2016/03/17 - 2016/03/17
956位(同エリア1647件中)
ムッシュさん
戸塚宿【横浜市)から藤沢宿へ
【藤沢宿】
天保14年(1843)頃、藤沢宿の宿内家数は約900軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠45軒で宿内人口は4,089人でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
なりわい交流館資料より
『東海道 六 五十三次 戸塚』
本図は、戸塚の宿を過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。
そしてこの絵の左側には急な『大坂松並木』を上る旅人の姿、そして右側には丹沢山塊とその奥に白き富士山の雄姿が。 -
街道松並木の絵
-
戸塚宿から、藤沢宿に向かう途中です。
【大坂松並木】 旧東海道
大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
戸塚区役所
「旧東海道 大坂松並木」の標柱にあった案内の浮世絵。
江戸時代のこの辺りは松の間に富士山が見える松並木だったと。
坂の下には戸塚宿と思われる家並みが見える。
大坂の上から江戸に向かいながら戸塚宿を見下ろしている様子を描いたものと。 -
【東海道 お軽 勘平 戸塚山中道行の場碑】
仮名手本忠臣蔵にちなむ碑です。
「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽をいたわる名シーンです。
お軽・勘平の碑
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の在所への道行の途中、「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところである。お軽が「なんの、それよりはまだ行先が思われて」と応えると、勘平「さうであろう。しかし昼は人目を憚る故」、「幸ひここの松陰で」、「暫しがうちの足休め」、「ほんにそれがよいわいの」・・・と、名場面となったところである。
碑石の由緒。
「お軽勘平(おかる かんぺい)戸塚山中道行(とつか やまなか みちゆき)の場」とは天保四年(1833)、江戸河原崎座にて上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」三段目の裏として付け加えられ初演された清元(きよもと。江戸浄瑠璃の一派)による所作事(しょさごと。舞踊劇)「道行旅路の花聟」(みちゆき たびじのはなむこ。「落人」という通称がある)の一場面。
主君の切腹というお家の一大事に腰元のお軽との密会に耽っていた早野勘平は主君への不忠義を恥じ死んで詫びようとするも、お軽に促されてひとまずお軽の故郷である山崎(京都)に向かうことにする。
鎌倉から落ちゆくお軽と勘平が桜や菜の花咲く戸塚の山中で展開する舞踊劇が江戸庶民に大人気を博し、同時に戸塚の名を世に知らしめた。
(忠臣蔵は舞台の設定を江戸から南北朝期の鎌倉に変えている。何故かって、江戸城松の廊下の刃傷沙汰を堂々と芝居にしたら、お咎めどころでは済みませぬから) -
【原宿一里塚跡】 旧東海道
江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われています。当時は松の木が植えられていました。明治九(1876)年に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となったので取り払われました。
【原宿一里塚跡】 古い説明板
一里塚は、慶長九年(1604)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(四キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。
原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って十一里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。
戸塚区内には、品農、吉田、原宿の三か所にあったが、品農町のものは道を隔てて二基、ほぼ原型のまま当時のすがたを残しているもので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治九年(1876)十月里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地である。
昭和四十八年十一月 戸塚区役所・戸塚観光協会
『原宿一里塚跡』。
原宿一里塚は11番目の一里塚であるが、国道1号線では日本橋から46Km余りの地点になる。
手前の10番目の一里塚跡は戸塚宿元町にあり、次の12番目の一里塚跡は遊行寺坂にある。 -
【諏訪神社】 藤沢市
背の高い木々に覆われた神社。
もうすぐ藤沢の中心地に到着します。
建武2年(1335)遊行寺を創建した遊行四代 呑海上人(どんかいしょうにん)が遊行寺の守護神として勧請したものです。
遊行寺の反対側にあるのが諏訪神社。(この神社は呑海が信濃でお札配りの道中に現れた諏訪明神を勧請したもので、以来藤沢山の守護神として、元旦には遊行上人が神社に参拝し参詣者にお札を配っている) 中に祠が4つあり右側がなぜか太子堂。後のは祖霊神、道祖神、大黒天社。
建武2年(1335年)、清浄光寺(遊行寺)を開いた遊行上人第四代呑海が同寺院の鎮守として、信州の諏訪から勧請したことにより創建された。慶安年間(1648年 - 1651年)には鳥居の前での落馬事故が相次いだことにより風早之谷(諏訪ヶ谷戸、藤沢本町駅付近)へ転座され、さらに元禄12年(1699年)に現在地へ移転した。以来、藤沢宿東方面の大鋸町や大久保町などにおける総鎮守となっている。
明治維新後の神仏分離によって清浄光寺から独立したが、現在でも祭事などでの関わりは続いている。 -
ここは遊行寺坂の途中です。
道は急な下り坂となる。通称道場坂と呼ばれる。道の右手に一里塚跡の碑がある。
さらに進むと、左手にあるのが諏訪神社である。道路を挟んで反対側には遊行寺がある。
