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大融寺は2013年の晩秋、今年同様の大阪方面在住の旧友との会合があり、会合時間前に訪れる予定だったが間に合わず、会合終了後訪れては見たものの、既に閉館時間を過ぎており、芭蕉の句碑には会得ず仕舞いであった所。<br /><br />芭蕉は奥の細道の旅を終えた5年後の元禄7年(1694)9月、初めて大阪に足を踏み入れた。<br /><br />来阪の目的は単なる吟行の旅では無く、大阪在住で反目し合う門人の二人、之道と酒堂の仲の仲裁であった。<br /><br />旅疲れに輪を掛け、仲裁は失敗に終わり、芭蕉は体調を崩す。<br /><br />それでも大阪の門人に請われて彼方此方で句会を催すが、9月27日、大阪の門人、斯波園女(しばそのめ)宅でので九吟歌仙が、芭蕉が参加した園女同席の最後の句会となる。<br /><br />その時詠んだ句が<br /><br />  白菊や 目に立て見る塵もなし  芭蕉<br /><br />芭蕉の句の中でもその美しさが心に残り、句碑が建つ太融寺訪問にこだわった。<br /><br />後で知ったことだが、園女は伊勢の神官の娘で、医者に嫁いで間もなく芭蕉の門人となり、その後大阪に移住したらしい。<br /><br />この句は、芭蕉を招いた若く美しい句会の主人への芭蕉の挨拶と知って腑に落ちた。<br /><br />美しさの変わらぬ園女との再会は、病んで疲れた芭蕉の心に一抹の潤いを与えたに違いない。<br /><br />園女宅での句会の半月後の10月12日、芭蕉は南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷でこの世を去る。<br /><br /><br />太融寺は曾根崎警察署前を東に進み、御堂筋を横断して直進した右手に建つ。<br /><br />西門の脇に「源融公之舊蹟」と刻まれた石碑が建つ。<br /><br />元祖は弘法大師で嵯峨天皇の命によりここに寺を建て、後に嵯峨天皇の皇子の”源 融”がここに七堂伽藍の大寺院を建立したとされる。<br /><br />”太融寺”はこの”源 融”に因んで名付けられた。<br /><br />目指す芭蕉の句碑は本堂の向かって右手角の、百日紅の花の下にひっそりと佇んでいた。<br /><br />横の案内板が無ければ、石碑の字を判読するのは難しい。<br /><br />碑の形状は良いのだが、頭に描く園女の印象からは、碑の色はやはり純白であったら・・と思うのだが?。<br /><br /><br />驚いたことに太融寺の一角に、六輪塔の”淀殿の墓”が置かれていた。<br /><br />「明治10年大坂城外鴫野弁天島より当寺に改葬された。」らしい。(太融寺ホームページ)<br /><br />しかし乍ら”芭蕉の句碑”も”淀殿の墓”も何故太融寺に建っているのだろう。<br /><br />明確な答えは今のところ見つかっていない。<br /><br />周りがすっかりビル群に囲まれた太融寺は、宝塔の朱色がビルの白い壁を背景に際立って美しい。<br /><br /><br />太融寺ホームページ<br />http://www.evam.ne.jp/taiyuji/<br /><br /><br /><br />前回訪れた陽が暮れた大融寺周辺<br />http://4travel.jp/travelogue/10877778<br /><br /><br /><br />2015晩夏家族旅行プラス(目次)に戻る<br />http://4travel.jp/travelogue/11063011<br /><br />2015晩夏家族旅行プラス2;大阪寸描  (目次)に戻る<br />http://4travel.jp/travelogue/11069100

2;大阪寸描2−1;芭蕉の句碑に会いに・太融寺

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2015/09/15 - 2015/09/15

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WT信

WT信さん

大融寺は2013年の晩秋、今年同様の大阪方面在住の旧友との会合があり、会合時間前に訪れる予定だったが間に合わず、会合終了後訪れては見たものの、既に閉館時間を過ぎており、芭蕉の句碑には会得ず仕舞いであった所。

芭蕉は奥の細道の旅を終えた5年後の元禄7年(1694)9月、初めて大阪に足を踏み入れた。

来阪の目的は単なる吟行の旅では無く、大阪在住で反目し合う門人の二人、之道と酒堂の仲の仲裁であった。

旅疲れに輪を掛け、仲裁は失敗に終わり、芭蕉は体調を崩す。

それでも大阪の門人に請われて彼方此方で句会を催すが、9月27日、大阪の門人、斯波園女(しばそのめ)宅でので九吟歌仙が、芭蕉が参加した園女同席の最後の句会となる。

その時詠んだ句が

  白菊や 目に立て見る塵もなし  芭蕉

芭蕉の句の中でもその美しさが心に残り、句碑が建つ太融寺訪問にこだわった。

後で知ったことだが、園女は伊勢の神官の娘で、医者に嫁いで間もなく芭蕉の門人となり、その後大阪に移住したらしい。

この句は、芭蕉を招いた若く美しい句会の主人への芭蕉の挨拶と知って腑に落ちた。

美しさの変わらぬ園女との再会は、病んで疲れた芭蕉の心に一抹の潤いを与えたに違いない。

園女宅での句会の半月後の10月12日、芭蕉は南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷でこの世を去る。


太融寺は曾根崎警察署前を東に進み、御堂筋を横断して直進した右手に建つ。

西門の脇に「源融公之舊蹟」と刻まれた石碑が建つ。

元祖は弘法大師で嵯峨天皇の命によりここに寺を建て、後に嵯峨天皇の皇子の”源 融”がここに七堂伽藍の大寺院を建立したとされる。

”太融寺”はこの”源 融”に因んで名付けられた。

目指す芭蕉の句碑は本堂の向かって右手角の、百日紅の花の下にひっそりと佇んでいた。

横の案内板が無ければ、石碑の字を判読するのは難しい。

碑の形状は良いのだが、頭に描く園女の印象からは、碑の色はやはり純白であったら・・と思うのだが?。


驚いたことに太融寺の一角に、六輪塔の”淀殿の墓”が置かれていた。

「明治10年大坂城外鴫野弁天島より当寺に改葬された。」らしい。(太融寺ホームページ)

しかし乍ら”芭蕉の句碑”も”淀殿の墓”も何故太融寺に建っているのだろう。

明確な答えは今のところ見つかっていない。

周りがすっかりビル群に囲まれた太融寺は、宝塔の朱色がビルの白い壁を背景に際立って美しい。


太融寺ホームページ
http://www.evam.ne.jp/taiyuji/



前回訪れた陽が暮れた大融寺周辺
http://4travel.jp/travelogue/10877778



2015晩夏家族旅行プラス(目次)に戻る
http://4travel.jp/travelogue/11063011

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一人旅
交通手段
私鉄 自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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