2015/03/24 - 2015/03/24
79位(同エリア377件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
第2弾地元を歩こう【自宅~石山寺~京阪石山寺駅/京阪膳所~石山駅】
3週間前、石山駅から石山寺を散策して自宅まで歩きました。新聞の梅の開花情報がやっと〝石山寺〟が〝五分咲き〟になったことを知り、散歩がてらもう一度歩いてみることにしました。
自宅から出発すると、この前とは〝違った発見〟があります。数十年前の小学校の通学路ですが、まだ舗装もされていなかった道もありました。幾度となく春を迎えていますが、〝梅の花〟を見つけたのは新たな発見です。
途中から新たにできた〝多羅川沿い〟の今の通学路を進みます。前回は〝新宮神社〟のわきを通りましたが、今回はバイパス沿いにできた歩道を歩きます。この道は石山寺に向かうときに京滋バイパス石山インターを使うと、車で走る道です。瀬田川沿いに出て左折すると見えてくるのが〝大津市営石山寺駐車場〟。桜や紅葉の時期にはインターからずっと空き待ちの車がつながることもめずらしくありません。
歩きなので大津市営石山寺駐車場横切り、途中〝石山公園〟〝石山貝塚〟の脇をすり抜けて歩くと〝石山寺山門〟に到着します。正式には〝石山寺東大門〟といいますが、運慶・湛慶作の仁王像を両手に見て、順路を歩きます。入口までの参道で色々と〝催し物〟をやっています。先日訪れた〝五四歩でわかる源氏物語〟もそのひとつです。とにかく前回回り切れなかったものを含め、改めて〝石山寺の全体像〟を知るのが今回の目的なので先を急ぎます。
入口を入ったところに〝石光山石山寺全図〟があります。とりあえず〝全体像〟を頭に入れて歩くことにします。改めて石山寺とは…、北緯34度57分37.51秒、東経135度54分20.25秒の滋賀県大津市石山寺1丁目1-1に位置する真言宗東寺派の寺院で、本尊は如意輪観音となっています。天平19年(西暦747年)に聖武天皇の勅願にて良弁上人が開基(創立者)として歴史がはじまりました。石山寺は京都の清水寺、奈良の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三番札所観音霊場第十三番札所になっています。また〝江州三十三番霊場一番札所〟、〝近江三十三観音霊場三番札所〟、〝神仏霊場巡拝の道百四十六番(滋賀十四番)〟にもなっています。
多くの歴史文学に登場することでも知られている石山寺は、清少納言の〝枕草子〝二〇八段(三巻本) 〟には「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」と、また藤原道綱の母の〝蜻蛉日記〟では天禄元年(970年)7月の記事に登場しています。菅原孝標女の〝更級日記〟では、寛徳2年(1045年)に石山寺に参篭したことが書かれています。そして知らない方がいない位有名な話が紫式部の〝源氏物語〟、その着想を得た場所として有名なのは改めて言う必要のないことでしょう。
伝承では寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、〝須磨〟と〝明石〟の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には紫式部が〝源氏物語〟を執筆したとされる〝源氏の間〟が造られています。また〝和泉式部日記(十五段)〟では、「つれづれなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、和泉式部が淳道親王との関係がうまくいかず、むなしい気持ちを慰めるために寺に籠った様子が描かれています。また時代は変わりますが歌川広重の描いた近江八景のひとつ〝石山秋月〟でも知られています。
琵琶湖の南端近く、そして琵琶湖から唯一流れ出る川である瀬田川流域に位置する石山寺は、本堂が国の天然記念物に指定されている硅灰岩(石山寺硅灰石)という巨大な岩盤の上に建てられています。この日本の地質百選にも選ばれているこの石山寺硅灰石は、その名の通り〝寺の名前〟以外にも付近一帯の〝地名〟となり現在に至っています。
〝石山寺縁起絵巻〟によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされています。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていたこともあり、良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせたそうです。金峯山はその名の通り、〝金の山〟と信じられていたようであったこともあり、そうしたところ良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げたそうです。〝金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるもの〟であると…。つまり〝大仏鍍金〟に使うことはできないため、他の場所に行ってくれ!ということになり、代わりに〝近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい。〟と聞いた良弁は、比良明神(湖西の白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の六寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てました。程なくして陸奥国から黄金が産出されたことによって無事〝大仏鍍金〟に使う黄金が手に入ったことにより良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたものの、今度は〝お告げ〟を与えられた〝如意輪観音像〟が岩山から離れなくなってしまい、仕方がなしにその観音像を覆うように〝お堂〟を立てたものが石山寺の草創と言われています。その後天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた記録が残っており、正倉院文書によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣され、石山寺の造営は国家的事業として進められていったようです。これには淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮(後述)が石山寺の近くにあったことも関係していると言われており、本尊の〝塑造如意輪観音像〟と脇侍の〝金剛蔵王像〟、そして〝執金剛神像〟は天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の〝六寸如意輪観音像〟が納められたという記録が残っています。
以降平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないものの、寺伝によると聖宝、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす:住職とほぼ同義)として入寺しています。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧であり、石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われています。
そして石山寺の中興の祖と言われる菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(じゅんゆう)内供(890-953)が第三世座主となります。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号であり、高僧でありながら諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、〝石山内供〟や〝普賢院内供〟とも呼ばれています。
