宮島・厳島神社 旅行記(ブログ) 一覧に戻る
太古の昔から島全体が自然信仰の対象として崇められてきた宮島は、朱塗りの厳島神社以外にも歴史のある神社・仏閣が目白押しです。再訪問になる今回のミッションは、そんな歴史と神々の息吹を感じながら宮島を探索することです。<br />仏教の伝来以降、日本古来の神々と仏を結びつ付け、仏や菩薩が人々を救うために様々な神の姿を借りて出現するという本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広まり、神仏習合が進展しました。ここ神の島「宮島」でも明治元年の神仏分離令までは、神社と寺院が密接に結び付けられて独自の文化を築き上げてきました。島内に点在する数多くの神社仏閣を巡れば、さらに深く宮島の歴史に触れることができます。<br />本編では、山辺の古径、五重塔、豊国神社にスポットを当てました。<br />前回訪問時の厳島神社の旅行記は次を参照してください。<br />http://4travel.jp/travelogue/10797008<br />弥山の旅行記は次を参照してください。<br />http://4travel.jp/travelogue/10797220<br /><br />今回お世話になった宮島観光マップです。<br />http://www.miyajima-wch.jp/common/img/guide/miyajima_map_ja.pdf<br />http://pleasure-luck.com/wp-content/uploads/2015/11/map1.pdf<br /><1日目><br />新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)<br />---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空<br /><2日目><br />萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)<br />---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)<br />---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)<br />---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)<br />---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)<br /><3日目><br />湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口<br />---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)<br />---福山駅(新幹線)===新大阪駅

早春賦 西国放浪記⑩宮島(山辺の古径・五重塔・豊国神社)

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2016/03/03 - 2016/03/05

3位(同エリア1839件中)

montsaintmichel

montsaintmichelさん

太古の昔から島全体が自然信仰の対象として崇められてきた宮島は、朱塗りの厳島神社以外にも歴史のある神社・仏閣が目白押しです。再訪問になる今回のミッションは、そんな歴史と神々の息吹を感じながら宮島を探索することです。
仏教の伝来以降、日本古来の神々と仏を結びつ付け、仏や菩薩が人々を救うために様々な神の姿を借りて出現するという本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広まり、神仏習合が進展しました。ここ神の島「宮島」でも明治元年の神仏分離令までは、神社と寺院が密接に結び付けられて独自の文化を築き上げてきました。島内に点在する数多くの神社仏閣を巡れば、さらに深く宮島の歴史に触れることができます。
本編では、山辺の古径、五重塔、豊国神社にスポットを当てました。
前回訪問時の厳島神社の旅行記は次を参照してください。
http://4travel.jp/travelogue/10797008
弥山の旅行記は次を参照してください。
http://4travel.jp/travelogue/10797220

今回お世話になった宮島観光マップです。
http://www.miyajima-wch.jp/common/img/guide/miyajima_map_ja.pdf
http://pleasure-luck.com/wp-content/uploads/2015/11/map1.pdf
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅

同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線
利用旅行会社
ツアー(添乗員同行あり)
旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 宮島口<br />宮島口から厳島へ渡る手段は連絡船です。所要時間は約10分、JR西日本と松大汽船(広電グループ)の2社が競合して運行しています。便の多さや柔軟性では松大汽船に分があると思いますが、JR連絡船は厳島の大鳥居に大接近して航行するというサービスがあります。絶好のシャッターチャンスでもあります。<br />しかし、残念ながら今回も乗船したのはこの松大汽船でした。

    宮島口
    宮島口から厳島へ渡る手段は連絡船です。所要時間は約10分、JR西日本と松大汽船(広電グループ)の2社が競合して運行しています。便の多さや柔軟性では松大汽船に分があると思いますが、JR連絡船は厳島の大鳥居に大接近して航行するというサービスがあります。絶好のシャッターチャンスでもあります。
    しかし、残念ながら今回も乗船したのはこの松大汽船でした。

  • 宮島口<br />往路に厳島神社を海側から眺めたい場合は、3階デッキの進行方向右側に座られることをお勧めいたします。<br />連絡船は、乗船した状態でそのまま真っ直ぐに進みます。

    宮島口
    往路に厳島神社を海側から眺めたい場合は、3階デッキの進行方向右側に座られることをお勧めいたします。
    連絡船は、乗船した状態でそのまま真っ直ぐに進みます。

  • 宮島<br />厳島の名は、日本神話に登場する、アマテラスとスサノオノミコトとの誓約から生まれた三女神の一柱「市杵島姫(イチキシマヒメ)」に由来します。「イチキシマ」が転じて「イツクシマ」となったと言われています。市杵島姫は、音楽や芸術の神、財宝をもたらす金運の神、また弁財天とも称され、厳島神社ではその本殿に空海作と伝わる秘仏 厳島弁財天を祀っていました。

    宮島
    厳島の名は、日本神話に登場する、アマテラスとスサノオノミコトとの誓約から生まれた三女神の一柱「市杵島姫(イチキシマヒメ)」に由来します。「イチキシマ」が転じて「イツクシマ」となったと言われています。市杵島姫は、音楽や芸術の神、財宝をもたらす金運の神、また弁財天とも称され、厳島神社ではその本殿に空海作と伝わる秘仏 厳島弁財天を祀っていました。

  • 宮島<br />厳島では、農耕は一切禁じられていました。何故なら、島全体を神聖なものとして鉄の農具を土に立てることを忌避したからです。また、古来より女性の仕事の象徴とされた機織りや布晒しも禁忌とされていました。<br />島に死人が出た時は、即座に対岸の赤崎の地に渡して葬られ、現在でも住民の先祖の墓地は島内にはないそうです。こうしたことから、古来より神聖な領域と崇められていたことが窺えます。

    宮島
    厳島では、農耕は一切禁じられていました。何故なら、島全体を神聖なものとして鉄の農具を土に立てることを忌避したからです。また、古来より女性の仕事の象徴とされた機織りや布晒しも禁忌とされていました。
    島に死人が出た時は、即座に対岸の赤崎の地に渡して葬られ、現在でも住民の先祖の墓地は島内にはないそうです。こうしたことから、古来より神聖な領域と崇められていたことが窺えます。

  • 宮島 だいこん屋<br />12時には少し早いのですが、まずは宮島名物「牡蠣御膳」で腹ごしらえです。<br />商店街のほぼ西端にある「だいこん屋」というもみじ饅頭店の2階でいただきます。さすがに新鮮な牡蠣を使っているだけあり、牡蠣フライですが濃厚さが全く違うのには吃驚ポンです!ご覧のように焼きたてのもみじ饅頭がデザートです。<br /><br />宮島滞在の時間は、食事を含めて2時間30分強でした。(パンフレットにある3時間滞在は、宮島口起点の計算のようです。)

    宮島 だいこん屋
    12時には少し早いのですが、まずは宮島名物「牡蠣御膳」で腹ごしらえです。
    商店街のほぼ西端にある「だいこん屋」というもみじ饅頭店の2階でいただきます。さすがに新鮮な牡蠣を使っているだけあり、牡蠣フライですが濃厚さが全く違うのには吃驚ポンです!ご覧のように焼きたてのもみじ饅頭がデザートです。

    宮島滞在の時間は、食事を含めて2時間30分強でした。(パンフレットにある3時間滞在は、宮島口起点の計算のようです。)

  • 宮島 だいこん屋<br />「だいこん屋」の裏庭です。<br />とてもよく手入れされていて見応えがあります。<br />お店に立ち寄られた際には、覗いてみてください。

    宮島 だいこん屋
    「だいこん屋」の裏庭です。
    とてもよく手入れされていて見応えがあります。
    お店に立ち寄られた際には、覗いてみてください。

  • 宮島 表参道商店街 大杓子(おおじゃくし)<br />樹齢270年の欅からつくられた、長さ7.7m、最大幅2.7m、質量2.5トンもある大杓子です。<br />伝統工芸の宮島細工を後世に遺すと共に、杓子発祥の地である宮島のシンボルとして1983年に3年近くの歳月をかけて制作された、世界一の大きさを誇る大杓子です。<br />つくってはみたものの、大きすぎて展示場所が決まらず、その後14年間お蔵入りして日の目を見ることがなかったそうです。1996年12月に厳島神社が世界遺産に登録されたことを記念し、この場所に展示されるようになったそうです。<br /><br />宮島の名産品 杓子の由来は次のように伝えられています。<br />江戸時代寛政期に 誓信(せいしん)が厳島弁財天の夢を見たことから始まります。弁天の持仏琵琶に着目し、その琵琶の形から杓子を考案し、神木を使ってそれを作ることを島の人々に教えました。こうして作られた杓子は旅人に喜ばれ、杓子作りが盛んになったそうです。神木の杓子でご飯をよそえば「敵をメシ取る」「幸運をすくい取る」といった福徳が得られ、日清・日露戦争時には「敵を召し捕る」といった具合に縁起物として宮島を代表する名産品になりました。商売繁盛・勝運のお守りとされたり、飯粒がつかないという特性から実用面でも重宝されています。<br />春の選抜高校野球が開幕しましたが、甲子園球場で地元高校の大応援団が使う「めしとりしゃもじ」には、こうした由来があります。

    宮島 表参道商店街 大杓子(おおじゃくし)
    樹齢270年の欅からつくられた、長さ7.7m、最大幅2.7m、質量2.5トンもある大杓子です。
    伝統工芸の宮島細工を後世に遺すと共に、杓子発祥の地である宮島のシンボルとして1983年に3年近くの歳月をかけて制作された、世界一の大きさを誇る大杓子です。
    つくってはみたものの、大きすぎて展示場所が決まらず、その後14年間お蔵入りして日の目を見ることがなかったそうです。1996年12月に厳島神社が世界遺産に登録されたことを記念し、この場所に展示されるようになったそうです。

    宮島の名産品 杓子の由来は次のように伝えられています。
    江戸時代寛政期に 誓信(せいしん)が厳島弁財天の夢を見たことから始まります。弁天の持仏琵琶に着目し、その琵琶の形から杓子を考案し、神木を使ってそれを作ることを島の人々に教えました。こうして作られた杓子は旅人に喜ばれ、杓子作りが盛んになったそうです。神木の杓子でご飯をよそえば「敵をメシ取る」「幸運をすくい取る」といった福徳が得られ、日清・日露戦争時には「敵を召し捕る」といった具合に縁起物として宮島を代表する名産品になりました。商売繁盛・勝運のお守りとされたり、飯粒がつかないという特性から実用面でも重宝されています。
    春の選抜高校野球が開幕しましたが、甲子園球場で地元高校の大応援団が使う「めしとりしゃもじ」には、こうした由来があります。

  • 宮島 宮尾城跡<br />加福食堂まで戻り、その右側にある急峻な階段を登り詰めると要害山山頂の宮尾城跡に辿り着きます。現在は曲輪や堀切が僅かに城の面影を残すだけですが、山頂には今伊勢神社が建てられています。<br />宮尾城は、毛利元就が陶晴賢を誘き寄せるために築いた囮城です。「日本三大奇襲戦」のひとつである「厳島合戦」の舞台になった城として知られ、往時は三方が海に面した海城でした。ここから、陶軍が本陣を構えた塔の岡(五重塔の建つ岡)を凝視していたことでしょう。<br />尚、元就は厳島合戦で神域を汚したことを忸怩たる思いで厳粛に受け留め、流血で汚れた土砂は全て削り取って海中に投じ、血で汚れた回廊の一部は板を新しく取り替え、戦前の姿に戻したそうです。

