2016/06/22 - 2016/06/22
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ペコちゃんさん
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日本人として、一度は訪れておきたい場所、それが皇居です。
梅雨空のもと、地元の仲間8名と朝の西武新宿線に乗りましたが、所沢の手前で ” 西武池袋線で人身事故が発生! ” のアナウンス。
予定では所沢で池袋線に乗り換えて、池袋から丸ノ内線・東京駅でしたが、乗り換えないでそのまま高田馬場へ。
そして東西線・大手町駅から皇居に向かい、10時からの一般参観に何とか間に合いました。
最初降っていた小雨も、参観の途中から上がったので、参観が終わった後は皇居東御苑を自由散策。
竹橋で昼食をとった後は、久し振りに上野の東京国立博物館へ。
ちょうど、日韓国交正常化50周年記念「ほほえみの御仏――二つの半跏思惟像――」が始まったばかりで、これを観に行きました。
大陸から弥勒信仰が伝わった飛鳥、奈良時代に思いを馳せながら、奈良・中宮寺と韓国の半跏思惟像をゆっくり観ることが出来、梅雨空の中、良い一日が過ごせました。
写真は、東御苑・二の丸公園の二の丸池を泳ぐ「ヒレナガニシキゴイ」・・・インドネシアのヒレナガゴイと日本の錦鯉を交配させたもので、尾びれや胸びれが普通の鯉よりも長い優美な品種です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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東西線・大手町駅から歩いて、9時40分に皇居へ到着。
皇居参観に訪れた際、真っ先に見えるのが、この「巽櫓(桜田巽二重櫓)」。
江戸城の時代、本丸から見て東南(辰巳の方角)に位置している事が名前の由来で、皇居外苑に面しているので、かなり目立つ櫓です。 -
かつて江戸城には、三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟がありましたが、この内、現存するのは富士見三重櫓、桜田巽二重櫓、伏見二重櫓の3櫓だけです。
巽櫓は隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」で、関東大震災で倒壊した後に復元されました。
「石落し」(石垣よりはみ出した出窓部)や、鉄砲・弓矢用の「狭間」が備わっており、実戦的な櫓として造られています。 -
最近は、どこに行っても外国の観光客を見かけます。
嬉しいことですね。 -
「桔梗門」・・・桔梗は、江戸城を築城した太田道灌の家紋で、この門の瓦に家紋が付いていたことから、桔梗門と呼ばれるようになりました。
この手前で一般参観の受付をして・・・ -
桔梗門の渡櫓門を入って、集合場所の窓明館に向かいます。
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「窓明館」で10時から、最初に皇居の案内ビデオを10分ほど見ます。
会場の左にある売店・・・見学から戻って来た時は閉まっているので、お土産は今のうちに。 -
皇居の面積は約115万m2、皇居前広場などの皇居外苑も含めると総面積は230万m2で、東京ドーム49個分もあります。
この地に、最初に館を建てた武家は、平安時代末期の武将で武蔵江戸氏の初代当主・江戸重継。
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落した後、上杉持朝の家臣・太田道灌が、1457年に江戸城を築城したのが始まりです。
徳川幕府の居城となった江戸城ですが、明治元年に皇居となり、明治21年から「宮城」と呼ばれ、昭和23年から 「 皇居 」 と呼ばれるようになりました。 -
ビデオを見た後、赤の点線に沿って、一般参観のスタート。(所用時間:約1時間15分)
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桔梗門の石垣・・・よく見ると、家紋が彫られています。
江戸城築城の際に、各地の大名が呼び集められ普請をしましたが、その際に各地から石が集められ、大名はその石に家紋を刻み込んだわけです。
この「丸に十の字」は薩摩藩・島津氏の家紋。 -
ガソリンスタンド。
宮内庁職員だけでも千人以上、皇宮護衛官が920人なので、皇居内にもガソリンスタンドが必要なのでしょう。 -
「富士見櫓」・・・江戸城旧本丸の南東端に位置する櫓で、現存する唯一の三重櫓。
天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されました。
この建物は、明暦の大火の後、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在です。
関東大震災で大きな被害を受けた後、修復されました。
