこら中をキョキョロしながら歩いた。これぞ中国という路地と路地裏を巡る。市場は日曜日だからなのか?朝から人でごった返している。観光地よりこの風景こそが私にとって旅そのものだ。
狭い通路を挟んで軒を接するように立ち並ぶ家屋。そこに電線が蜘蛛の巣ように配線されているのは何でもありの芸術作品だ。按摩店もあちこちに朝から営業している。その一つに入った。店には“オバチャン”一人。中国語会話の練習でもあり雰囲気を楽しむためでもある。「全身按摩多少銭?」「60元、約900円」
「?胃是那里人?どこの人間?」と聞かれる。下手な中国語を話す“オジン”が入って来てもすぐに日本人とは分からない。「一体こいつ誰やねん?」と思うだろう。5~6年前まで50代前半とか年寄り若く見られたけど、最近は年相応に見られる。
按摩はツアーオプションで行くような本格的な按摩ではないが、私には“オバチャン”との会話を含めてこっちの方が格安だし面白くもあり楽しい。終わったらお茶も出してくれる。朝早くから按摩の店に入り、そのまま迷路の散策を続ける。
ぐるぐる歩いて元の場所もあった。鶏肉屋では鶏・アヒル・ウサギ・鳩などが小さなゲージの中に詰め込まれている。その場で鶏を殺し血を抜き羽をむしり取り解体して客に売る。まあ魚を一匹魚屋でさばいてもらうのと同じ感覚だ。
こんな市場風景を目の当たりにすると人間共の食欲の凄まじさと残酷さを再認識する。地球上に人間がいない風景は平和そのものだろう。人間以外の生き物は自分の生存に必要な量以外は殺生しない。保存できないし。市場の品揃えの豊富さと量に圧倒される。「これだけの量、これってホンマに食うのか?食い切るのか?」・・・と。
そしてとある一角で露店耳鼻科?に出くわした。露店の散髪屋・歯医者等々は見た記憶があるが露店耳鼻科は初めてだ。一人の“オバチャン”が耳を見てもらっていた。耳の検査は無料、耳くそ取りが有料のようだ。
露店耳鼻科の医者はマイクとスピーカーを身体に着け客(患者?)相手にしゃべっている。それが客集めの宣伝のようだ。孫なのか?ベビーカーを押した“オバチャン”が客。しばし見ていた。面白い面白い。中国のどこに行っても共通する風景がここにもあった。見ていて飽きない。 -
道平路(ダオピンルー Dào píng lù)
鷺江街道文化站
ルーシャンジエダオウェンフォアジャン
Lù jiāng jiēdào wénhuà zhàn
なんか分らんけどこんな看板あり -
対向車ではなく対向人との行き違いも難しい
こんな路地から路地を人は普通に歩く
頭上に干した洗濯物から水滴滴る恐れあり -
各種メーターの据え付け盤
一体何戸分?知恵と工夫あれば
どんな環境でも楽しく暮らせる -
三輪ゴミ運搬車も早くから片づけに通る
日曜日の朝だからか?それとも毎日のことなのか?
