1974/04/12 - 1974/04/15
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jijidarumaさん
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<1974年4月12日(金)〜15日(月):3泊4日の旅>
イースターの休みに、帰国をひかえて業務引継ぎ中であった前任者Nさんにメルセデスの3500ccスポーツタイプの最高級車に乗せてもらい、パリ、モーゼル下りに連れて行ってもらった。
(彼はお金持ちの息子さんでした。奥様もBMWに乗っていて、郊外のきれいな一戸建ての家に住んでいました。駐在員の中では彼は例外中の例外の生活をしていたようです。この頃は既に家族は帰国し、会社近くに単身住まいをしていました。このメルセデスは日本に持ち帰り、日本でも乗っていました。)
写真は古城ホテル ベルティシェールChateau Hotel de Berticheres・・当時のパンフレット
- 旅行の満足度
- 4.0
-
イースター初日の12日朝8時にOさん(当時私共の日本人秘書)をピックアップし、三人で行ったのです。
この時初めてフランス・パリの北西(車で50分)にある古城ホテル ベルティシェールChateau Hotel de Berticheres(F-60240 ‐Chaumont-En-Vexinショーモン アン ヴェキシン)に泊ったのでした。
ベルティシェール城は16世紀にルネサンス様式で建設された。その後度々改装を加えられたが、1999年歴史的建造物として登録されている。
かつてブルボン家の支流・コンデ公爵(ルイ14世の兄弟)の住居であった。
当時のパンフレットを見ると、3星の古城ホテルで、1968年にホテル開業とあるが、ゴルフ場の表記は無い。
http://www.golf-de-chaumont.com/index.php/fr/
写真は古城ホテル ベルティシェールの俯瞰フランス:田園の中の古城ホテル ベルティシェール城 by jijidarumaさんChateau De Berticheres ホテル
-
現在のホテルを調べてみると、4星・全17室のこぢんまりしたホテルでした。
このホテルには18ホールのゴルフ場、レストラン、および屋外プール、テニス、乗馬、ペトンクなどの施設があるようだ。
写真は古城ホテル ベルティシェールのパンフレット・地図や説明 -
イチオシ
この夜、レストランで何を食べたのか?写真も記録も残っていない。きちんと注文が出来たのか?多分、フランス語も少々学んだというNさんが全てを仕切ってくれたのだろう。
Prienプリーンのゲーテ語学校から帰り、本格的な業務引き継ぎ、分からぬドイツ語会話の日々、車の免許取得練習などなどが前日まで続き、この日は疲れもたまっていたのだろう。
それに加えて立派すぎる車に同乗し、ナビゲーターをしながら・・勿論完璧ではない・・走って来たので、古城に着くとともに、頭痛がひどくなった覚えがある。
一晩寝て、漸く旅行気分になったのだ。
写真は古城ホテル ベルティシェールにて -
14日、パリからドイツのTrierトリアーに抜け、モーゼル川畔を走ったのです。
モーゼル下りをしながら暗くなった町々で宿探しをしました。
イースター休みで観光客も多く、多くのホテルで断られました。
車に乗ったNさんたちを残し、下手なドイツ語で“今晩の部屋が空いていませんか?”とホテルを訪ねたことが鮮明に記憶に残っています。
何処の町だったか、幸いホテルの部屋があったので、無事宿泊が出来たのです。
写真は古城ホテル ベルティシェールのレストラン・暖炉の間、ヴェルサイユ宮殿でNさんと、モーゼル川の古城をバックにNさんとOさんと私。 -
デュッセルドルフには翌15日の午後6時半に帰りました。
何もかもが新鮮で素晴しく、一種夢の様な4日間の旅をしました。
XXX
写真は古城ホテル ベルティシェールの内部、寝室、モーゼルワインのカーブ、モーゼル川とReichsburg Cochemコッヘムの帝国城。ライヒスブルク城(コッヘム城) 城・宮殿
-
(追記:2018年8月9日)
先日、4Travel のRinさんの旅行記を見ていたら、Maison Picassietteピカシェットの家(住民名で言えばRaymond Isidoreレイモン・イシドールの家)について書いてあった。
本項のセピア色の思い出の中に初パリ・初古城ホテルにつき書きましたが、