その理由として淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残しており、現在でも彼の自筆本は石山寺に多数残存し、〝匂いの聖教(においのしょうぎょう)〟と呼ばれ、一括して国宝に指定されています。時期を同じくして石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、〝蜻蛉日記〟や〝更級日記〟にも描写されています。現在の本堂は永長元年(1096年)の再建、東大門と多宝塔は鎌倉時代初期に源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったとされています。畿内の寺院とは異なり、石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存して現在に至っています。
(注)保良宮伝説とは…
奈良時代に作られたとされる〝古代宮〟のひとつで、聖武天皇の晩年、藤原仲麻呂が光明皇后の支持を得て台頭し、聖武天皇の死後、天平勝宝9年(757年)、橘奈良麻呂の乱を平定し政権を掌握した藤原仲麻呂は大炊王を擁立し、天平宝字2年(758年)、孝謙天皇からの譲位を受ける形で〝第47代淳仁天皇(淡路廃帝)〟を即位させます。孝謙上皇と淳仁天皇の時代の天平宝字3年(759年)11月16日、藤原氏と縁が深く(仲麻呂の祖父藤原不比等は淡海公、父藤原武智麻呂は近江守)仲麻呂も近江国守であったことから、近江国に保良宮の造営が開始されたようです。保良宮の近くにあった勢多津(大津市の瀬田か?)が東山道・北陸道からの物資の集積地であり、保良宮造営以前より朝の廷や貴族・寺院が倉庫や別荘の形で勢多付近に施設を有していたと考えられている。また、保良宮行幸後には瀬田には民部省(仁部省)や式部省(文部省)などの官司(あるいはその出先機関)が置かれていました。
天平宝字5年(761年)10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移ると詔し、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」と勅して、都に近い2郡(滋賀郡と栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、庸を停めて平城京に準じた調を納めるようにしました。これは唐の陪都〝北京太原府〟を意識したものとみられていますが、翌天平宝字5年(761年)1月1日、保良宮が未完成のため朝賀の儀を取りやめざるを得なくなります。3月3日、保良宮の西南に新しく池亭を造り、曲水の宴を設け、3月25日保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させました。ここまでが陪都つまり都が遷る〝遷都〟ではなく〝共存した都〟として〝保良宮〟があったであろう時期と思われところではあるものの、その後5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入ります。前年に孝謙上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。2人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していました(後述)。
天平宝字8年(764年)このころ、孝謙上皇と関係が深い吉備真備が台頭。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)勃発。仲麻呂の敗退により造営中止。廃都になったというものです。古代宮として場所を特定するものがなく、諸説を集めた結果〝石山寺〟から山を一つ越えた大津市国分にある〝大津国分遺跡〟の周辺にあったとされています。〝へそ石〟の存在などもそのうちのひとつの理由でした。その保良宮跡とされる〝石山国分遺跡〝からは築地塀の跡や平城京と共通の天平宝字年間前後の瓦が出土しており、また付近に近江国分寺、瀬田川対岸には近江国庁があることから環境も整っており、伝説のヒトコトでは済まないようにも思えます。
淳仁天皇と孝謙上皇との不仲説は、茶化すつもりはありませんが、女帝だった〝第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)〟と下ネタで有名な〝弓削道鏡〟との関係で、独身を貫いた〝女性〟ゆえ言われ始めたのではないかと思います。それらしい話は、意外に知られていない〝滋賀県〝〟にあった〝古代宮(近江京・紫香楽宮・保良宮)〟にまつわる話は、歴史上ある程度の信憑性が確認されているものを除けば〝想像の範囲〟のものが多いのではと思います。今後解明されることも楽しみですが、いにしえの人々の人間関係を表す〝逸話〟を楽しみながらこの石山寺近辺を散策されるには面白いことなのかもしれません。
保良宮と石山寺の前置きが長くなりましたが、そろそろ入山することにします。500円(消費税改定後は600円)を払って入山します。石山寺の〝硅灰石と多宝塔〟ではない方の顔、硅灰石前に繋がる階段を上って行きます。手前から観音堂、毘沙門堂と参り、向かいの蓮如堂へと進みます。硅灰石の上に建っている三十八社の拝殿として建立された蓮如堂、時代の流れで役割は変わります。
蓮如堂前の広場から天然記念物の硅灰石を望むことができます。このカットは〝石山寺の顔〟と言っても過言ではないでしょう。石の上にあるお寺なので〝石山寺〟と命名された・・・。ある意味わかりやすくて良いのかも知れませんが、住人としてはもう一捻り欲しかった。確かに石山寺はそうですが、石山エリアの全てがそうではありません~(悲)。まあ一世紀も前のことゆえ仕方がありませんが・・・。
蓮如堂脇の階段を登って行くと本堂に到着します。石山寺本堂というよりも、紫式部所縁の〝源氏の間〟と言った方がメジャーかも知れません。第六十六代一条天皇である中宮彰子、その女房であった紫式部が書いた〝源氏物語〟の草稿を練った場所とされるのがこの石山寺であったとの説は、あまりにも話が出来過ぎているものではあるものの、時を同じくして石山詣が宮中で盛んだった背景を踏まえると、全くのフィクションとも言い切れないようにも思えてなりません。しかしならばそれで夢を壊すようなことは考えて頂きたいようにも思います。今回は直っていましたが、〝動く式部さん〟が故障ではね~(笑)。
本堂と源氏の間を巡り、硅灰石の上へと進みます。三十八社本殿という呼称はよく聞くものの、謂れがあるものだということは知りませんでした。境内月見亭脇にある〝若宮社〟、これが壬申の乱で敗死した〝大友皇子〟を祀ったものであることは知っていました。また若宮社の親殿がこの三十八社であることも然りです。しかしこの〝三十八社〟の数字にはちゃんとした〝理由〟が存在します。つまり第三十八代天智天皇だということ、即ち第一代神武天皇から天智天皇までを祀っているということのようです。なぜ三十八代で区切られてしまうのかはわかりませんが、もしかすると明治時代になってから大友皇子が第三十九代弘文天皇として諡号(しごう)されたこととも関係するのかも・・・。真実を知りたい気持ちもありますが、知らない方がいにしえのロマンを感じられるのかも・・・と。ガラにもなくセンチになってしまいました。三十八社をもう少し進むとある〝鐘楼〟、古き石山寺を知る多くの人々が口を揃えて、〝昔は鐘が突けた〟と言われていますが、私は記憶にございません(驚)。というより〝昔は突けた〟ことが本当なら、なぜに石山寺保育園卒が記憶にないのか?園長先生に説明を要求しますよ(爆)♪
ちなみに保育園は石山寺ですが、高校も系列の学校なので〝例外〟なんてミ・ト・メ・マ・セン!!
