2016/04/08 - 2016/04/15
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ペコちゃんさん
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ポーランドのワルシャワからリトアニアに入り、ラトヴィア、エストニアと北に向かってバルト三国の旅は続きます。
リトアニアの面積は北海道よりやや狭く、人口は292万人・・・それでもバルト三国の中では国土面積・人口とも一番です。
14世紀の頃、リトアニア大公国はヨーロッパ最大の国家となり、1569年にはポーランド・リトアニア共和国が誕生します。
1795年にポーランド・リトアニア共和国は解体され、現在のリトアニアの領土の大半は、ロシア帝国領となりました。
1918年にリトアニア共和国としてロシア帝国より独立しますが、1944年にソビエト連邦に編入され、1990年に独立を回復しました。
この国を語るうえで忘れてならないのは、杉原千畝です。
1940年7月から8月にかけて、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの旧首都・カウナスで、外務省からの訓令に反して、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人に大量のビザ(通過査証)を発給し、約6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られています。
写真は、「命のビザ」を発給し続けた杉原千畝の机。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- フィンランド航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
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ワルシャワからリトアニアのトラカイに向かう途中の道路の周りに、黄色い花が咲いているような木が沢山あります・・・よく見ると、ネコヤナギでした。
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8時にワルシャワを出発してから走り続けて、16時半にトラカイに到着・・・ここは首都・ヴィリニュスから24kmと近い街。
トラカイ近郊には200もの湖があり、最大のものは21の小島が浮かぶガルヴェ湖で、「トラカイ城」はその島に建っています。
湖上に浮かぶトラカイ城は、リトアニアの首都がトラカイからヴィリニュスに移る前の1409年に建てられた城です。 -
湖に浮かぶ島にあるトラカイ城は、橋を渡って行きます。
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17世紀に起きたモスクワ大公国との戦争で、城は損壊され荒廃しましたが、1961年から修復が始まり、1987年に15世紀当時の城が復元しました。
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中庭を囲む木製の回廊。
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城は様々な様式で装飾されており、ステンドグラスもあります。
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内部は博物館になっており、武具やここで生活していた貴族達が使っていた食器などが展示されています。
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これは、大広間の玉座。
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トラカイから約1時間でリトアニアの首都・ヴィリニュスへ。
そのまま夕食のレストランに向かいました。
ここは、ヴィリニュス大学の構内の一角にある「AULA」・・・店内は広くて落ち着いた雰囲気です。 -
先ずは、リトアニア名物、ビーツの冷製スープ・・・見た目にビックリの色ですが、さっぱりとした味で美味しかったです。
絵具を混ぜたようなこのスープは、クリームを入れて赤カブの色をマイルドにした自然の一品。
メインは、ツェッペリン(飛行船)に形が似ているからその名がついた「ツェペリナイ」・・・サワークリームやソースと一緒に食べるジャガイモのお餅は、中に挽肉が入っており、モチモチして美味しい! -
今日のホテルは「カロリーナ」・・・自然に囲まれた静かな環境でしたが、スタンダードクラスといった感じのホテル。
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でも隣には、スーパーマーケット「MAXIMA」がありました・・・早速、皆さんと爆買い(?)に。
MAXIMA(マキシマ)、Rimi(リミ)、iki(イッキ)はバルト3大生鮮スーパーで、街の至る所にあります。
MAXIMAは店名の横に “ X ” の記号があり、店内に入らなくても店舗の規模が分かるように 「 XXX > XX > X 」 を表示しています・・・なので、ここは中型店。 -
<4日目>
ホテルの外観です・・・停まっているのは私達のバス。 -
廊下のガラス窓から見たレストラン・・・照明の雰囲気がいいですね。