【一里塚跡】 (右の説明板)
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約四キロメートル)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。
左図は往時の面影を伝える資料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
平成二十年(2008)三月 藤沢市教育委員会 -
【遊行寺 遊行寺本堂】《遊行寺は通称で、正式には清浄光寺》
遊行寺坂をほぼ下りきった辺りに、広い境内を有する遊行寺に到着しました。
正中2年(1325)創建の遊行寺。堂々たる「本堂」は東海道随一だという。
『本堂』。
遊行寺は1325年(正中2年)に創建された時宗の総本山。
開山は遊行第四代上の呑海。開基は呑海の兄・俣野五郎景平。
正式名称は、「藤澤山無量光院清浄光寺」。
「遊行上人のおわす寺」ということから「遊行寺」の名で親しまれてきた。
本堂は、関東大震災で崩壊した後、1937年(昭和12年)に落成した東海道随一といわれる木造建築物。
【遊行寺の成立ち:ウイディぺディアより】
遊行寺の歴史は藤沢の歴史。両者は深い結びつきがあり、特に近世、門前が「藤沢宿」として発展した頃はそれが顕著でした。
行事期間中、境内では相撲や見世物の興業が行なわれ、いろは坂は人が通行するのも困難なほど賑わい。人々がこの日のために藤沢に集まるため、当然、藤沢宿は宿泊客で大変な賑わいを見せました。
また、参勤交代では、大名の宿泊所として遊行寺は利用され、明治時代には天皇のお旅所ともなっています。そのつど宿の役人達は遊行寺に日参して、あれこれと協力しています。もちろん、日常生活においても常に遊行寺は藤沢の中心的役割を果たし、藤沢の人々の支えのもと遊行寺は護持された。例えば、藤沢宿で不幸があれば、住民は遊行寺を頼り、遊行寺もその世話や力添えをおしまなかったのです。 -
遊行寺を創建した【時宗開祖一編上人像】
遊行寺は時宗の総本山、正式には藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)で、宗祖一遍上人は踊り念仏で往生安楽の境地へ至れると説いて諸国を遊行したので「遊行上人」、寺を「遊行寺」と俗称された。その上人4代目の呑海が1325年に建てた。
境内にある大イチョウは見事である。樹齢700年、幹の太さは6.6mとのこと
一遍上人は、別名「捨聖(すてひじり)」と呼ばれ、「徹底的に捨て去る」を貫いた。
一遍は、「跡目などはない。私の後には、全ての人が念仏を唱える状況が残っているだけだ。南無阿弥陀仏」と答えた。
そして、自分が死ぬ間際には、記録・経典を焼き棄てさせ、遺体は「野に捨ててけだものにほどこすべし」と遺言を残した。
ところが、鎌倉中期から室町時代にかけては、浄土宗や真宗をはるかに凌ぐ勢いで、一遍の「念仏踊り」は、大名から百姓、浮浪者に至るまで、日本全土に広まっていったという。「時宗の踊り念仏は、盆踊りの始まりとなった。」
こんなに身近なものに、一遍さんの魂が受け継がれていた。 -
【遊行寺】
遊行寺は時宗の総本山、正式名は清浄光寺(しょうじょうこうじ)ですが、遊行上人にちなみ遊行寺と呼ばれます、宗祖は一遍上人、正中2年(1325)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ藤沢道場と呼ばれました。
「遊行四世を継承した呑海が、相模国俣野荘の地頭俣野五郎景平の実弟であったという緑で、同じ境川筋の下流で東海道に画した廃寺極楽寺を再興して清浄光院を創建して以後、遊行上人は当寺を拠点として各地を遊行廻国するようになった。
延文元年(1356)、初代将軍足利尊氏から寺領6万貫の寄進をうけ、後光厳天皇宸筆の勅額を賜与され清浄光寺と改めた。」
「小栗判官と照手姫のは墓」
本堂の裏に、鎌倉公方足利持氏との戦いに敗れた小栗が、逃走生活の末、遊女照手姫の助けを得て家名を再興する。 -
【時宗総本山遊行寺(ゆぎょうじ)】
清浄光寺(しょうじょうこうじ)が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。
宗祖は一遍上人(1239年~89年)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。
この遊行寺は正中二年(1325年)遊行四代呑海(どんかい)上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。
宝物として、「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。
境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。 -
藤沢 遊行寺境内
-
【小栗判官の墓】
「常陸国(茨城県)小栗城の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、四代鎌倉公方足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城しました。
この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。」
【(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について】
桓武天皇の曽孫・平上総介高望から七代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重樹の四子)は、平安時代の久寿二年(1155)に、伊勢皇大神宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和町宮本)に築城し、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代に至るまでの三百余年の間、領主として常陸の国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至りました。
