2016/03/17 - 2016/03/17
136位(同エリア1754件中)
ムッシュさん
戸塚宿【横浜市)から藤沢宿へ
【戸塚宿】
天保14年(1843)の頃、戸塚宿の宿内家数は613軒、うち本陣2軒、脇本陣3、旅籠75軒で、宿内人口は約2900人)、宿並は戸塚、吉田、矢部の三町で構成され、宿場機能は戸塚町に集中してた。
- 旅行の満足度
- 4.0
PR
-
武蔵、武相の国境から、武相国に向かって焼餅坂を下る。
【焼餅坂】
旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。
武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でして。
このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています -
坂の途中に品濃(しなの)一里塚碑。
両塚とも原型をとどめています、風情満点です、江戸日本橋より数えて9里目です。
【品農一里塚】 (説明板)
慶長九年(1604)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要になりました。そのため街道の両側には、一里(約四キロメートル)ごとに五間(約九メートル)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植えられました。これが一里塚です。
一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
ここ品農の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていた ようです。
このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年に県の史跡に指定されました。
平成七年六月 横浜市教育委員会 -
一里塚は結構高い場所にあるので、現代の道路は、かなり掘り込まれて切り通しとなったのかな。
その途中にあるのがこの品濃一里塚である道の両側にきちんと、一里塚が残されている。江戸より9番目の一里塚である。
旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていた。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置している。
このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけ。 -
旧街道の説明
【品農坂上】 旧東海道
品農坂は、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向う旅人には宿場町までもう一歩の所です。一方、江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な上り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息でした。海も見えてきて、江戸へ思いを馳せていたかもしれません。 -
-
旧街道、東海道は、現在では、この陸橋を渡った国道を越えた辺りにつながっている。ということは、旧街道は、国道により分断されたのかー。
品濃坂歩道橋で環状2号線を跨ぎます。
*品濃坂は、途中で横浜の環状2号線の切り通しがあり寸断されている。旧東海道はここで一旦切断され、環状2号線の上に架かる歩行者専用の陸橋品濃橋を渡るようなっている。橋の左袂には記念碑が建てられている。 -
益田家のモチの巨木。樹齢300年以上。
【益田家のモチノキ】 神奈川県指定天然記念物(昭和56年7月17日指定)
モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常三~八メートルに達し、四月頃に黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟す。この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから人々に良く親しまれている木である。
指定された「益田家のモチノキ」は、国道一号の旧東海道に面し、樹高十八メートル、目通り二・四メートル、根回り三・一メートル雄株と、これより〇・七五メートル離れて並ぶ、樹高十九メートル、目通り三・二メートル、根回り四・九メートルの雌株の二本である。これほどまでに生長した大木は他にほとんど類を見ないばかりか、共に美しい樹冠で接しているのも珍しい。
「相模モチ」の愛称で郷土の人たちから愛され、なじまれてきたこのモチノキ二本は、稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、旧東海道に面してきたという歴史的背景もあるので、将来にわたり永く保護することが望ましく、神奈川県指定天然記念物に指定するものである。
神奈川県教育委員会
【増田家のモチノキ】 かながわの名木100選(昭和59年選定)
樹形が整い樹勢も旺盛な県下最大のモチノキの巨木である。古くから「相模モチ」の愛称で親しまれている。
県の天然記念物に指定されている。
樹高 19メートル 胸高周囲 2.4メートル 樹齢 約300年(推定)
モチノキは、本州から沖縄の照葉林帯に分布する常緑高木で、庭木として植えられるほか、樹皮からはトリモチが作られる。
樹高20メートル、胸高周囲4メートル、樹齢約500年に達するものもあると言われている。 -
左が旧道。右は国道沿いですね。国道沿いの細い街道に入るとホッとする。
-
戸塚宿の江戸方見附の標識
歌川広重は吉田町と矢部町の境を流れる柏尾川に架かる吉田大橋を江戸方面から描いています。
橋の奥に宿並を、左手には茶屋を、そして橋手前から左川沿いに進む、鶴ヶ岡八幡宮への鎌倉道の道標左り かまくら道を描いています。
こめやの軒下には講中札。大山講の指定休憩所でした。
この初刷り版では旅人が馬から下りるところを描いています。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道 広重画】
歌川広重は吉田町と矢部町の境を流れる柏尾川に架かる吉田大橋(右)を江戸方面から描いています。
橋の奥に宿並を、左手前に茶屋を、そして橋手前から左川沿いに進む、鶴ヶ岡八幡宮への鎌倉道の道標 「左り かまくら道」。ここは東海道と鎌倉に向かう道の分岐点。他に旅人が馬から下りるところを描いています。「こめや」の軒下には講中札。大山講の指定休憩所でした。
*左端の二階屋は、「こめや」、中央の橋の袂に道標。
