2016/04/26 - 2016/04/26
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lagunaさん
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今回も「鎌倉ガイド協会」主催による史跡めぐりに参加したので、ご紹介します。
史跡めぐりのコースは
江ノ電腰越駅~満福寺~腰越の浜~片瀬江の島駅~小田急藤沢本町駅~義経首洗井戸~白旗神社~荘厳寺~常光寺~JR藤沢駅
源義経は、稀代の軍略を備えかつ勇猛な武将であった。平家を打ち滅ぼした軍功にも関わらず、兄頼朝に疎まれ鎌倉入りを許されず、最期は頼朝の命により藤原泰衡が義経の居住する奥州・衣川館を攻めて自刃する。
ここ、鎌倉の腰越は義経が兄・頼朝に切々たる思いを訴えた「腰越状」の下書きが「満福寺」に保存されており、また、義経の首が遠く奥州から酒に浸して運ばれ、鎌倉・腰越の浜で首実検が行われた。その後、腰越の海に捨てられたはずの義経の首が境川を遡り、漂着した首を村人が洗い清めたという「首洗井戸」や義経を祀った「白旗神社」などを廻った。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- その他
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江ノ電腰越駅を下車してすぐに「満福寺」があります。
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さあ、「満福寺」の階段を上っていきましょう。
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「満福寺」に到着です。
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向かって、左側から堂内に入ります。
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腰越状は、義経が兄・頼朝にその思いを述べ、弁慶が書き記したと伝えられる。
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「満福寺」本堂です。
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「満福寺」に入り、すぐ右手に襖絵が見られます。この絵は、静御前が義経と共に幕府の追手から逃亡する絵と思われます。
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この襖絵は静御前の静の舞と思われる。吉野の山で別れた義経を思いつつ舞った静御前の悲しい謡が聞こえてきそうな錯覚に陥った。
吉野山嶺の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ 賤(しづ)のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな -
義経が腰越状を起草しているところでしょうか。
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満福寺本堂に腰越状の下書きと呼ばれる書状が残されています。当たり前ですが、本書は鎌倉幕府の政所別当・大江広元あてに出されているので、ありません。
一説によると、大江広元はこの腰越状を読むとすぐ握りつぶし、頼朝には渡さなかったと言われている。
腰越状(下書き)はガラスのケースに納められており、カメラで上手く撮れませんでした。 -
満福寺の中の様子をカメラに納めます。1
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満福寺の中の様子をカメラに納めます。2
不動明王のようです。 -
腰越状を書いている弁慶と義経の像です。
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満福寺本堂 1
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満福寺本堂 2
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満福寺本堂 3
上の梁の彫刻にご注目ください。 -
先ほどの腰越状を書いている弁慶と義経の像と同じものが解りますか?
おそらく、年代的には、この彫刻のほうが先ですので、先ほどの石像はこの彫刻を模倣して作られたのではないかと思います。 -
弁慶にかかわるものは、ほかの社寺・旧蹟でも多く見られます。
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満福寺を出てから、腰越の浜にむかって歩きます。
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交差点の向こうに、江の島が見えてきます。
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腰越の浜と江の島です。こんな風光明媚なところで、義経の首実験がなされたのでしょうか。
ちなみに首実検に立ち会ったのは、侍別当 和田義盛、侍所司 梶原景時の二人と伝えられる。 -
正面に見えるのが、小田急片瀬江の島駅です。なんだか駅にしては変わっています。ここから藤沢本町駅まで行きます。
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藤沢本町駅に到着です。
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藤沢本町駅を出ます。
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まっすぐ歩くと交差点に出ます。
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この交差点を左に曲がります。
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しばらく歩くと、「伝源義経首洗井戸」の表示があります。
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表示のとおり歩いていきます。
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「源義経首洗井戸」にたどり着きました。
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「源義経首洗井戸」にたどり着きました。
どうも正面の井戸が首洗井戸のようです。 -
「源義経首洗井戸」の説明が書かれています。
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「源義経首洗井戸」から「白旗神社」に向かいます。
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白旗神社に到着です。
義経の首が腰越の浜に捨てられてから、兄・頼朝は義経の怨霊に苦しめられ、家来の藤原次郎清親に命じて義経の霊を祀らせたのが、白旗神社の興りとされる。 -
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白旗神社の説明が書かれています。
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白旗神社の宝蔵庫です。宝蔵庫には、源義経の守り本尊「毘沙門天」と「義経・弁慶の神輿」二基が保存されているが、写真撮影は不可とのことで、写真はありません。
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白旗神社の境内では、たくさんのこいのぼりが飾られ、大勢の幼稚園児が遊んでいました。
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記念撮影のお立ち台です。
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藤の花が咲いていましたが、盛は過ぎているようです。
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荘厳寺に到着です。もともと白旗神社と荘厳寺は一体のものであったが、明治政府の「神仏分離令」により、白旗神社の隣に移転したとのこと。
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続いて「常光寺」です。
「常光寺」本堂裏の広場には、庚申塔群があり、「弁慶塚」と刻まれた石碑がある。 -
庚申供養塔です。悪いことは「言わザル」見ザル 聞かザル」が刻まれています。
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庚申供養塔の説明文です。
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木造阿弥陀如来立像の由来が書かれています。
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庚申供養塔群に弁慶塚がある。
この「常光寺」を最後にJR藤沢駅に向かい解散しました。
<あとがき>
昔から「判官びいき」と言われるように、源義経の人気は当時から相当根強く感じられました。また、行動を共にした弁慶にしても同じように人気があります。
余談であるが江戸時代に入って水戸光圀が編纂した「大日本史」には次のように記してある。
「世に伝う義経は衣川の館に死せず、逃れて蝦夷に至る」と。
すなわち、義経が衣川で自刃してから、首実験まで43日もかかっていること。
この時期は真夏で酒につけた首では、判断がつかないほどの崩れた面体であったことなど、確かな首実検が行われたのか疑問が残る。また、「義経寺」と称する社寺が東北各地や北海道にある。それが義経が逃亡した足跡と考えられる。
大正時代に一大センセーションを起こした小谷部全一郎氏著書の「成吉思汗(ジンギスカン)は源義経なり」を読むとそれなりに説得性がある。
この小谷部全一郎氏は当時の歴史学者からそうとう批判されたが、氏はアメリカの大学で学び、哲学博士の学位をとったほどの人であり、北海道はもちろん、サハリン、シベリア、満州、蒙古まで足を運び調査を重ねた結果である。
<その根拠・概略>
・ジンギス汗は姓をキャオン 名はゲン 名をクローといった。源義経は「九郎判 官義経」で名が合うこと。
・ジンギス汗は紋章に源氏と同じ「笹竜胆」を用い「白旗」を戦場になびかせた。
・酒は飲まず、米食を好み緑茶をたしなんだ。
・正月元旦には「日の丸」の烏帽子をかぶって式典を行ったこと。
・ジンギス汗が死ぬ直前に「吾は故土に帰らんことを望む」といったこと。
バカバカしいとかナンセンスといわず、一度氏の著書をお読みになってはいかがでしょうか。
歴史の謎やロマンを感ずるのは、私だけでしょうか。
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