    宮島 宮尾城跡
    加福食堂まで戻り、その右側にある急峻な階段を登り詰めると要害山山頂の宮尾城跡に辿り着きます。現在は曲輪や堀切が僅かに城の面影を残すだけですが、山頂には今伊勢神社が建てられています。
    宮尾城は、毛利元就が陶晴賢を誘き寄せるために築いた囮城です。「日本三大奇襲戦」のひとつである「厳島合戦」の舞台になった城として知られ、往時は三方が海に面した海城でした。ここから、陶軍が本陣を構えた塔の岡(五重塔の建つ岡)を凝視していたことでしょう。
    尚、元就は厳島合戦で神域を汚したことを忸怩たる思いで厳粛に受け留め、流血で汚れた土砂は全て削り取って海中に投じ、血で汚れた回廊の一部は板を新しく取り替え、戦前の姿に戻したそうです。

  • 宮島 宮尾城跡<br />1555(弘治元)年、毛利元就と陶晴賢の両軍合わせて35000人が戦ったのが「日本三大義戦」のひとつとされる厳島合戦です。そのきっかけとなったのが、大寧寺の変でした。出雲 尼子攻めの敗戦により政務への興味をなくし、享楽に耽って領民のことを顧みない大内義隆が許せず、重臣 陶晴賢がクーデターを決起したのです。義隆は数十人の部下に護られながら深川の大寧寺に逃れ、和尚の戒を受けて45歳で自刃しました。31代の永きに亘って栄えた西国の雄 大内氏がここに滅亡したのでした。<br />因みに、「義戦」のひとつに数えられているのですが、重臣 陶晴賢が主君 大内義隆にクーデターを仕掛けて自刃に追いやった大寧寺の変では、毛利元就も陶軍につきました。では何故厳島合戦を「義戦」と呼ぶかと言うと、晴賢が元就と交わした約束を守らなかったからです。その約束とは、義隆を隠居させて子の義尊に家督を継がせることでした。しかし、結果的に親子を自刃に追いやったために「義戦」と解釈されています。<br /><br />1553(天文22)年、吉田(広島県)城主 毛利元就は、主君を討った逆臣 陶晴賢を討伐する勅命を受けました。元就は、多勢に無勢で陶軍を破るには野戦では不利と考え、宮島に誘き寄せるために宮尾(要害山)に小城を築き、己斐豊後守に数百の兵を与えて守らせました。ある夜、城中に招いた琵琶法師が陶のスパイである事を見抜き、「宮島に城を築いた事は失策であった。もし、陶の大軍に包囲されたなら、我軍の勝利は望めない」と敵を欺きました。そして晴賢は元就の策略に騙され、3万人以上もの大軍を宮島に上陸させて塔の岡に本陣を構えました。<br />元就は、3千人の兵を率いて対岸の地御前に陣取り、夜中、暴風雨に荒れ狂う怒涛の中へ出陣しました。家臣 小早川隆景の一隊は敵の正面へ乗り入れ、怪しむ敵に「筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいった者です」と舟を進めました。一方、元就率いる本隊は、宮島の東北岸に上陸し、敵の本陣である塔の岡の背後へ兵を進めました。これが「日本三奇襲戦」と言われる所以です。<br />かくして陶軍の本陣は総崩れとなり、神社裏へ雪崩をうって敗走しました。陶軍は前後に敵を受け、戦う精根も尽きて大元から海岸線を伝って江浦に逃れるも、舟は一隻もなく、最早これまでと高安ヶ原に引き返し、谷川の水を汲んで名残の宴を開いた後、自刃しました。<br />「何を惜しみ 何を恨みん もとよりも このありさまの 定まれる身に」が晴賢の辞世の歌です。享年35歳。その首級は従者の手によって岩の間に隠されましたが、毛利軍の執拗なローラー作戦により発見され、対岸の洞雲寺に埋葬され、ねんごろに供養されました。この合戦を契機に、毛利氏の中国地方における地位は急上昇し、同民の厳島神社に対する信仰も日増しに篤くなっていったのです。

    宮島 宮尾城跡
    1555(弘治元)年、毛利元就と陶晴賢の両軍合わせて35000人が戦ったのが「日本三大義戦」のひとつとされる厳島合戦です。そのきっかけとなったのが、大寧寺の変でした。出雲 尼子攻めの敗戦により政務への興味をなくし、享楽に耽って領民のことを顧みない大内義隆が許せず、重臣 陶晴賢がクーデターを決起したのです。義隆は数十人の部下に護られながら深川の大寧寺に逃れ、和尚の戒を受けて45歳で自刃しました。31代の永きに亘って栄えた西国の雄 大内氏がここに滅亡したのでした。
    因みに、「義戦」のひとつに数えられているのですが、重臣 陶晴賢が主君 大内義隆にクーデターを仕掛けて自刃に追いやった大寧寺の変では、毛利元就も陶軍につきました。では何故厳島合戦を「義戦」と呼ぶかと言うと、晴賢が元就と交わした約束を守らなかったからです。その約束とは、義隆を隠居させて子の義尊に家督を継がせることでした。しかし、結果的に親子を自刃に追いやったために「義戦」と解釈されています。

    1553(天文22)年、吉田(広島県)城主 毛利元就は、主君を討った逆臣 陶晴賢を討伐する勅命を受けました。元就は、多勢に無勢で陶軍を破るには野戦では不利と考え、宮島に誘き寄せるために宮尾(要害山)に小城を築き、己斐豊後守に数百の兵を与えて守らせました。ある夜、城中に招いた琵琶法師が陶のスパイである事を見抜き、「宮島に城を築いた事は失策であった。もし、陶の大軍に包囲されたなら、我軍の勝利は望めない」と敵を欺きました。そして晴賢は元就の策略に騙され、3万人以上もの大軍を宮島に上陸させて塔の岡に本陣を構えました。
    元就は、3千人の兵を率いて対岸の地御前に陣取り、夜中、暴風雨に荒れ狂う怒涛の中へ出陣しました。家臣 小早川隆景の一隊は敵の正面へ乗り入れ、怪しむ敵に「筑前の宗像秋月の船で、御味方にまいった者です」と舟を進めました。一方、元就率いる本隊は、宮島の東北岸に上陸し、敵の本陣である塔の岡の背後へ兵を進めました。これが「日本三奇襲戦」と言われる所以です。
    かくして陶軍の本陣は総崩れとなり、神社裏へ雪崩をうって敗走しました。陶軍は前後に敵を受け、戦う精根も尽きて大元から海岸線を伝って江浦に逃れるも、舟は一隻もなく、最早これまでと高安ヶ原に引き返し、谷川の水を汲んで名残の宴を開いた後、自刃しました。
    「何を惜しみ 何を恨みん もとよりも このありさまの 定まれる身に」が晴賢の辞世の歌です。享年35歳。その首級は従者の手によって岩の間に隠されましたが、毛利軍の執拗なローラー作戦により発見され、対岸の洞雲寺に埋葬され、ねんごろに供養されました。この合戦を契機に、毛利氏の中国地方における地位は急上昇し、同民の厳島神社に対する信仰も日増しに篤くなっていったのです。

  • 宮島 町家通り<br />京都の法観寺八坂の塔を見上げる清水寺への参道を彷彿とさせる風景です。<br />江戸時代初期に埋め立てられ、宮島が最も華やいだ時代のメインストリートだったのが本町筋と呼ばれていた町家通りです。『厳島図会』には、商家や旅籠が立ち並ぶ通りに参拝客や酔客が楽しげに行き交う様子が描かれています。現在の幸町東表や中之町表、北之町表といった町名も、この一帯がかつて表通りだったことの証です。しかし戦後には映画館やカフェなどの娯楽施設が姿を消し、島の住人たちの生活通りに一変しました。通りが再び脚光を浴びるようになったのは最近のことだそうです。2001年に始まった「みやじま雛めぐり」がきっかけで、通りに点在する江戸時代から戦前までの古い町家が注目され始めました。伝統的な町家建築に現代的な感覚をプラスしたレトロモダンな宿や商店、ギャラリーなどが登場し、また、昭和30年代にタイムスリップしたような昔ながらの商店や民家も未だ健在であり、それがまたいい味を添えています。歴史を感じさせる町並み、そしてそこに暮らす人々の息づかいや体温が伝わってくるのが町家通りの魅力と言えます。

    宮島 町家通り
    京都の法観寺八坂の塔を見上げる清水寺への参道を彷彿とさせる風景です。
    江戸時代初期に埋め立てられ、宮島が最も華やいだ時代のメインストリートだったのが本町筋と呼ばれていた町家通りです。『厳島図会』には、商家や旅籠が立ち並ぶ通りに参拝客や酔客が楽しげに行き交う様子が描かれています。現在の幸町東表や中之町表、北之町表といった町名も、この一帯がかつて表通りだったことの証です。しかし戦後には映画館やカフェなどの娯楽施設が姿を消し、島の住人たちの生活通りに一変しました。通りが再び脚光を浴びるようになったのは最近のことだそうです。2001年に始まった「みやじま雛めぐり」がきっかけで、通りに点在する江戸時代から戦前までの古い町家が注目され始めました。伝統的な町家建築に現代的な感覚をプラスしたレトロモダンな宿や商店、ギャラリーなどが登場し、また、昭和30年代にタイムスリップしたような昔ながらの商店や民家も未だ健在であり、それがまたいい味を添えています。歴史を感じさせる町並み、そしてそこに暮らす人々の息づかいや体温が伝わってくるのが町家通りの魅力と言えます。

  • 宮島 小路 鬼隠(かくれんぼ)<br />大杓子のあった筋を山側へ上り、町屋通りの先の筋を左に折れてすぐの所に小路があります。「鬼隠」といった心憎い名が付けられています。本当に狭い路地ですので見落とされるかもしれません。<br />因みに、もう少し下の方には、鬼遊(おにごっこ)という小路もあります。<br />時間があればセットで巡りたい小路です。<br /><br />小路はGoogleマップには表示されませんので、次のサイトで場所をチェック願います。<br />https://www.kankou.pref.hiroshima.jp/benri/pamphlet/sanpo/documents/2010summerp10-11.pdf

    宮島 小路 鬼隠(かくれんぼ)
    大杓子のあった筋を山側へ上り、町屋通りの先の筋を左に折れてすぐの所に小路があります。「鬼隠」といった心憎い名が付けられています。本当に狭い路地ですので見落とされるかもしれません。
    因みに、もう少し下の方には、鬼遊(おにごっこ)という小路もあります。
    時間があればセットで巡りたい小路です。

    小路はGoogleマップには表示されませんので、次のサイトで場所をチェック願います。
    https://www.kankou.pref.hiroshima.jp/benri/pamphlet/sanpo/documents/2010summerp10-11.pdf