どの方向からも同じ形に見えるため、「八方正面の櫓」とも呼ばれます。
富士見櫓を支える石垣は、自然石をそのまま積み上げた堅牢な「野づら積み」で、高さは14.5m。 -
昭和10年に建てられた宮内庁庁舎。
現在の宮殿とは左奥にある渡り廊下で繋がっています。
ちなみに、住所は「千代田区千代田1番1」・・・皇居全体が「千代田」という一つの地域です。
明治22年に完成した「明治宮殿」が、昭和20年の東京大空襲で焼け落ちたため、庁舎3階を昭和27年に改装し、昭和43年の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用していました。
昭和初期に、正面玄関上の2階に天皇皇后両陛下がお立ちになり、一度だけ一般参賀が行われたこともあります。 -
お濠の先に、丸の内のビル群が見えます。
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「坂下門」・・・江戸時代には、門前の橋を渡り、枡形門を抜けて、左の坂を登ったところに西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。
西の丸の坂下にあったことから坂下門と言われています。
幕末の1862 年、老中・安藤正信が6人の水戸浪士に襲撃された「坂下門外の変」は、この門前で起こりました。 -
坂下門付近から眺めた富士見櫓。
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坂下門の坂を上がると、宮殿があります。
右は照明塔「松の塔」。
松の塔は宮殿造営の際に、国民からの寄付金で造られた照明灯で、若松の葉をかたどり、葉と葉の間から光が灯るように作られています。
先端にある輪は、釧(くしろ)という古代女性の腕輪をかたどったもので、この釧の先端までの高さは約16m。
夜、明かりが灯ったところを見たいものです。 -
昭和43年に完成した宮殿は、正殿、豊明殿、長和殿、天皇が公務を執る表御座所など7つの棟から構成されています。
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「長和殿」は南北163mにおよぶ細長い建物で、参殿者の休所やもてなし・拝謁など、多目的に使用される建物です。
長和殿の右側に北車寄、左側に南車寄があり、この東庭の地下は参殿者のための地下駐車場・中車寄で、約120台収容出来ます。 -
建物中央のこの辺りにお立ち台を設営して、新年および天皇誕生日の一般参賀が行われます。
長和殿前には、巾2mの寒椿と山茶花の植え込みがあり、その脇にある黄色い灯篭は有田焼で、照明塔として利用されています。
11基ある灯籠も、国民の寄付により造られました。 -
調和殿左側の大きな玄関は南車寄せで、国賓や各国の大統領・大使など主賓の方が利用する玄関です。
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長和殿の左奥は宮殿の南庭。
小山のように見える二つの刈り込みは「南庭の大刈り込み」で、高いところでは6mもあります。
刈り込みは職人が入り込んで、すべて手バサミで刈り込みをしているそうです。 -
宮殿東庭門から二重橋(正門鉄橋)へ。
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二重橋の手前側のお濠に沿い設置された、ブロンズ製の高欄(人止柵)。
このデザインは、アカンサス(ハアザミ)の葉をモチーフとしたアカンサス模様というもので、古代ギリシャ建築が起源だそうです。
明治21年に完成した明治宮殿へのアプローチとして造られたものですが、洒落ていますね。 -
写真等でよく見かけるこの石造りの橋「正門石橋」を二重橋と思っている人も多いようですが、実はその奥にある橋「正門鉄橋」(今いる所)が二重橋です。
正門石橋は、明治宮殿が竣工する前年の明治20年に完成しました。
花崗岩を使用した石造りのアーチ橋や照明灯・高欄など、全体が西洋建築のデザインとなっています。 -
二重橋は、1614年(慶長19年)江戸城・西の丸が改修された際に架けられ、当初は下乗橋の名でしたが、二重構造(木造)であったことから、二重橋と呼ばれるようになりました。
明治宮殿造営の時に、錬鉄製の橋に架け替えられ二重でなくなり、現在の橋は新宮殿建設の際、昭和39年に架け替えられました。 -
二重橋の目の前にある伏見櫓。
均整のとれた美しい城郭の姿は、まさに皇居のシンボル。
伏見櫓の名称は、豊臣秀吉が京都・伏見に築いた伏見城の一部を使用した、という伝えによるものです。 -
雨も上がり、ここで案内の人が写真タイムをとってくれたので、我々もパチリ。
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皇居内には、皇宮警察の派出所が随所にあります。