そして多宝塔、言わずと知れた国宝の建造物ですが、なぜかリアルな画像より、4円切手のイメージが強いことには不思議な気持ちになりますが、それだけ一般化していたものであったとのいうのが現実です。でもいつ見てもうっとりするような建物であることには違いありません♪多宝塔を回り込むように歩いて行くと、眼下に景色が広がります。石山寺月見亭から眺める〝比良山系と琵琶湖〟のコラボレーションの景色。石の山としか思っていなければこの景色が滋賀県下でも有数の〝絶景〟であることに気づかないこともあるようです。今という時代背景では、山があり、湖があり、そして琵琶湖が広がっている様子がさも〝当たり前〟だと思うでしょう。しか~し、大阪のベットタウン化している大津市に於いて、新快速の停車駅でもある石山には、すごい勢いで高層マンションが建ち並んでいます。その姿が無かった僅かな昔、月見亭から眺める景色に〝遮るものはなにも無かった〟・・・。なんとなく風情を感じられなくなったこの景色に、ふとため息をつきます、ふ~っ。
月見亭からの今の景色を堪能し、月初めには立ち寄らなかった〝第一梅園〟へと向かいます。〝東風の苑〟をはじめとした第ニ梅園に比べると古木が多く、開花も遅いということなので前回はスルーしています。さすがに三月下旬になると〝チラホラ咲き〟のいい感じです!三つの梅園を持つ石山寺ならではの〝梅の花〟を堪能できました♪
外周を回るように歩いて行くと、第ニ梅園・東風の苑へとつながります。〝東風の苑(こちのその)〟の名は、菅原道真所縁の梅園ということからきているそうです。菅原道真=天神さん=梅の花と言った単純方程式しかわからない人ですが、淳祐内供という道真の孫が基礎作りをした石山寺。神社ではなくお寺ではあるものの、道真公譲りの頭脳明晰だったには違いなく、結果として今に伝わる〝経典〟をはじめとした寺宝の数々を残された〝手腕〟ゆえ、非行の死を遂げた祖父の思いを、道真公=梅の花にまで作り上げられたのではないでしょうか?我が母校の閉園記念植樹を含めた花々の数々をぼ~っと見つめながら、毎月21日に石山寺に行事参拝していた幼き頃の思い出を踏みしめながら歩いて行きました。
第ニ梅園を過ぎたところにある豊浄殿、こちらは紫式部展をやっている場所になります。入場料は別途200円かかりますが、なぜ紫式部は〝源氏物語〟をこの〝石山寺〟で書いたのか?など時代背景を含めていろいろと紹介していました。史学・文学がお好きな方には是非とも行って頂きたい場所でした。
さらに歩いて行くと光堂があり、一帯は第三梅園になります。この光堂下にあるのが、紫式部像です。勿論昔からあったものではなく、最近作られたものではありますが、十二単を纏った紫式部が花に囲まれるように座している姿は、カメラの腕前問わず〝いい写真〟が撮れること間違いなしです。しかし〝人気スポット〟だということはシーズンになると皆さんこの場所でカメラマンをされます。不満を言わず譲りあって撮影しましょう(笑)。
この周辺が石山寺のもっとも標高が高い位置となり、そこから山を下って行きます。正しく〝石山からの山下り〟です(笑)。八大龍王社、歴海和尚が孔雀教を読んでいると池の底から龍王が現れて読経を聞き、そのお礼に龍王の背中に和尚を乗せ、庵まで送って行ったとの逸話が残るこの場所は、昼間でも木々が鬱蒼と茂りあたかもその話が本当のことであったかの如く錯覚を受ける場所でもあります。そしてその隣の無憂園、柳島とも言われますがこの石山寺を取り囲むようにある〝琵琶湖〟の様子を池や滝で表し、それに加えて四季折々の花々が咲き誇り、なんともいえない雰囲気を醸し出している場所だそうです。ただ四季折々の花とは言ったものの三月末では咲く花がないことがわかります。桜の花の咲くころは、ちゃんと役割を果たすようですが、残念ながら〝梅の花〟は構成をなしていないようでした…orz。
補陀洛山と書かれた石碑を見つけ、山歩きを始めてみます。これは西国三十三番観音霊場のそれぞれの観世音菩薩の石仏が、参道に沿って配置されています。つまり一周をしてくると西国三十三番観音霊場を回ってきたのと同じご利益があると言う訳です。勿論ヘタレのおバカは、労せずご利益があるならば何も考えず何周もして、多くのご利益を受けることを期待…したいところですが、それでは苦労して観音霊場巡りをされておられる方に申し訳ありません。なので今までに行ったことのある霊場の観世音菩薩にだけお参りし、小さくてもいいからご利益をお願いします(爆)。やっぱり肝っ玉は大きくなれません(笑)…。
補陀洛山から下りてくると間もなく参拝順路は終了なります。ご縁のない腰掛石、島崎藤村所縁の茶丈庵(移設)、井戸の隣の石である〝比良明神影向石〟は写真が撮れていなかった…、という感じで最後のくぐり石へと参拝すると、入場時に手を清めた手水舎で再び手を清めると出口になります。1~2時間という参拝目安時間がかかれていましたが、しっかり3時間でお参りをしてきました♪
参道横には石山寺の実務を行っている〝坊〟が並びます。ちょこちょこと回りながら見学して行きますが、〝ここは大津!彦根ではない!!〟的な〝大津ヒカル君〟が三体並んでいる姿は、ちょっと笑えます。私は勿論大津市民ですが、石山寺門前のお土産物屋で〝ひこにゃんないんですか?〟と聞いた人なので(笑)。
東大門を出ると一旦国道422号線方向へと向かいます。京阪バス〝石山寺山門前〟バス停手前には島崎藤村の詩碑があり、茶丈庵のことを含め石碑に刻まれています。ただこの場所が〝石山公園〟とされていますが、石山公園は石山寺駐車場の上にある公園施設のことを指し、この碑がある場所は違うはずなのですが…。どうなのでしょう?
地元に住んでいると意外と観光地の散策はしないものです。なのでそのバス停近辺を歩いてみます。石山寺港、外輪船一番丸が就航し、石山寺港~瀬田川新港(JR瀬田川橋梁下)を約一時間で巡るクルーズのルートです。一日一便は大津プリンスホテルから出発するものもあり、それならば一時間半かかります。あくまで観光を目的としており、実用的なものではありません。また冬季は休航しますので事前に運航日を確認する必要があります。ちなみに平成27年は12月6日までの運航です。
そして石山寺郵便局、門前の郵便局ですが、私が知っているときには〝石山郵便局〟という名前でした。やはり郵便局も民営化され、名前による〝知名度の向上〟は蔑にはできないのかも知れません。ちなみにATMは土曜日12:30まで利用できますが、土日祝日は利用できないのでご注意下さい。
石山寺郵便局の隣には趣のある庭園があり、〝朗澄大徳ゆかりの庭園〟との標記がされていました。約八百年前の中興の祖〝朗澄律師〟は石山寺屈指の名僧で、頭の良さもさることながら、絵の才能にも長けていました。その絵が現在でも石山寺に多量に残っており、なにより〝朗澄律師〟は自らの死後に〝鬼の姿〟と化し、万民の難を除き福を招くこと、また石山寺経蔵の一切経並びに聖教(しょうぎょう)を守護すると誓われて入寂されたという逸話が残っています。毎年五月の第三日曜日に執り行われる〝青鬼祭〟は、この朗澄律師を称えるためのお祭りです。写真を見ればわかることなのですが、かなり新しい〝庭園〟であることがわかります。かと言って門前町ゆえそう簡単には〝土地〟を得ることも難しいのでは…と思っていると、ひとつだけいつの間にかなくなっているものがありました。大津警察署石山寺駐在所…いつなくなったのかはわかりませんが、その場所しかありえない…。交番が庭園に様変わりするってなんとなく可笑しく思えてしまうのは私だけでしょうか?