  • 宮島 小路 鬼隠<br />昭和時代のノスタルジーが漂う、なんとも心ときめかされる路地です。<br />ここを上り詰めると「山辺の古径」に突き当たります。<br />宮島はかつては宮千軒と呼ばれ、1000軒近くの家が建ち並び、その民家の軒下の迷路のような小路は子供たちの格好の遊び場だったそうです。そんな昔懐かしい空気が感じられる小粋なネーミングがなされた小路をそぞろ歩くのも一興です。

    宮島 小路 鬼隠
    昭和時代のノスタルジーが漂う、なんとも心ときめかされる路地です。
    ここを上り詰めると「山辺の古径」に突き当たります。
    宮島はかつては宮千軒と呼ばれ、1000軒近くの家が建ち並び、その民家の軒下の迷路のような小路は子供たちの格好の遊び場だったそうです。そんな昔懐かしい空気が感じられる小粋なネーミングがなされた小路をそぞろ歩くのも一興です。

  • 宮島 小路 鬼隠<br />最後は少し急な苔生した階段を登ります。

    宮島 小路 鬼隠
    最後は少し急な苔生した階段を登ります。

  • 宮島 山辺の古径 女人坂 乳地蔵<br />鬼隠小路を登ると目の前で出迎えてくれるのが乳地蔵尊です。<br />女性が母乳が沢山でますようにと祈願する地蔵尊です。宝寿院本堂の左脇にひっそりと祀られていることから、出産しておめでたいこととはいえ、母乳の出がよくないことを人に知られたくないという女性心理を捉えているように感じます。<br />江戸時代の『芸州厳島図会』にも宝寿院の隣にこの乳地蔵が描かれているそうで、この地蔵が古くから宮島の人たちを高台から見守っていたことが窺えます。<br />嫁いだ娘のために、しっかりとお祈りさせていただきました。

    宮島 山辺の古径 女人坂 乳地蔵
    鬼隠小路を登ると目の前で出迎えてくれるのが乳地蔵尊です。
    女性が母乳が沢山でますようにと祈願する地蔵尊です。宝寿院本堂の左脇にひっそりと祀られていることから、出産しておめでたいこととはいえ、母乳の出がよくないことを人に知られたくないという女性心理を捉えているように感じます。
    江戸時代の『芸州厳島図会』にも宝寿院の隣にこの乳地蔵が描かれているそうで、この地蔵が古くから宮島の人たちを高台から見守っていたことが窺えます。
    嫁いだ娘のために、しっかりとお祈りさせていただきました。

  • 宮島 山辺の古径 女人坂 乳地蔵<br />穏やかでやさしいお顔をなされていますので、古くから信仰されているのが判るような気がします。

    宮島 山辺の古径 女人坂 乳地蔵
    穏やかでやさしいお顔をなされていますので、古くから信仰されているのが判るような気がします。

  • 宮島 山辺の古径<br />ここから少し高台になった「山辺の古径」ルートに入ります。<br />まず、東端にある不動堂へ向かうため、「山辺の古径」を左へ進みます。<br />不動堂へ寄らないのであれば、右方向へ道なりに進めば光明院に突き当たります。

    宮島 山辺の古径
    ここから少し高台になった「山辺の古径」ルートに入ります。
    まず、東端にある不動堂へ向かうため、「山辺の古径」を左へ進みます。
    不動堂へ寄らないのであれば、右方向へ道なりに進めば光明院に突き当たります。

  • 宮島 山辺の古径 不動堂<br />厳島神社の鬼門鎮護のために建てられた堂宇で、毘沙門天や不動明王、弘法大師が祀られています。<br />参拝した後は、来た道を乳地蔵尊まで戻ります。

    宮島 山辺の古径 不動堂
    厳島神社の鬼門鎮護のために建てられた堂宇で、毘沙門天や不動明王、弘法大師が祀られています。
    参拝した後は、来た道を乳地蔵尊まで戻ります。

  • 宮島 山辺の古径 <br />この道は、現在の表参道が海の底だった頃、厳島神社への参詣者が歩いたという最古の参道です。スタート地点は、朱塗りの大鳥居や五重塔、町並みの瓦の波を一望できるビュースポットです。不動堂の前を通って緑豊かで静かな山沿いの道を辿れば、寿山亭の土壁に安置された女人像や乳地蔵のある女人坂へと導かれます。更に進んで左手にある石段を登ると通称「あせび寺」と呼ばれる宝寿院があり、その一帯は魚之棚町と呼ばれ、かつては魚の荷の揚げ下ろしが行われた浜辺であり、魚市場も立っていたそうです。<br />山沿いの道のため一部勾配がきつい箇所もありますが、坂の上の高台から俯瞰する景色は息を呑むほど美しく、また古い石垣や桜の老木、小さなお堂など思わず足を止めて見入ってしまう小さな発見が待っています。さらに歩を進めると浄土宗の古刹 光明院前の石畳の坂道に突き当たり、そこを下れば五重塔や千畳閣のある塔の岡に至ります。祈りの道に相応しい落ち着きと風情が湛えられた古径です。

    宮島 山辺の古径
    この道は、現在の表参道が海の底だった頃、厳島神社への参詣者が歩いたという最古の参道です。スタート地点は、朱塗りの大鳥居や五重塔、町並みの瓦の波を一望できるビュースポットです。不動堂の前を通って緑豊かで静かな山沿いの道を辿れば、寿山亭の土壁に安置された女人像や乳地蔵のある女人坂へと導かれます。更に進んで左手にある石段を登ると通称「あせび寺」と呼ばれる宝寿院があり、その一帯は魚之棚町と呼ばれ、かつては魚の荷の揚げ下ろしが行われた浜辺であり、魚市場も立っていたそうです。
    山沿いの道のため一部勾配がきつい箇所もありますが、坂の上の高台から俯瞰する景色は息を呑むほど美しく、また古い石垣や桜の老木、小さなお堂など思わず足を止めて見入ってしまう小さな発見が待っています。さらに歩を進めると浄土宗の古刹 光明院前の石畳の坂道に突き当たり、そこを下れば五重塔や千畳閣のある塔の岡に至ります。祈りの道に相応しい落ち着きと風情が湛えられた古径です。

  • 宮島 山辺の古径 女人坂<br />寿山亭の土壁に安置された女人像です。<br />女人坂は、女性を模ったと思われる何体かの古い石仏や地蔵尊が点在し、長い歴史が感じられる趣のあるゆったりとした坂道です。<br />

    宮島 山辺の古径 女人坂
    寿山亭の土壁に安置された女人像です。
    女人坂は、女性を模ったと思われる何体かの古い石仏や地蔵尊が点在し、長い歴史が感じられる趣のあるゆったりとした坂道です。

  • 宮島 山辺の古径 女人坂<br />ここには宮島で有名な女人像が佇んでいます。<br />「女人坂」の名の由来ともなった、女人像のレリーフ「宮島のビーナス像」です。<br />

    宮島 山辺の古径 女人坂
    ここには宮島で有名な女人像が佇んでいます。
    「女人坂」の名の由来ともなった、女人像のレリーフ「宮島のビーナス像」です。

  • 宮島 山辺の古径 女人坂<br />女人坂の由来は、昔、女性たちが母乳が沢山でるようにと乳地蔵尊へ参拝するためにこの坂道を通ったからという説や、花街へ向かう女性が通った道だからという説があります。<br />意外ですが、江戸時代の宮島は有数の歓楽街として栄え、立派な花街があったそうです。<br />

    宮島 山辺の古径 女人坂
    女人坂の由来は、昔、女性たちが母乳が沢山でるようにと乳地蔵尊へ参拝するためにこの坂道を通ったからという説や、花街へ向かう女性が通った道だからという説があります。
    意外ですが、江戸時代の宮島は有数の歓楽街として栄え、立派な花街があったそうです。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院 <br />正式名を龍上山西方寺宝寿院と言い、946(天慶9)年の開基と伝わる真言宗の古刹です。<br />短い石段を登ると薬医門が佇み、一見閉まっているように見えますがこれは鹿除けなので臆さずに参詣できます。本堂は宝形で裳階付きの重層で、本尊は秘仏 阿弥陀如来像を祀り、梵語の無量寿から宝寿坊と言われていました。1666(寛文6)年に官寺となり宝寿院になったお寺です。

    宮島 山辺の古径 宝寿院 
    正式名を龍上山西方寺宝寿院と言い、946(天慶9)年の開基と伝わる真言宗の古刹です。
    短い石段を登ると薬医門が佇み、一見閉まっているように見えますがこれは鹿除けなので臆さずに参詣できます。本堂は宝形で裳階付きの重層で、本尊は秘仏 阿弥陀如来像を祀り、梵語の無量寿から宝寿坊と言われていました。1666(寛文6)年に官寺となり宝寿院になったお寺です。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院<br />お寺の裏手の山に「馬酔木(あせび)」が群生していたことから「あせび寺」とも呼ばれています。2〜3月はアセビの花が咲きとても綺麗です。近年はシキビや萩を育てることにも注力されており、9月頃には萩が綺麗だそうです。<br />本尊 阿弥陀如来像は海中より出現したと伝えられ、当院縁起には「往古この浦に夜な夜な光るものあり。人々いぶかしみて漁夫に網を投入せしむるに、坐像一尺二寸の木造の阿弥陀如来仏を得たり。諸人歓喜して帰依渇仰の思いを致す。これよりこの浦を網の浦と称す」とあり、朝廷より五穀、幕府より扶持を賜り、また宝寿院専用道路を拝領し、多くの末寺を持っていたそうです。

    宮島 山辺の古径 宝寿院
    お寺の裏手の山に「馬酔木(あせび)」が群生していたことから「あせび寺」とも呼ばれています。2〜3月はアセビの花が咲きとても綺麗です。近年はシキビや萩を育てることにも注力されており、9月頃には萩が綺麗だそうです。
    本尊 阿弥陀如来像は海中より出現したと伝えられ、当院縁起には「往古この浦に夜な夜な光るものあり。人々いぶかしみて漁夫に網を投入せしむるに、坐像一尺二寸の木造の阿弥陀如来仏を得たり。諸人歓喜して帰依渇仰の思いを致す。これよりこの浦を網の浦と称す」とあり、朝廷より五穀、幕府より扶持を賜り、また宝寿院専用道路を拝領し、多くの末寺を持っていたそうです。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院 聖天堂<br />宮島の真言宗としては唯一檀家を持つ寺院で、本堂の裏には朝廷や徳川家の尊信篤く、天子より日本一の位を賜った霊尊「聖天堂」があり、歓喜天は商売繁盛の神として有名です。