その小栗の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永三十年(1423)八月二日、関東公方足利持氏との激戦に奮戦拙く破れ小栗城は陥落しました。
この落城により満重はその子助重と十勇家臣と共に、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中、相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で、歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野ヶ原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世・(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。
幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯ノ峰温泉(和歌山県本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永三十三年三月十六日)後、十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。
なお助重は、毒殺という非業の死をとげた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝謝恩の供養をもって父満重と家臣の墓石を、八穂池のほとりに営んだと伝えられております。
またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗十五代城主・小栗彦次郎平助重であります。(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)
ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、更にその追善への意向を表敬して、小栗主従墳墓の概略由来を顕彰するものです。(小栗伝承藤沢編)
平成二年六月一日 時宗長生院・小栗公等顕彰会 -
【照手姫の墓】
東門から右手、本堂わきの細い道(通称 車坂)をたどると長生院というお寺があります。”小栗堂”とも言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺です。応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手姫を妻に迎えました。満重往生の後、助重は遊行寺八徳池の側らに満重主従の墳墓を建立。助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています。 -
藤沢なりわい交流館パンフレットより
【東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 作者=橋本貞秀〈1863年作〉提供 藤沢市】
左正面奥は、遊行寺、左部は参道。右の道は、旧東海道で、遊行寺坂。
勇壮な冠木(かぶき)門。
本堂につづくなだらかな石段は四十八段あり、「いろは坂」と呼ばれている。上には樹齢700年と言われる大銀杏が迎えてくれる。 -
藤沢 遊行寺の入口、冠木門と参道
【黒門といろは坂】
遊行寺の総門の冠木門で、日本三大黒門のひとつであるといわれています。参道の石段は四十八段あることから、「いろは坂」と呼ばれています。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五拾参次之内 【藤澤】 遊行寺 広重画】
境川を朱塗りの「遊行寺橋」で渡ります、往時は大鋸橋(だいぎりばし)と呼ばれ、高札場が設置されていた。
広重はこの大鋸橋と藤沢宿の宿並、そして背景に遊行寺を誇張して描いています。
橋手前の鳥居は江の島弁財天への入口を示す第一鳥居です。
江島神社に祀られている弁財天は日本三大弁財天(安芸の宮島、近江の竹生島)の一つ。参詣客が多く大層賑わいました。 -
【遊行寺橋】 橋を渡ると遊行寺参道に至り、すこし坂道階段を登れば本堂にいたる。
「朱塗りの遊行寺橋を渡ると、「時宗総本山」「清浄光寺」の2枚の木札を左右にかけた黒塗りの総門がみえてくる。遊行寺の正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺といい、一遍(智真)を開租とあおぐ時宗の総本山である。遊行寺という名称は遊行上人の住む寺からおこり、藤沢道場ともよばれた。」
惣門前の赤塗りの印象的な橋である。流れる川は境川。武蔵と相模国との境目の川なので境川という。
『遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡』
江戸から東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。
高札場は屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。
左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。
江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。 -
『遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡』
江戸から東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。
高札場は屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。
左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。
江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。 -
藤沢 広小路
-
【牡丹飴茶屋立場跡】
菱沼歩道橋の手前右手に牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡解説があり。