アルバムに貼ってあった上の二枚の写真が何処で撮ったものか、
ずっとわからずにいたから、同じ場面の写真に驚いた次第です。
それで、「ピカシェットの家」を調べて、ここに追記する事
にしました。
Rinさん、ありがとうございました。
・・・・
*良く纏められた”トラベルジェイピー”の記事から:
無名の最高芸術!愛と奇想の建築・フランス「ピカシェットの家」
<Maison Picassietteピカシェットの家>
フランスのシャルトルという街に、墓の掃除人をしていた男性が、30年以上の年月をかけてモザイクで装飾した「ピカシェットの家」があります。建物のすべて、壁や通路、家具に至るまで、皿やビンの破片を集めたモザイクで飾られ、家の奥には小さな庭も。
ピカシェットの家は、住宅街にひっそり建つ小さな建物ですが、ユネスコ世界遺産に登録されている「シャルトル・ノートルダム大聖堂」とともに、街を代表する芸術建築です。
母屋と離れが二つあり、庭もしつらえられています。外観や部屋の壁はもちろん、床、柱、水道管、家財道具、中庭や裏庭に続く通路の床や壁面、草花が茂る庭の細部に至るまで、モザイクとペイントで埋められています。
写真は1974年4月12日~15日パリ行き・上の二枚がピカシェットの家と美術館巡りで -
シャルトルの住宅街、知らなければ通り過ぎてしまいそうな路地の先に、ピカシェットの家はあります。この家を建て、生活しながら装飾をしたのは、レイモン・イシドール=Raymond Isidore (1900年9月8日-1964年9月7日)氏。妻との間にひとりの息子がいて、人生の後期は墓地の掃除人、墓守として働いていました。
1929年12月24日、イシドール氏は、現在のRue du Repos通りの土地を買い、ひとりで家を建てました。最初は水まわりの設備などはもちろん、床もない家でした。こつこつと設備を整え、翌年1930年8月15日に、奥さん、息子さんと一緒に引っ越します。当時は墓守とは違う仕事をしていたようです。
装飾を始めたのは1931年、その後は64歳の誕生日前日に亡くなるまで、家や庭の装飾に没頭していったのです。
イシドールの家ではなく、ピカシェットの家と呼ばれる由来は、拾い集めた皿の破片で飾られた建物だから。フランス語ではMaison Picassiette。ピカシェット=picassietteは、pique=つまむ、assiette=皿 からできた言葉で、“つまみ食いする・タダ食いする人”と“拾って集める”という2つの意味があります。
Maisonは建物の意味。親しみをこめた呼び名と解釈することもできますが、揶揄を感じる名でもあります。
写真は1974年4月12日~15日パリ行き・ピカシェットの家 -
決して裕福ではない生活の中で、妻を喜ばせようと、キレイな陶器の破片を拾い、家の壁に貼り、飾り付けたのが最初だとか。その後、こつこつと装飾を続け、使われた破片の数はおよそ440万個といわれています。
それだけの素材を集め、長きにわたって没頭し続ける彼の中には、いつも想像力と情熱がありました。ガラスや陶器の破片を集め、筆を持ち、装飾に没頭する彼に対して、周囲からの無理解や嘲笑が少なからずあったのは、想像に難くありません。
写真は1974年4月12日~15日パリ行き・ピカシェットの家 -
それでも、現在、私たちが見学できる建物はまさに芸術であり、その素晴らしい才能を感じられるのは事実。この空間には、今もなお、イシドール夫妻の生活が存在しているかのようです。
敬虔なクリスチャンでもあったイシドール氏が、モザイクやペイントの題材に選んだのは、シャルトルの大聖堂や周辺の風景が主ですが、パリのエッフェル塔、モナリザの絵画、モンサンミッシェルなども見つけることができます。特に、シャルトル・ノートルダム大聖堂は、様々に角度や大きさをかえ刻まれていて、さらには、チャペルと思われる祈りの部屋は、大聖堂を訪れた人なら、もう一度大聖堂を感じることができることでしょう。
シャルトルの大聖堂は、シャルトル・ブルーと呼ばれるステンドグラスでも有名です。ピカシェットの家においても、祈りの部屋は、もうひとつのシャルトル・ブルーに包まれます。家族への愛と、シャルトルへの親しみ、神への信仰が、イシドール氏の想像力の源となっています。
写真は1974年4月12日~15日パリ行き・ピカシェットの家 -
ピカシェットの家には、中庭のモザイクの椅子に座るイシドール氏や、奥さんのアドリエンヌの写真も飾られています。2人が結婚したのは、彼が24歳のとき、アドリエンヌは11歳年上で、2度目の結婚でした。彼は、64歳の誕生日の前日、63歳で奥さんよりも先に亡くなっています。晩年は、モザイクで埋め尽くされた家の中で、自分の想像力と情熱が枯渇していく焦燥感にも混乱し、苦しみました。
