2016/05/13 - 2016/05/14
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ゆらのとさん
5月13日、午後四時過ぎm十和田湖から約1時間、友人の運転で黒石市郊外の青荷温泉へ向かった。そこはランプの湯である。満開の桜が咲いていた。その温泉宿は電気がないわけではない。ランプの灯と温泉と小川のせせらぎで日本人が好む郷愁を狙ったのだ。源泉が五つもある見事な温泉宿だった。。
黒石市の津軽三味線の名士千葉勝弘氏招いて、無料で津軽三味線のライブをする日だった。東京の民放の「旅番組」も取材に来ていた。演奏は素晴らしかった。私は若い頃から津軽三味線が好きだ。あの激しいバチ捌きの中から連想する津軽の人たちの強さと風土の厳しさ、そして、その底に潜む哀愁。
最後の演奏が終わってフィナーレの時、私は大声でアンコールをお願いした
快く承諾して演奏してくださった。私が日本の民謡の中で一番好きな「十三(とさ)の砂山」である。
青荷温泉で4回入浴した。夜更けに見た桜も見事だった。その日詠んだ句は
「青荷の湯 夜更けのさくら ランプの灯」 だった。
5月14日、桜旅の最後の日である。ゆっくりと朝風呂に入り、山菜料理と鮎の塩焼きの朝食を取ってから青荷温泉を出たのは9時近かった。Kさんは青森市の三内丸山の縄文遺跡に案内してくれたのである。
途中、朝日に輝く岩木山を観て感動だった。青森の人が岩木山を大切にし、誇りにする気持ちが分かった。
丸山遺跡が、こんなに規模が大きくて、約5900年から4200年前の縄文時代中期の集落がそのまま遺跡として発掘されたことに驚いた。かなり生活文化が高かったことが分かる。 もしかすると、世界4大古代文明より早かったのではないかと想像してしまう。
遺跡が発掘された広大な広場に遺跡を基に復元した集落があった。
縄文時代にはすでに山桜が咲いていたと多くの学者が言っている。どのように咲いていたのだろうか。
民家の中央に大木の柱で造った櫓(やぐら)のような建物があり、その横に大勢が入れるホール(集会所)のような建物があった。
このホ−ルが集会所で、長(おさ・集落の長)が皆の意見を聞きながら政(まつりごと)を治めたのだろうか。
現在、青森県は「三内丸山遺跡」を世界遺産に申請している。約5000年前に日本の北方(蝦夷、陸奥)にこのような文化があった事は人間の歴史に極めて重要なことである。文化人類学で、「温暖な所よりも寒い所の方が人間は生活の知恵を必要とし文化が発達する」の証拠になる。
来年はユネスコの世界文化遺産に認定されることを願って止まない。その日、詠んだ短歌は
「三内の 丸山遺跡訪ぬれば 縄文さくら 如何に咲きしや」だった。
それから、恐山へ向かった。恐山の近くの桜街道に連れて行ってもらった。残念ながら桜は散っていたが、1本だけわずかに花弁を付けた桜が大空に輝いていた。
せっかく恐山に来たので、中に入った。私は恐山には若い時の晩秋に一度、来たことがある。怖い思い出しか残っていない。 現在はだいぶ規模が小さくなったが、「恐山」はやっぱり、怖かった、 臆病者の私には「地獄の入り口」のような気がするのだ。石灰岩を積み重ねた石塚に死者の霊を祈る。死者を祈祷師(イタコ)が呼び寄せてくれるのだ。私は民間信仰かと思ったら曹洞宗の寺が管理しているのだそうだ。
硫黄で魚がいない湖の向こうに美しい山と青空を見た時は、ほっとした。
恐山を後にしてからKさんが運転する車中から何本かの葉桜を見たが、時間がなくて下車できなかった。
その日、七戸十和田駅から午後6時前の新幹線で大宮駅で乗り換え、わが家に辿り着いたのは午後11時近かった。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 新幹線 自家用車
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