朝から買い物客で賑わっている市場、活気がある -
かごに閉じ込められた各種生きた食い物
ウサギ・鶏・鳩・アヒル・その他あり
魚をさばくようにさばく、ごく普通の光景なり
今度生まれ変わる時も願わくば人でありたい -
発見!路上耳鼻科
免費検査:検査は無料
医者の資格は不要なのか?たぶん
耳糞取りのようだけど、便利は便利 -
どこがどこだか分らぬまま闇雲に歩く
方向感覚はまったくなくなった
日本ではこんな市場は今はほととんど見かけない
大型店での買い物よりはるかに楽しそうだ
小さい頃良く行った湊川市場(東山商店街)は
http://www.kobe-shinsenichiba.com/higashiyama/
今も健在だが活気は昔に及ばず厦門の市場とは雲泥の差なり
厦門の市場
https://youtu.be/yIbB4Xucvmc -
往路も気になっていた眼科病院に入る
眼の悪い人が多いのか?沢山の人が
病院も入ってみれば違いが面白い
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■午前の自由行動を終えホテルに戻る
路地から路地へと迷路を歩き回り、すっかり方向感覚は無くなった。金威大酒店の方角も分からない。11時前頃になったのでボチボチホテルに戻ろうと大通りを目指した。闇雲だったが偶然にも来た道の厦禾路に出て来た。これでホッと一安心したので道沿いにあった「厦門大学付属厦門眼科中心(センター)」入ってみた。
病院入ってすぐの中央部にメガネ店があった。「眼科とメガネ店」なるほど便利だ。病院内部の光景も日本とはだいぶ様子は違う。時折病院見学もするが結構面白い。満州のとある病院の歯科では治療用の椅子がずらっと並び大口を開けて患者が治療中なのを上から見下ろせるところもあった。日本では考えられない。若いお姉さま方が恥ずかし姿を人目に晒して治療を受けていた。
11時20分頃部屋に無事到着いきなりの自由行動はあっという間に終了した。 -
正面玄関から一歩進んだらメガネ店が中央に
なるほどこの場はメガネの店には最適だ -
金威大酒店の全容
1008:10階8号室に三連泊
泊まり心地:十分満足する -
ツアー同行者計10名 レストランに入る
ここが最初でその後もずっと一卓
10人掛けの丸テーブルだった
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■昼食タイム
そしていよいよツアー本番スタート。予定では午前中に鼓浪嶼を観光して昼には厦門に戻って昼食。そして市内観光だったのが昼食からのスタートになった。
ホテルをバスで出発して海鮮料理のレストラン「鑫崇武海?大酒楼」に到着。
http://www.dianping.com/shop/8588086
ちょうど10名で一つの丸テーブルを囲み昼飯を食べた。最初の昼食がこのツアー中に食べた料理の中で一番まずかった。これは私だけではなく10名みんな同様の感想。特にスープは超薄味お白湯を飲むがごとし。その他も味は「何でこんなん?」。しかし腹は膨れた。安いツアー私に文句はない。 -
見た目と料理の味は無関係
10名の意見が一致して
ここの料理が一番まずかった
スープ極端に薄味、へんな白湯を飲むがごとく -
「美味しい」「まずい」の味覚の違いは何なのか?
同じ人間と言えど大いに違う
なんでやねん?この味は?と -
この船乗り場の大きさにびっくり仰天
まるで国際空港のごとし
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■いざ鼓浪嶼へ
昼食後厦門フェリー乗り場『厦門国際郵輪中心(厦?国???中心)別名:東渡碼頭(?渡??)』に行きぶったまげる。フェリー乗り場がデカくて全容が良く分からない。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E9%82%AE%E8%BD%AE%E4%B8%AD%E5%BF%83%E5%8E%A6%E9%BC%93%E7%A0%81%E5%A4%B4/@24.4804843,118.0749325,15.61z?hl=ja
“Oさん”からもらった乗船券は往復¥35元。乗船まで1時間くらいあったが鼓浪嶼の昔の写真が展示されており、その写真を写したりしてたら乗船時間が来た。目の前の小さな島に行くのにまるで飛行機に乗って海外に出るがごとく荷物検査もあり搭乗口もあり、それに乗船する人の数の多さに圧倒される。「何じゃこりゃあ~、何でこんなに人が多いのや。そうか今日は日曜日か」
黄金周・国慶節等々の休暇時期はもっともっとの人で溢れるとのこと。ピストン運行すれば良いのにと思うけど・・・何でしない?船は満員。鼓浪嶼で結婚写真を撮影する花嫁もウェディング姿のままで乗っていた。私はバスや電車のように「船中つり革」を掴んで立っていた。20分ちょっとで鼓浪嶼到着
到着の岸壁には折り返し厦門に戻る人たちが檻の中にぎゅうぎゅう詰めで待っていた。檻に閉じ込められた人間の群れも壮観なり。そのまま天井から毒ガス噴霧で地球の人類も若干淘汰される。我も数時間後逆の立場となる。 -
入場時にも手荷物検査あり
目の前の小島に渡るのに
この大仰なることは・・・。 -
船の数が少ないのか?待ち時間あり
展示写真を見ながら時間を潰す -
百聞は一見に如かず
目の前の鼓浪嶼に渡る観光客の行列
その多さにぶったまげた
何じゃこりゃあ!