藤沢宿と平塚宿の間には四谷、牡丹餅、南湖、八幡の立場があった。牡丹餅立場はその名の通り牡丹餅が名物。
【牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡】
徳川家康は、慶長六年(1601)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。
藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。
立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が有名なのでそのように呼ばれていました。
また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。
平成十九年一月吉日 茅ヶ崎市教育委員会 菱沼茶屋町稲荷講中 国土交通省 -
『東海道五十三次 藤澤宿』。
藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。
すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであった。浮世絵は藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。
宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、賑わいが感じられる -
【白旗神社】鎌倉幕府・源氏つながり
遊行寺から西へ1?行くと、義経を祀る【 白旗神社】の参道に着く。 -
【白旗神社】鎌倉幕府・源氏つながり
義経を祀る神社。境内には、寛文5年(1665年)のものをはじめとする庚申塔群があり、市の文化財に指定されている。
【源義経公鎮霊碑】
文治五年(1189)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々より「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。
平成十一年六月十三 白旗神社 -
鎌倉幕府・源氏つながり
この神社には源義経公の墓がある
【源義経公鎮霊碑】
文治五年(1189)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々より「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。
平成十一年六月十三 白旗神社 -
【白旗神社本堂】鎌倉幕府・源氏つながり
義経の亡霊を恐れた頼朝が義経公を祭神として祀ったものです。
社殿下には江ノ島弁財天道標があり、「ゑのしま道、一切衆生、二世安楽」と刻まれています。
境内には芭蕉句碑「草臥(くたびれ)て 宿かる比(ころ)や 藤の花」。 -
-
【白旗神社】
御祭神 寒川比古命、源義経公
配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命
由緒 古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治五年(1189)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行なわれたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。 -
-
白旗神社に建つ義経像
【源義経公鎮霊碑】
文治五年(1189)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々より「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。
平成十一年六月十三 白旗神社 -
【義経の首洗い井戸】鎌倉幕府・源氏つながり
藤沢の川に流れ着いた義経の首を拾い上げて、首を洗って葬った言い伝え。 -
奥州平泉で最期を迎えた義経と弁慶の首は、新田高平によって源頼朝のもとへ届けられた。しかし、和田義盛と梶原景時による首実検が済むと無残にも首は捨てられた。それを拾った土地の人々によりここに埋葬され、供養された。
そして、鎮守としたのが白旗神社。 -
【義経首洗い井戸】鎌倉幕府・源氏つながり
これが義経の首を洗ったとの伝承を持つ井戸。 -
さらに東海道を西に進みます。
【四谷不動堂】
不動堂を挟んで左・東海道、右・大山道。鳥居は大山道の一の鳥居。
この鳥居は、万治4年に木製の鳥居として建立され、その後幾度となく修復され、
最近では昭和35年に復興整備され、その際、鳥居正面に天狗面が取り付けられたとのこと。
我がパーティーは東海道へと進む。 -
【四谷不動堂】
ここは追分の角地にあり左が東海道、右の細い道は大山街道へ至る。
不動明王を乗せた延宝4年(1676年)建立の大山道道標「是より右大山みち」が祠の中に安置されています。左の石碑も道標です。
【四谷不動(大山道標)】
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝四年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治四年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも七月一日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行なわれています。
平成五年二月 藤沢市教育委員会 -
藤沢浮世絵博物館パンフより
【藤沢の浮世絵】
旧東海道の右手に遊行寺(ゆぎょうじ)、正式には清浄光寺(しょうじょうこうじ)がある。街道より幅の広い石段を登った所だ。弥陀の「四十八願」になぞらえた四十八段の階段である。
藤沢宿はこの遊行寺の門前町として発達した町である。
滝山街道、厚木街道、江ノ島街道、鎌倉街道、大山街道との分岐点があり、交通の要衝だったため1601年に宿場に指定され、たいへん賑わった。
『東海道七 五十三次之内 藤沢 四ツ谷の立場(蔦屋版)』
当時の浮世絵に見る四ツ谷辻。「追分 大山みち」そして不動堂もちゃんと左端に
