2016/03/02 - 2016/03/04
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阿蘇美忍さん
北野天満宮は京都市上京区にある神社で、旧称は北野神社。
二十二社(下八社)の一社。
旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
神紋は「星梅鉢紋」。
通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。
福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。
近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。
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延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、
都では落雷などの災害が相次いだ。 -
これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。
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そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。
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天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。
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それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって
道真を祀る社殿が造営された。 -
後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
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永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。
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正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
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中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。
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だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する。
(文安の麹騒動) -
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
境内西側に史跡「御土居」がある。 -
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
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1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。
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旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。
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道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられている。
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このような菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供」とよばれる特殊神饌が献供されている。
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これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされている。
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2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されている。
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牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。
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伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。
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この神饌では白梅と紅梅を男と女に見立て、土器の上に仙花紙を筒状に丸めて乗せ、玄米を流し入れた土台にそれぞれの梅の枝が挿し込まれ奉げられる。
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白梅を挿したものが42個作られこれを「男の御供」、紅梅を挿したものを33個作り、「女の御供」と呼んでいる。
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また、菅原道真が大宰府へ流された際に帯同した従者が薨去以後遺品を京都へ持ち帰り、鎮魂のために毎年収穫された米を奉げていたという伝承に基づき、大判御供、小判御供という形で現代においても神事が受け継がれており、その従者達の末裔である七保会の面々によって御調が行われている。
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この梅花祭は全国でも珍しく、貞明皇后参拝の古例に従って、天皇からでなく皇后から幣帛料が上げられている。
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平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。
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現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。
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南北朝時代(14世紀半ば)から内裏の所在地として定着し、
明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869年)、
明治天皇の東京行幸時まで存続した。
明治以降は京都皇宮とも称される。 -
土御門東洞院殿は、元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。
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当初は一町四方の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。
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内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。
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特に寛政度の再建は、裏松光世による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式となった。現存の内裏は幕末の安政2年(1855年)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。
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なお、南朝と呼ばれることになる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。
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現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、幕末の慶應年間に今日の敷地面積が確定したものである。
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1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。
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明治から大正にかけ、内侍所(賢所)や対屋(女官宿舎)などの建物が撤去されたが、1945年(昭和20年)には、総建築面積の半数近くが建物疎開(空襲による類焼防止)の名のもとに解体された。また、1954年(昭和29年)には、近隣で打ち上げられた花火が飛来して小御所が焼失している。
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その後1970年代前半にかけて、焼失した小御所や戦時中に解体された渡廊下などの一部が復元され、現在に至る。
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京都御所に隣接して京都大宮御所、仙洞御所がある。
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京都大宮御所は、後水尾天皇の中宮の東福門院のために造進されたのに始まり、現在の建物は英照皇太后(孝明天皇女御)のために造営され、慶応3年(1867年)に完成したものである。現在は天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の京都府への行幸啓(旅行)の際の宿泊や国賓の宿泊に使用されている。
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仙洞御所は後水尾上皇の退位後の住まいとして造られたものだが、現在は庭園と茶室を残すのみである。
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現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されており、これらの周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」と呼ぶ事が多い。
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京都御所に現存する主な建物としては、紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿、迎春、御涼所、皇后宮御常御殿、若宮・姫宮御殿、飛香舎等が有る。
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社伝によれば、安芸国厳島社を崇敬した平清盛が、摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものという。
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鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園の1部を構成するものともなった。
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明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京へ移築されたが、当神社はそのまま残された。
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昭和2年(1927年)には社殿が改築されている。
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現在の景観であるが、当神社が当初から池中の中島に鎮座していたかは不明であるものの、下述する社前の鳥居が移築された明和8年(1771年)には池は穿たれていたので、その頃までには遡れる。
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社前に至る擬宝珠欄干付きの「高倉橋」は九条家移築後に架橋されたものという。
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宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命を主祭神に、倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀する。
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主祭神は『日本三代実録』に、筑前国の宗像神社(現宗像大社)と鎮座地を異にするが「同神」であると記されたり、「同神別社」であると記されている。
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配祀神の天岩戸開神も国史見在社(天石戸開神)を合祀したもので、『花山院家記』(『山城名勝志』所引)には合祀前の状況を「天石戸開神。
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大石也。霊有り」と伝えており、また倉稲魂神は藤原時平によって合祀されたと伝える。
現在、御苑内の西南(裏鬼門)にあたる位置に鎮座するため、方除けの信仰を集めている。 -
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閑院宮家は、見宮家・宮家・栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家の1つ。
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東山天皇の皇子、直仁親王を始祖として1710年に創立されました。
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創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失しています。
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この場所が閑院宮家の邸宅として使用されたのは、同宮家が東京に移った明治10年までで、その後は華族会館や裁判所として利用され、明治16年に旧宮内庁京都支庁が設置された際に、現在の建物に新築されました。
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閑院宮邸跡の建物と庭園は当時の面影を今に伝えています。
敷地面積は約9500平方メ-トルあり、築地塀に囲まれています。
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御苑内にあり、広々とした空間、建物が何時でも自由に見学できる。
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東福寺は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。
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山号を慧日山と号する。
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本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。
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京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。
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明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。
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東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにある。
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この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。
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嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。
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5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。
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高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。
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東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。
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これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。
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九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。
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円爾は駿河国栃沢(現静岡市葵区)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範に入門。
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印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国した。
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円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられた。
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東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。
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その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家などの援助で再建されてきた。
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昭和51年(1976年)韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き揚げられた(新安沈船)が、積荷木簡の中には「東福寺」「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船(寺社造営料唐船)であることが推測されている。
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近代に入って明治14年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。
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現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。
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東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、『元亨釈書』の著者である虎関師錬、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆などが著名である。
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平成26年6月、国の名勝に指定された[2]。同年10月、完成当時の庭園が復元された。
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