なんでピストン運行しないの? -
二隻のフェリーがほぼ同時刻に往来しているようだった
日曜日なのか?乗客の大半は中国国内旅行者とのこと -
いつも満員の船内?吊手あり
-
鼓浪嶼で新婚さんの撮影会
島内で何組かの撮影風景を見た -
檻の中に閉じ込められたサルども
鉄格子の向こうはサルも人も同じ
この光景を目の当たりにし
背筋寒くなるのは私だけか? -
船を下りぞくぞくと人は鼓浪嶼へ向かう
鼓浪嶼に何があるのか? -
鼓浪嶼観光を終え船を待つ人の群れ
何でやねん?もっと頻繁に船を出せよ! -
鼓浪嶼へ、鼓浪嶼へと草木もなびく人の群れ
これだけの人が小さなフェリーに乗船していた
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■鼓浪嶼(グゥランユィー Gǔlàngyǔ)上陸
車がない島に上陸。私が今回の旅先に厦門・鼓浪嶼を選んだのは、昔この地が長崎平戸生まれ母は日本人「田川マツ」の鄭成功
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html
活躍の場であり、1900/明治33年8月24日‐9月7日「厦門事件」がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%88%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E5.A4.96.E9.83.A8.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF
「廈門(アモイ)事件始末 」
http://plaza.rakuten.co.jp/matrix2008/diary/201008120001/
「義和団運動後の福建と日本」
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10086451-19901200-1001
厦門事件は直木賞作家:高橋義夫(著)「厦門心中」として小説になっている。この旅前にこの小説を読んだ。フィクションだが当時のこの地の様子が良く分かる。鼓浪嶼の日本領事館、領事館警察署などが小説の舞台にもなっている。
そして1939年昭和14年11月から翌15年5月まで短期間だったが日本帝国海軍占領下の厦門で善政を敷いた堀内豊秋海軍少佐。その堀内少佐の厦門赴任同時期にこの地を訪れたのが海軍兵学校67期生。「内地巡行と近海航海~海軍兵学校67期遠洋航海」http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/803812f80ca3a5abe579036ffdbc4f8d
のHPに67期生が撮影した鼓浪嶼の日光岩、厦門の南普陀寺(ナンプートゥースー Nán pǔtuó sì)の写真が掲載されている。
一応簡単だが事前にそれら日本との関りを調べ胸に秘めてこの地に来た。3年前の平成25年には厦門のすぐそばの金門島http://4travel.jp/travelogue/10762922・小金門島(烈嶼郷)に台湾から行った。
https://www.google.co.jp/maps/@24.4978327,118.2922232,11.1z?hl=ja
金門島は根本博中将が中国共産党軍との戦いで蒋介石軍に協力して勝利を導き今も台湾が実行支配している。大陸にへばりついた島だ。
我鼓浪嶼に上陸す。「コロンス島(鼓浪嶼)への行き方」
http://globe.blog.jp/archives/56.html
船を下りた乗客の一団で波止場から島まで人の波が続く。岸壁には三丘田??(サンチューティェンマートゥ Sān qiū tián mǎtóu)遺跡碑が立っていた。“Oさん”の歩く後ろをどこに行くのかも分からずついて歩く。私の行きたいのは日本領事館跡・日光岩、そして鄭成功紀念館だったが鄭成功紀念館には立ち寄らず。
車のない島なので移動は全て歩き。船から降り延平路を南に歩くと地元民の船乗り場「鼓浪嶼鋼琴碼頭:鼓浪??琴??(グーランユガンチンマートゥー Gǔlàngyǔgāngqín mǎtóu)があった。観光客が増えすぎ島民の利便を確保するために厦門⇔鼓浪嶼最短の船着き場は地元民専用とのこと。なるほど・・・。 -
前にも後ろにも人波は続く
そんなにええとこなのか鼓浪嶼は? -
波止場付近には上陸した観光客目当ての
いろんな土産売りが寄ってくる
しかしながら客数に比較すれば売り子は小数
我らに近づく売り子なし -
三丘田碼頭(??)遺跡碑
昔の渡し舟乗り場の桟橋跡
大小10を超える桟橋があったようだ -
鼓浪嶼島民厦門市民専用の船着き場
大挙押し寄せる観光客と同じ船の利用なら