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旅も4日目になり、36名の大団体とはいえ皆さんと打ち解けてきました。
1人参加のこの2人は、何と同じ高校の同級生だったことが分かりました・・・不思議な縁ですね、驚きながらも懐かしい話で盛り上がっていました。
朝食もなかなか良かったですよ。 -
出発前に時間があったので、カローリナホテルから徒歩10分ほどの場所にあるテレビ塔に行ってみました。
1974年から6年がかりで建設されたこのテレビ塔は、高さ326.5mでリトアニア内で最も高い建物。
パリのエッフェル塔とほぼ同じ高さですが、周囲に高い建物がない分、余計高く見えます。
テレビ塔の展望台には回転レストランがあり、約1時間かけてゆっくりと回ります。
このテレビ塔を世界的に有名にしたのは、ソビエト軍のヴィリニュス侵攻事件。 -
1991年1月、リトアニア独立を阻止しようとしたソビエト軍が、ヴィリニュスの重要拠点の占拠に向かいます。
これに対してリトアニアの市民は、最高会議の建物やテレビ塔の周りに集まり、「人間の盾」を作りました。
戦車がテレビ塔に到着した後、市民と銃撃戦が起こり、死者14人、数百人の負傷者が出ました。(血の日曜日事件)
今も敷地内には慰霊の十字架と、両手を天に掲げる女性像が見守っています。 -
テレビ塔の近くに建ち並ぶ、彼らを追悼する十字架。
唯一の女性の犠牲者となった当時24歳の女性は、装甲車を停めようとして自らを盾にしましたが、この事件についてはテレビ塔の1階に資料が展示されていました。 -
今日の最初の観光は、ヴィリニュス市内にある杉原千畝ゆかりのスポットから。
ヴィリニュスの街を流れるネリス河畔に、早稲田大学が2001年に建てた杉原千畝の記念碑があり、レリーフが埋め込まれています。
早稲田大学は彼の出身大学 ( 中途退学していますが )で、 ” 杉原の功績を称えて記念碑を建立し、リトアニアとの友好関係が深まることを祈念して桜の木を植樹する ” と右上に記されています。 -
記念碑のオープニングには、杉原幸子夫人も臨席されたとのこと。
記念碑の周りには沢山の桜の木が植えられていて、桜公園になっており、もうすぐ綺麗な桜の花が、ヴィリニュス市民を楽しませてくれるでしょう。 -
杉原がユダヤ人に書き与えたビザの写しも記念碑にあります。
彼らはシベリア経由で敦賀へ上陸し、そこから神戸に出て、アメリカを目指す者もいれば当時のオランダ領であったカリブ海のキュラソー島へ行く者、上海を目指す者等、大勢のユダヤ人が日本に上陸することが出来ました。 -
2007年に天皇・皇后両陛下がバルト三国を訪れた際に立ち寄られ、記念碑にあるビザのプレートなどを熱心に間近で眺められたそうです。
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昨日までは曇りでしたが、やっと天気が良くなり、ネリス川の河川敷も緑が鮮やか。
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「聖ペテロ・パウロ教会」・・・旧市街の外れにあるこの教会は、ロシアからの解放を記念して1668~1674年に建築され、内装には、さらにその後、30年も費やされたという美しいバロック様式の教会。
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教会を建立したバツァス大公(1624~82年)は、教会の完成を待たずに死去しました。
美しい彫刻に飾られた入口の上には、彼の紋章が掲げられています。 -
教会の内部には、見る者を圧倒する2000以上もの漆喰彫刻・・・入った途端に、その荘厳な美しさと精緻な彫刻に言葉を失います。
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正面の祭壇にある「聖ペテロと聖パウロの告別」。
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出入口の上にあるパイプオルガンも、教会の内部に合わせて白です。
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装飾が施された説教台と天蓋・・・他の教会では見られない曲線美です。
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天井から吊り下げられた、船の形をしたシャンデリア・・・ペテロがガリラヤ湖で漁師をしてたことに因み、ラトヴィアから贈られたそうです。
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これらの漆喰彫刻は、イタリアから招集された彫刻師のもとで数百人もの地元の職人たちが携わって造られたそうです。
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ここにある2000以上の漆喰彫刻には、一つとして同じものがないと言われています。
それにしても素晴らしい彫刻で、息を飲むばかりです。 -
これは「死神の彫刻」。
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地元の女性がお祈りを続けていました。
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次に訪れたのは「ヴィリニュス大聖堂」。
リトアニア人は、もともと独自の多神教信仰を持っていましたが、1251年に十字軍の弾圧から逃れるため、ミンダウガス王がキリスト教を受け入れ、最初に建てたのがヴィリニュス大聖堂。 -