    宮島 山辺の古径 宝寿院 聖天堂
    宮島の真言宗としては唯一檀家を持つ寺院で、本堂の裏には朝廷や徳川家の尊信篤く、天子より日本一の位を賜った霊尊「聖天堂」があり、歓喜天は商売繁盛の神として有名です。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院<br />聖天堂の先を更に登ると見晴らしの良い高台に出られます。<br />ここは朱塗りの大鳥居や五重塔、町並みの瓦の波を一望できるビュースポットです。<br /><br />宮島の歴史をダイジェストで紹介しておきましょう。<br />宮島は太古からその島の姿と弥山を主峰とする山々の霊気に満ちた山容から、周辺の人々の自然崇拝の対象でした。593(推古元)年、佐伯部の有力者 佐伯鞍職(くらもと)が現在地に厳島神社を創建したのが始まりです。その後、806(大同元)年に唐から帰朝した空海が宮島に立ち寄り、弥山を開山したと伝えられています。<br />厳島神社は、平安時代末期、安芸守から太政大臣に昇りつめて栄華を極めた平清盛とその一族の守護神として篤い信仰を得たことから、世に広く知られるようになりました。神主 佐伯景弘は清盛の援助を得て、竜宮城や極楽浄土を模した華麗な海上社殿を造営しました。平安時代には、清盛をはじめとする平家一門の他、後白河法皇や高倉上皇、建礼門院らの皇族や貴族が社参しています。平家が壇ノ浦に滅んだ後も、鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、豊臣秀吉も信仰し、篤く庇護しました。

    宮島 山辺の古径 宝寿院
    聖天堂の先を更に登ると見晴らしの良い高台に出られます。
    ここは朱塗りの大鳥居や五重塔、町並みの瓦の波を一望できるビュースポットです。

    宮島の歴史をダイジェストで紹介しておきましょう。
    宮島は太古からその島の姿と弥山を主峰とする山々の霊気に満ちた山容から、周辺の人々の自然崇拝の対象でした。593(推古元)年、佐伯部の有力者 佐伯鞍職(くらもと)が現在地に厳島神社を創建したのが始まりです。その後、806(大同元)年に唐から帰朝した空海が宮島に立ち寄り、弥山を開山したと伝えられています。
    厳島神社は、平安時代末期、安芸守から太政大臣に昇りつめて栄華を極めた平清盛とその一族の守護神として篤い信仰を得たことから、世に広く知られるようになりました。神主 佐伯景弘は清盛の援助を得て、竜宮城や極楽浄土を模した華麗な海上社殿を造営しました。平安時代には、清盛をはじめとする平家一門の他、後白河法皇や高倉上皇、建礼門院らの皇族や貴族が社参しています。平家が壇ノ浦に滅んだ後も、鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、豊臣秀吉も信仰し、篤く庇護しました。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院<br />勢いよく潮が引いているのが手に取るように判ります。<br /><br />かつての宮島は神職や僧侶でさえ島に渡るのは祭祀の時に限られ、上陸する際も厳重な潔斎が必要でした。しかし、宮島信仰が世に浸透するに連れて参詣者が増え、鎌倉末期には神職や僧侶、やがて役人や庶民が住み始めて町が築かれました。さらに室町時代に入り物資の流通・交易が活発になり、交易・商業都市、瀬戸内海の要衝をなす港湾としての性格を加え、神の島は急速に商業の町に変貌しました。

    宮島 山辺の古径 宝寿院
    勢いよく潮が引いているのが手に取るように判ります。

    かつての宮島は神職や僧侶でさえ島に渡るのは祭祀の時に限られ、上陸する際も厳重な潔斎が必要でした。しかし、宮島信仰が世に浸透するに連れて参詣者が増え、鎌倉末期には神職や僧侶、やがて役人や庶民が住み始めて町が築かれました。さらに室町時代に入り物資の流通・交易が活発になり、交易・商業都市、瀬戸内海の要衝をなす港湾としての性格を加え、神の島は急速に商業の町に変貌しました。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院<br />五重塔と豊国神社のツーショットも味わいがあります。<br /><br />戦国時代には日本3大奇襲戦のひとつに数えられる厳島合戦の舞台にもなりました。主君 大内義隆に反旗を翻し、義隆を討った陶晴賢に対し、兵を挙げた毛利元就は暴風と暗闇に紛れて対岸の地御前から兵を引き連れて密かに包ヶ浦に上陸し、塔の岡の背後の尾根にある博打尾(ばくちお)に登り、一気に陶軍の本陣に攻め下りました。陶軍は混乱し、戦うすべもなく敗走。こうして中国地方や豊前・伊予を支配した毛利氏は、その後の厳島神社の発展に大きく寄与していきます。<br />江戸時代には福島正則が安芸国の藩主となり、宮島の商業・廻船業を保護し、この時代は交易の中継基地・瀬戸内地方の文化の中心地として大いに栄えました。厳島神社は社家を代表する棚守、供僧を統括する大聖院、寺社造営修理を掌った大願寺の三者による経営体制が維持されましたが、明治維新後の神仏分離令で寺院の多くは廃寺となり、厳島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像も大聖院や大願寺に移されるなど混乱を招きました。1871(明治4)年に厳島神社は官幣中社となり、その5年後には損傷の進んだ大鳥居を建て替え、現在の8代目が完成しています。また、芝居や富くじ興行、遊郭で賑わった島内も新しい時代に相応しい観光地として近代化が図られ、明治時代半ばの山陽鉄道宮島口駅開業、宮島航路の開通によってより多くの観光客が訪れるようになりました。<br />1923(大正12)年に全島が国の史跡名勝、1929年に弥山北麓の原始林が天然記念物、1952年に全島が特別史跡・特別名勝の指定を受け、さらに1996年に厳島神社とその背後の弥山一帯が世界文化遺産に登録され、現在に至っています。

    宮島 山辺の古径 宝寿院
    五重塔と豊国神社のツーショットも味わいがあります。

    戦国時代には日本3大奇襲戦のひとつに数えられる厳島合戦の舞台にもなりました。主君 大内義隆に反旗を翻し、義隆を討った陶晴賢に対し、兵を挙げた毛利元就は暴風と暗闇に紛れて対岸の地御前から兵を引き連れて密かに包ヶ浦に上陸し、塔の岡の背後の尾根にある博打尾(ばくちお)に登り、一気に陶軍の本陣に攻め下りました。陶軍は混乱し、戦うすべもなく敗走。こうして中国地方や豊前・伊予を支配した毛利氏は、その後の厳島神社の発展に大きく寄与していきます。
    江戸時代には福島正則が安芸国の藩主となり、宮島の商業・廻船業を保護し、この時代は交易の中継基地・瀬戸内地方の文化の中心地として大いに栄えました。厳島神社は社家を代表する棚守、供僧を統括する大聖院、寺社造営修理を掌った大願寺の三者による経営体制が維持されましたが、明治維新後の神仏分離令で寺院の多くは廃寺となり、厳島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像も大聖院や大願寺に移されるなど混乱を招きました。1871(明治4)年に厳島神社は官幣中社となり、その5年後には損傷の進んだ大鳥居を建て替え、現在の8代目が完成しています。また、芝居や富くじ興行、遊郭で賑わった島内も新しい時代に相応しい観光地として近代化が図られ、明治時代半ばの山陽鉄道宮島口駅開業、宮島航路の開通によってより多くの観光客が訪れるようになりました。
    1923(大正12)年に全島が国の史跡名勝、1929年に弥山北麓の原始林が天然記念物、1952年に全島が特別史跡・特別名勝の指定を受け、さらに1996年に厳島神社とその背後の弥山一帯が世界文化遺産に登録され、現在に至っています。

  • 宮島 山辺の古径 宝寿院<br />間近で見ると、屋根がだいぶくたびれかけているようです。<br />檀家があるようですので、修理を検討されてはいかがでしょうか?<br />

    宮島 山辺の古径 宝寿院
    間近で見ると、屋根がだいぶくたびれかけているようです。
    檀家があるようですので、修理を検討されてはいかがでしょうか?

  • 宮島 山辺の古径 <br />宝寿院を後にして山辺の古径を進みます。<br />一部、こうした苔生した趣のある小径を歩きます。

    宮島 山辺の古径
    宝寿院を後にして山辺の古径を進みます。
    一部、こうした苔生した趣のある小径を歩きます。

  • 宮島 山辺の古径 <br />視界が開けると五重塔と豊国神社が徐々に近づいてくるのが実感できます。<br />同じ建物ですが、違う角度から見るとそれぞれ表情が異なります。

    宮島 山辺の古径
    視界が開けると五重塔と豊国神社が徐々に近づいてくるのが実感できます。
    同じ建物ですが、違う角度から見るとそれぞれ表情が異なります。

  • 宮島 山辺の古径 五重塔(重文)<br />豊国神社に隣接する五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式を持ち、禅宗様の軽快に反り返った桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい高さ27.6mの塔です。室町時代の1407(応永14)年に諸人(ほとんど女性)の勧進により創建され、7番目に古い五重塔です。高台に建てられていることもあり、街中の至るところから目にすることができます。<br />内部の見学はできませんが、唐様を呈し、内陣天井に雲龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、裏には白衣観音像、周囲の壁板には瀟湘(しょうそう)八景を添景とした真言八祖や迦陵頻伽(かりょうびんが=極楽に棲み、美しい声で鳴くという想像上の鳥)、鳳凰の壁画などが極彩色で描かれているそうです。塔内にあった本尊の釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されています。<br />尚、この五重塔が建つ「塔の岡」は、厳島合戦で陶晴賢軍が初陣を張った多宝塔の次に毛利元就が陣を張った要害山を見据えて本陣を構えた場所です。

    宮島 山辺の古径 五重塔(重文)
    豊国神社に隣接する五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式を持ち、禅宗様の軽快に反り返った桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい高さ27.6mの塔です。室町時代の1407(応永14)年に諸人(ほとんど女性)の勧進により創建され、7番目に古い五重塔です。高台に建てられていることもあり、街中の至るところから目にすることができます。
    内部の見学はできませんが、唐様を呈し、内陣天井に雲龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、裏には白衣観音像、周囲の壁板には瀟湘(しょうそう)八景を添景とした真言八祖や迦陵頻伽(かりょうびんが=極楽に棲み、美しい声で鳴くという想像上の鳥)、鳳凰の壁画などが極彩色で描かれているそうです。塔内にあった本尊の釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されています。
    尚、この五重塔が建つ「塔の岡」は、厳島合戦で陶晴賢軍が初陣を張った多宝塔の次に毛利元就が陣を張った要害山を見据えて本陣を構えた場所です。

  • 宮島 山辺の古径 <br />辿ってきた道を振り返るとこんな感じです。<br />ほぼ等高線に沿った道になっていますので、アップダウンはあっても気にならない程度です。

    宮島 山辺の古径
    辿ってきた道を振り返るとこんな感じです。
    ほぼ等高線に沿った道になっていますので、アップダウンはあっても気にならない程度です。

  • 宮島 山辺の古径 誓真(せいしん)大徳碑記念碑<br />山辺の古径の突き当りとなる浄土宗の古刹 光明院前の石畳の坂道をさらに少し登っていくと景色の良い高台にでます。町屋の屋根が居並ぶ景色を見ることは、通常のツアー観光では味わえない体験です。<br />この誓真大徳頌徳碑の付近は、春には桜の名所にもなります。この記念碑は、宮島の恩人と称される誓真の功績を顕彰するために立てられています。誓真は、宮島の杓子工芸の浸透や、島民の水不足を解消するために井戸を掘ったりと、宮島の発展のために尽力された人物です。<br />ここも宮島の歴史が感じられるスポットです。

