2015/10/19 - 2015/10/19
217位(同エリア771件中)
元カニ族さん
「城址公園」という名前に魅かれて、横浜市都筑区の地下鉄「センター南駅」付近にある「茅ヶ崎城址公園」訪れました。その名前から石垣などが残る城跡を予想して訪れましたが、私の予想は外れ、石垣は全くなくて、自然を利用して築城した「空堀」「郭」「土塁」が良好な形で残る貴重な中世城郭遺跡でした。標高は28〜35メートルあり、最高所は中郭南西隅の土塁上で、およそ40メートルです。
茅ヶ崎城は14世紀末〜15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなりました。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられました。築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されています。
16世紀末までには、城としての役割は終わります。江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山(じょうやま)」という地名で、今日まで保存されてきました。
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- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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横浜市営地下鉄「センター南駅」から見えた「茅ヶ崎城址公園」のある丘です。
センター南駅 駅
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城址公園の丘近づきました。
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茅ヶ崎城址公園の入口に着きました。
茅ヶ崎城址公園 公園・植物園
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入口にあった案内板にあった「茅ヶ崎城址公園」の地図です。
茅ヶ崎城址公園 公園・植物園
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茅ヶ崎城址公園の説明です。表紙に書いた内容のことが書かれています。
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公園の入口から内部に入って行きます。
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左へ行けば「北廓」「中廓」、右に行けば「西廓」の分岐点です。先ず右に行ってみました。
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右に行くと「虎口(小口、こぐち)」の案内板がありました。虎口は城の出入り口はのことでです。
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説明板によると、
いざというときに、すぐに封鎖できるように、また敵が侵入しにくいように、できるだけ幅を狭くしています。
また、城の防御と攻撃の両面において重要な場所であり、様々な工夫が加えられます。「横矢(よこや)」という侵入しようとする敵に横から矢を射掛けるための構造や、屈曲した堀などの「折邪(おりひずみ)」とよばれる構造が見受けられます。
と書かれていました。 -
当時工夫が感じられる道です。
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道にそって「空堀(かたぼり)」の説明板がありました。
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説明板によると、
堀は水の有無によって水掘と空堀に分けられます。水掘は主に低地の城につくられ、堆積物で埋まりやすい難点があります。水がしみ通ってしまうローム層を基盤とする横浜の城では空堀が多くつくられました。空堀は底が土で、その形状は横断面が逆台形の「箱堀(はこぼり)」が多く見られました。
茅ヶ崎城址の堀は、両側の壁が70度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていました。
と書かれていました。 -
西廓に登る階段がありました。
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西廓の跡です。
『郭』(くるは)とは、堀や土塁、石垣などで囲まれた区画をいい、「曲輪(くるわ)」とも表記されます。江戸時代には「丸(まる)」とも呼ばれたところです。 -
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先ほどの分岐点に戻り、北廓に向かいました。
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北廓は草が刈られて広々としていました。
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井戸の説明板があり、
茅ヶ崎城址の北郭で上端の直径約4メートル、深さ5メートルほどの井戸が見つかっています。この井戸の湧水量は極めて多く、使用時にはかなりの量の水を確保できたと考えられます。遺構確認面から井戸底まですべてに水がたまっていたと仮定すると20リットルポリタンク約1,000本分にも達します。
と書かれていました。 -
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「北部土橋」と「土橋」の説明板がありましたが、北廓に居ては、どこを説明しているのかわかりません。
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北廓の外に出てみようといたら、こちらに立派な入口があり、ここから外の道路に出ました。
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道路の出ると、真新しい石垣があり、その上に「土橋」の標識が立っていました。
土橋は「虎口(こぐち)」とよばれる、城の出入り口に設けられる施設です。北郭土橋は、郭周辺の空堀の一部を堀り残してつくられます。 -
少し離れて見ましたが、どの部分が土橋なのか良くわかりません。
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北廓に戻り、中廓に向かいました。
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中廓に入り階段です。
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中廓も草が刈られて、広々としていました。
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土塁の説明板があり、
『土塁』とは堀を掘った土を盛って築き上げた堤のことで、敵を阻止し反撃する際の足がかりとする役割がありました。したがって、規模の大きな土塁ほど防御効果が大きいといえます。
と書かれていました。 -
説明板の背後に見られた土塁の跡です。
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「遺構」と「倉庫の発見」の説明板には、
発掘調査の結果、中郭南東部は倉庫地区であることが明確となったと書かれていました。 -
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倉庫の遺構です。
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東廓に向かいました。
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途中「根小屋」の説明板がありました。これには
根小屋(ねごや)とは、城下町というものがまだない時代の、城主や重臣達の居住地区のことです。この時代の城主は普段は本丸や主郭に居住せず、郭の麓につくられた根小屋で生活し、いざ戦となったときにのみ、城に籠もりました。
茅ヶ崎城址では南・東の崖面裾に幅10〜20メートル、東西600メートルに及ぶ平場が展開しており、14世紀から15世紀に蔵骨器や板碑などから成る墓地を伴う屋敷があったと考えられています。
と書かれていました。 -
根小屋のあった範囲です。
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途中「中郭土橋」の説明板がありました。これによると
中郭と東郭は上幅14メートル・深さ7メートルの堀によって隔てられていますが、その中央部は土橋によって連結されていました。
土橋は上幅約2メートル・下幅約15メートルで、上面は中郭より約2メートル・東郭より4メートル低くなっていました。
このため中郭への上り下りは容易ですが東郭方面は何かに掴まらないと登れないほどの急傾斜でした。
調査の結果、この土橋は地山を掘り残したのではなく、盛り土によって形成されていたことがわかりました。土橋の下には空堀があり、中郭東側と東郭の土塁は失われていることから、城の後半または廃絶後に通路としてつくられたようです。
と書かれいました。 -
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急な階段を登って、東廓に向かいました。
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東廓に着きました。
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『東郭』の説明板には
東郭は城の中でも最も高い位置にあり、「中原街道」や「矢倉沢街道」の街道筋を見渡せるほど見晴らしがよいため、物見台の役割を持っていました。
また、城郭の中でも最高所にあるため、戦の際には最後に逃げ込んで籠城する場所と推定されています。
と書かれていました。 -
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東郭です。ここは城内で一番標高の高い所です。
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この後、しばし城址公園の内部の小道を散策して帰宅しました。
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