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再び宮殿に戻り、長和殿から北車寄へ・・・ここは、国内の賓客が宮殿に参入する際の玄関です。
ここから右に続く豊明殿は、宮中晩餐会などが行われる大きな宴会場。 -
宮殿と宮内庁を繋ぐ渡り廊下。
ここから山下通りへ下って行きます。 -
山下通りは、桜や紅葉が美しい散策道です。
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この時季は、ヤブミョウガがアチコチに花を咲かせています。
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山下通りを下ると、乾門からの乾通りにぶつかります。
乾通りの一般公開は、天皇陛下の傘寿(80歳)を記念して2014年から始まり、春の桜と秋の紅葉の時期に数日間行われます。 -
山下通りを下った正面の蓮池濠。
夏には、蓮の花が綺麗に咲きます。
石垣の上に白く見えるのは、富士見多聞(長屋造りの倉庫)。 -
一通り見学が終わり桔梗門に戻ると、皇宮警察の消防車が・・・警察が運用する消防車は皇居だけだそうです。
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見学が終わった後は、係員が皇居東御苑の入り口まで案内してくれます。
これは、窓明館を出てすぐにある皇宮警察本部。
天皇の諮問機関であった枢密院の庁舎でしたが、枢密院は日本国憲法施行に伴い廃止されました。 -
東御苑の入り口で入園票を貰って、ここからは各自で自由散策。
皇居東御苑は、江戸城の天守閣・二の丸・三の丸の跡地を整備して作られた公園で、面積は約21万m2もあります。
昭和43年から一般に公開され、平成26年には開園以来の来場者数が2,500万人を超えました。 -
「大手三の門」を入った所にある「同心番所」・・・ここには、大手三の門を警護する与力・同心が詰めていました。
同心とは、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。 -
本丸中之門石垣。
江戸城内でも最大級の巨石が使われ、かつては本丸御殿への登城口として渡櫓門もありました。 -
石垣の前にある「百人番所」・・・長さ50mを超える百人番所は、江戸城本丸御殿を警護する最大の検問所。
四組の隊が昼夜を問わず交代で詰め、各隊には与力20人、同心100人が配されていました。
同心が常時100人詰めていたところから、百人番所と呼ばれるようになったと言われています。 -
この後は「二の丸庭園」へ・・・梅雨時なのに、もう萩の花が咲いています。
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菖蒲田には、約120種類の花菖蒲が植えられています。
もうピークは過ぎていましたが、まだアチコチに咲いています。 -
美しい花菖蒲を見ていると、心が安らぎます。
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菖蒲田が面している「二の丸池」には、アサザ・コウホネ・ヒメコウホネ・ヒツジグサの4種類の水生植物が、5~10月にかけて花を開きます。
これは、アサザ。 -
ヒメコウホネ。
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牛に似た声がすると思ったら、いました、ウシガエル。
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池にはコイもいます。
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この池の鯉は「ヒレナガニシキゴイ」という珍しい種類。
インドネシアのヒレナガゴイと日本の錦鯉を交配させたもので、尾びれや胸びれが普通の鯉よりも長いのが特徴です。 -
このコイは、天皇陛下のご提案から、日本で作られた品種。
こんなコイは、初めて見ました。 -
江戸時代には、この場所に小堀遠州作といわれる庭園がありました。
明治以降は荒廃していましたが、昭和43年の東御苑公開の際に、九代将軍・徳川家重の時代に作成した絵図面をもとに、江戸城の「二の丸庭園」は現代に甦りました。
素晴らしい回遊式の大名庭園、日本の文化を感じます。 -
明治45年に再建された「諏訪の茶屋」は、江戸時代には現在の吹上御苑(御所)近くにあった茶室です。
明治期の数奇屋風の書院茶室様式で、優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備の際に現在地に移築されました。 -
二の丸庭園から「都道府県の木」のエリアに行く途中に咲いていたノカンゾウ (野萱草)。
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昭和43年の皇居東御苑公開に際し、各都道府県から寄贈された都道府県の木が植えられました。