彼の家は、1982年に歴史的価値のある建造物として、国の指定を受け、観光地としても整備されました。イシドール氏の死から、18年たってからのことです。彼が生きている間は、その芸術的価値が、公に認められることはありませんでした。
彼の残した芸術は、正規の芸術教育を受けていない人たちのアートという意味で、アール・ブリュット、アウトサイダー・アートに分類されます。「芸術とは人間が心の中に高まる感情を最高最善のものへ移行させる人間活動である。」という言葉を、非暴力主義者で、19世紀のロシアを代表する文豪トルストイは残しました。その意味でいえば、イシドール氏の家と、彼の人生は最高の芸術といえるでしょう。
(トラベルジェイピーの記事から:無名の最高芸術!愛と奇想の建築・フランス「ピカシェットの家」 )
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写真は1974年4月12日~15日パリ行き・ピカシェットの家
*ここを訪ねたのはもう四十数年も昔の事です。
写真もセピア色に変わり、今見るような美しい色合いは見られません。
当時既に良く知られたシャルトルの大聖堂はシャルトル・ブルーと
呼ばれる丸窓のステンドグラスで有名でしたが、こちらのピカシェット
の家がそれほど知られていたとは思えず、先輩の方が車でここまで
連れてきてくれた事は今も驚きです。
30歳の希望に満ちた頃の話です。
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この旅行記へのコメント (2)
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- yamayuri2001さん 2016/06/24 16:43:08
- jijidarumaさん、こんにちは!
- 素敵ですね!
39年前だと、1977年ですか?
私も、その年の3月、4月に一ヶ月かけてヨーロッパを一周しました。
当時、あまり観光地に日本人はいませんでした。
懐かしく思い出されました。
そのころ、駐在なさっていたのですね。
私も当時の写真を整理するために この4トラのメンバーになりました。
でも、未だに、アップできていません。
それから、ヨーロッパ旅行の写真は、まずはどこにあるのか
探さなくてはなりません・・・
お手本の旅行記を拝見したので、私もいつかは!と思っています。
yamayuri2001
- jijidarumaさん からの返信 2016/06/24 18:42:23
- RE:セピア色の思い出
- yamayuri2001さん
こんにちは、古いものにコメントを頂戴して恐縮です。
これは1974年、赴任間もない時のものですから、42年ですね。
当時、まだ羽田空港からの出発で、見送りに家族・親族、会社の上司・同僚、友人たちが万歳三唱で送ってくれたものでした(笑)。
“39年前のセピア色の思い出(ロマンチック街道から・・・)”は家族が来独し、初めて大きな休暇旅行に出た時のものです。
そうですね。あの有名なローテンブルクでさえ、8月の観光シーズンながら、日本人観光客を見かけませんでした。今はとても考えられませんけど。
それにしてもヨーロッパを一ヶ月かけて巡った由、得難い体験ですね。結果としてアルバム写真も記録も多く残り、整理に大変でしょう。
私も数年前に叔父が亡くなった事を機に、自分史や家族史に興味が出てきて、同人誌に親族の一人の記録を書き始めました。
ヨーロッパ、とりわけドイツの記録は娘たちも一緒であったので、記録に残すのも私の仕事かと思って、時々、セピア色の変色したアルバムや記録を見ながら徐々に書き出したところです。PCやスキャン、デジカメと記録する機器は大いに進歩したので、幸いなことです。
暇な時に“少しずつで良い”ので、押し入れなどから引っ張り出しては、当時の事を思い出しながら(ボケ防止もあって^^)やっています。
それらの一部を“セピア色の思い出”と称して、漸く4Travel(口コミも含めて)で掲載したものです。
yamayuri2001さんの“セピア色の思い出”を楽しみにしていますよ!
ありがとうございました。
jijidaruma
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