2016/02/06 - 2016/02/07
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Weiwojingさん
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江戸幕府の切支丹追放令で多くの日本人宗徒がルソン島へ流された。その中でも高山右近( 1552ー1615 )と内藤如安 ( ないとう じょうあん )( 1550?ー1626? ) は切支丹大名としてよく知られた人物たちであるが、マニラでの彼らの消息をたどるのはそう簡単ではない。
1612年、徳川幕府の切支丹禁教令が出され、高山右近と内藤如安は家族や家来また宣教師たちと共に呂宋島(現在のフィリピン)に1614年に追放され、2か月の船旅の後マニラに到着した。スペイン人総督ファン・デ・シルバを初め多くの人々の歓迎を受けた。ところが、右近は長旅の疲れや高齢のためもあって到着して40日ほどして熱病にかかり、63歳で亡くなってしまった。葬儀は1615年2月イントラムロス内の聖アンナ教会で執り行われたが、今はこの教会は現存していない。その後、右近の家族は日本に戻ることを許された。
マニラ市内のパコ公園近くにPlaza Dilao( プラザ・ディラオ )( 日比友好公園 )という小さな公園があり、ここには高山右近像が作られていて、この周辺には400年前には日本人町があったと言われている。
一方、内藤如安については、高山右近と同様に戦国武将として生き抜いた人物で、 Church of San Vicente De Paul ( 聖ヴィセンテ・デ・パウル教会 ) に彼に関する記念碑があり、ここで亡くなったと記されている。彼はこの教会周辺のイントラムロス(旧市街地)にサンミゲルという日本人町を築いた。最盛期には3000人もの日本人が住んでいたそうだ。しかし、今は全くその様子をしのぶことは出来ない。
今回、こうした2人の足跡を求めてマニラの街をいささか歩いてみた。
* カバーで紹介している画像は、上の右側が高山右近を描いた絵(中央)と左側は内藤如安を描いた『聖書武将の生々流転』( 楠戸義昭著 )という書で、今回の如安を知るうえで大いに役に立った。下は右が高山右近像(マニラ)、左は内藤如安の京都府丹波にある記念碑。
- 旅行の満足度
- 4.5
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大阪府高槻市の高槻城址公園内にある高山右近の銅像。マニラにも同じようなポーズをとった右近の銅像があり、これは同じ作者によるものと思われる。作者は彫刻家の西森方昭による。
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マニラのプラザ・ディラオ(日比友好公園)は小さな公園であるが、ここには高槻市高槻城址公園にある銅像と同じものがある。この周辺はかって日本人町があったところである。
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大きな十字架を手にした高山右近は何を見つめているのだろうか。はるかかなたの日本だろうか。
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角度を変えて写真を撮ってみたが、上記の写真と印象が全然違う。
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Justo, Ukon Takayama と記された碑がある。
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日比友好公園には高山右近に関する碑があり、そこには「ユスト高山右近」と名前が記されている。「ユスト(又は、ジュスト)」というのは、彼の霊名で、クリスチャンネームである。ポルトガル語で、「正義の人」と言うそうだ。
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この公園には高山右近に関する碑だけでなく、かつてこの周辺には日本人町があったことを示す碑もあり、右近像の近くにこのようなモニュメントがひっそりと置かれている。
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“Philippiens-Japanese Friendship Tower“と書かれた碑がひっそりと掲げられている。
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次に移動したのは、内藤如安にゆかりのある教会である。教会の名は Church of San Vicente de Pual ( 聖ヴィセンテ・デ・パウル教会 ) といい、如安の終焉の地であった。もちろん教会の建設は19世紀になってからのもので、彼の時代には教会はなかった。
太平洋戦争の末期には( 1945年 )日本軍の攻撃を受けてかなり破壊を受けたそうである。 -
ここが教会の入り口であるが、教会に入る前に左わきにある内藤如安に関する記念碑を見てみたい。
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これが内藤如安に関する記念碑である。中央に大きな十字架と右のほうに碑文がある。ただし、これは如安の墓ではない。
内藤如安はクリスチャン・ネームをドン・ジユアンといい、如安はジュアンの音読みである。 -
碑文には“First Japanese Chrisitan Community“と書かれ、その下に英語と日本語で記された文章がある。まずは日本語の説明を紹介したい。
キリシタン大名内藤如安こと内藤飛騨守忠俊は、今を去ること約400年前戦国時代の足利、織田、豊臣、徳川の各時代を生き抜いた丹波の国の領主で、その本拠地八木城の城主であった。ところが、キリシタンなるがゆえに流転の生活を送り、1614年高山右近らと共に、徳川幕府の弾圧によりるそんの国マニラに追放された。然し、マニラでは祝福と共に歓迎され、マニラの人々に敬愛されたという。そして、12年後マニラのこの地に自ら築いた日本人町サンミゲールで、現地の人々に惜しまれつつ、波乱万丈の生涯を閉じたのであった。享年76歳であった。
ここに彼がキリストの良き下僕、聖者としての徳を讃え、生国丹波八木城跡にある顕彰碑と同じ碑をここに建立する。
2002年 復活の主日
tところが、英文の説明は日本語のものと全然違う(驚いた)。 -
この記念碑と同じものが如安の出身地京都府丹波市にもある。如安との関係でマニラと丹波市は姉妹都市協定を結んでいる。
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教会入り口に戻ると、この教会の由来を示す碑が掲げられている。これによると、
この教会は1883年に建設され、1898年から1909年まで Paco の 地区教会( Parish Curch )として使われた。さらに現在の San Vicente De Paul教会の地区教会として1909年に再建されたが、ラザリスト宣教会とSisters of Charity( 慈愛の姉妹会 )のフィリピン来訪50周年記念に1912年完成した。 -
教会内部をしばらく見てみたい。ここは正面祭壇部分で、丸天井から明かりが差し込み、明るい雰囲気を醸し出している。
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十字架を背負うキリスト像がある。
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祭壇正面に大きなマリア像がある。
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この教会はステンドグラスが素晴らしい。礼拝堂の左右に美しいステンドグラスが並ぶように設置されている。
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イエス・キリスト生誕を描いた一枚。イエスを膝に置いた母親マリアと父親ヨセフが描かれ、その前に多くの人々が拝みに集まっている。
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これはマリアの死を描いたもので、周りの長老たちに見守られている様子を描いている。
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昇天したマリアの姿を描いたステンドグラス。どれも光と色の組み合わせが見事であるが、ステンドグラスは他にもまだたくさんある。
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教会を出て、正面からその全体像を写真に撮ろうとしたら、後ろに聳え立つ高層ビルの影響で教会だけの写真が撮れなかった。
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背後に高層建築がないころの昔の写真を紹介したい。上の写真と比べると、建物そのものは同じでも、周囲がすっかり変わってしまい、落ち着きのある、静かな雰囲気のある教会の良さが感じられない。
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