沖縄県の木は、本土復帰した昭和47年に植樹されています。 -
都道府県の木は、以前、国会議事堂に行った時も見ました。
国会議事堂の方は、昭和45年の議会開設80年を記念して、全国から贈られたもです。
フェニックスは宮崎とすぐ分かりますが、松の木はどこの県やら。 -
私の出身県は、この「ぶんごうめ」。
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二の丸庭園の後は、いよいよ本丸に向かいます。
この「汐見坂」は、本丸と二の丸をつなぐ坂道・・・その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができました。
坂の上には、汐見坂門が設けられていました。 -
汐見坂を登ると、本丸や大奥跡は広場になっており、周りには樹木が植えられています。
これは、香りのよいタイサンボクの花。 -
これは、モクゲンジ。
中国原産の植物で、日本では本州から九州の日本海側の海岸に分布しており、木の葉の様子がセンダンの葉に似ているので「センダン葉菩提樹」と呼ばれることもあるそうです。
本来の菩提樹とは全く別の植物ですが、種子が数珠や羽根突きの羽根の材料にされるムクロジの仲間なので、硬い種子は数珠に利用され、寺院にも好んで植えられることから、菩提樹の名前がつけられたようです。
初めて見ました。 -
「展望台」から望む白鳥濠と竹橋のビル群。
今日の昼食は、手前に見える横長のパレスサイドビルで。 -
皇居東御苑は、国内だけでなく海外からの旅行者も多く訪れます。
2014年には、年間入場者数が初めて100万人を突破。
この展望台も、日本人より外国人が多い。 -
本丸の広場から見た「中雀門跡」。
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本丸の富士見櫓に近い一画に、「果樹古品種園」が整備されています。
今はもう農家で栽培されない江戸時代の果樹品種を植えれば、訪れる人々にとっても興味深いのではないか、との天皇陛下のお考えを受けて、平成19~20年度にかけて植栽されました。
これは、スモモの種類の「マンザエモン」。 -
ロクガツナシ(六月梨)。
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これも梨の種類のイマムラアキ(今村秋)。
他にもミカン・カキ・リンゴなど、合計で5種類・22品種の果樹が植えられ、どの木も多くの実をつけていました。 -
先ほど下から見上げた富士見櫓は、江戸城本丸の南端にある高さ15.5mほどの三重の櫓。
当時はここから品川の海や富士山を見たのでしょう。 -
富士見櫓から少し北側に行った所にある「松之大廊下」の石碑。
元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる事件が起きた場所です。
松の廊下は、本丸御殿の大広間から、将軍との対面所である白書院に至る、全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下で、本丸では2番目に長い廊下でした。 -
「石室」は、火災などの非常時に、貴重品類を避難させた蔵と考えられています。
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そして最後に、天守閣跡の江戸城天守台へ。
江戸城の天守閣は、江戸城本丸の一番北側に位置しています。
江戸城の天守は、家康・秀忠・家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴でした。
江戸城天守閣は、1607年に二代将軍・秀忠の代に完成し、三代・家光の代に国内最大の外部5層内部6階、地上高さ58mに大改築され、1638年に完成しました。
建物だけでも48m、石垣を含むと60mの高さだったそうです。
しかし、19年後に明暦の大火の飛び火で全焼し、以後再建される事はありませんでした。 -
現在の石垣の高さは、一般公開に伴う整地等により約10mになっていますが、当初の高さは約14mもあったそうです。
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天守台から本丸跡の眺望。
手前が「大奥跡」で、当時は、総勢約3,000人もの女性が住んでいたそうです。 -
天守台にはベンチが置かれ、周囲が見渡せる広場のようになっています。
現在、あるNPO法人が350億円かけて、2020年までに江戸城天守閣の再建を計画しています。
もし実現すれば、観光などによる経済効果が年間1,000億円見込める、と試算される一方で批判の声も聞かれ、再建には賛否両論があります。
史跡を管轄する文化庁と、皇居の敷地を管理する宮内庁の許可が必要になりますが、どうなりますか? -
天守台の北側にある「北桔橋門」。
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一般参観で1時間15分、東御苑散策で1時間あまり・・・結構、疲れました。