    宮島 山辺の古径 誓真(せいしん)大徳碑記念碑
    山辺の古径の突き当りとなる浄土宗の古刹 光明院前の石畳の坂道をさらに少し登っていくと景色の良い高台にでます。町屋の屋根が居並ぶ景色を見ることは、通常のツアー観光では味わえない体験です。
    この誓真大徳頌徳碑の付近は、春には桜の名所にもなります。この記念碑は、宮島の恩人と称される誓真の功績を顕彰するために立てられています。誓真は、宮島の杓子工芸の浸透や、島民の水不足を解消するために井戸を掘ったりと、宮島の発展のために尽力された人物です。
    ここも宮島の歴史が感じられるスポットです。

  • 宮島 山辺の古径 誓真大徳碑記念碑<br />記念碑が見ているのはこんな風景です。<br />ここも五重塔と豊国神社のビュースポットです。特に、豊国神社は真正面から眺めることができます。<br />

    宮島 山辺の古径 誓真大徳碑記念碑
    記念碑が見ているのはこんな風景です。
    ここも五重塔と豊国神社のビュースポットです。特に、豊国神社は真正面から眺めることができます。

  • 宮島 山辺の古径 誓真大徳碑記念碑<br />誓真は、宮島の恩人と称される江戸時代後期の僧です。伊予国の武士の家に生まれ、青年期に広島城下に移り住み、米商を営みましたが、光明院の了単上人の導きを受けて出家。その後、神泉寺の番僧となり修行に励みました。誓真は修行の傍ら、島民の生活が豊かになるよう杓子を考案して普及させました。自ら御山の松で作り、島民に教え、その形状や細工の巧妙さで来島者の好評を博し、宮島の産物として定着したそうです。その他、木や竹を素材に箱や茶道具、酒気など様々な器具を作り、これらが後にろくろ細工や手作り茶盆、宮島塗りなどに発展していきました。<br />また、島の水不足を解消するために数多くの井戸を掘り、「誓真井戸」と呼ばれる井戸のうち、4つの井戸は現在でも水が涸れることはないそうです。更に、暗渠を造るなど島民のために献身しました。1800年に60歳で没しましたが、今なお島民に「宮島の恩人」と呼ばれています。<br />因みに、神泉寺は壇ノ浦の合戦で安徳天皇を抱いて海に飛び込んだ平清盛の妻 時子の亡骸が有の浦に流れ着いたのを弔って建てられた寺でしたが、今は跡地を示す石碑しか残されていません。

    宮島 山辺の古径 誓真大徳碑記念碑
    誓真は、宮島の恩人と称される江戸時代後期の僧です。伊予国の武士の家に生まれ、青年期に広島城下に移り住み、米商を営みましたが、光明院の了単上人の導きを受けて出家。その後、神泉寺の番僧となり修行に励みました。誓真は修行の傍ら、島民の生活が豊かになるよう杓子を考案して普及させました。自ら御山の松で作り、島民に教え、その形状や細工の巧妙さで来島者の好評を博し、宮島の産物として定着したそうです。その他、木や竹を素材に箱や茶道具、酒気など様々な器具を作り、これらが後にろくろ細工や手作り茶盆、宮島塗りなどに発展していきました。
    また、島の水不足を解消するために数多くの井戸を掘り、「誓真井戸」と呼ばれる井戸のうち、4つの井戸は現在でも水が涸れることはないそうです。更に、暗渠を造るなど島民のために献身しました。1800年に60歳で没しましたが、今なお島民に「宮島の恩人」と呼ばれています。
    因みに、神泉寺は壇ノ浦の合戦で安徳天皇を抱いて海に飛び込んだ平清盛の妻 時子の亡骸が有の浦に流れ着いたのを弔って建てられた寺でしたが、今は跡地を示す石碑しか残されていません。

  • 宮島 山辺の古径 華降山以八光明院<br />ここの山門も鹿が入らないように柵になっています。山門は小ぶりの四脚門で、柱は面取りが大きくなされ、断面はほぼ八角形に近くなっています。<br />室町時代の天文年間(1532〜54年)に以八(いはち)上人が開基したと伝えられる浄土宗の古刹です。町民の信仰のために建てられた宮島で最初の檀家寺です。宮島には壇ノ浦の合戦の際、海に身を投げた二位の尼の遺体が有之浦に漂着したとの言い伝えがあり、現在の光明院の隣にあった神泉寺に尼を弔って阿弥陀堂を建て尼の木像を祀っていましたが、神泉寺が廃寺になり現在は宮島歴史民俗資料館で弔っています。また、宮島の恩人として名高い誓真和尚が修行した寺としても知られています。

    宮島 山辺の古径 華降山以八光明院
    ここの山門も鹿が入らないように柵になっています。山門は小ぶりの四脚門で、柱は面取りが大きくなされ、断面はほぼ八角形に近くなっています。
    室町時代の天文年間(1532〜54年)に以八(いはち)上人が開基したと伝えられる浄土宗の古刹です。町民の信仰のために建てられた宮島で最初の檀家寺です。宮島には壇ノ浦の合戦の際、海に身を投げた二位の尼の遺体が有之浦に漂着したとの言い伝えがあり、現在の光明院の隣にあった神泉寺に尼を弔って阿弥陀堂を建て尼の木像を祀っていましたが、神泉寺が廃寺になり現在は宮島歴史民俗資料館で弔っています。また、宮島の恩人として名高い誓真和尚が修行した寺としても知られています。

  • 宮島 山辺の古径 華降山以八光明院<br />境内は、手前から庫裏、玄関、本堂の順に続きますが、残念ながら拝観する時間的余裕がありません。<br />本堂の正面の先はすぐ山の斜面になっており、こうして山の斜面に建ちながら、何の因果か本堂が山の斜面に対面して建てられているという摩訶不思議な伽藍配置になっています。<br />厳島神社を見下ろしてはならないと言う配慮なのでしょうか?

    宮島 山辺の古径 華降山以八光明院
    境内は、手前から庫裏、玄関、本堂の順に続きますが、残念ながら拝観する時間的余裕がありません。
    本堂の正面の先はすぐ山の斜面になっており、こうして山の斜面に建ちながら、何の因果か本堂が山の斜面に対面して建てられているという摩訶不思議な伽藍配置になっています。
    厳島神社を見下ろしてはならないと言う配慮なのでしょうか?

  • 宮島 山辺の古径<br />土塀と五重塔のコントラストが何とも言えません。<br />遠目なので判り難いのですが、青銅で造られた相輪は、トップにある宝珠と竜車との間に連弁が取り付けられた珍しい形をしています。<br />また、風鐸は付けていません。

    宮島 山辺の古径
    土塀と五重塔のコントラストが何とも言えません。
    遠目なので判り難いのですが、青銅で造られた相輪は、トップにある宝珠と竜車との間に連弁が取り付けられた珍しい形をしています。
    また、風鐸は付けていません。

  • 宮島 山辺の古径<br />龍髭(りゅうぜん)の松を前景に屹立する五重塔もよく映ります。<br /><br /><br /><br />

    宮島 山辺の古径
    龍髭(りゅうぜん)の松を前景に屹立する五重塔もよく映ります。



  • 宮島 龍髭の松<br />豊国神社に入る細い路地に沿い、横に長く伸びる樹齢200年以上と推定される黒松があります。塔之岡茶屋の向かいにあるこの松は、龍髭の松と呼ばれ、龍の髭のように長く松の枝を伸ばしています。枝の長さは30m程あり、毎年10cm程伸びているそうです。松の幹の部位はそれぞれ五重塔と二重塔を模して造形されており、「龍髭の松」という名称は往時の厳島神社宮司の命名という由緒正しいものです。茶屋の先々代が往時営んでいた宿の庭先に植えられた松でしたが、建物は移築されてこの松だけが残されたそうです。<br />今では宮島名物と言えばもみじ饅頭になってしまいましたが、この茶屋ではかつて名物と言われた太閤力餅を味わうことができます。太閤力餅の由来は、秀吉に命じられた千畳閣の建築は大変な労力を要する工事で、指揮を執っていた恵瓊が大工工事をする人たちにきな粉をまぶした餅を間食に与えたことに発するそうです。

    宮島 龍髭の松
    豊国神社に入る細い路地に沿い、横に長く伸びる樹齢200年以上と推定される黒松があります。塔之岡茶屋の向かいにあるこの松は、龍髭の松と呼ばれ、龍の髭のように長く松の枝を伸ばしています。枝の長さは30m程あり、毎年10cm程伸びているそうです。松の幹の部位はそれぞれ五重塔と二重塔を模して造形されており、「龍髭の松」という名称は往時の厳島神社宮司の命名という由緒正しいものです。茶屋の先々代が往時営んでいた宿の庭先に植えられた松でしたが、建物は移築されてこの松だけが残されたそうです。
    今では宮島名物と言えばもみじ饅頭になってしまいましたが、この茶屋ではかつて名物と言われた太閤力餅を味わうことができます。太閤力餅の由来は、秀吉に命じられた千畳閣の建築は大変な労力を要する工事で、指揮を執っていた恵瓊が大工工事をする人たちにきな粉をまぶした餅を間食に与えたことに発するそうです。

  • 宮島 五重塔 <br />創建時には大聖院の子院 金剛院に属していましたが、明治時代の廃仏毀釈の際に厳島神社の所属に遷っています。露盤下品軒覆の鉄板鋳銘から戦国時代の1533(天文2)年に神主 藤原興藤や大願寺 道本上人らが改修したことが知られ、塔の頂に立つ九輪は廿日市の鋳物師 山田壱岐守による鋳造です。また、1913(大正2)年には解体修理、1951(昭和26)年には屋根の葺替え工事が行われています。

    宮島 五重塔
    創建時には大聖院の子院 金剛院に属していましたが、明治時代の廃仏毀釈の際に厳島神社の所属に遷っています。露盤下品軒覆の鉄板鋳銘から戦国時代の1533(天文2)年に神主 藤原興藤や大願寺 道本上人らが改修したことが知られ、塔の頂に立つ九輪は廿日市の鋳物師 山田壱岐守による鋳造です。また、1913(大正2)年には解体修理、1951(昭和26)年には屋根の葺替え工事が行われています。

  • 宮島 五重塔 <br />朱塗りが目に鮮やかです。<br />各層の軒の反りが軽快で、こうして下から仰ぎ見ると、不死鳥が翼を広げて今にも飛翔しようとしている姿を彷彿とさせます。<br />軒は二軒繁垂木、組物は禅宗様三手先組物とし、初層は擬宝珠高欄を付した縁を巡らし、中央間板唐戸、脇間板張り、中備えは蓑束です。

    宮島 五重塔
    朱塗りが目に鮮やかです。
    各層の軒の反りが軽快で、こうして下から仰ぎ見ると、不死鳥が翼を広げて今にも飛翔しようとしている姿を彷彿とさせます。
    軒は二軒繁垂木、組物は禅宗様三手先組物とし、初層は擬宝珠高欄を付した縁を巡らし、中央間板唐戸、脇間板張り、中備えは蓑束です。