吉田町と矢部町の境を流れている柏尾川に架かっていた大橋(吉田橋)を描いている。「こめや」は旅籠屋。副題の『元町別道』はかまくら道を指している。
この絵は初刷り版で馬に乗ってきた旅人が降りるところを描いているが、江戸の人は「おりる」という言葉が嫌いだったため、後刷り版では、馬に乗る絵に変わっている。また、絵が小さいので分かりにくいが、馬も蹄を守る為にわらじを履いている。さすがに重いためか1~2時間で擦り切れたとのこと。
浮世絵に描かれている橋のたもとに左かまくら道の道標が立っている通り、橋の手前を左折し、大船駅傍を南下すれば鎌倉の「鶴岡八幡宮」に通じている。
橋の手前左側の歩道上に、広重の浮世絵『東海道五十三次之内戸塚』が描かれた説明付き銘板が立っている。 -
【江戸方見附の碑】
ここからが戸塚宿である。戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。 大名行列もこれより隊伍を整えたものである。 -
箱根駅伝の紹介。駅伝中継所は戸塚です
-
吉田橋から見た柏尾川。下流で境川に吸収され、相模湾に注いでいる。
吉田大橋は歌川広重によって、東海道五十三次絵の戸塚「元町別道」に描かれている。
絵中の橋のたもとに描かれている延宝二年(1674)建立の「左かまくら道」の道標が「妙秀寺」境内に保存されている。
また、柏尾川沿いを下ると、やがて鎌倉七口の一つ、鶴岡八幡宮に近い巨福呂(コブクロ)坂に通じている。 -
この先、左側に戸塚駅です。
【戸塚宿】
天保14年(1843)の頃、戸塚宿の宿内家数は613軒、うち本陣2軒、脇本陣3、旅籠75軒で、宿内人口は約2900人)、宿並は戸塚、吉田、矢部の三町で構成され、宿場機能は戸塚町に集中してた。 -
戸塚駅の先に本陣跡の標識。澤辺(さわべ)本陣があった所
戸塚には本陣が2軒あり、それぞれ、内田家と澤邊(さわべ)家がつとめた。澤邊家には、現在標柱と説明板があり、近くには明治天皇戸塚行在所阯の碑がある。なお、裏手は今も澤邊家の住居である。
【旧東海道・澤邊本陣跡】 (標柱)
澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治二年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。 戸塚区役所
【本陣跡】 (ステンレス板)
戸塚が東海道の宿場になったのは慶長九年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことを云ふ。
戸塚観光協会 -
【澤邊本陣家敷図】
-
【澤邉本陣跡の奥に鎮座する、羽黒神社】
戦国時代の弘治二年(1556)に当主が羽黒大権現を勧請した、とされる。
羽黒大権現とは、出羽三山(でわさんざん)の一つである羽黒山(はぐろさん)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。東の出羽三所権現は西の熊野十二所権現とともに江戸時代には隆盛を極めた。
『羽黒神社社殿』
戸塚に鎮座する羽黒神社は八坂神社とともに戸塚宿の鎮守。
澤邊河内守信友が、 弘治2年(1556年)に澤邊家の故郷である出羽国の羽黒大権現を勧請し祀ったのが始まりと。その後、澤邊家は戸塚本陣となっており、戸塚宿澤邊本陣跡奥に鎮座している。羽黒神社は6本の銀杏の木に囲まれた神社であり、稲荷社があり、2基の庚申塔が建てられていた。 -
【富塚八幡宮】 富塚の読みが、短くなり、現在の「戸塚」となった。
戸塚の総鎮守。
源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。明治6年(1873年)に郷社に列した。(WEbより)
*この階段の傍に、芭蕉句碑が立つ。
このあたり、戸塚宿の出口。
【冨塚八幡宮】 戸塚の鎮守様 勝負開運 厄除けの神社
御祭神 誉田別命(応神天皇) 冨属彦命(相模国造二世孫)
例大祭 八月第一日曜日(前日宵宮)
「御 由 緒」
平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久四年(西暦1072年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
現在の本殿は天保十四年、拝殿は昭和九年の造営になります。
明治六年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。
宮御神輿 宮御神輿は江戸時代天保十四年の作で、平成元年から二年かけて大修 理を行いました。
源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、
夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。明治6年(1873年)に郷社に列した。境内裏山(富塚八幡緑地)に富属彦命の墓と伝えられる
古墳があり、これを「富塚」(富塚古墳も参照)と呼んだことが「戸塚」の由来とされている。また、全国の戸塚姓・富塚姓の祖先とされる戸塚(富塚)一族が平安時代にこの地に住んでいたことから、当社を全国の戸塚姓・富塚姓の祖霊神としている。氏子地域は戸塚区・泉区・栄区・瀬谷区の4区(昭和44年(1969年)までの戸塚区域) -
【境内に立つ芭蕉句碑】
と言っても、ここにー芭蕉が立ち寄ったのでは無く、芭蕉ファンが句碑を立てたらしい。
芭蕉句碑「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(はつかつお)」。 -
富塚八幡宮に旅の安全をお願いしてる。
戸塚の鎮守。平安時代、前九年の役平定のため源頼義、義家親子が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を受け、その加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして造営された古社。社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられている。 また、松尾芭蕉の句「鎌倉を生きて出でけむ初松魚」の句碑が残されている。
続いて、戸塚をはなれると、藤沢市に向かいます。 -
『上方見付跡』
江戸方見附から、約2.2km距離にある戸塚宿京方の出入り口。
現在は道の両側に1.5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように
京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。 -
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
22