3時間歩いて疲れただろうに…と思われるのかも知れませんがそんなことありません。なぜか今日は元気なので、京阪石山寺駅を目指して歩きます。石山寺~京阪石山寺駅間の900mの道は、庭園をモチーフにした花壇を作るようで現在工事中です。歩道傍には〝お茶や〟や昔からの〝門前宿〟が立ち並ぶ姿は昔と変わらない風景ではあるものの、この道を国道化するために川沿いにクネクネ曲がっていた道を、護岸工事をして道をまっすぐし、走りやすくした経緯があります。風情云々というのは抜きにして、私が高校時代に利用していた〝チャリンコ通行可の歩道〟は、一ヶ所を除いてなくなりました。その一ヶ所を見る度に思い出す〝チャリンコ通学の苦労〟…、本当に懐かしい話です、ハイ。
途中にある〝伽藍山公園〟の碑、公園自体はもっと山手にあるのですが、この場所にある〝水路〟。これもそれ程歴史のあるものではないのですが、完成時に通路の開口先である国分まで歩く体験者を募集されたことがありました。家族全員で応募しましたが、当選したのはくじ運のいい〝妹君〟だけでした。今からするとやっぱり歩きたかったな~っと思ってしまうのは私だけではないでしょう(悲)。そんなこんなで思い出の詰まる高校の通学路をてくてく歩きながら京阪石山寺駅へとやってきました。
平日の夕方ということもあり、最寄りのI高校の生徒が結構いました。とはいえ春休みに入るかどうかの時期でもあるため、普段よりは少ないのでしょう。私が高校生の頃、同級生男子は滋賀県立高校の中でも進学校であるI高校の生徒をこう揶揄していました、〝足が太い〟と。これは多くの生徒が京阪石山寺駅を利用するのに〝山越え〟をせねばならず、通学で足が鍛えられるからそう言われていました。ある意味〝ひがみの気持ち〟だったのは間違いないことなので、今さら言うこともないのですがそんなこともあったな~なんて懐かしく思いました。
この京阪石山寺駅ですが2面ホームはあるものの、つい最近まで使われることは本当に稀なことでした。朝夕のラッシュ時や団体専用車両が入った時位なもので、その他は一面ホームだけで事足りていました。なぜ2面ホームの利用になったのかというと、ワンマン化し運行本数を増やしたためです。そのお陰で〝撮り鉄〟の標的になった〝横並びのマッチ箱電車〟。加えてラッピングトレインの運航開始とともに日本全国だけではなく世界にまで広がった知名度。ローカル線にありがちな〝負の連鎖〟によって余計に効率を悪くしてしまうのと〝逆〟のことをすることによって改善が図れた〝まれなケース〟なのかも知れません。まあ能書きはこれ位にして車内に乗り込みます。
粟津駅以降は本当に〝軒先〟を掠めるように走る京阪電鉄石山坂本線600系車両は、石山駅と並ぶJRとの乗換駅である京阪膳所へと到着します。駅を下りると湖岸へと下りて行く〝ときめき坂〟があります。結構若向けのお店が多いと宣伝はされているものの興味がないのでさっさと歩きます。義仲寺の交差点で国道422号線とぶつかり、それを一旦石山方面へと向かいます。そして向かった先はドコモショップ大津店、端末の修理を頼んだのですが待ち時間がかなりあり、店を出た時にはもう真っ暗。こうなると電車かバスでさっさと帰れ~ってことになるのでしょが、これまた歩きます。国道422号線をまっすぐ歩いて行き近江大橋・膳所城跡を通過、尚もまっすぐ進んでいつもの平和堂石山店へと到着します。ここからなら5km程なのですが、時間も時間で暗さも暗さという理由でこれ以上は諦めて、素直にバスに乗るため石山駅前バスターミナルへと向かいます。20:53バス乗車、21:07最寄りのバス停下車。最後はあっけなく終わってしまいました。
石山寺参拝に要した距離約3km、自宅~京阪石山寺駅約4km、京阪膳所駅~ドコモショップ大津店~平和堂石山店~石山駅約5km、ということで12km程歩いたことになりますが、最近の特徴として〝翌日筋肉痛が出ません〟。翌々日以降に出てくるその症状に〝未来を心配〟しながら眠りに就く、ある意味そんな幸せを感じられる自分を〝おめでたい〟と改めて感じた今日の散歩でした(笑)。
〝第一弾地元を歩こう〟の続編としてのこの〝第2弾地元を歩こう【自宅~石山寺~京阪石山寺駅/京阪膳所~石山駅】〟ですが、ビジュアルで切り取っていなかったものを細くする意味で書きました。そのためそれ程〝目新しさ〟はありませんが、石山巡りの参考にして頂ければ…と思います。毎度の長文にお付き合い頂きありがとうございました♪
長文にお付き合い頂きありがとうございました♪
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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通学路に咲く梅の花。
フレンドマート (石山寺辺店) スーパー・コンビニ・量販店
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石山寺四丁目、京滋バイパス高架下。
新宮神社 寺・神社・教会
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我が町の観光スポット♪
新宮神社 寺・神社・教会
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石山寺駐車場入口を京滋バイパス側から見たところです。
石山公園 公園・植物園
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松尾芭蕉の句碑、?石山の 石にたばしる 霰かな?。
石山貝塚 名所・史跡
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大津市指定史跡?石山貝塚?(大津市石山寺一丁目)
この貝塚は、昭和十五年に発見され、同十六年から三十四年にかけて合計六回の発掘調査が行われました。
その結果、貝層が、東西約二十m、南北に約五十mの広がりを持ち、最も深いところで二mの厚さを持ち、セタシジミを中心とする十種類の淡水産の貝で構成されていることがわかりました。
子の貝層からは、炉跡や五体の手足を折り曲げた屈葬人骨が発見され、その一体は貝製の首飾りを身につけていました。
また縄文式土器をはじめとして、石斧などの石器類、狩猟道具や日用品としての骨角器、骨や貝で作った装飾品など多数の遺物が出土しました。なかでも、縄文式土器の中の一群んは、石山式土器と命名され縄文時代早期(今から八千年ほど前)を代表する土器となっています。
さらに、貝類の他縄文時代の人々が食べたサル・イノシシ・シカなどの獣や、コイ・フナなどの魚の骨も多数出土しており、当時の人々にとっては、住みよい環境の土地だったようです。
しかしながら、遺物の大部分は縄文時代早期のもので、この後の時代のものは、ほとんど発見されておらず、前期以降、急激に人々の生活が絶えています。この理由として、瀬田川下流の鹿跳付近の川底が流水のため削られ、琵琶湖の排水量の変化が起きて、魚介類の激減がひきおこされ、この遺跡を絶えさせたということが考えられます
昭和四十年五月六日指定 大津市教育委員会石山貝塚 名所・史跡
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石山の由来について
この地に奇岩怪石の露出する岩山(現、伽藍山)があったことから生まれた地名です。八世紀の中頃、この山に一寺が建立されて石山寺と名付けられ、観音信仰の霊場として発展しました。なお、現在も境内に露出する硅灰石は天然記念物に指定されています。石山貝塚 名所・史跡
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石山寺駐車場にある「石山寺全図」。
石山貝塚 名所・史跡
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石山寺東大(山)門。
現在の東大門がいつ建立されたのかは明らかではありませんが、淀殿の寄進による慶長の大修理の際に、再建に近い大修理が行われたと考えられています。『石山寺縁起絵巻』第五巻は鎌倉末から室町初期の頃に製作されましたが、その第一段目に描かれた東大門は、門の内側に鮮やかな彩色の多悶天像が確認できます。
東大門の歴史を探る上で、この場面は重要な資料の一つといえるでしょう。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺東大門(仁王門)、仁王像。
運慶・湛慶の作だとされています。石山寺 寺・神社・教会
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西国十三番札所石山寺の碑。
石山寺東大門(仁王門)
(重要文化財)
建造物 大津市石山寺一丁目
東大門は、三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(やつあしもん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像(におうぞう)を置くことから仁王門とも呼ばれています。
現存の門は鎌倉時代の初期、建久元年(一一九〇) の建築で、桃山時代の慶長年間(一五九六〜一六一五) にかなり大規模な修理改造が加えられています。天井下の蟇股(かえるまた)や破風(はふ)の懸魚(げぎょ)などに桃山時代の特徴がよく現れています。しかしながら、やはり建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門としてふさわしい姿をしています。