大聖堂広場には、1996年に建てられたヴィリニュスの創始者・ゲディミナスの像があります。
リトアニア大公であったゲディミナスは、ヴィリニャ川とネリス川に挟まれた谷へ狩猟に行き、獲物を追いかけているうちに道に迷って野営することになり、その晩、彼は不思議な夢(唸り声を上げる100頭の鉄の狼の夢)を見ました。
この予言めいた夢を「鉄の狼のように強く、唸り声は街の反映を意味する」神のお告だと思い、ゲディミナスはこの地を新たな首都と定め、1323年に首都をトラカイからヴィリニュスに移しました。
ヴィリニュスという街の名は、ヴィリニャ川に由来しています。
像の台座には、彼の夢に現れた鎧を着た狼が遠吠えしている姿が刻まれています。 -
大聖堂広場にある53mの鐘楼は、もともとは城壁の塔だったそうです。
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大聖堂の建物は18世紀に大改築が行われ、ギリシャ神殿を思わせる現在の姿となりました。
正面の屋根にある聖スタニスラウス・聖ヘレン・聖カジミエルの3聖人の像は、旧ソ連時代には撤去されていましたが、1996年に再設置されます。 -
大聖堂の入り口に飾られたイースターのネコヤナギ。
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中に入ると天井が高く、祭壇へと真っすぐに椅子が並んでいます。
ゴシック建築の教会と違って荘厳・重厚な雰囲気はありませんが、広く明るく開放感があり、シンプルでモダンな印象です。 -
入り口の上にあるパイプオルガン。
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聖堂内には11もの礼拝堂があり、その中でもこの聖カジミエル礼拝堂は、3本の腕を持つ聖人の絵があることで知られています。
この絵を描いた画家が、3本目の腕を消そうと上から絵具を塗っても、しばらくするとまた腕が見えてきました。
3回同じことを繰り返した後、これは奇跡だと考えた画家は、腕を塗りつぶすのを止めたそうです。 -
大聖堂の東側にある「王宮」・・・代々のリトアニア大公が住んだ白亜の宮殿でしたが、1655年にロシア軍に占領されて破壊され、19世紀後半には取り壊されて公園になっていました。
2002年から再建が始まり、2013年から博物館として公開しています。 -
王宮近くの丘の上にある「ゲディミナス塔」・・・この丘は、トラカイからヴィリニュスに遷都した際に、ゲディミナス城が築かれた場所です。
19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在はゲディミナス塔のみが残っています。
ゲディミナス塔の上に翻るリトアニア国旗は、黄=太陽、緑=森林、赤=独立を守るために流された血、だそうです。 -
ところで、ソ連からバルト三国が独立するきっかけとなった「人間の鎖」は、ゲディミナス城が起点でした。
人間の鎖は「バルトの道」とも言われ、1989年8月23日に当時ソビエト連邦下にあったバルト三国の独立運動の一環として行われたデモ活動で、約200万人が参加して手をつなぎ、3共和国を結び、約600km以上の人間の鎖を形成しました。
バルトの道は、鎖が切れないよう周到に計画され、参加者は午後7時から15分間、手をつないだそうです。 -
ヴィリニュス旧市街の散策と観光は続きます。
この時期は夜の8時半過ぎまで明るいのですが、通りにかけられた電飾のイルミネーションを見てみたかったですね。 -
アンバーミュージアム(琥珀博物館)の可愛い看板・・・中に入ってみました。
バルト海の南岸・東岸地域は、世界有数の琥珀の産地です。 -
「琥珀」とは樹脂(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固まった宝石・・・もとが流動的な樹脂ですから、周辺に棲んでいた昆虫・動物・植物はじめ水や空気などを包み込んだ物がしばしば発見されます。
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琥珀が本物かどうかチェックする方法・・・10%の塩水に入れると、琥珀は浮きますがプラスチックは沈みます・・・なるほど。
そして手でこすると、マツヤニっぽい匂いがします・・・” お客さん、試してみて下さい ” -
ベッ甲で作ったような帆船・・・見事な芸術品です。
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ここは地下が博物館、1階が売店になっており、琥珀を買っているお仲間もいました。
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「聖ヨハネ教会」はヴィリニュス大学の中にあり、旧市街で最も高い鐘楼(63m)がある教会です。
1387年に建設が始まり、18世紀には大学の教会となりました。
現在の建物は1737年の火災の後、改築されたもので、旧ソ連時代は科学思想博物館として使用されていました。 -
旧市街の東側にある「聖アンナ教会」・・・15世紀末に建造されたゴシックの秀作と言われる建造物です。
華やかなファサードを持つ赤レンガ造りの教会は、その美しさに感嘆したナポレオンが、「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」と語ったという逸話が残されています。
奥に見えるのは、1525年頃フランシスコ会の修道士によって創設された「ベルナルディン教会」で、16世紀に改築されています。 -
