2015/08/17 - 2015/08/19
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ちびのぱぱさん
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幕末ファン(そんなものあるの?)にとって、江差を外すことはできない。
- 旅行の満足度
- 4.5
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江差ソーラン国道をひた走る
はるばる余市から日本海をなぞるようにして300キロあまり、国道229号線は江差が終点になります。
厳密に言うと、始点は江差で終点は小樽なのですが、厳密に言う気は毛頭ありません。
江差に入ってそのまま進めば、このような鄙に似つかわしくない帆船のマストが見えてきます。
なんだか、シュールな眺め。
その当時は、もっとシュールな眺めだったろうなあ。 -
幕末の戦艦ヤマト
1868年11月、江差沖で暴風雪のため座礁沈没したはずの開陽丸が、静かに係留されています。
今から25年前の1990年に、13億5千万円の巨費を投じて再建されたものです。
内部は海底から引き上げられた遺物の展示が行われ、大砲の弾などがごろごろと置かれていました。 -
執念の海底調査
江戸幕府が、大枚を払ってオランダに作ってもらった最新鋭の軍艦でした。
榎本武揚を描いた「武揚伝」や、土方歳三を主人公にした「燃えよ剣」といった小説で読んでいるものだから、他人とは思えない。
小説は所詮小説ですが、歴史だって所詮歴史。
海底から引き上げられた小さな遺物一つで、ひっくり返ることだってある。
この場合ひっくり返ったのは開陽丸だった。
開陽丸は明治初期に引き上げ作業が行われ、もう海底には無いと考えられていたと言います。
それを執念で探し出し、いまだ多くの遺物が海底に眠っていることを突き止めた方がいる。
江差の石橋さんという方だそうです。
さしずめ、江差のハインリッヒ・シュリーマン。
昭和49年から始まった再調査は、日本における海底考古学の魁となり、引き上げられた品々は3万点にも及ぶといいます。 -
かもめ島
さしずめこちらは、江差の江ノ島。
昔の江ノ島の雰囲気です。
こういう雰囲気の場所が、北海道でもあったのかと感慨に浸る。 -
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ニシン伝説
むかしむかし、この少し先の津花というところに住んでいた一人のおばあちゃんが、神様から、お告げとともに酒ツボ(瓶子へいし)を受け取り、それをこの海にまいたらニシンが来るようになったそうな。
そのツボは、やがて岩になったそうな。
相当でっかいツボだなあ。
これに入った酒を海にまくといのは、おばあちゃんも相当でっかかったのだろうか。 -
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かもめ島を巡る木道の先に、そのむかし北前船を係留していたという杭が残っています。
この杭は江戸時代から残っているとすると、そうとう杭が残りますね。
高田屋嘉兵衛も、ここに繋いだのだろうか。
「菜の花の沖」読みました。 -
いにしえ街道
江差の町の目抜き通りは、「いにしえ街道」というネーミングがなされていますが、もとをただせば姥神津花通といいます。
津花というのは、先ほどの酒つぼのおばあちゃんが住んでいたところです。
そして、そのおばあちゃんを祭ったのが姥神神社。 -
1216年に津花に創建されたものを、1644年にこの場所に移されたそうです。
松前藩主からも、深い尊崇を受けたとか。
それがもとで、幕府にお取りつぶしになりそうになったとか。
いろいろあります。 -
しばし、街道を行く。
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街道からしゃれた洋館が目に入りました。
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北海道に唯一残る郡役所だということです。
建物の前で、腰が痛そうに立っている木がありました。 -
有名な「嘆きの松」ですね。
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建物内
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嘆きの松
江差沖にとめてあった開陽丸は、折からの暴風雪に煽られ、座礁してしまったと言います。
江差を急襲した新政府軍を討つために函館から駆けつけたんですが、とんでもないことになってしまった。
頼みの綱が断たれるとはこういうことを言うのでしょう。
やがて沈没する開陽丸を、なすすべもなく、ここから見守ったんだなあ。
土方歳三と榎本武揚は、ともにこの松の幹を拳で叩いて無念がったという。
松の方も、それがだいぶ痛かったのか、すっかり腰が曲がってしまった。
土方歳三も松も、ともに痛かったんですな。
沖田十三も戦艦ヤマトを失ったら、一巻の終わり。 -
ふたたび、街道を行く
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えらいと思うのは、電線を埋設しているところ。
もうちょっと、木を配したりするのは邪道なのだろうか。 -