明治四〇年(一九〇七)八月に重要文化財に指定されました。
大津市教育委員会 平成五年(一九九三)三月石山寺 寺・神社・教会
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西国十三番札所石山寺の碑。
石山寺とは…
大本山石山寺は西国三十三所第十三番札所であり、観音信仰の霊地です。山号は石光山。真言宗の古刹であり、現在は東寺真言宗に属しています。
石山寺という名前は、境内にある特異な様相の硅灰岩という奇岩に由来しています。
石山寺は近江八景のひとつである?石山秋月?として名高く、伽藍山の麓、瀬田川に臨む景勝地にあります。門前を流れる瀬田川を少し遡ると?瀬田の唐橋?があり、その?瀬田の夕照?もまた近江八景のひとつとして知られています。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺参道にて、拾翠園。
お抹茶が頂けます。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺参道にて。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺参道にて。
紅白の梅の花♪石山寺 寺・神社・教会
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石山寺参道にて。石山寺園内マップ。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺参道にて。
石山寺 寺・神社・教会
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これは参拝券についていた地図。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、手水舎。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、本堂・硅灰石への階段。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺観音堂。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺観音堂。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺毘沙門堂一棟
(いしやまでらびしゃもんどう)
滋賀県指定有形文化財 安永二年(一七七三)
正面三間(しょうめんさんげん)、側面二間(そくめんにけん)、一重(いちじゅう)、宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんかわらふき)、背面閼伽棚(はいめんあかだな)を含む。
毘沙門堂は、堂内に兜跋(とばつ)毘沙門天(重要文化財)・吉祥天・善膩師童子(ぜんにしどうじ)の三体を祀っています。
この建物は、兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。毘沙門堂は近世後期らしい華やかな建物で、実際は正方形の平面でありながら、間口三間に対して、奥行き二間とし、方間にはしない点や、須弥壇(しゅみだん)前の柱筋の中央間は組物(くみもの)上の通肘木(とおしひじき)を虹梁(こうりょう)型に加工しその中央に笈形(おいがた)付きの大瓶(たいへいづか)を載せ天井を受ける特殊な架構・意匠を用いるなど特色にあふれた優れた建築です。
滋賀県教育委員会
指定 平成十九年六月一日石山寺 寺・神社・教会
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毘沙門堂の毘沙門天。
石山寺 寺・神社・教会
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重要有形文化財
石山寺蓮如堂(れんにょどう)一棟
慶長七年(一六〇二)
懸造(かけづくり)、桁行五間(けたゆきごけん)、梁間四間(はりまよんけん)、一重(いちじゅう)、入母屋造(いりもやづくり)、妻入(つまいり)、桟瓦葺(さんかわらぶき)
蓮如堂は、寺蔵文書から淀殿による慶長期の境内復興の際に、三十八所権現社本殿(県指定)の拝殿として建築された建物です。
明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれています。建物は、寺蔵文書や東妻破風板(はふいた)の墨書などから慶長七年の建築で、その後、文化八年(一八一一)に桟瓦葺に改造されています。
この建物は、文書から神事のほか、仏事にも使用されていた非常にまれな建物です。懸造(かけづくり)で妻入りとし、入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通りを広縁とする礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、建築史上からも極めて貴重な建築です。
滋賀県教育委員会指定
平成十九年六月一日石山寺 寺・神社・教会
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硅灰石(けいかいいし)
国天然記念物
花崗岩石灰岩の接觸部に成生する接觸鉱物である。 本鉱物は国内各所に産出するが石山寺境内にあるものは地層面に沿って多数集合し、これが風化し独立した岩塊として露出しており、国内の硅灰石の中では最も規模も大きく、特に有名なものとして天然記念物に指定されている。石山寺 寺・神社・教会
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硅灰石と多宝塔。
石山寺 寺・神社・教会
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硅灰石と多宝塔、ついでにおまけの観光客(笑)。
石山寺 寺・神社・教会
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重要文化財建築物
石山寺御影堂(いしやまでらみえいどう)
道内は、大津市石山寺一丁目
本堂の東方にあるこの御影堂は、室町時代の建立で、正面三間、側面四間、宝形造、桧皮葺(ひわだぶき)で、背面に一間の張出しを設けます。堂内は中央間後方一間を板壁で囲って内陣とし、内部の須弥壇(しゃみだん)には、弘法大師、良弁(ろうべん)、淳祐(しゅんにゅう)の遺影(御影)を安置しています。
建設当時は、中央一間に須弥壇を置く形式でしたが、慶長期に堂全体の修理が行われ、江戸中期に虹梁を加え広報を内陣とする改造がなされました。柱は全て円柱とし、外観は正面及び両側面の中央を板塀とし、半蔀(はじとみ)を吊って、障子を建てます。
室町時代の軸部を残し、慶長期の洗練された外観をもつ建築として、平成二〇年(二〇〇八)一二月、国の重要文化財に指定されました。
大津市教育委員会
平成二一年(二〇〇九)年三月石山寺 寺・神社・教会
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本堂(国宝)
永長元(1096)年(礼堂は慶長7(1602)年)の建築
本堂 桁行七間、梁間四間
相の間 桁行一間、梁間七間
礼堂 懸造、桁行九間、梁間四間
本堂及び礼堂 寄棟造、両棟を相の間の屋根でつなぎ礼堂の棟をこえて破風をつくる、総檜皮葺
本堂東面と硅灰石
承暦二(一〇七八)年、本堂は火災に遭い、その二〇年後の永長元年に再建されました。室町時代に製作された『石山寺縁起絵巻』第四巻の藤原道長の参籠の場面に描かれる本堂は、再建後の本堂の姿といえるでしょう。
この場所から現在の本堂と絵を比べてみると、慶長の大修理の際に改装された源氏の間以外は、本堂はもとより、硅灰石や石段までが忠実に描かれていることがわかります。
なお、僧形の藤原道長が籠る画面中央の部屋は、紫式部が参籠した部屋でもあります。石山寺 寺・神社・教会
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本堂にある?紫式部源氏の間?。
源氏の間
紫式部参籠の画面。紫式部が籠ったというこの部屋は、「石山寺縁起絵巻」」の他の場面や他の文献から推察すると、天皇や皇族、貴族、高僧など身分の高い人々が使用する部屋であったようです。皇后の女房である式部は特別待遇にあったわけですが、新しい物語の製作がいかに重要な任務であったかが伺えます
なお正中年間(一三二四〜一三二六)に成立した詞書によると、この部屋は鎌倉時代にはすでに『源氏の間』と呼ばれていたようです。『石山寺縁起絵巻』は『源氏の間』に関するもっとも古い資料でもあるのです。石山寺 寺・神社・教会
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源氏の間内部の紫式部像。
石山寺 寺・神社・教会
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本堂横のおみくじコーナー。