  • 宮島 五重塔 <br />特徴のひとつは、塔の心柱が下まで達せずに2層目で止まっており、意図的に揺れを生じさせることで強風に対して強い構造にしている点が挙げられます。見晴らしの良い高台に建ちながら、これまで台風や暴風などで倒壊することもなく長年に亘ってその美しい姿を留めたのは、この柔構造の賜物だそうです。<br />心柱の様式は、時代順に掘立式→地上式→梁上式→懸垂式へと移り変わってきました。ここのものは梁上式に当たり、心柱のない初層のスペースには須弥壇が設けられ、釈迦三尊像が安置されていたそうです。こうした構造を持つ五重塔は全国に5棟あり、木津川市海住山寺、福山市明王院、鶴岡市羽黒山五重塔、大田区池上本門寺が同形式です。<br />ソテツは、一種の財力や権力を表す証だったそうです。ですからソテツを植えることができたのは限られた神社・仏閣のみであり、名刹や大きな神社に見られるのはその名残だそうです。

    宮島 五重塔
    特徴のひとつは、塔の心柱が下まで達せずに2層目で止まっており、意図的に揺れを生じさせることで強風に対して強い構造にしている点が挙げられます。見晴らしの良い高台に建ちながら、これまで台風や暴風などで倒壊することもなく長年に亘ってその美しい姿を留めたのは、この柔構造の賜物だそうです。
    心柱の様式は、時代順に掘立式→地上式→梁上式→懸垂式へと移り変わってきました。ここのものは梁上式に当たり、心柱のない初層のスペースには須弥壇が設けられ、釈迦三尊像が安置されていたそうです。こうした構造を持つ五重塔は全国に5棟あり、木津川市海住山寺、福山市明王院、鶴岡市羽黒山五重塔、大田区池上本門寺が同形式です。
    ソテツは、一種の財力や権力を表す証だったそうです。ですからソテツを植えることができたのは限られた神社・仏閣のみであり、名刹や大きな神社に見られるのはその名残だそうです。

  • 宮島 豊国神社(重文)<br />1578(天正15)年、時の関白 豊臣秀吉が戦没者を慰霊するために毎月千部経の転読供養を行なうために、1万石を投じて政僧 安国寺恵瓊(えけい)に建立を命じた大経堂です。秀吉がこの地に建立することを思い立ったのは、島津征伐に向かう途中、毛利輝元の案内で厳島に参拝した折、この塔の岡にあった大楠を見たのがきっかけでした。<br />造営は大願寺 円海が担い、島内では最大規模の建物で畳857枚分のスケールの広さから千畳閣と呼ばれましたが、秀吉の急死により工事が中止され、未完の大経堂として現在に至っています。<br />御神座の上以外は天井がなく、板壁もない空間に116本もの柱が立ち並ぶ様は壮観です。筒抜けになった柱間から望む瀬戸内の海は一服の清涼剤です。<br />江戸時代、ここは交流の場や納涼の場として人々に親しまれていたそうで、梁には往時の歌舞伎役者一行の名や川柳、絵馬などが奉納されています。ご本尊 釈迦如来・阿難尊者・迦葉尊者像は明治維新の神仏分離令の時に大願寺に移され、秀吉と加藤清正を祀る神社となっていますので歴史ファンには垂涎の的です。現在は特段の使用目的もなく全体が大きな桟敷席のようになっていますが、未完成のまま400年以上も遺され、未完成だからこそ体験できる独特の開放感が魅力のスポットです。

    宮島 豊国神社(重文)
    1578(天正15)年、時の関白 豊臣秀吉が戦没者を慰霊するために毎月千部経の転読供養を行なうために、1万石を投じて政僧 安国寺恵瓊(えけい)に建立を命じた大経堂です。秀吉がこの地に建立することを思い立ったのは、島津征伐に向かう途中、毛利輝元の案内で厳島に参拝した折、この塔の岡にあった大楠を見たのがきっかけでした。
    造営は大願寺 円海が担い、島内では最大規模の建物で畳857枚分のスケールの広さから千畳閣と呼ばれましたが、秀吉の急死により工事が中止され、未完の大経堂として現在に至っています。
    御神座の上以外は天井がなく、板壁もない空間に116本もの柱が立ち並ぶ様は壮観です。筒抜けになった柱間から望む瀬戸内の海は一服の清涼剤です。
    江戸時代、ここは交流の場や納涼の場として人々に親しまれていたそうで、梁には往時の歌舞伎役者一行の名や川柳、絵馬などが奉納されています。ご本尊 釈迦如来・阿難尊者・迦葉尊者像は明治維新の神仏分離令の時に大願寺に移され、秀吉と加藤清正を祀る神社となっていますので歴史ファンには垂涎の的です。現在は特段の使用目的もなく全体が大きな桟敷席のようになっていますが、未完成のまま400年以上も遺され、未完成だからこそ体験できる独特の開放感が魅力のスポットです。

  • 宮島 豊国神社<br />桃山時代の豪壮な建物を象徴した木造単層本瓦葺、入母屋造の大伽藍で、桁行正面13間(約24m)、背面15間(約28m)、梁間8間(約15m)の巨大スケールを誇る大経堂で、周囲には楠材の2重縁が廻されています。<br />四隅には欞子窓を備えた板壁があるだけで建具類は一切ありません。見上げれば、立派な梁と枠組みだけの天井。何だか不思議な光景ですが、これはこれで芸術的な造形美と言えます。<br />秀吉が創建した建物は、大坂城にしろ聚楽第にしろ、当時のものはほとんど現存していません。そうした意味でも貴重な遺構です。

    宮島 豊国神社
    桃山時代の豪壮な建物を象徴した木造単層本瓦葺、入母屋造の大伽藍で、桁行正面13間(約24m)、背面15間(約28m)、梁間8間(約15m)の巨大スケールを誇る大経堂で、周囲には楠材の2重縁が廻されています。
    四隅には欞子窓を備えた板壁があるだけで建具類は一切ありません。見上げれば、立派な梁と枠組みだけの天井。何だか不思議な光景ですが、これはこれで芸術的な造形美と言えます。
    秀吉が創建した建物は、大坂城にしろ聚楽第にしろ、当時のものはほとんど現存していません。そうした意味でも貴重な遺構です。

  • 宮島 豊国神社<br />軒丸瓦や唐草瓦には金箔が押され、完成していればさぞや豪華絢爛な秀吉好みの大伽藍になっていただろうと惜しまれます。瓦にある「王」の文字は、秀吉を国王と見做したものではなく、豊国の「国」の字を図案化したものとされています。何となく言い訳がましくもありますが、朱と金の配色や鬼瓦が桃山文化の片鱗を感じさせます。秀吉のことですから、金閣寺に比肩する建造物に仕上げようと考えていたかもしれません。対岸からもキラキラ光り輝く様が眺められる大経堂になっていたのではないでしょうか。

    宮島 豊国神社
    軒丸瓦や唐草瓦には金箔が押され、完成していればさぞや豪華絢爛な秀吉好みの大伽藍になっていただろうと惜しまれます。瓦にある「王」の文字は、秀吉を国王と見做したものではなく、豊国の「国」の字を図案化したものとされています。何となく言い訳がましくもありますが、朱と金の配色や鬼瓦が桃山文化の片鱗を感じさせます。秀吉のことですから、金閣寺に比肩する建造物に仕上げようと考えていたかもしれません。対岸からもキラキラ光り輝く様が眺められる大経堂になっていたのではないでしょうか。

  • 宮島 豊国神社<br />石垣や基壇、礎石などは整えられていますが、材木の調達には苦心した様子が窺えます。特に、床下を覗くと古材をリサイクルした箇所も確認できます。<br />創建時の時代背景を紐解いてみましょう。<br />毛利輝元は織田信長と競っていましたが、本能寺の変の直後に羽柴秀吉と和睦しています。その後秀吉の全国統一の戦に動員され、四国の長宗我部氏、島津氏、更には2度に亘る朝鮮攻めを命じられます。その後、1589(天正17)年に広島城の築城に着工し、特に船の建造や土木建築事業に材木は不可欠であり、この時期には毛利氏領国内の資材・労働力は軍事最優先でした。つまり、毛利氏の財政は借銭や借米によって破綻状態にあり、家臣もまた同様でした。領国民は1日1升の給米で戦陣に動員されて逃亡する者も現れ、また働き手をとられた農耕地では不作や荒田が増し、益々疲弊していました。豊国神社はこうした時代の産物だったのです。ですから、秀吉が亡くなった後、さっさと見放されたのです。

    宮島 豊国神社
    石垣や基壇、礎石などは整えられていますが、材木の調達には苦心した様子が窺えます。特に、床下を覗くと古材をリサイクルした箇所も確認できます。
    創建時の時代背景を紐解いてみましょう。
    毛利輝元は織田信長と競っていましたが、本能寺の変の直後に羽柴秀吉と和睦しています。その後秀吉の全国統一の戦に動員され、四国の長宗我部氏、島津氏、更には2度に亘る朝鮮攻めを命じられます。その後、1589(天正17)年に広島城の築城に着工し、特に船の建造や土木建築事業に材木は不可欠であり、この時期には毛利氏領国内の資材・労働力は軍事最優先でした。つまり、毛利氏の財政は借銭や借米によって破綻状態にあり、家臣もまた同様でした。領国民は1日1升の給米で戦陣に動員されて逃亡する者も現れ、また働き手をとられた農耕地では不作や荒田が増し、益々疲弊していました。豊国神社はこうした時代の産物だったのです。ですから、秀吉が亡くなった後、さっさと見放されたのです。

  • 宮島 豊国神社<br />天井板が張られていない梁には絵馬、書画などが沢山奉納されており、他にはない独特の雰囲気を醸しています。江戸時代のものもあり、歴史を感じさせられます。<br />江戸時代の絵馬は、元々は厳島神社にあったものだそうですが、明治になってここに移されたそうです。<br />江戸時代、厳島の神様は芸事の神様として篤い信仰を受け、芸能をテーマにした絵馬が多く奉納されたそうです。奉納者が自分の芸事を厳島神社を訪れる参詣者へPRする宣伝効果もあったといいます。現在で言えば、バナー広告のようなものです。

    宮島 豊国神社
    天井板が張られていない梁には絵馬、書画などが沢山奉納されており、他にはない独特の雰囲気を醸しています。江戸時代のものもあり、歴史を感じさせられます。
    江戸時代の絵馬は、元々は厳島神社にあったものだそうですが、明治になってここに移されたそうです。
    江戸時代、厳島の神様は芸事の神様として篤い信仰を受け、芸能をテーマにした絵馬が多く奉納されたそうです。奉納者が自分の芸事を厳島神社を訪れる参詣者へPRする宣伝効果もあったといいます。現在で言えば、バナー広告のようなものです。