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梅雨時なので、苑内のあちこちにアジサイが咲いています。
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退出は北桔橋門から。
北桔橋は、内濠(平川濠・乾濠)に架かり、有事に備えて橋が跳ね上がる仕組みになっていました。 -
北桔橋門は、天守閣、大奥に近い重要地点にあったため、濠を深くして石垣は堅固で高く、迫力があります。
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平河濠にいた川鵜。
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12時半になったので、パレスサイドビルの地下にある「百人亭 竹橋パレスサイド店 」へ。
自慢の牛たん料理をはじめ、食べごたえのある肉料理が揃った店です。 -
これは、週替わり定食(牛たんミニ焼・チキンとコロッケ・とろろ・牛テールスープ・麦飯)で、950円。
ビールも飲んで、満腹になりました。 -
昼食後、店の前に飾られた七夕飾りを見ると、願いを込めた短冊が・・・
” カミさんがカリカリしませんように ”・・・その気持ち、分かります。 -
午後は、東西線で竹橋から日本橋に行き、銀座線に乗り継いで上野へ。
久し振りの西郷さんです。 -
平成17年に開眼供養と除幕式を行った「時忘れじの塔」。
関東大震災(大正12年)や東京大空襲(昭和20年)など、東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。
今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、初代・林家三平の妻・海老名香葉子さん達が、この時計台を寄贈しました。 -
東京国立博物館に向かう途中、国立西洋美術館のそばを通ると、 ” 世界遺産「登録 」勧告 ” の幟がありました。
ル・コルビュジエ(1887~1965)は、 「近代建築の父」といわれる、フランスの建築家。
「ル・コルビュジエの建築と都市計画」は、2009年と2011年に世界遺産登録が見送られ、今度が三度目の正直。
国立西洋美術館本館を含む7カ国の計17資産について、事前審査する諮問機関がユネスコ世界文化遺産への登録を勧告したので、7月の世界遺産委員会で登録はほぼ確実とみられています。
西洋美術館が登録されれば、東京都内で初の世界文化遺産。 -
国立西洋美術館本館は、ル・コルビュジエが設計した国内唯一の建物で、実業家の松方幸次郎のコレクション「松方コレクション」(印象派の絵画およびロダンの彫刻を中心とするフランス美術コレクション)が、第二次大戦後にフランスから返還されたのを機に、1959年に完成しました。
なお、本館の背後にある新館は、ル・コルビュジエの弟子になる前川國男の設計で、1979年に完成しています。 -
前庭には、ロダンの『地獄の門』、ブールデルの『弓をひくヘラクレス』やロダンの『カレーの市民』などの彫刻が置かれています。
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美術館の先には、巨大なクジラのモニュメントが目を引く国立科学博物館が並んでいます。
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上野公園の噴水を見ながら・・・
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東京国立博物館に到着。
国立博物館は4カ所あるので、それぞれ東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館・九州国立博物館と呼びます。
チケット代1,000円を払って入場。 -
1872年(明治5年)に、日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿で開催され、これが日本の「博物館」の始まりということで、東京国立博物館の創設の年となりました。
勿論、日本最古の博物館です。
本館・表慶館・東洋館・平成館・法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館などがあります。
2014年度の来館者数は約191万人。 -
本館の左側にある「表慶館」。
1909年(明治42年)、大正天皇の成婚祝として開館しました。
関東大震災も耐え抜いた石造と煉瓦造の2階建で、中央と南北両端にドームがあり、正面入口の左右にライオン像もある、美しい建物です。 -
大正12年の関東大震災で、旧本館は損傷し使用できなくなりました。
現在の本館は、昭和7年に着工し、昭和12年に竣工。
