2006/12/30 - 2007/01/02
792位(同エリア1493件中)
マローズさん
[廃線跡終点と源平の二つの合戦跡]
3日目は、下津井電鉄廃線跡(風の道)の残りの4割部分を辿った後、源平史跡を巡り、4日目は午前中、他の源平史跡を巡った後、午後から降雨になったので、探訪を終え、帰路に着いた。
3日目、新庄八幡宮南の道路路肩に駐車し、児島インター交差点から北上、その広い道路と廃線跡が交差する十字路まで行き、西に折れて廃線跡を辿る。道の両側に支柱のある架線柱が次々と現れる。
国道430号を横断するとまもなく、倉庫前にある「備前赤崎駅」跡。
踏切跡をいくつも越えて行き、左手に味野郵便局を見送るとまもなく終点の児島駅跡(現、下電旅行センター)だが、手前にフェンスが設けられているため、駅舎跡自体に行くことはできない。
尚、一日目の旅行記でも述べたように、ここの児島駅は昭和47年、味野-茶屋町間が廃線となった際、旧児島(味野)駅が移動してきた、所謂「新・児島駅」。昭和47年以前の廃線跡は、文化センター交差点の歩道橋を抜けると車道になり、旧児島駅跡である市営味野駐車場を過ぎると、小田川を渡り、「からおけ喫茶」前から沿線住民の車のみ通行可の車道となっている。
駐車場所へと引き返す前に、市営味野駐車場南にある味野公園に寄った。ここは瀬戸大橋に因んだ「橋の公園」で、全国各地にある歴史的な橋や奇橋を再現している。中には徳島県の祖谷地方にある手動ロープウェイ「野猿」や、歩くたびにくねる橋もあって面白い。
公園西にある児島市民交流センターは元瀬戸大橋架橋記念館で、地面から階段が屋根へと続いており、かつては屋根を歩けるようになっていた。
駐車場所まで来た道を引き返すと、次は源平・藤戸合戦史跡を巡るため、倉敷市粒江へと移動する。
寿永3年(1184)春、義経の活躍で平家に圧勝した源氏は平家を追撃すべく、9月12日、源範頼を総大将とする3万の兵を以て山陽道を西下した。これを察知した平家軍は平資盛率いる五百余艘の船団が当時は島だった児島に向かい、殿山と正盛山に陣を敷いた。源氏軍は藤戸海峡を挟んだ高坪山に佐々木盛綱率いる軍勢、日間山に梶原景時勢が陣を構えた。そして12月7日、源氏軍が海峡を渡って戦が始まる。これを藤戸合戦という。
藤戸合戦の一年前の閏10月1日には、七百余の木曽義仲軍と一千艘余りの平知盛や教経らが指揮する平家軍が玉島大橋近辺で「水島海戦」を繰り広げる。この日、平家軍は日食という自然現象を味方にして圧勝する。
この日、粒江・藤戸地区の藤戸合戦史跡を巡り、最終の4日目は藤戸合戦史跡の一部と水島海戦遺跡を巡ったが、途中で降雨があったため、早々に切り上げ、旅を終えた。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通手段
- 自家用車
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架線柱が残る廃線跡
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備前赤崎駅跡
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新・児島駅跡手前のフェンスがある所
風の道 (下津井電鉄廃線跡) 名所・史跡
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新・児島駅跡の下電(下津井電鉄)旅行センター
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旧児島駅跡の市営味野駐車場
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下津井電鉄廃線跡も収録した廃線ガイド書(愛媛新聞記事)
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味野公園の野猿(手動ロープウェイ)
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味野公園内の交差する橋
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味野公園の屋形橋
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旧瀬戸大橋架橋記念館の児島市民交流センター
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粒江と藤戸の境界に殿山と正盛山を擁する丘陵がある。粒江松尾山にある篝地蔵の地に平家の本陣があり、篝火を焚いていたという。
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先陣庵・・・盛綱は海峡を渡って児島側に上陸した地に、先陣を記念して天暦山先陣寺を建立し、合戦に於ける源平双方の戦死者を弔った。現在は西明院境内に先陣庵として遺跡を留めている。
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浮州岩跡碑・・・昔、この広場は藤戸海峡に浮かぶ浮島で、浮州岩という岩があった。合戦で先駆けをした佐々木盛綱は前日、藤戸海峡の中の浅瀬を地元の浦男「与介」に教えて貰っていた。しかし盛綱は他の武者にこの男が口外すると、自分が先駆けできなくなる可能性があると思い、与介を斬殺してしまった。
その浦男の遺体が浮州岩に流れ着いたという。
後年、豊臣秀吉が聚楽第の庭石を全国から探していたところ、この浮州岩が目にとまり、京へ運ばれた。そののち、醍醐寺三宝院の庭に移され、「藤戸石」と呼ばれた。 -
藤戸寺・・・佐々木盛綱が藤戸合戦の戦死者の追善供養を行ったとされる寺。合戦から60年後の寛元元年(1243)、境内に合戦戦死者の追善供養塔が建立された。
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藤戸合戦追善供養塔である花崗岩の「石造藤戸寺五十塔婆」。総高355cm。
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藤戸寺から経ヶ島に行く途中に架かる盛綱橋。海峡を渡る盛綱像のレリーフがある。
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盛綱橋から見た風景だったか?