地元住民がここで暮らせないのは一目瞭然 -
車の姿なく歩くのは快適
島内すべて歩行者天国
猿山に群れるサルを思わす光景だ -
英国領事館の一部:凄まじき列強の進出
鼓浪嶼最初の領事館も英国
太陽の沈まない国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%B2%88%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%9B%BD#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9.E5.B8.9D.E5.9B.BD.EF.BC.88.E5.A4.A7.E8.8B.B1.E5.B8.9D.E5.9B.BD.EF.BC.89
16世紀のスペイン帝国、19~20世紀の大英帝国
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■鼓浪嶼:日本領事館跡へ
まず最初に見た洋館、現在は「鼓浪嶼歴史文化陳列館」との名称があったが英国領事館の一部。道を挟んで向こう側にも旧英国領事館跡があった。その後も旧跡らしき建築を見ながら歩き一応写真も写したが、それが何なのか良く分からない。観光場所を示す標識が数多くあり洋館が道沿いに立っている。鼓浪嶼に外国領事館の建設が始まったのは1843年の英国領事館が最初で1900年当初までに14ヶ国もの領事館がこの小さい島にあったようだ。
当時の鼓浪嶼は世界の縮図の様相でありここで生活する人種も多彩。今でも異人館が至る所に目に付き独特の景観がある。そして日本領事館跡に辿り着いた。「1875開-1949閉」:初代厦門領事は福島九成(きゅうせい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E4%B9%9D%E6%88%90
日本領事館は改修工事中で中には入れなかった。1900/明治33年8月月24日 『厦門(アモイ)の大谷派本願寺布教所、清国暴民のために焼かれる。』本願寺の焼失は福建での勢力拡大を狙っていた日本の自作自演の謀略とも言われているるが、「廈門(アモイ)事件始末 」http://plaza.rakuten.co.jp/matrix2008/diary/201008120001/にも書かれているように米国が焼き討ちに便乗しての策略の可能性も大だ。
真相は闇の中だが日本人の私は確たる事実が明らかでないなら日本人として当然日本を信じる。英国を筆頭に欧米覇権国を向こうに回し、当時は後進覇権国日本も強国の中で生き残っていくために必死だったのだろう。
この時、日本海軍:高千穂 (防護巡洋艦)・和泉 (防護巡洋艦)・筑紫 (巡洋艦)・大島 (砲艦)の四隻が厦門港前に錨を降ろし、厦門と鼓浪嶼に海軍陸戦隊を上陸させた。この日本領事館にも陸戦隊水兵が一時駐屯した。しかし英国・アメリカ・ドイツなどが日本の進出を阻むべく強硬に抗議し英国は軍艦を派遣し水兵を上陸させた。そういった各国の抵抗を受けて日本は厦門から撤退する。
昔も今も未来もそうだが「力こそ全て」が世界の外交であり、台頭する日本は白人列強国から見れば「利用すれど対等とはしない」との確たる思いがあっただろう。
日本領事館の同じ敷地に日本の警察署と宿舎の旧跡もある。日本の警察署があるということはこの地が治外法権の地であったという証だ。眠れる獅子と言われた清がアヘン戦争で英国に敗れ、その後清は欧米列強の草刈り場になった。
その一角に維新を経て独立を堅持するため富国強兵を目指し日本も必死で食い込んでいった。確かに大東亜戦争で敗れはしたが良くぞ戦った。故に今の日本がある。今は情けない日本ではあるが、あの戦いなくばもっと惨めな日本になっていた。 -
英国領事館跡
アヘン戦争(1840年6月28日 - 1842年8月29日)で英国に敗れた清
1843年に英国は最初に鼓浪嶼に領事館を置いた
清は仏・米等と条約を結び欧米列強の草刈り場と化す -
日本領事館跡
1894/明治27年年7月25日~1895年11月30日:日清戦争
日本は日清戦争に勝利し台湾を割譲
1905/明治38年日露戦争にも勝利、列強の仲間入りをした
世界に羽ばたく雄々しき時代の日本がここにもあった -
1875/明治8年設立
1897/明治28年建立
http://www.360doc.com/content/13/0504/16/9087553_282923684.shtml -
荒れ果てた姿の日本領事館
厦門事件の時は
この領事館内に海軍陸戦隊が駐屯していた -
日本の警察署と宿舎跡
説明書きの立て札あり -
厦門の日本警察署跡
領事館と同じ敷地内に
同じレンガ造りで建つ -
鼓浪嶼内のアチコチで新婚夫婦の撮影会を見かけた
撮影代は高いだろうなァ~、親の出費?