?紫?という色に特徴があります。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、本堂側から見た硅灰石と御影堂。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺三十八所権現社。
境内にある大友皇子を祀る?若宮社?の親社だそうです。
石山寺三十八所権現社本殿(大津市石山寺一丁目)
本殿は一間社、流造、屋根は檜皮葺です。
石山寺は桃山時代に大規模な伽藍整備がなされており、本殿の建立は本堂の礼堂と同じく慶長七(一六〇二)年になります。
三方に刎高欄付の榑縁を廻らし、正面には木階七級と浜床を張ります。部材の保存状態は良好で、内陣内部を素木とし、外陣と外部は極彩色で彩られていたことがわかります。
三十八所権現社は石山寺の鎮守として創建されており、真下に位置する蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として建立されたものです。
蓮如堂と合わせて、寺院における鎮守社本殿及び拝殿の構成や礼拝形態を伝える貴重な遺構として、平成二十年(二〇〇八)十二月、国の重要文化財に指定されました。
大津市教育委員会 平成二十一年(二〇〇九)三月石山寺 寺・神社・教会
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石山寺経蔵。
重要文化財
石山寺経蔵 一棟 桃山時代
桁行三間、梁間二県、高床校倉、一重、切妻造、桟瓦葺
経蔵は、高床の校倉でかつては国宝の淳祐内供筆聖教等を収蔵した建物です。
建物は、頭貫木鼻の意匠や桁や垂木に反り増しがあることなどから、桃山時代の十六世紀後期頃の建立と考えられます。
八角の東柱上を頭貫で繋ぎ、その上に台輪が乗り、校木は桁行・梁間方向とも同じ高さに十段組んでいます台輪は木鼻の部分で矧ぎ木をして一木のように見せています。
県下における数少ない校倉造りの遺構の一つで、また全国的にも類例の少ない切妻造の校倉として、さらに、石山寺にとって重要な経典類が良好な状態で長く収納されてきた建築としても貴重です。
滋賀県教育委員会
指定:平成二十年十二月二日石山寺駅 駅
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石山寺鐘楼。
この鐘楼は桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間、重層で袴腰(はかまごし)を付け、屋根は入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)となっています。昭和二八年(一九五三)からの解体修理によってかなり復元され、袴腰(はかまごし)は白漆喰壁に、棟は短くなって全体につりあいのとれた美しい姿となりました。
縁下(えんした)と上層の軒下(のきした)には三手先木組(みてさききぐみ)をもっていますが、とくに斜めにでる尾垂木(おたるき)のないのは、珍しい特徴です。
源頼朝の寄進と伝えられていますが、様式や木材の風触から、鎌倉時代後期のものと考えられています。
明治四〇年(一九〇七)八月に重要文化財に指定されました。
平成五年(一九九三)三月 大津市教育委員会石山寺 寺・神社・教会
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国宝石山寺多宝塔。
重要文化財 彫刻
多宝塔本尊 大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)
快慶〈かいけい〉作
御本尊は建久五年(一一九四)塔と同時期に制作され、像高百二センチ寄せ木造り表面に漆(うるし)を塗って(金箔を張り)玉眼や、写実的な衣には切金(きりかね)文様がほどこされ、又左肩からタスキ状の条帛(じょうはく)、衣のひだも洗練され、典型的な鎌倉様式の風格を備えた見ごとな像であります。 合掌
大本山石山寺石山寺 寺・神社・教会
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国宝 建築物
石山寺多宝塔(たほうとう)一棟
大津市石山寺一丁目
多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根をのせた二重の塔です。石山寺の多宝塔は建久五年(1194)に建立されたもので、多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしており、上下左右の広がりがきわめて美しく洗礼され、均斉のよくとれた建築です。
また、内部の柱や天井の廻りなどの側面には、仏像や草花などの極彩色の絵が描かれています。
昭和二六年(一九五一)に国宝に指定されました。
大津市教育委員会
平成五年(一九九三)三月石山寺 寺・神社・教会
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珪灰石と毘沙門堂。
石山寺 寺・神社・教会
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宝篋印塔は、源頼朝とその乳母亀谷禅尼の供養塔と伝わっています。
右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔。石山寺 寺・神社・教会
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めかくし岩。
めかくしをしてこの岩を完全に抱けば諸願成就と云う。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、若宮社。
壬申の乱で敗れて自害した大友皇子(弘文天皇)を寺僧が祀ったとされています。
先程の三十八所権現社が親神にあたるそうです。石山寺 寺・神社・教会
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若宮社から見た第一梅園の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、芭蕉庵。
非公開扱いになっています。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、月見亭。
月見亭
保元年中後白河天皇行幸ノ時始メテ建之
己後数度修繕ス
明治天皇 明治十一年
大正天皇 明治四十三年
今上陛下 大正七年
昭憲皇太后 明治二十年
皇太后陛下 大正十一年
右御臨幸玉座トナル
従保元元年至昭和四年七百六十年余石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、月見亭より見た石山の街。
花霞の様子。石山寺 寺・神社・教会
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第三世座主?普賢院淳祐内供?供養塔。
第一梅園にて。石山寺 寺・神社・教会
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普賢院跡
石山寺第三代座主淳祐内供(八九〇-九五三)の住房普賢院に、比叡山の皇慶阿闍梨(または元三大師良源僧都か)が受法を願い訪れた場面。淳祐内供は菅原道真公の孫にあたり、石山寺の経典や聖教の整備を行って多くの著作を残しました。
境内の艮の方角にあったという普賢院は、『石山要記』によると「五間七間、前後有門』、亦有築垣」といった立派なつくりで『石山寺年代記録』の記述から十六世紀前半くらいまで存在していたと推測されます。すぐそばに内供の供養塔が建立されています。石山寺 寺・神社・教会
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第一梅園に咲く?椿?の花。
石山寺 寺・神社・教会
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しばしご覧下さいまし。
第一梅園の?梅の花?の様子。石山寺 寺・神社・教会
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第一梅園の?梅の花?の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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第一梅園の?梅の花?の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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第一梅園の?梅の花?の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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第一梅園の?梅の花?の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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花乃苑、の碑。
石山寺 寺・神社・教会