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経ヶ島・・・この地も藤戸海峡上の島だった。岩山の頂上には盛綱が合戦の追善供養をした際、建立した宝篋印塔と魚塚がある。前者の地下には盛綱の経文が埋められており、後者は盛綱が斬殺した与介の供養塔だと言われている。
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天城陣屋(御茶屋)跡碑・・・寛永16年(1639)、下津井城が廃城となった際、城主で岡山藩家老の池田由成(大石内蔵助の祖父)は、天城に陣屋を構えて移った。県立倉敷天城高校の地が陣屋跡。尚、陣屋門が近くの静光寺に移築されている。
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高坪山の南に佐々木谷一枚畑という地があるが、そこが源氏の陣屋跡。そこに「乗り出し岩」という岩がある。ここから盛綱は海峡に馬を乗入れ、与介に教えて貰った浅瀬を渡って合戦の先陣を切った。
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笹無山・・・合戦前日、佐々木盛綱は家来を連れ、母と二人暮らしの漁師・与介の家を訪ねた。盛綱は海峡を馬で渡れる浅瀬を教えてくれるなら、これをやろうと、与介の目の前に小袖や白鞘の短刀を置いた。与介はすぐさま裸になると、海峡へ入り、浅瀬のルートを示した。浮州岩側まで与介が渡った時、盛綱は与介を斬殺した。
それを知った与介の母は半狂乱になって裏の笹の生えた山に登り、「佐々木憎けりゃ笹まで憎い」と言って、笹を手当たり次第にちぎり始めた。そして笹を一本残らず引きちぎってしまった。その後、誰言うともなく、「笹無山」と呼ばれるようになった。 -
藤戸合戦時の源氏本陣・日間山法輪寺・・・源範頼が本営を置いた寺。古代から中世には一山五院十二坊を擁する備中南部の有力寺院だった。平安時代には小野小町が祈願して病気が平癒した。本堂前には小町が植えた10本の竜灯松があった。
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小野小町姿見の井戸・・・小町は采女として宮仕えをしていたが、瘡にかかった。そこで一族の日間の小野春道を頼って来た。そして毎日、法輪寺本尊の薬師如来に病気平癒を祈願した。その際、鏡として利用していた井戸が法輪寺南西の裏山に残っている。
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泉谷大井戸・・・水島海戦の折、常照院を本陣とした源氏は、給水をこの井戸に頼った。
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水島合戦城址碑・・・里見川と溜川の出合からやや下流の玉島港付近が水島合戦場跡。碑は常照院境内にあるが、この付近に義仲軍が陣を敷いていたものと思われる(記憶が定かではないが)。陣屋は当時、乙島にあった。
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常照院
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常照院南の八幡社だったか?
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平家軍の水島海戦時の陣屋は柏島にあった。その付近にも古戦場跡碑が建立されている。板碑上部の黒丸は、平家を勝利に導いた日食をイメージしたもの。平家は日食の知識があったが、源氏軍はそれを知らず、合戦中に日食が始まると狼狽した。「源平盛衰記」には「天にわかに曇りて日の光も見えず、闇の夜の如くになりたれば、源氏軍ども日蝕とは知らず、いとど東西を失って船を退きて、いづち共なく風に随って遁げ行く。平氏の兵共はかねて知りにければ、いよいよ鬨を造り、重ねて攻め戦ふ」とある。
この合戦で平家の士気は上がり、都奪還をせんと福原まで上り、一の谷に陣を敷いた。 -
玉島大橋だったか?
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