東京国立博物館の収蔵品は、約12万件(国宝87件、重要文化財634件を含む)で、これとは別に、寄託品の収蔵が約3千件(国宝56件、重要文化財256件を含む)・・・このうち、陳列しているのは約7,200件。
全部、見ようと思ったら、約20年かかる? -
入り口を入った所にある本館特別5室で展示されている今回の特別展は、日韓国交正常化50周年を記念して、日韓の代表的な半跏思惟像2体をソウルと東京で19日間ずつ展示するものです。
仏教が百済から日本に伝わったのは、6世紀。
昔は ” 仏はゴゴニ(552年)百済から ” と習いましたが、最近は538年とする説が有力です。
そして577年に百済からやって来た造寺工や造仏工に学んで仏像づくりが始まります。
ということで、2つの国宝は、同じようなポーズの半跏思惟像で、韓国の像は6世紀後半に作られた高さ83cmの銅製。
中宮寺の像は、飛鳥時代の7世紀後半にクスノキ材で作られ、高さは123cm。
撮影禁止でしたが、久し振りに奈良・中宮寺の半跏思惟像と対面できました。 -
特別展の後は、2階から見て回りました。
本館2階6室は「武士の装い」のコーナー。
これは「黒韋素懸威如意頭形兜(くろかわすがけおどしにょいがしらなりのかぶと)」。(江戸時代・18世紀 個人蔵)
ユニークな黒漆塗の三つ山形の張懸の鉢が、目を引きます。
蝶型、葵葉形ともいわれ、仏具の如意の雲形にも似ています。 -
「熊毛植二枚胴具足(くろげうえにまいどうぐそく)」。
兜から胴・袖・草摺・佩楯まで、すべてに黒熊と思われる毛を植えた具足。(江戸時代・17世紀)
耳はウサギのようで可愛いのですが、全体的には異様な雰囲気です。 -
2016年の日伊国交樹立150周年を記念して、特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」が展示されていました。
日本とイタリアを結ぶ最初の架け橋である天正遣欧少年使節の一人、伊東マンショを描いた「伊東マンショの肖像」は、世界初公開。
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名の名代として長崎を出航した天正遣欧少年使節4人とその一行は、長い船旅の後、イタリアの地を踏みました。
天正13年(1585)にヴェネツィア共和国を訪問した際に、イタリア・ルネサンス期を代表する画家のヤコポ・ティントレットの息子であるドメニコ・ティントレット(1560~1635)が、1585年に描いた肖像画です。 -
「藤棚蒔絵書見台」。
表面には薄肉高蒔絵を主体にして精細に藤棚を描き、竹を模した支柱を取り付けている洒落たデザインで、幕末期の作。 -
歌川広重(1797~1858)の「江戸名所・両国橋納涼」。
両国橋は1659年に架けられた橋で、武蔵・下総両国に架かることから、両国橋と呼ばれるようになりました。
橋の両側に広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わった所です。
両国の川開きは5月28日に行われ、8月28日までの納涼期間中は花火が打ち上げられ、江戸庶民を魅了しました。 -
「根付 高円宮コレクション」・・・高円宮殿下が妃殿下とともに収集した、現代根付を中心とするコレクション。
着物にポケットがないため、根付は江戸時代に帯から提げた巾着や煙草入れなどが、帯から抜け落ちるのを防ぐための留め具でした。 -
伊万里の色鮮やかな大作が3点展示されています。
中央は「色絵花卉図大皿(いろえかきずおおざら)」(江戸時代・18世紀)・・・中国・明代の古赤絵金襴手を手本にした伊万里金襴手は、伊万里焼を代表する様式。
左右の壺は「色絵獅子鳳凰文有蓋大壺(いろえししほうおうもんゆうがいたいこ)」・・・大きな蓋つきの壺に鳳凰桐牡丹図と獅子牡丹図が描かれ、赤彩や金彩で豪華に彩られています。 -
本館裏には、池を中心とする庭園があります。
正面に見える転合庵は、小堀遠州が京都・伏見の六地蔵に建てた茶室で、その後、大原・寂光寺に移築され、昭和38年に当館に寄贈されました。
東京国立博物館がある場所は、もともと、徳川家の菩提寺・寛永寺の寺域で、本館が建っているあたりは、寛永寺本坊跡にあたり、庭園も寛永寺の庭であったようです。
本館北側のバルコニーから望める庭園は、春・秋に解放されます。 -
後藤貞行作の「馬」・・・後藤貞行(1850~1903)は、高村光雲と知り合って木彫を学び、明治期に活躍した彫刻家。
馬の彫刻で知られ、皇居前広場の楠木正成像の馬像が代表作。
この作品は木彫ですが、非常に写実的で躍動感がありますね。 -
鈴木長吉の「鷲置物」・・・鈴木長吉(1848~1919)は、明治時代における蝋型鋳造の第一人者。
獲物を狙う岩上の鷲を、写実的に表した青銅製の置物で、今にも襲って来そうな迫力があります。
歴史と文化を感じながら、梅雨の合間を都心で過ごした一日でした。
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