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第一梅園の?梅の花?の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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心経堂
その昔花山法皇が西国三十三所観音霊場を中興されてより壱千年の記念事業として長年にわたり納められた心経寫経を永久に保存するために建立されました、約五.四メートル四方の方形造り床面積三十三平方メートル総檜作り壁柱は丹で塗られ堂中央の一面には如意輪観世音菩薩半跏像が安置され残る七面に寫経が納められる。
平成二年三月落慶 合掌 大本山石山寺石山寺 寺・神社・教会
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心経堂を経てやって来た第二梅園、菅原道真公所縁の?東風の苑(こちのその)です。
石山寺 寺・神社・教会
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第二梅園の?梅?の花。
石山寺 寺・神社・教会
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第二梅園の?梅?の花。
石山寺 寺・神社・教会
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第二梅園の?梅?の花。
石山寺 寺・神社・教会
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第二梅園の?梅?の花。
石山寺 寺・神社・教会
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豊浄殿、紫式部展をやっていました。
石山寺 寺・神社・教会
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豊浄水殿宝物拝観券。確か200円だったはず…。
石山寺 寺・神社・教会
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山門までの地図。
石山寺 寺・神社・教会
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櫻乃園、の碑。
石山寺 寺・神社・教会
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藤棚。
石山寺 寺・神社・教会
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第三梅園にて。菜の花も咲いていました。
石山寺 寺・神社・教会
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第三梅園にて。
光堂の裏手です。石山寺 寺・神社・教会
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紫式部像。
石山寺 寺・神社・教会
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紫式部像と光堂。
石山寺 寺・神社・教会
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八大龍王社
八大龍王社は龍池の中島に建てられた小さな社で、龍王をお祀りしています。石山寺の歴海和尚がこの池のほとりの石に座って孔雀教を読むと、池の中から龍王たちが現れて和尚の経を聞き、経を読み終わると、和尚を庵まで送っていったと伝わっています。歴海和尚が座った石は「腰掛石(または尻掛石)」と呼ばれ、「石山寺縁起絵巻」に描かれたうっそうと木がおい茂る山中の様子は、現在も変わることはありません。石山寺 寺・神社・教会
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尻掛石
約千年前、名僧歴海和尚はこの石に坐り八大龍王等を供養した所諸龍王喜び終生和尚を敬い守護したという。石山寺 寺・神社・教会
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霊仙三蔵顕彰碑。
三蔵法師というのは固有名詞ではなく、サンスクリット語をはじめとする経典を漢訳する?訳教三蔵?を意味し、この?霊仙三蔵?とは、近江之国生まれ興福寺僧・霊仙(※諸説あり)で唐に於いて訳教に携わり、その功績から日本で唯一の?三蔵法師?の称号を与えられた方だそうです。
この霊仙が関わった?大乗本生心地観経?が石山寺に現存しているという繋がりがあります。石山寺 寺・神社・教会
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無憂園の看板。
琵琶湖をかたどった池や滝から構成されている回遊式庭園?無憂園?では、花菖蒲が多種多様な花を咲かせます。
またこの園には、春に桜や山ツツジが咲き乱れます。
ちなみに桜もツツジも時期が早すぎました(泣)、チ〜ン。石山寺 寺・神社・教会
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柳島
承歴二年(一〇七八)、本堂は火災に見舞われました。僧侶たちは慌てて大切な経典や仏さまを持ち出 しています。混乱のなか、いち早く本堂を飛び出したご本尊さまが柳の木にとどまっておられることに気付いた僧は、こちらにお移り下さいと自分の袖を示しています。
残念ながら柳の木は残っていませんが、本堂や石段、露出する硅灰石、閼伽井、咲き乱れる椿など、現在とそれほど変わらない境内の様子が描かれています。
観音さまがとどまっておられた柳があった場所は、現在「柳島」と呼んでいます。石山寺 寺・神社・教会
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無憂園の庭園。一番花の少ない時期にやってきてしまいました(悲)。
石山寺 寺・神社・教会
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無憂園の庭園。一番花の少ない時期にやってきてしまいましたが、その分紅梅のピンク色が映えています♪
石山寺 寺・神社・教会
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補陀洛山から見た本堂遠景。
石山寺 寺・神社・教会
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補陀洛山の観音像
補陀洛山と刻された石標のところから山道を登って行くと、西国三十三所観音霊場のそれぞれの観世音菩薩の石仏が、参道に沿って配置されています。
写真は十三番札所の如意輪観音です。石山寺 寺・神社・教会
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安産の腰掛岩。
石山寺 寺・神社・教会
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経典を収めている蔵のようです。
石山寺 寺・神社・教会
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藤村の遺跡‐石山寺茶丈「東池坊蜜蔵院」(移設)。
石山寺東大門前左手駐在所の前方にある道路に面した公園内に藤村の詩碑があり、この周辺がもと茶丈の跡地で東池坊蜜蔵院の旧地である。
藤村は二十三歳明治弐六年五月末のことである。
藤村文学を確立するうえで重要な意味を持つ関西漂泊。
その時石山寺に参詣し、ハムレット一冊を献じる。そして二ヶ月近いに近い寄宿生活をこの茶丈の奥にて始める。
また石山寺を囲んで(源氏物語)(芭蕉の幻住庵跡)(瀬田の清流)(石山の源氏蛍)等の詩情あふれる世界が傷心の藤村の心を和ませた。
関西旅立ちは教え子との愛の苦悩が直接の動機になっているとはいえ、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をし、足を休めたところが、この近江石山寺の「茶丈庵」である。
そこに青春時代の生き生きとした藤村の姿を見ることができる。
ことしはほととぎす鳴く卯月末っいたより旅の心やすめんとしばらく石山寺茶丈を借りて日頃このめるところを擬す。(茶丈記)
この一文について訂正があります。駐在所の記述がありますが、現在はありません。東大門を出るところに?タクシー乗り場?があり、その斜め左に公園があります。その中にあるのが『東池坊蜜蔵院の旧地(茶丈庵跡)』になっています。尚石山寺参道にある?東池坊蜜蔵院?は移設されたものになります。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、手水舎。
石山寺 寺・神社・教会
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比良明神影向石