描かれているのです。このあたりの地名「四ツ谷」は、家が4軒あったことから、かつては「四ツ家」とよばれ、それが「四ツ谷」に転じた。 -
【大山街道の入口、大山一の鳥居】
江戸時代は江戸町人の大山参詣が盛んでした、源頼朝が大山に抜身の小刀を奉納したことにちなみ、参詣者は木太刀を担いで行き納めました。
大山は山岳信仰ですから女人禁制でした。 -
不動堂内部に鎮座している不動明王。大変怖そうなお顔です。
迫力満点の不動明王。大山道の行きつく先、伊勢原の大山寺の本尊が不動明王なのである。不動明王の後背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれるもので、不動明王が火焔の中に身を置き、自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くすという。凄まじい姿勢を示しているのだと。 -
「これより大山みち」
東海道と大山道の交差点にある道標。
右手に折れるこの場所が東海道と大山道との分岐点。
大山詣りへ向かう人たちが辿る(たどる)"田村通大山道"。
「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。
神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。
経路はここ東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) -
田村の渡し(相模川) - 横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 -石倉 - 子易 - 大山に至る道である。
東海道を行き交うのは、何も京都を目指す旅人ばかりではなかったのです。 -
東海道は現在の国道1号沿い。舗装された歩道には名残りの松並木もlちらほら。
-
沿道にある【二つ家稲荷神社】
二ツ家公民館前交差点の所に二ツ家稲荷神社がある。 江戸時代、立場で二軒の茶屋があり、大山詣での参詣者や江ノ島鎌倉の物見遊山の人々で賑わったと云。
現在の二ツ家の地名は、この二軒の茶屋(二ツ家)に由来。
境内には寛文10年(1670)建立の庚申供養塔があり、供養塔には三猿が陽刻されています。
無病息災長寿を願う信仰、これは「人の体内にいる三尸の虫が庚申の夜、天に昇ってその人の罪過を天帝に告げる為、寿命を縮められる」とする中国の道教に由来。
【二ツ家稲荷神社歴表】
当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也
明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス
平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中 -
「聞かず見ざる言わざる」地蔵さん
稲荷神社境内には寛文10年(1670)建立の【庚申供養塔】があり、供養塔には三猿が陽刻されている。
藤沢市指定重要文化財 寛文十年(1670)庚申供養塔
庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は、「人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。
江戸時代、万治1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。
二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辨型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。 -
【二ツ家稲荷神社歴表】
当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也
明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス
平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中 -
街道の松並木と国道1号。西に向かって進みます。
-
真言宗の上正寺。
浄土真宗の寺で、鎌倉時代の創建
【上正寺の聖徳太子像】 茅ヶ崎市指定重要文化財(昭和49年1月23日指定)
木造聖徳太子立像 一躯
寄木造り、玉眼嵌入。上半身は肌部は素木に古色仕上げし、袴は朱彩が施されています。この姿は、聖徳太子が二歳のとき、東方に向かって「南無仏」ととなえ合掌すると、手の中から舎利が出たという伝えを表し、「南無仏太子」とよばれます。
太子が自ら彫刻したという言い伝えを有していますが、室町時代の作と考えられています。 -
【上正寺(じょうしょうじ)】
龍澤山龍徳院と号す。浄土真宗西本願寺末。 本尊 阿弥陀如来。
「元禄15年(1702)僧 圓春 の記せし 境内太子堂縁起 によるに、圓融院 第四皇子 尊勝法親王 郡中寺尾郷(市内小出町)に一宇を建て、海圓院と号し、顕密兼学の道場とす。 文治年中(1185~1189)当村に移れり。 後、嘉禄年中(1225)住僧 了智坊道圓(佐々木四郎高綱公)親鸞聖人(浄土真宗の開祖 1173~1262)に国府津に謁し、其の宗法に帰依し今の宗派に改む。 因りて了智坊 を宗の開祖とす。 其の頃 親鸞聖人 寺号を 無上正覚寺 と名づく。 後、寺務を 智圓に譲り、信州松本に 正行寺 を建て、仁治二年(1241)2月29日 其の地にて寂す。 齢 72才。後、本山 覚如上人 巡国の折り、当寺により、寺号を略して「上正寺」とよびしより今の称となれりという。」相模風土記より
*境内には、上野寛永寺の石灯籠がある。これは四代将軍家綱に献上されたものです。 -
東海道の松並木説明図
-
ここは茅ヶ崎市です。
有名な烏帽子岩のデザインのマンホール蓋です。
桑田佳祐サザンオールスターズに因む湘南サザンビーチの沖合に烏帽子岩はある。 -
茅ヶ崎一里塚説明板
-
茅ヶ崎一里塚。江戸日本橋より数えて14里目です。
【茅ヶ崎一里塚】 茅ヶ崎市史跡(昭和36年8月15日指定)
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。