  • 宮島 豊国神社<br />天を仰げば、このような小屋組の匠の技を拝むことができます。<br />何故未完成かと言えば、豊国神社の完成前に秀吉が亡くなり、秀吉に命じられて工事を担当していた安国寺恵瓊も関ヶ原の戦いで敗れた西軍の中心武将として処刑され、その後、誰も工事を継続する者がいなくなったからです。ですから、板壁も天井もないまま現在に至っています。<br />しかし、皮肉なもので天井や壁板がないのが功を奏し、隅々まで見渡せるために豪放そのものです。床下も人が通れる高さまでかさ上げされ、長い回廊を彷彿とさせる趣です。

    宮島 豊国神社
    天を仰げば、このような小屋組の匠の技を拝むことができます。
    何故未完成かと言えば、豊国神社の完成前に秀吉が亡くなり、秀吉に命じられて工事を担当していた安国寺恵瓊も関ヶ原の戦いで敗れた西軍の中心武将として処刑され、その後、誰も工事を継続する者がいなくなったからです。ですから、板壁も天井もないまま現在に至っています。
    しかし、皮肉なもので天井や壁板がないのが功を奏し、隅々まで見渡せるために豪放そのものです。床下も人が通れる高さまでかさ上げされ、長い回廊を彷彿とさせる趣です。

  • 宮島 豊国神社<br />中央にある御神座上部には唯一天井板が張られ、賽銭箱やおみくじも用意され、ここだけは他とは違う空間になっています。また、御神座の左右には、年代物の杓子が沢山奉納されています。<br /><br />本能寺の変の後、毛利輝元は羽柴秀吉と和睦しました。あまり知られていませんが、輝元はその時に秀吉に謁見を請い、厳島神社の宝蔵の大内家5名剣のうち「荒波」と「乱れ髪」を献上しています。神社側への論理は、毛利(=「国家」)の「御用」 としています。つまり、輝元は、秀吉の天下の下で毛利が本当に安堵されるのか不安と危機感を抱き、厳島の神物を請け出して秀吉に媚びたのです。しかし、中世には厳島神社への寄進物は神の物として扱われ、例え足利将軍家が見たいと言っても神社側は首を立てに振ることはなかったそうです。<br />この事実をどう解釈するかと言えば、それまでは領国主の毛利氏の上位にあった厳島神社の神慮が、秀吉の統一政権下では毛利氏という政治権力に屈した、つまり統制下に位置付けられて毛利氏の権力維持のために利用される立場に変わったものと考えられます。

    宮島 豊国神社
    中央にある御神座上部には唯一天井板が張られ、賽銭箱やおみくじも用意され、ここだけは他とは違う空間になっています。また、御神座の左右には、年代物の杓子が沢山奉納されています。

    本能寺の変の後、毛利輝元は羽柴秀吉と和睦しました。あまり知られていませんが、輝元はその時に秀吉に謁見を請い、厳島神社の宝蔵の大内家5名剣のうち「荒波」と「乱れ髪」を献上しています。神社側への論理は、毛利(=「国家」)の「御用」 としています。つまり、輝元は、秀吉の天下の下で毛利が本当に安堵されるのか不安と危機感を抱き、厳島の神物を請け出して秀吉に媚びたのです。しかし、中世には厳島神社への寄進物は神の物として扱われ、例え足利将軍家が見たいと言っても神社側は首を立てに振ることはなかったそうです。
    この事実をどう解釈するかと言えば、それまでは領国主の毛利氏の上位にあった厳島神社の神慮が、秀吉の統一政権下では毛利氏という政治権力に屈した、つまり統制下に位置付けられて毛利氏の権力維持のために利用される立場に変わったものと考えられます。

  • 宮島 豊国神社<br />宮島らしい大杓子も見どころです。<br />豊国神社は、元々はお経を唱えるために造られたましたが、秀吉の急死によって未完成となり、江戸時代には歓楽地となった宮島に多くの人々が往来し、夏の納涼の場や土産物売り場に使われたそうです。また、日清戦争では、帰還した将兵たちの臨時病院にも使われたそうです。更には、戦後はダンスパーティーの会場にもなったそうですから、吃驚ポンです!現在風に言えば多目的ホールと言った感じでしょうか?<br />このように、秀吉が建てた未完の遺産は神様のお膝元で多くの人々が交流する場となりました。聖と俗がうまく融合した、宮島の数奇な歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

    宮島 豊国神社
    宮島らしい大杓子も見どころです。
    豊国神社は、元々はお経を唱えるために造られたましたが、秀吉の急死によって未完成となり、江戸時代には歓楽地となった宮島に多くの人々が往来し、夏の納涼の場や土産物売り場に使われたそうです。また、日清戦争では、帰還した将兵たちの臨時病院にも使われたそうです。更には、戦後はダンスパーティーの会場にもなったそうですから、吃驚ポンです!現在風に言えば多目的ホールと言った感じでしょうか?
    このように、秀吉が建てた未完の遺産は神様のお膝元で多くの人々が交流する場となりました。聖と俗がうまく融合した、宮島の数奇な歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

  • 宮島 豊国神社<br />壁から突き出したような舟の絵馬が奉納されています。<br />その下には、管弦祭で使用される伝馬船のミニチュアもあります。<br />古来より宮島が海運の要衝であったことを窺わせます。<br />神社でよく見かける願いごとを書く絵馬とは異なり、天井に張り巡らされた梁という梁に畳3枚分程もある絵馬が飾られています。ほとんどは凡人には意味すら判らない図柄ばかりですが、絵馬は120枚以上あり、種類もバラエティー豊かです。庶民の願いも絵馬の種類と同じくらい多彩だったのでしょう。

    宮島 豊国神社
    壁から突き出したような舟の絵馬が奉納されています。
    その下には、管弦祭で使用される伝馬船のミニチュアもあります。
    古来より宮島が海運の要衝であったことを窺わせます。
    神社でよく見かける願いごとを書く絵馬とは異なり、天井に張り巡らされた梁という梁に畳3枚分程もある絵馬が飾られています。ほとんどは凡人には意味すら判らない図柄ばかりですが、絵馬は120枚以上あり、種類もバラエティー豊かです。庶民の願いも絵馬の種類と同じくらい多彩だったのでしょう。

  • 宮島 豊国神社<br />1809(文化6)年に大坂の絵師 藍江中直(中井藍江)が描いた「鍾馗の図」です。<br />中国の官人衣装を着け、ものすごい形相をした鍾馗が、悪鬼の目をえぐり取って退治する様子を生々しく描いています。

    宮島 豊国神社
    1809(文化6)年に大坂の絵師 藍江中直(中井藍江)が描いた「鍾馗の図」です。
    中国の官人衣装を着け、ものすごい形相をした鍾馗が、悪鬼の目をえぐり取って退治する様子を生々しく描いています。

  • 宮島 豊国神社<br />角がないので鬼ではなく、浮彫の天狗面だそうです。<br />といっても、不気味さは横綱級ではないでしょうか。<br />江戸時代、1861(天保12)年に奉納されたものだそうです。

    宮島 豊国神社
    角がないので鬼ではなく、浮彫の天狗面だそうです。
    といっても、不気味さは横綱級ではないでしょうか。
    江戸時代、1861(天保12)年に奉納されたものだそうです。

  • 宮島 豊国神社<br />一番古い絵馬は、1646(正保3)年に奉納された石川丈山の書『六勿銘 既飽』だそうです。丈山といえば、京都の詩仙堂を建てた江戸時代初期の文人です。詩仙堂にも『六勿銘』が掲げられています。丈山はこの言葉を座右の銘として慎ましい生活を心がけ、90歳の天寿を全うしました。<br /><br />詩仙堂の『六勿銘』はこちらを参照ください。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=36299480

    宮島 豊国神社
    一番古い絵馬は、1646(正保3)年に奉納された石川丈山の書『六勿銘 既飽』だそうです。丈山といえば、京都の詩仙堂を建てた江戸時代初期の文人です。詩仙堂にも『六勿銘』が掲げられています。丈山はこの言葉を座右の銘として慎ましい生活を心がけ、90歳の天寿を全うしました。

    詩仙堂の『六勿銘』はこちらを参照ください。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=36299480

  • 宮島 豊国神社<br />ウミガメの甲羅でしょうか?<br />このようなものまで奉納されているとは…。

    宮島 豊国神社
    ウミガメの甲羅でしょうか?
    このようなものまで奉納されているとは…。

  • 宮島 豊国神社<br />1839(天保10)年に伊予今治の絵師 山本雲渓が描いた「武松虎退治の図」です。<br />モチーフは、中国の明代に執筆された『水滸伝』の一場面です。故郷への帰途、武松が偶然出会った景陽岡の人食い虎を退治したという逸話です。

    宮島 豊国神社
    1839(天保10)年に伊予今治の絵師 山本雲渓が描いた「武松虎退治の図」です。
    モチーフは、中国の明代に執筆された『水滸伝』の一場面です。故郷への帰途、武松が偶然出会った景陽岡の人食い虎を退治したという逸話です。

  • 宮島 豊国神社<br />これは、干支恵方盤と呼ばれる方位盤です。<br />中国の春秋戦国時代に生まれた干支は、陰陽五行説が起源です。本来は十干と十二支を組合せて六十干支と呼びます。また、干支は、歳月や時間を表すだけではなく、方位などを示すためにも使われ、吉凶をもたらす方位神の占い(恵方巻きなど)にも用いられるようになりました。<br />今年の干支は申ですが、「申」という漢字は元々は稲妻を表す象形文字であり、神がかり的な意味合いを持っています。また、「申」の本来の意味は「伸ばす」で、草木が十分に伸びきった時期で、実が成熟して香りと味がそなわり固く殻に覆われていく時期を表しています。そんなイメージ同様に、今年一年が何事につけ熟成に向けた年となって欲しいものです。<br />俗説によれば、丙申生まれ(2016年に還暦)の人は、「赤猿や火猿と言われ、欲深く、我も強い。大望を抱くが、実現するための勇気に欠ける」と言われます。尚、丙申生まれには、豊臣秀吉がいます。秀吉の人となりから、丙申生まれの性格付けがなされたのではないかと疑ってしまうほどです。

    宮島 豊国神社
    これは、干支恵方盤と呼ばれる方位盤です。
    中国の春秋戦国時代に生まれた干支は、陰陽五行説が起源です。本来は十干と十二支を組合せて六十干支と呼びます。また、干支は、歳月や時間を表すだけではなく、方位などを示すためにも使われ、吉凶をもたらす方位神の占い(恵方巻きなど)にも用いられるようになりました。
    今年の干支は申ですが、「申」という漢字は元々は稲妻を表す象形文字であり、神がかり的な意味合いを持っています。また、「申」の本来の意味は「伸ばす」で、草木が十分に伸びきった時期で、実が成熟して香りと味がそなわり固く殻に覆われていく時期を表しています。そんなイメージ同様に、今年一年が何事につけ熟成に向けた年となって欲しいものです。
    俗説によれば、丙申生まれ(2016年に還暦)の人は、「赤猿や火猿と言われ、欲深く、我も強い。大望を抱くが、実現するための勇気に欠ける」と言われます。尚、丙申生まれには、豊臣秀吉がいます。秀吉の人となりから、丙申生まれの性格付けがなされたのではないかと疑ってしまうほどです。