東大寺の僧良弁僧正(六八九‐七七三)は、聖武天皇に東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山に籠って金剛蔵王の夢告を受け、この石山の地を訪れました。すると岩の上で老人が釣りをしており、お告げの場所がまさにこの地であったことを良弁僧正に告げました。この老人こそが近江の地主である比良明神で、比良明神が座っていた石は『比良明神神影向石』をして今もなお大切に守られています。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、くぐり岩。
硅灰石(大理石)の中を潜ることができますが、境内にある硅灰石は表面が酸化しておりくすんだ色をしています。しかしこの?くぐり岩?の岩塊は、胎内くぐりの参詣者によって底面がツルツルに踏み磨かれており、そこに往年の大理石の輝きをみることができる場所になっています。石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、くぐり岩。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、くぐり岩。
石山寺 寺・神社・教会
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石山寺境内にて、くぐり岩。
石山寺 寺・神社・教会
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宝性院
表門は一間薬医門、切妻造、桟瓦葺、18世紀後期 石山寺の本坊として使用中 庫裏・書院が立つ。石山寺 寺・神社・教会
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宝性院。
入口にはおおつヒカル君。石山寺 寺・神社・教会
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法輪院の外観。
石山寺 寺・神社・教会
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法輪院、中の様子。
石山寺 寺・神社・教会
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島崎藤村の詩碑。
島崎藤村〜石山寺にハムレットを納むる辞より〜
湖にうかぶ詩神よ 心あらは 落ちゆく鐘のこなたにも 聴けや 千年の冬の夜ごとに
石山の 寺よりひびく読経のこえ
この場所が茶丈庵の跡地で東池坊蜜蔵院の旧地となっています。 -
京阪バス石山寺山門前バス停。
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田舎の赤バス?京阪バス?快走中♪
瀬田川 琵琶湖リバークルーズ 乗り物
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石山寺港にて。
瀬田川 琵琶湖リバークルーズ 乗り物
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リバークルーズは冬季期間は運休しています。
瀬田川 琵琶湖リバークルーズ 乗り物
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石山寺郵便局です。風景印があります。
石山寺郵便局 名所・史跡
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朗澄大徳ゆかりの庭園(ろうちょうだいとくゆかりのていえん)
約八百年前の中興の祖 朗澄律師(ろうちょうりっし)(一一三一〜一二〇九)は、石山寺屈指の名僧で、天資聡明(てんしそうめい)の人であり、教学のほか図像画(ずぞうが)にも卓越し、白描図像(はくびょうずぞう)等書写された物が大量に残されています。又、多宝塔(国宝)内部の壁画も朗澄律師の筆によるものではないかと言われています。
朗澄律師は没後、石山寺経蔵の一切経、並びに聖教(しょうぎょう)を守護し、万民の降魔招福(ごうましょうふく)の為、鬼の姿となることを誓い、承元三年五月十四日入寂(にゅうじゃく)されました。
石山寺縁起絵巻(重文)
「第六巻第二段」詞書(ことばが)きより
石山流の師、文泉坊朗澄(ぶんせんぼうろうちょう)は死後には鬼の姿となり多くの畜生類を連れてこの聖教(しょうぎょう)を護り、法に従わない人を改めさせると言っていた。
朗澄の死後、その生前に秘法を伝授された弟子の行宴(ぎょうえん)は、師の居られる所はとこかと熱心に祈っていたら、ある時夢に彼の山の峰の松の梢にその姿が現れた。夢が覚めて急ぎその場所に行くと、虚空(こくう)に声がして定印(じょういん)を結んで両眼にあてて見よという。その通りにすると、金色の鬼が四方を見渡し、厳しい表情であった。画面は山谷が連なり、松樹の上に生前に語られた通り鬼のような姿で師の朗澄が示現(じげん)したのである。
大本山 石山寺
石山寺東大門を出て石山寺郵便局を過ぎたところにあります。石山寺屈指の名僧朗澄律師の功績を称える庭園です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん朗澄大徳ゆかりの庭園 名所・史跡
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伽藍山公園の碑。
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蛍谷公園付近の様子。
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京阪石山寺付近の?石山寺観光案内図?。
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蛍谷の名称由来。
かつて、夏になると、この少し南の谷から蛍が多く出て、瀬田川を飛び交っていたところからその名が付けられたと伝えられています。平安時代には下流の黒津とともに、蛍の名所として京都・大阪から多くの見物客を集め、にぎわっていました。 -
東海自然歩道の案内。
牛尾観音参道を通って国分へとぬけて行きます。 -
京阪石山寺駅へとやってきました。
石山寺駅 駅
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京阪石山寺駅に停車中の2種類の600系車両。
石山寺駅 駅
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京阪石山寺駅の行先表示板。
行先は?坂本行き?と?近江神宮行き?の2種類です。石山寺駅 駅
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1番線に600系ラッピングトレイン?レイクスターズVer?が入線して来ました。
石山寺駅 駅
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スピードがゆっくりなので…。
石山寺駅 駅
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普通に入線模様が撮ることができます。
石山寺駅 駅
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こちらに乗って京阪膳所へと向かいます。
石山寺駅 駅
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京阪膳所駅まで乗車し、ドコモショップ大津店へと寄った後、湖岸道路(国道422号線)を石山方向へと歩いています。
近江大橋の様子。大津湖岸なぎさ公園 公園・植物園
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膳所城跡公園です。
淡海の湖城のひとつ~膳所城(跡公園)~ by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん膳所城跡公園 公園・植物園
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いつもの平和堂石山店まで戻ってきました。
平和堂石山 スーパー・コンビニ・量販店
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駅前へと戻ってバスに乗ります。
石山駅 駅
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やっと帰ってきました…。
京阪バス (大津エリア) 乗り物
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この旅行記へのコメント (1)
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- ラムロールちゃんさん 2015/12/13 23:14:34
- こんばんは〜
- 石山寺、高校生の頃、行きました。
でも、「紫式部の人形、怖かった!」と、梅を見た、ということしか覚えてなくて…。
こんなに見どころがあったんですね。
せっかく行ってて、もったいない話です(-_-;)
ラムロール
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