慶長九年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約四キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。
東海道は江戸の日本橋を起点にしています。 茅ヶ崎の塚は日本橋から十四番目にあたります。かつては道の両側にありました。
茅ヶ崎市教育委員会 -
東海道から少し逸れますが、鶴嶺八幡宮に到着。
【鶴嶺八幡宮】
左に見える小さな太鼓橋を渡ると本堂にいたる。実際は、横に脇道あり。 -
【鶴嶺八幡宮参道】
相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。また鶴嶺八幡宮によると、源氏が関東へ進出する際、創建した最初の氏社という。
【参道】
大鳥居から社殿までを八丁参道といい。鶴嶺八幡宮から国道一号線(東海道)沿いを八丁松並木という。慶安2年(1649年)、江戸幕府の先例によって、七石の領地を与えられたのを機会に鶴嶺八幡宮の参道左右と馬場に松並木を植えられた。
旧東海道から約800m北方に続いてます。 -
鶴嶺八幡宮を再興した朝恵上人の碑(左側)
右の碑には、
「ながながと参道に列並む松のみど里 朝恵上人を永久に語り次ぐべし 三郎」
「今もなお朝恵の松の若みどり 十八世鴨立庵 芳女」
と刻まれている。 -
鶴嶺八幡宮の本堂。
-
樹齢1000年超えとか。【大銀杏の木】
社殿脇にある大銀杏は源義家が、戦勝を祈願して自ら植えたという大銀杏で、樹齢約950年。1984年(昭和59年)12月、かながわ名木百選に指定されている。
大銀杏は値廻り8.5メートル、高さ29メートルの巨木
このイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側木を叢生し勢いよいものが4・5本くっついて成長を続け現在の幹を形づくったものとみられる。なお、次のような伝承がある。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定した折にこの辺り懐島郷を通り、風光明媚の小丘に源氏の守り神石清水を勧請したことに始まるといわれ、その後前九年の役で父頼義を応援に奥州に向かう途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えしたものといわれている。(茅ヶ崎市) -
【大銀杏の大木】 幹の根元。太いです。
大銀杏は値廻り8.5メートル、高さ29メートルの巨木
境内の樹齢数百年の大銀杏(樹高27m)が有名である。県の天然記念物に指定されている。前九年の役(1051年)の戦勝祈願に、源義家が自ら手植えしたと伝えられている。樹齢950年以上。 -
大銀杏は値廻り8.5メートル、高さ29メートルの巨木。大銀杏の碑
-
-
【鶴嶺神社の本堂】
鶴嶺神社は、古くから源氏の崇拝を受けた茅ケ崎の総社であったが、小田原北条の滅亡後、荒廃する。これを再興したのは常光院の住職朝恵上人。800m続く松並木は朝恵がうえたもの。
『鶴嶺八幡別当勝福寺縁起』によれば、平(大庭)良正が長承2年(1133)に九州宇佐八幡宮から御身体を勧請したのが始まりであるいう。ほかに永承6年(1051)に河内源氏二代目棟梁源頼義が奥州へ向かう途中、石清水八幡宮を勧請したのが創建という伝承もある。 -
鶴嶺神社の本堂の手前に隣接して建つ淡島神社。
-
鶴嶺神社の本堂。
-
鶴嶺八幡神社から見た参道。実際の参道は東海道まで続き、約800mあります。フォトでははるか先になる。
ここは、神奈川古道50選である・ -
鶴嶺神社への長い参道の中間辺りに、昔の参道の姿を示す写真が展示されていた。
-
東海道に立つ、【鶴嶺八幡神社参道入口の大鳥居】
ここから、700mの参道を歩くと、神社に到着。我々は逆に歩いてきました。ここは茅ヶ崎の総社で古くから源氏の崇敬を受けました、慶安2年(1649)徳川三代将軍家光より七石の朱印を拝領しています。
【鶴嶺八幡宮】
1030年(長元3年)、源頼義が平忠常の乱を鎮圧する際、懐島郷矢畑に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建したことに始まるのだと伝えられている。
前九年の役(1055年(天喜3年))の際にも戦勝祈願が行われ、1063年(康平6年)に反乱を鎮圧すると、鎌倉の由比郷に懐島八幡宮を勧請したといわれる。
頼義の子義家は、後三年の役の際に祈願し、勝利したことから、1089年(寛治3年)、隣郷の浜之郷に社領を寄進して現在の鶴嶺八幡宮を創建した。
1191年(建久2年)には、源頼朝の命により大庭景義が社殿を修復して再興。 -
東海道全コースで京都に向かって進み、左側に富士山が見えるのは、この地と、静岡県吉原宿手前の2カ所のみである。
【南湖の左富士の由来】
浮世絵師安藤広重は天保三年(1832年)に東海道を旅し、続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に、南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並みの見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。 -
藤沢浮世絵館パンフレットより。上の解説板の図に同じ。
『五十三次名所図会 七 藤澤 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)』
「東海道の南湖(茅ヶ崎市)の松並木の風景を描いています。
南湖は藤沢宿と平塚宿の間の立場(宿と宿の間の休憩場所)のあったところで、
京都に向かっていく中で富士山が左に見える「左富士」の名所の一つでもありました。現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。」 -
鳥居戸橋に立つ「左富士の碑」。国道の反対側には、鶴嶺神社参道入口の赤い鳥居が立つ。
ここには、藤沢宿と平塚宿の中間であり立場が立ち賑わっていた。 -
【南湖の左富士の碑】
東海道全コースで京都に向かって進み、左側に富士山が見えるのは、この地と、静岡県吉原宿手前の2カ所のみである。
