2016/07/03 - 2016/07/03
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三峯霧美さん
埼玉県の式内社巡り、今回は武蔵国足立郡の3社に参拝しました。
大宮の地名の由来ともなった氷川神社と中山神社、氷川女体神社、一説にはこの三社で氷川神社ともいうらしいです。
浦和区のウサギの神社として有名な調神社と足立神社の論社の2社をまわりました。
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大宮駅周辺はお約束の渋滞、氷川神社の西駐車場に車を停め、裏参道から参拝しました。
赤鳥居は木々に埋もれて全容が見えず。 -
一度境内に入ってから、正面参道へ。参道は2?と長く、昔は参道が中山道でしたが、神様に通じる道に牛馬が通るのは恐れ多いというので、中山道を分けました。そこに発展したのが現在の大宮の町。
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武蔵国一宮 氷川神社 式内社(名神大社)勅祭社 別表神社
三の鳥居 ここから境内です。参道も境内もとても広く、さすがに武蔵国一の宮
しかし、古くは武蔵国の一宮は小野神社で、氷川神社は三の宮でした。
延喜式神名帳では氷川神社は名神大社、小野神社は小社と記されていることから、社格の逆転は平安時代中期ごろだったと考えられています。 -
白無垢の花嫁さんが写真撮影をしていました。すれ違う参拝者も自然と微笑んでしまいます、お二人の門出に、末永いお幸せをお祈りします。
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境内には摂社末社がたくさんあって、ここは六社。朱色がとても美しい。
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夏越の大祓いは数日前に終わりましたが、神橋には茅の輪がありました。グルグル回って、穢れを祓いました。
この地は江戸時代まであった見沼のほとりで、元は水神を祀ったと考えられています。
境内の池は見沼の名残りだとか。 -
手水舎の奥にお水取りができる蛇口がありました。
だれでも自由にお水を頂くことができます。境内は湧き水が豊富で、西駐車場の脇の水路は、境内から流れ出す湧き水がザーザーと音をたてていました。 -
楼門 朱色の堂々とした楼門
社記によれば、創建は2千年前の孝昭天皇3年ということですが、この孝昭天皇は欠史八代の天皇の一人、さて、創建はいつなのやら・・・。 -
朱の楼門とはイメージが違う どっしりとした拝殿
祭神 須佐之男命 稲田姫命 大己貴神
現在の祭神は1833年の氷川大宮縁起によります。
景行天皇の時代に出雲の氏族が移住し、武蔵国造は出雲国造と同族なので、須佐之男命なのだとか。氷川も出雲の「斐伊川」に由来するとか・・・。 -
神饌所が修造中のため右手から本殿を伺います。神輿舎があって、よく見えません。
造営は1940年、拝殿と楼門も同時に造営されたものです。
かつては男体社 女体社 簸王子社の三社に別れて、それぞれ社家が祭祀をつとめていた時期もあるそうです。
伊弉諾・伊弉冉・軻遇突智とする説もあるそうです。 -
授与所で御朱印を頂きました。最近修造されたようで、新しくきれいな授与所です。
ご祈願を待っている方がたくさんいらっしゃいました。 -
門客人神社 (摂社)
足摩乳命 あしなづちのみこと
摩乳命 てなづちのみこと
稲田姫命の親神です。
以前は「荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)」と呼ばれていて、出雲国の氏族が須佐之男命を祀る前の地主神です。 -
御朱印を頂きました。御朱印帳は300円、紙に書いたものは500円を収めます。
生まれ育った都内の城北地区は、あちこちに氷川神社があります。埼玉・東京・神奈川を中心に280社ある氷川神社の本社です。
次はここから一直線上に並ぶ氷川3社の一つ、中山神社へ向かいます。 -
中山神社 長い参道は交通量の多い県道に分断されています。一の鳥居は県道の信号を渡った先。
氷川神社と氷川女体神社を結ぶ直線の真ん中にあり、「中氷川神社」と呼ばれていましたが。明治に入って中山神社と改称しました。
鳥居には「氷川神社」の扁額がかかっています。中山神社 寺・神社・教会
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創建は祟神天皇の時代(紀元前95年)という古社、祭神は大己貴神
氷川神社(男体社)の須佐之男命と氷川女体神社(女体社)稲田姫命の間の子を祀る神社というので氷王子社とも言います。
この三社を合わせ氷川神社という説もあります。
夏至の日に太陽は氷川神社に沈み、冬至の日に氷川女体神社から昇り。稲作の暦のために意図的に配置されたそうです。 -
本殿
社務所がなく、神職さんは御不在のようでした。連絡先の電話番号がありましたが、御朱印はまたの機会に。 -
12月に行われる鎮火祭は炭火の上を素足で渡り無病息災を祈願します。
1981年から中断していましたが2007年に再開されました。 -
旧本殿はさいたま市指定文化財で、本殿の奥に覆殿の下に保存されています。なかなか撮影が難しいのですが、本殿以上に神様がいるという雰囲気が強いです。
桃山時代の建築で、市内で最も古い建造物だそうです。 -
氷川女體神社 江戸時代に新田開発で埋め立てられた見沼のほとりの台地に建つ神社です。
創建は中山神社と同じく祟神天皇の時代。
式内社の多気比売神社の論社ともされています。氷川女體神社 寺・神社・教会