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■日光岩に向かう
肝心の日本領事館旧跡を確認出来てホッとした。みんなの後を付いて行こうと歩いていたが観光客が多く男三人が違う道に向かったようで仲間の女性が追い掛けて来てくれた。しかし違った道に行ったおかげで天主堂の写真を偶然写していた。帰国後写真を見て分かった。
歩いていると新婚カップルの撮影会をあちこちで見受けた。花嫁はウェディングドレス。カメラマンに促されいろんなポーズをしながら撮影をしている。
どこをどう歩いたか定かではないが昔クリケット場:現在は人民体育場になっている芝生グランドの前を通って日光岩に向かった。日光岩への入場料は大人60元、約900円。軍人武警は無料・・・か。
今の日本には軍人はいない。自衛官はいるが軍人としての立場は与えられていない。戦後の日本人は軍隊軍人を忌避し、その言葉すら嫌う。軍隊軍人のいない国は国家足り得ず。故に日本もいまだに米国の従属国であり真の独立国ではない。つまらぬ国家国民になったものだ。
日光厳寺を通って上に上にと観光客は日光岩の頂上を目指す。この鼓浪嶼に立ち寄った人間はほぼ全員がこの岩の頂上に立つに違いない。この岩こそ島の象徴であり頂上からの360度の眺望を見ずして鼓浪嶼に行ったとは言えず。海軍兵学校67期生もここに来た。
時は昭和14年9月5日。7月25日卒業式後の航海は、まず東洋方面に船出。その時に厦門に寄港。その後一旦日本に戻り宮城参内、靖国神社、明治神宮などを参拝のあとハワイへの遠洋航海に出ている。
この67期生も航海の2年後火ぶたを切った大東亜戦争で数多くの戦死者・軍神が出ている。その方々の犠牲の下に今の日本、世界がある。その名も知らず戦歴も知らず何も知らず。首相の靖國参拝もままならず今は只々申し訳ないの一語に尽きる。
「ネイビーブルーに恋をして」・・・か。ブログ主は女性、日本にまだ“大和なでしこ”がいる。このブログが永久にリンク切れにならないことを祈る。
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0
①『”遠航散見”~海軍兵学校67期の遠洋航海』
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/1554477ec8eeb7ba9b4436c6b1c24803
②『内地巡行と近海航海~海軍兵学校67期遠洋航海』
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/803812f80ca3a5abe579036ffdbc4f8d
③『拝謁・東京見学~海軍兵学校67期の遠洋航海』
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/ccc51cc544668ef64a86db1bd608fbcf
④『横須賀出航~海軍兵学校67期の遠洋航海』
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/7dca0cccbde537cdd352b7848d539d0d
その昭和14年厦門は日本の占領下にあった。昭和12年7月に盧溝橋http://4travel.jp/travelogue/10729729に端を発して支那事変が始まり1938/昭和13年南京攻略、その五ヶ月後の昭和13年5月に日本海軍が厦門を占領した。
軍政下に置かれた厦門の特別根拠地隊司令として昭和14年11月~15年5月と短期間だが堀内豊秋少佐が赴任し善政を施した。67期生が厦門に来たのは9月、その時点では重巡洋艦「妙高」乗組だった赴任前の堀内少佐との対面はなかったのだろう。 -
帰国後天主堂を写していたことが分かる
その時は何も知らず・・・。日本領事館傍にある -
神戸にも異人館通りがあるが
洋風館が立ち並ぶ異人館通り?を歩く -
昔はクリケット場だったようだ
天然芝か人工芝か?確認ならず -
鼓浪嶼:日光岩
「国家AAAAA?旅游景区」
http://baike.baidu.com/item/%E5%9B%BD%E5%AE%B6AAAAA%E7%BA%A7%E6%97%85%E6%B8%B8%E6%99%AF%E5%8C%BA/3575094?fr=aladdin