南湖1丁目交差点の先で街道は大きく右(北西)に曲がります、これにより富士山が左に見えるところから南湖の左富士と呼ばれた。南湖は間の宿として賑わったと云います。
千の川に架かる鳥井戸橋の渡り詰に【南湖の左富士之碑】
鳥井戸橋の脇に「南湖の左富士の碑」があり、由来の説明によると、「浮世絵安藤広重は1832年に東海道を旅し、続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている」と書かれている。 -
【南湖の左富士之碑】
浮世絵師安藤広重が天保3年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道53次の風景版画
を発表した。その中の一枚にここ南湖の松原左富士がある。左富士が見えるのは、ここと静岡県の吉原の二か所が有名 -
藤沢 茅ケ崎 神明大神拝殿
『拝殿』
御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、
そして大山咋命(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ) -
藤沢 茅ケ崎 神明大神
「往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大葉 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。
当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、
安倍晴明(921~1005)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)
架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大場平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。
康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。大神宮は寛正年間(1460~1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。
亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年
(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。
東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を
抱いたと伝えられている。
「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。
「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。」 -
街道歩きの途中で、廃アルミ缶の山積みです。何ともカラフルな色合いが綺麗でした。
-
【旧相模川の橋脚(国史跡)】 神奈川県茅ケ崎市
木製のままでは朽ちるので、コンクリート製の複製のようです。
国指定史跡旧相模川橋脚です、往時はここが相模川の流れでした。
鎌倉時代の武蔵国稲毛(川崎)の源頼朝の重臣領主稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架けました。
この橋の完成を祝し行われた祝賀儀式に、源頼朝が出席した。その後の鎌倉への帰り路に、突然、落馬して帰らぬ人となったという伝えがある。(2022年6月26日NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人で放映される)
大正12年9月の関東大震災で突如水田が隆起し、旧橋脚が出現、当時の橋脚のみこの様が再現された。 -
-
旧相模川の橋脚を示すフォトとその説明
「小出川に沿ったこの一帯は、永らく水田であったが大正12年9月などの大地震によって、七本の橋脚が地上に出て来た。その後、地下に埋もれたもの三本が発見された。
相模川は、鎌倉時代にはこの辺を流れていたが川すじの変化によって、西方へ移ったもので橋脚は土中に埋まったまま700年をへて再び地上に露出したものである。」
橋杭1本を含めヒノキ製の橋杭が計10本確認された。
その配置は、2メートル間隔の3本1列の橋脚が10メートル間隔で4列に並んだものと推定される。
橋脚は断面が丸く径は、最小で48cm、最大で69cm、長さは確認できたもので -
旧相模川の橋桁を残す公園です。
次は、相模川を渡って、平塚宿へ向かいます。
「小出川に沿うこの一帯は、永らく水田であったが、大正十二年(1923)九月および十三年一月の大地震によって七本の橋脚が地上に出てきた。その後、地下に埋もれたもの三本が発見された。
相模川は、鎌倉時代にはこの辺を流れていたが、川すじの変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま七百年をへて再び地上に露出したものである。
橋の幅はすくなくとも七メートル(四間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられている。
昭和四十六年三月十三日 神奈川県教育委員会
「関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7
本の木柱が出現した。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見された。
当時、沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、
中世橋梁遺構として高く評価されている。
沼田はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻
(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定した
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
76