  • 宮島 豊国神社<br />奉納絵馬の中に『碁盤石置と活花の図』があります。明治期に囲碁関係者が奉納したもので、盤上の棋譜は天保年間に行われた囲碁の名勝負「松平家の碁会」での本因坊丈和と赤星因徹による「吐血の局」です。次の一手をどう打てば良いのかを考えさせる、碁の問題になっているようです。<br /><br />争碁をせずに政治的な力を利用して名人碁所になった丈和に対し、丈和の名人碁所失脚を狙う井上因碩が企画した松平家の碁会での勝負です。因碩は弟子の因徹を戦わせ、丈和を隠居に追い込む目論見でした。師の期待を一身に受け、病弱な因徹の精神的負担は相当なものだったと察せられます。勝負は、丈和の中押し勝ちでした。「吐血」とは穏やかではありませんが、肺結核を患っていた因徹は、投了後吐血昏倒し、その後2ヵ月を待たずに26歳で夭逝したことからこう呼ばれています。

    宮島 豊国神社
    奉納絵馬の中に『碁盤石置と活花の図』があります。明治期に囲碁関係者が奉納したもので、盤上の棋譜は天保年間に行われた囲碁の名勝負「松平家の碁会」での本因坊丈和と赤星因徹による「吐血の局」です。次の一手をどう打てば良いのかを考えさせる、碁の問題になっているようです。

    争碁をせずに政治的な力を利用して名人碁所になった丈和に対し、丈和の名人碁所失脚を狙う井上因碩が企画した松平家の碁会での勝負です。因碩は弟子の因徹を戦わせ、丈和を隠居に追い込む目論見でした。師の期待を一身に受け、病弱な因徹の精神的負担は相当なものだったと察せられます。勝負は、丈和の中押し勝ちでした。「吐血」とは穏やかではありませんが、肺結核を患っていた因徹は、投了後吐血昏倒し、その後2ヵ月を待たずに26歳で夭逝したことからこう呼ばれています。

  • 宮島 豊国神社<br />「吐血の局」の奉納絵馬に対峙して名誉棋聖 藤沢秀行氏(2009年没)の書が掲げられています。<br />氏は、豪放で緻密(ちみつ)な棋風で一時代を築いた希代の碁打ちでした。この絵馬は、1995年に「厳島神社御鎮座式年千四百年祭奉納囲碁大会」が開かれた際に奉納されたもので、囲碁だけでなく書家としても高名な方でした。<br />「磊磊(らいらい)」とは、石が多く積み重なっている様を表し、心が広く、小事に拘らないという意味だそうです。流石に深いな〜。この絵馬を拝むと、囲碁が強くなるそうです!

    宮島 豊国神社
    「吐血の局」の奉納絵馬に対峙して名誉棋聖 藤沢秀行氏(2009年没)の書が掲げられています。
    氏は、豪放で緻密(ちみつ)な棋風で一時代を築いた希代の碁打ちでした。この絵馬は、1995年に「厳島神社御鎮座式年千四百年祭奉納囲碁大会」が開かれた際に奉納されたもので、囲碁だけでなく書家としても高名な方でした。
    「磊磊(らいらい)」とは、石が多く積み重なっている様を表し、心が広く、小事に拘らないという意味だそうです。流石に深いな〜。この絵馬を拝むと、囲碁が強くなるそうです!

  • 宮島 豊国神社<br />一代前(江戸末期)の大鳥居の神名額です。<br />この「伊都岐島大明神」と記された扁額は、本殿側に向けて掲げられていたものです。江戸時代後期には何十年もの間、大鳥居の無かった時代があったと伝えられていますから、扁額の損傷はその話を裏付けるものなのかもしれません。

    宮島 豊国神社
    一代前(江戸末期)の大鳥居の神名額です。
    この「伊都岐島大明神」と記された扁額は、本殿側に向けて掲げられていたものです。江戸時代後期には何十年もの間、大鳥居の無かった時代があったと伝えられていますから、扁額の損傷はその話を裏付けるものなのかもしれません。

  • 宮島 豊国神社<br />1818(文化15)年に狩野派の門人 宗真斉信広が描いた「玄徳・関羽・張飛の図」です。<br />『三国志演義」』の一場面で、義兄弟の契りを結んだ玄徳・関羽・張飛の3人を描いています。<br />

    宮島 豊国神社
    1818(文化15)年に狩野派の門人 宗真斉信広が描いた「玄徳・関羽・張飛の図」です。
    『三国志演義」』の一場面で、義兄弟の契りを結んだ玄徳・関羽・張飛の3人を描いています。

  • 宮島 豊国神社<br />北西の端には、江戸在住の画家 長谷川雪提筆「会津合戦凱旋記念の図」なる絵馬が掲げられています。<br />額の右には「奥州会津征討の役芸州戦士」と記され、左には「応変隊戦勝の為之を掛ける」とあります。廿日市市須賀にある松風山潮音寺は、江戸末期、農兵などの庶民兵と武士の混成部隊の支援軍「応変隊」が広島で始めて結成された場所です。応変隊は、討幕軍として鳥羽・伏見の戦いにも参加し、その後、東北へ転戦して会津や庄内の戦にも参加しています。<br />この絵馬は、応変隊が明治元年の会津若松城総攻撃に参加し、これに勝利して凱旋したことを神殿の前に座して報告する様子を描いています。<br />一方、会津藩寄りに見方を変えれば、会津藩は京都で長州や薩摩藩のテロリストたちを取り締まる重責を担っていました。討幕を大義名分にしたテロリストとの戦いが如何に大変なことだったかは、現在のISによる国際テロから推して知るべしです。それを「征討」などと言われてしまうとは、 まさに勝てば官軍、歴史は勝者が創るの典型と言えます。

    宮島 豊国神社
    北西の端には、江戸在住の画家 長谷川雪提筆「会津合戦凱旋記念の図」なる絵馬が掲げられています。
    額の右には「奥州会津征討の役芸州戦士」と記され、左には「応変隊戦勝の為之を掛ける」とあります。廿日市市須賀にある松風山潮音寺は、江戸末期、農兵などの庶民兵と武士の混成部隊の支援軍「応変隊」が広島で始めて結成された場所です。応変隊は、討幕軍として鳥羽・伏見の戦いにも参加し、その後、東北へ転戦して会津や庄内の戦にも参加しています。
    この絵馬は、応変隊が明治元年の会津若松城総攻撃に参加し、これに勝利して凱旋したことを神殿の前に座して報告する様子を描いています。
    一方、会津藩寄りに見方を変えれば、会津藩は京都で長州や薩摩藩のテロリストたちを取り締まる重責を担っていました。討幕を大義名分にしたテロリストとの戦いが如何に大変なことだったかは、現在のISによる国際テロから推して知るべしです。それを「征討」などと言われてしまうとは、 まさに勝てば官軍、歴史は勝者が創るの典型と言えます。

  • 宮島 豊国神社<br />このような立体的な馬の絵馬も奉納されています。<br />古来から馬は神の乗り物として神聖視され、祈願の際に生きたまま神に奉納されたそうです。生き馬の代りに板に馬の絵を描いて奉納したのが絵馬の起源だそうです。絵馬が、一般大衆に広まったのは鎌倉時代以降と言われています。

    宮島 豊国神社
    このような立体的な馬の絵馬も奉納されています。
    古来から馬は神の乗り物として神聖視され、祈願の際に生きたまま神に奉納されたそうです。生き馬の代りに板に馬の絵を描いて奉納したのが絵馬の起源だそうです。絵馬が、一般大衆に広まったのは鎌倉時代以降と言われています。

  • 宮島 豊国神社<br />豊国神社からは、厳島神社を見下ろすことができます。<br />とどのつまり、秀吉はこれがしたかったのかもしれません。こうしたことを憚らずに平気でできたのが秀吉です。

    宮島 豊国神社
    豊国神社からは、厳島神社を見下ろすことができます。
    とどのつまり、秀吉はこれがしたかったのかもしれません。こうしたことを憚らずに平気でできたのが秀吉です。

  • 宮島 厳島神社<br />境内に鹿が迷い込んで皆さん心配されている様子です。<br />「潮が満ちたら溺れてしまう」とでも思っておられるのでしょうか?<br />この東回廊にある手鏡のような形をした所が鏡の池です。絶えず清水が湧き上がり、創建時一夜にしてこの池ができたのはこの造営がご神慮に適ったためであると人々が喜んだと言われています。

    宮島 厳島神社
    境内に鹿が迷い込んで皆さん心配されている様子です。
    「潮が満ちたら溺れてしまう」とでも思っておられるのでしょうか?
    この東回廊にある手鏡のような形をした所が鏡の池です。絶えず清水が湧き上がり、創建時一夜にしてこの池ができたのはこの造営がご神慮に適ったためであると人々が喜んだと言われています。

  • 宮島 岩村もみじ屋<br />つぶ餡入りもみじ饅頭の元祖です。<br />創業は明治末期とされ、現在20社ほどあるもみじ饅頭メーカの中で古手の部類になります。<br />もみじ饅頭にはこし餡入りしかなかったのですが、1934年に高松宮が厳島を訪問された際、「つぶ餡はないのか」と店主 岩村栄吉に所望したのがきっかけとなり、「つぶもみじ饅頭」が誕生したそうです。「つぶもみじ」は、1988年の第21回全国菓子大博覧会で名誉会長賞を受賞しています。また、絶品餡は特許を取得しており、通常の2倍もの手間隙をかけて灰汁抜きをしているため、甘さ控えめで美味しくなるそうです。現在でも「つぶ餡」のもみじ饅頭は希少価値があります。<br />お店の場所は厳島神社を挟んで商店街の反対側になります。売り切れ次第、閉店になりますので、早目に行かれることをお勧めします。<br />岩村もみじ屋のマップです。<br />http://iwamura-momijiya.com/annai.htm<br /><br />この続きは、早春賦 西国放浪記⑪宮島(大聖院・多宝塔)でお届けします。

    宮島 岩村もみじ屋
    つぶ餡入りもみじ饅頭の元祖です。
    創業は明治末期とされ、現在20社ほどあるもみじ饅頭メーカの中で古手の部類になります。
    もみじ饅頭にはこし餡入りしかなかったのですが、1934年に高松宮が厳島を訪問された際、「つぶ餡はないのか」と店主 岩村栄吉に所望したのがきっかけとなり、「つぶもみじ饅頭」が誕生したそうです。「つぶもみじ」は、1988年の第21回全国菓子大博覧会で名誉会長賞を受賞しています。また、絶品餡は特許を取得しており、通常の2倍もの手間隙をかけて灰汁抜きをしているため、甘さ控えめで美味しくなるそうです。現在でも「つぶ餡」のもみじ饅頭は希少価値があります。
    お店の場所は厳島神社を挟んで商店街の反対側になります。売り切れ次第、閉店になりますので、早目に行かれることをお勧めします。
    岩村もみじ屋のマップです。
    http://iwamura-momijiya.com/annai.htm

    この続きは、早春賦 西国放浪記⑪宮島(大聖院・多宝塔)でお届けします。

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