「5A」は格付け最高 -
日光岩の麓の日光厳寺を通り過ぎて
頂きを目指す -
眼下は異人館の町並み
遠くツインタワーがある
厦門に来た理由の一つは
堀内豊明大佐の物語がある
大佐も赴任中に一度はこの日光岩に来たはずだ -
堀内豊秋大佐
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厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐(当時:少佐)
【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】
http://www.sankei.com/politics/news/150216/plt1502160006-n1.html
厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から転勤延期の嘆願書も
黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。
「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」
「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」
「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」
【堀内豊秋氏】
明治33年、熊本県生まれ。大正11年海軍兵学校卒(50期)。デンマーク体操を取り入れた堀内式海軍体操を考案。日中戦争で厦門に陸戦隊司令として駐留。昭和17年1月、日本初の落下傘部隊隊長として、インドネシアのセレベス島メナド奇襲降下作戦を成功させた。終戦後の23年1月、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑となった。
辞世
月に雲 花に嵐と悟り得し 身は秋晴れの空を待つのみ
神そ知る 罪なき罪に果つるとも 生き残るらむ大和魂
白菊の 香を残し死出の旅 つはものの後我は追ふなり
日本はじめての落下傘部隊の隊長・堀内 豊秋
http://yumeko2.otemo-yan.net/e317258.html
堀内豊秋大佐・・・仁政の軍神
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-537.html
堀内大佐が生まれたのは熊本県。実家は【熊本】御馬下の角小屋(みまげのかどごや)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e317256.html
として今は観光名所になっている。今年の5月その熊本に行った。西南戦争での激戦地「田原坂」とその周辺、そして堀内大佐の実家:御馬下の角小屋と大佐の墓にも行った。
実家からほど近くにある墓地は今年2016/平成28年4月に発生した熊本大地震で多くの墓石が倒れ散乱している状態だった。堀内家の墓石も倒れていた。しかし横に大佐の遺歌が記された石碑があったが薄いながらもビクとせず立っていた。さすがデンマーク体操で鍛えた大佐の魂が石碑に宿っているのだろう。ご冥福を祈る! -
この家で堀内豊明大佐は生まれて育った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E8%B1%8A%E7%A7%8B
敗戦後のオランダの復讐裁判により47歳で銃殺される -
今も当時を思い起こさせる部屋の佇まいがある
腰に大刀を差しての日常は身も心も引き締まる
文武両道は人を凛とさせる。時代が変われど教育の基本だ -
昭和23年9月23日(認)
突然の執行通知を受けての遺言書
無念の胸中如何ばかりか・・・。
靖国神社に合祀。ご冥福を祈ります -
堀内式海軍体操を考案
『1944年(昭和19)年に海軍大臣表彰授与』 -
実家近くにある堀内家の墓苑へ
-
2016/平成28年4月14日発生
熊本大地震
堀内家の墓石も倒れていた(平成26年5月24日撮影) -