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拝殿 祭神は奇稲田姫命
伝わる社宝は鎌倉時代から室町時代にかけてが多く、地域の支配者による崇敬があつかったことを物語っています。 -
拝殿にかかった扁額には武蔵国一宮とあります、氷川神社、中氷川神社と合わせて氷川神社と考え、一宮としています。
幕末から明治にかけて神主だった武笠家に生まれた武笠三は、唱歌「案山子」の作者です。明治の国定教科書の編纂に携わった方です。
すっかり忘れていましたが、♪山田の中の一本足の案山子♪そういえば歌えます。 -
社務所に巫女人形があります、家に持ち帰り、毎日お参りをして、願い事が叶ったら、服を着せて神社に納めるのだそうです。
みんな、願い事が叶ったんですね。 -
竜神社 見沼には竜伝説があり、御船祭は神輿を乗せた船を沼の奥に繰り出して、竹を四方に刺し竜神様を祀るお祭でした。
見沼が干拓されて竜は見沼を人間に預けると言って天に登ったという伝説ですが、かなり人間の都合のいいように解釈してると思いますが。
古の広い見沼を渡る神輿を乗せた船を見たかったです。
芝川見沼第一調整池の建設の際、発掘調査されたところから790を数える竹の突き刺さった跡が見つかったそうです。そこが「四本竹」という地名が残る御船祭の祭祀を行った場所なのです。 -
御朱印を頂きました。普段は社務所でゴム印対応ということでしたが、この日は御朱印を社務所で押して、拝殿前を突っ切って、参集殿(?)にいた方に墨書きをしていただきました。ラッキーでした。
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神社前の御幸道を進みます。橋の上では近所の子供たちが釣りをしてます。
あのちいさな外来魚が釣れるのでしょうか・・・龍神様はどう思われているか。 -
御幸道の突き当りには、磐船祭祭祀遺跡。
見沼が干拓されて、神社の最も重要な御船祭が行えなくなってしまい、見沼の一部だった池に島を築いて祭祀場を設けて磐船祭を行いました。
磐船祭は明治の初めに行われなくなりました。 -
調神社 つきじんじゃ 式内社
神社到着が4時25分 駐車場が閉まっているので、警備員さんに聞くと、駐車場の入場は4時までで、社務所が開いているのは4時半までとのこと。
お参りはできるので、近くのコインパーキングを使ったら?と、ご親切に教えていただく。
敷地をぐるりと回って、神社の向かい側のコインパーキングに車を停めました。
しかし、古い町なので、道が狭い。調神社 寺・神社・教会
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祭神 天照大御神 豊宇気姫命 素戔嗚尊
創建は開化天皇の時代 (またもや欠史八代のお一人ですが) 奉幣の社として創建。
倭姫命が参向し神宮に献上する調物を収める倉を建てたという伝承もあり、鳥居が無いのは調物を運搬する妨げになるためだそうです。
倉はその後神聖しされて神社となったと推測されています。 -
「調」と「月」が同じ読みなので月待信仰と結びつき、狛犬ではなく狛兎です。
ウサギの神社としても有名です。 -
拝殿と本殿が一体となった権現造 1858年の造営です。
1337年足利尊氏の名により、荒廃した社殿を再建しましたが、その後兵火にかかり、1380年再建。
その後も秀吉の小田原攻めの際に焼失してしまい、江戸時代初期に再建されます。 -
先代の本殿は1733年造営のもので、境内社の稲荷神社の社殿となっています。近づくと漆の匂いがしていました。
御朱印はまたの機会に、再参拝する際は、中山神社も一緒に訪れてみましょう。 -
足立神社 さいたま市浦和区上木崎 なんちゃって式内社 自分の氏神様を歴史ある神社としたい気持ちはわかりますが。
元は高塙郷の鎮守として「高塙明神」と言いました。 -
でも歴史ある古社です。創建は不明 明治に入って地元の副戸長だった市川何某さんが式内社だと主張し、改名しました。
このほかにも、北区宮原町の加茂神社も足立神社を名乗っていますが、武蔵風土記によれば「信じがたき説なり」だそうで、式に乗りたる足立神社は植田谷本村に建っているものだと記載されています。 -
祭神 猿田彦命 最近修造された様子の社殿です。当然誰もいませんでした。
参道脇に駐車場があるのですが、入り口に縁石が飛び出していて、とても車を突っ込む気になれませんでした。 -
足立神社 さいたま市西区植田 式内社(論社)
氷川八幡神社でしたが、明治40年に近隣の30社を合祀しました。
その中に植田谷本村と水判土(みずはた)村の足立神社も含まれていて、足立神社と社名を改めました。 -
植田谷本村の足立神社は豪族の足立氏の本拠地に鎮座しており、同氏の祖が足立神社を氏神としていたという説が最も有力で、風土記によれば、神社は足立氏の子孫という名主の小島勘太夫の屋敷内にあったそうです。旧地には説明書きのポールが立っています。
また、水判土の足立神社は慈眼寺の境内に鎮座していて、慈眼寺は足立神社の別当寺だったそうです。 -
足立氏が衰退し江戸時代には「足立神社」を名乗る神社がいくつか出現したとのこと
こちらは朱の本殿。
足立神社の論社は 鴻巣市笠原の久伊豆社もあり、武蔵国造の笠原直使王が住んでいたとされています。
普段は無人の神社です。 -
神社の脇には紫陽花園がありました。
たくさん神社をまわったような気がしますが6社、御朱印は2社。
全部式内社が絡んでいたので、ちょっとした充実感。
もう一度、調神社には早い時間に参拝せねば。
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