「夜明けの門」・・・城壁都市だったヴィリニュスには、1503~1522年の間に城壁と9つの門が造られましたが、現在残っているのはこの門だけです。
門の上部中央にある騎士像はリトアニアの国章で、ソ連統治時代にはここでしか見られなかった貴重なもの。 -
門をくぐると、夜明けの門の2階は礼拝堂になっています。
この礼拝堂は、もともと1671年に設けられたものです。 -
門を出た右側に飾られた、ローマ法王「ヨハネ・パウロ2世」のレリーフ・・・1993年にヴィリニュスを訪問した際に、この礼拝堂で祈りを捧げたそうです。
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門には礼拝堂に直接つながる入り口がないので、少し離れたテレサ教会から上がって行きます。
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礼拝堂のイコンは、リトアニア大公アルギルダスが1363年のクリミア遠征時に持ち帰ったものと言われています。
キラキラ輝くこのイコンは奇跡を起こすと言われ、今でも国民に信じられています。 -
礼拝堂は、お祈りをする信者で厳粛な雰囲気に包まれていました。
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病気の治癒や幸福を願って捧げた銀細工が、壁一面に並んでいます。
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ヴィリニュスには地下鉄やトラムはないので、市民の足はトロリーバスと路線バス。
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ヴィリニュスに唯一残ったシナゴーグ・・・かつてヴィリニュスには105のユダヤ関連施設がありましたが、現在はこのシナゴーグが唯一残る施設となっています。
このユダヤ教の会堂は、ユダヤ人富裕層によって1894年に建設が着工され、1903年に完成しました。
ドアの上にある飾り額には「祈る人の家は全ての人にとって聖なる場所である」とヘブライ語で書かれています。 -
11時半になり、ゲディミノ大通りの老舗レストラン「ネリンガ」で昼食。
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ピアノの生演奏付きです。
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クリームスープに、メインはコルドゥーナイ(リトアニア風水餃子)。
餃子より少し厚い皮に豚の挽肉が入っており、日本人の口にも合いますが、量が多くて食べきれませんでした。 -
ヴィリニュスの街と別れ、午後はカウナスへ。
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スクールバスかと思いきや、トラックのカバーの絵でした。
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ヴィリニュスから約1時間半でカウナスへ到着。
ここが日本領事館の建物だった「杉原記念館」・・・杉原千畝がいた当時のまま残されています。
通りの名前は『スギハラ通り』・・・小高い丘の上に高級住宅街が並び、添乗員さんの話だと一発で来れないドライバーが多いそうですが、ポーランド人のドライバー・ロマンさんは問題ありません。 -
建物の入り口のプレートには、リトアニア語・日本語・英語で『杉原 ― 命の外交官基金 杉原記念館』と書かれています。
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建物に入り、最初に杉原に関するるビデオを見た後、館内を見学。
杉原千畝が使っていた執務室が当時のまま残され、再現されています。
机の上には家族の写真が置かれて、背後に日の丸が。 -
1919年、それまで首都であったヴィリニュスがロシアに占領されると、リトアニア政府はカウナスに移転し、翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併合されるとカウナスは臨時に首都となります(ただし憲法上はあくまでヴィリニュスが首都とされた)。
カウナスがこの国の首都であった時、ここに日本領事館が置かれ、杉原千畝は1939~1940年まで領事館の領事代理をしていました。 -
1940年7月18日の朝、領事館前に大勢のユダヤ人が押し寄せ、 ” 日本通過のビザが欲しい ” と叫びます。
彼は数日間悩んだ後、外務省に何度も電報を送り指示を仰ぎましたが、答えは「発行は不可」。
日増しに増え続ける人々の姿を見て、彼は自らの信仰と信念に照らし合わせて「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と考え、ビザの発行を決断します。
ソ連はカウナスの各国大使館に閉館するよう既に通達していましたが、封鎖する8月28日までの4週間の間、出国直前まで発行を続け、約2000人もの人々に発給しました。 -
2枚にわたって、すべて手書きで書かれた一通のビザの写しが残されています・・・これが後に「命のビザ」と言われたもの。
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杉原はその後、チェコ、ルーマニア等で勤務し、1946年に日本へ帰国し、翌年、外務省を退職。
訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれたとの思いから、退職後は外務省関係者との交流を絶ち、様々な仕事に就き、最後にロシアとの貿易会社を設立して、1986年に亡くなりました。 -
館内には、領事代理であつた頃の杉原千畝の写真が展示されています。
これは1939年に撮影された杉原一家の写真。
中央に杉原、左に妻の幸子(ゆきこ)と2人の子供達( 長男と次男 )がいます。 -
幸子夫人(1914~2008)は『六千人の命のビザ』の著者・・・執務室のソファに腰かけて、夫のビザ発行の仕事を心配しながら見ていたそうです。
名誉回復に44年間かかった『日本のシンドラー』杉原千畝・・・1991年に、宮澤内閣の外務政務次官だった鈴木宗男氏が幸子夫人を招き、人道的かつ勇気ある判断を高く評価、杉原家に謝罪し名誉回復しました。
鈴木氏が幸子夫人の『六千人の命のビザ』を読んで感銘を受けたことがきっかけです。 -
この冬には、杉原千畝と命のビザを題材とした映画『杉原千畝 スギハラ チウネ』が公開されましたが、館内にポスターが貼られていました。
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映画はポーランドのオールロケで撮影され、2015年10月22日に主演の唐沢寿明さんが、共演の小雪さん、チェリン・グラック監督と共に訪れた時の写真も展示されていました。
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1940年7月、多くのユダヤ人が押し寄せた門に、今では『希望の門、命のヴィザ / VILTIES VARTAI VIZOS GYVENIMU』という文字が書かかれています・・・ここの桜も、もう少しで咲くでしょう。
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ここは邸宅が立ち並ぶ一角です。
記念館の向かいの家は、ガーデニングの真っ最中。 -
ドライバーのロマンさんとパチリ。
ワルシャワに住んでいる彼は、ポーランド語しか喋れません。
ポーランド語で「おはよう・こんにちは」は ” Dzien dobry(ジェイン・ドブリィ) ” ・・・ワルシャワでのガイドさんが、 ” 「十円 丼ぶり」で通じますよ ” と教えてくれたので、タリンまで毎朝バスでの挨拶は ” ジューエン ドンブリ?! ” -
カウナスから、次の観光地「十字架の丘」に向かいます。
大きな牧草ロールを積んだトラックが、いかにも倒れそうな感じで走っていました。 -
オランダを思い出させる、風車がある風景。
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「十字架の丘」は、シャウレイの北12キロの場所にあり、おびただしい数の十字架が建つ、リトアニア最大の巡礼地です。
とにかく、見た目のインパクトがすごい・・・十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになりました。
物凄い数の十字架がありますが、墓地ではありません。 -
1795年の第3次ポーランド分割で、リトアニアはロシア帝国の領土になります。
ポーランド人とリトアニア人は、1831年の11月蜂起と1863年の1月蜂起でロシアに対抗しましたが、いずれも失敗に終わり、反乱兵の家族が彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てました。
1918年にリトアニアは独立を回復し、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となります。 -
1944年以降のソ連占領時代には、丘へ行き十字架を捧げることが、キリスト教への帰依と、非暴力による抵抗を意味していたと思われ、1961年にソ連当局は、いつのまにか5千以上もの十字架が並んだ十字架の丘をブルドーザーで破壊・・・しかし、翌日になると、再び十字架は建て直されていました。
こうしたことが何度も繰り返されましたが、十字架が撤去される度にまた新たな十字架が立てられたそうです。
年々増え続ける十字架の数は10万を超え、現在も増え続けています。 -
この丘は、どこの管轄にも属していないので、自由に出入りし、十字架を建てることが出来ます。
幾重にも重なる圧倒的な数の十字架・・・それぞれに祈りや願いが込められ、丘の麓から周辺へと広がり続けています。 -
1993年には教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが ” 希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所である ” と述べました。
2000年にフランシスコ会の修道院がこの丘の近くに完成しています。 -
十字架の丘の周囲は畑ばかりですが、駐車場の近くには土産物店もあり、十字架をお土産に持って帰る人もいます。
旅行者が十字架の丘に奉納しても構いません。 -
ドライブインで一息入れて、三番目の国・ラトヴィアに向かいます。
山がないこの地域はサイクリングも盛ん・・・空気入れがなくてもドライブインでタイヤはOK。
リトアニアからラトヴィアまで、今日も約400kmのロングドライブです。
19時20分なのに、まだこんなに明るい・・・あと1時間ほどでラトヴィアの首都・リガに到着します。
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