奥 黒御影が堀内家の墓石台座
しかし、しかし・・・。
堀内大佐の遺歌を刻んだ薄き石碑は倒壊せず
堀内式海軍体操の真髄ここにあり、魂宿る! -
1939/昭和14年9月5日海軍兵学校67期生撮影 日光岩
77年後の平成28年 我もここに来たり
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■日光岩頂上に立つ
日光岩の頂上までの途中には巨石が覆いかぶさり自然の力にいつもながら圧倒される。地球の身震いが大きければ人類が営々と築いた地表の建物も一瞬に木っ端みじんに崩壊しかねない。震度8でも耐えれる建物も震度20ならあっけないだろう。どこにもある巨石の組み合わせだろうがどこで見ても感動する。
途中からの下界の眺めも洋風の館が立ち並び鼓浪嶼ならではの風景が広がっている。ここは外国人共同租界であり白人列強国がアジアを制覇していた時代の産物なのだと思い知る。そんな状況の中でも逞しく世渡りをして金儲けをした中国人たちの別荘も沢山あったようだ。
中国人国内旅行者と共に上に上にと上り頂上(標高約92メートル)に到達。そこは360度遮るものなしの絶景が広がっていた。我鼓浪嶼に来たり。金門島は方角も定かではなく何も見えず。厦門の高層ビル群も壮観だが離れて立っているコンラッドホテルが入るツインタワーが目立つ。ホテル部屋数241。1万4千円くらいからの一泊料金のようだ。
日光岩の頂上展望台も狭い所に観光客がひしめきゆっくり眺める余裕はない。気ぜわしく見て、降りた。 -
私の宗教は「八百万の神」と「ご先祖様」
巨石一つにも頭を垂れ手を合わせたくなる
なんじゃ こりゃあ -
向こうに見える島影は金門島にあらず
グーグル地図
https://www.google.co.jp/maps/@24.4281561,118.0857914,13.57z?hl=ja -
日光岩の頂きは混雑模様
老いたらこんな階段登れないかも -
頂上に到達:標高92.68m
コロンス島(鼓浪嶼)で一番高い
「不登日光岩,不算到廈門」
ブゥダンリィグアンイェン ブゥスアンダオシャーメン
Bù dēng rìguāng yán, bù suàn dào xiàmén
日光岩に登らずして厦門に行ったと言うなかれ -
ガイドの“Oさん”曰く
「大陸内部からの中国人観光客は海辺観光は絶対」とのこと
日本は周囲を海に囲まれ海見ずして死ぬ人ナシだろう
しかしシナ大陸で生まれ育てばさにあらず
海見ずして死ぬ人数知れず
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■菽荘(庄)花園へ
次に向かったのは菽荘(庄)花園(シュージュアンホァユエン:Shū zhuāng huāyuán)。日光岩から浜辺に降りて入場口があった。砂浜のビーチは大陸からの中国人観光客は必ず行く場所のようだ。
「海辺の砂浜で遊ぶ」というのは日本のように周囲が海で囲まれた国ならば見慣れた風景なのだろうが海を見ないまま生涯を終える内陸部の中国人もまだまだ沢山いるようだ。そんな人たちにとって小規模であっても海岸のビーチというのは憧れのところでもある。気持ちは良く分かる。
菽荘花園の入園料は¥30元。入場券売り場上の電光掲示板に今日の入園者数が表示されていた。午後4時現在「菽荘花園:3582人」「日光岩:3372人」・・・日光岩は高齢者は行かないかも。
菽荘花園とは何ぞや?元は台湾淡水に住んでいた福建人が1895年日清戦争勃発で台湾からこの地に移り住んだ。時を経て台湾当時を懐かしみ1913年、ここに淡水の別荘に似せた花園を作った。それがこの菽荘花園とのこと。
前に海、振りむけば日光岩の全容がくっきり見える。一応入るに入ったが花園の散策もなく海辺の回廊を歩いて鋼琴博物館(ガンチンボーグゥグアン Gāngqín bówùguǎn)に入る。 -
もはや私の厦門の観光はすでに終了
何の興味も感心もなく後に続いて歩く -
菽荘(庄)花園の中を歩いて鋼琴博物館へ
一同すでに歩き疲れ物言わず歩く -
振り返れば日光岩が
頂上15時35分、今、16時7分
頂上から32分後に現在地点に到達 -
鋼琴博物館へ来る
入り口から出口にと歩く -
9月15日の台風襲来で倒れたガジュマロの巨木