江差の五月は江戸にもない。
鰊漁は、この地に大きな富をもたらしたわけだけど、その鰊が幻のように消えたこともまた、江差が当時の面影を今に伝える上で意味があった。
そんなふうに、考えてみました。 -
この北辺の地に、江戸と変わらぬ品揃えの店が並んでいたとか。
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旧中村家住宅は重要文化財の指定を受けています。
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北前船で福井から運んだ笏谷石(しゃくだにいし)が、堅固な土台となって今でも寸分狂わず屋敷を支えている。
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下の国道からも旧郡役場が見えます。
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その向かいに江差追分会館。
時間制で、500円で正調江差追分のライブを聞けます。 -
国道から再びいにしえ街道に戻ります。
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どっちを閉めるんだろう
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重厚な建物が多く、琥珀の中に閉じこめられたかのような町を後にして、国道227号線を東に向かいます。
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こういうのを運命の出会いというのだろうか。
国道をしばらく走ると、「?城跡」というサインを見かけました。
はてここは本州だったかしらと首をひねり、車を脇に寄せてiPadで調べてみると、?城といのは松前藩が榎本武揚率いる旧幕府軍との戦に備えて築城したものであることが判明。
この辺りの経緯は、小説などで読んでいたと思うのだけど、実際の地理と頭の中の地理がちりぢりになって、全くの想定外でした。 -
松前藩の悲劇
松前藩は、アイヌを虐げて暴利をむさぼる場所請負人(商人)たちの上にあぐらをかいていたイメージがあるのだけど、実のところはそれほど単純ではなかったろうなと、ここに来て思うようになりました。
明治維新に続く戊辰戦争のさなか、東日本を戦火に包む進撃の旧幕府軍。
幕藩と尊皇で揺れる藩内。
やがて新政府側に付く。
進撃の榎本軍を迎え撃つべくこの?の地に城を構えることにする。
1868年9月1日から普請を始めて10月25日には何とか形を整える。
たったの55日。
最新鋭の軍艦を持つ旧幕府軍は、すぐそこまで迫っていた。
榎本武揚率いる旧幕府軍との戦争、函館戦争は、函館府がさっさと軍を引いたため函館自体はあっさりと陥落。
継いで松前が攻撃を受けるわけですが、そのころには藩主は築城間もない?城に移動している。
松前はあっさりと陥落し、つづいて江差も旧幕府軍が落とす。
しかしこの際に、暴風雪で幕府軍は虎の子の開陽丸を失ってしまうわけです。
やがて旧幕府軍は、この?城にも迫り、急造の?城は堪えきれずに落城します。
完成からわずか75日後のことでした。 -
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本丸といっても天守はなく、武家屋敷の集合体のようなものだったという。
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残っているのは礎石だけ……
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近くに掲示板のような「資料館」があります。
その隣にはどなたの作か「天守」も。 -
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いろいろなものが出土し、つかの間の?藩の様子を語り伝えている。
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豪傑の最後
1868年11月15日朝9時に、?城を取り囲んだ旧幕府軍による一斉攻撃が始まる。
この坊主頭に陣羽織の豪傑は三上超順といいます。
ついに正門を破られ、なだれ込んでくる幕府軍を、左手にまな板で銃弾を防ぎ、右手に刀の装備で一人立ち向かう。
ええいこしゃくな賊軍が!
どこからでもかかってこい。
相手の指揮官伊奈誠一郎を斃すも多勢に無勢、あえなく討ち死にします。
もとは僧侶であったのが、その剛気ゆえ藩主に気に入られ側近の正義隊に召し入れられた経緯があります。
この人が、松前藩を新政府側に持って行った張本人のようです。
?城を落とした旧幕府軍も、その豪傑ぶりを称えて手厚く葬ったのだとか。
享年は34才。
この頃の人の、平均寿命かな…… -
辺りは、静けさを打ち破るように蝉たちの合唱が響き渡ります。
その音はまた、合戦のよう。 -
空蝉たちは、まるでいまだ中身が抜けたことに気付かないかのように、桜の葉にしがみついておりました。
蝉たちよりは長生きをした、明治維新の頃の志士たち。
このあと、旧幕府軍を率いたもう一人の英雄土方歳三もまた、34才の命を散らそうとしていました。
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