こういった光景が各所にあった
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■鼓浪嶼観光終了
「音楽の島」「ピアノの島」等々いろんな形容があるが、私には興味の他で写真も撮らず入り口から出口へと歩いた。そしてこの頃は暑さと歩き疲れで集中力・思考力もなくなっていた。予定にはないが10名の要望を“Oさん”が聞き入れ喫茶店で小休止。マンゴージュースを飲む。美味しかった。
余程疲れていたのか?鋼琴博物館入場から喫茶店の休憩も私には珍しく写真の一枚も写していない。そしてやっとシャッターを切ったのが喫茶店を出てガジュマルの大木が9月15日のスーパー台風で倒れている惨状だ。
すでに時刻も午後5時、歩いている面々を見なければここはどこ?中国の下町とは違ってヨーロッパの街角の雰囲気漂う鼓浪嶼を行く。「ふ~ん、鼓浪嶼はこんなところだったのか・・・」やっぱり自分の足で歩いて見てはじめて分かる。 -
今も中国とは思えない街並み
前を歩く二人の尼さん、どんな人生なのだろう? -
夕暮れ時の鼓浪嶼
-
鼓浪嶼脱出は一苦労
小さい島に多くの観光客
橋を架けないのは正解だが
渡船の混雑にはゲンナリする
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■驚きのフェリー乗り場
三丘田碼頭からフェリーに乗ろうと思ってビックリ仰天。乗船待ちの人の列。もっともこっちに渡る時も人の多さに驚いたのだから復路も当然なのだろうが波止場を埋め尽くす乗船待ち行列に唖然とした。そしてこの行列中に同行者の女性が気分を悪くし“Oさん”が警備の人を呼び行列をかき分けて付き添い1名と脱出。
他にも気分を悪くする人が出てもおかしくない程の混みようであった。やっと列が進みだしたが次に入ったのが船待ち場所の檻の中。そういえば厦門からこっちに渡った時に檻の中で待つ人たちを見て動物園の如くと思ったものだ。その逆の立場に置かれている。実際には見たことないがアウシュビッツのガス室内の光景に似たり。
こんなに乗船客が多いのに何故フェリーはピストン運転をしないのか?何故船を増やさないのか?ここは異国、それも中国、謎多き。人間扱いは無用なり。檻の中で待つ間も暑苦しくホンマうっとしい時間を過ごした。此の国の連中は皆慣れているのか忍耐強い。これが日常であり通常であり普通なのだろう。
やっと船が来たと思ったら隣の檻の前に停船。そうか隣にも鉄格子の檻があり人が山ほど詰め込まれていた。やっと解放か?と思ったのにがっかりする。それから10分の長いこと。やっと船が来た。檻が開き我先にと人は船に乗り込む。気分を悪くした同行者は船に乗り込んだあと吐く。それで快方に向かったようだ。
厦門までの乗船時間は10分もない短時間だった。たったこれだけの距離なのにあれだけ待たしやがって・・・と。人間を人間扱いしなければ何事も簡単だ。バスを待ち金威大酒店に帰り着いたのは午後6時44分。
今日の夕食は海鮮料理の店に行く予定だったが体調不良者が一名出たので急きょ予定変更、ホテルレストランでの夕食となった。10名一卓丸テーブルを囲み中華料理を食べる。味は昼飯より良し。ご飯はコシヒカリとは雲泥の差。食い物一つとっても日本人は幸せだと思う。しみじみと。
午後8時頃夕食終了。その後疲れて部屋にすぐ戻り明日に備える。明日は午前8時過ぎ出発で福建土楼へ行く。 -
同行者一名気分が悪くなり行列から退避す
檻の中に閉じ込められ船の到着を待つ人の群れ
この状態での帰路はテンション下がる -
やっと「船が来た、解放される」と思ったら
隣の檻が先行だった。ガックリ -
その後10分程で船は来たが、その10分は長かった
船中も当然満員御礼なれどあっと言う間に着く -
待った、乗った、と思ったらもう厦門に上陸
なんやこれ?まるで手品のように不思議
鼓浪嶼
https://youtu.be/x5JXEdWITVI -
夜も予定変更で金威大酒店で食事となる
昼より美味しい、一同同じ意見 -
おかずはともかく、ご飯は日本とは雲泥の差
日本のお米の美味さは世界一なのだと思う
さあ明日は土楼へ行く
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