2015/05/27 - 2015/05/27
16位(同エリア128件中)
ベームさん
5/27(水)、9日目。
ドナウヴェルトからアウクスブルクにやって来ました。ロマンチック街道の旅後半に突入です。
アウクスブルク:人口約28万人、ロマンチック街道最大の都市です。
紀元前15年頃ローマ帝国皇帝アウグストゥスの時代にローマ軍の駐屯地が置かれ、ローマとアウクスブルクを結ぶヴィア・クラウディア・アウグスタ街道が造られ商取引の要所として発展。
4世紀には司教座がおかれ司教領主の支配する地でしたが商業の発展と共に市民が力を強めていき、1276年都市権、1316年には帝国自由都市となる。今も市庁舎の正面には帝国自由都市のシンボル双頭の鷲が誇らしげに描かれています。
16世紀前半の宗教改革の渦中でアウクスブルクはたびたび重要な場面の舞台となっています。特に1555年のアウクスブルク宗教和議は重要で、カトリックとプロテスタントの一応の和解が成立しました。
15世紀後半から16世紀後半にかけ黄金のアウクスブルクと呼ばれその全盛期をむかえます。特に豪商フッガー家はその財力に物を言わせ、神聖ローマ帝国の皇帝選挙の行方も左右するほどでした。しかしさしものフッガー家も16世紀後半にはスペイン・ハプスブルク家への貸付金の焦げ付き、鉱山業の競争相手の台頭などで衰退を始めます。今ではフッガー銀行として名を遺しています。
1806年、神聖ローマ帝国の消滅によりバイエルン王国に併合されました。
そのように歴史ある町で見どころも多いので旅行記はその1とその2に分けました。
写真は市庁舎とペルラッハの塔。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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丸印が訪問地。
ロマンチック街道の後半に入ってきました。 -
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ドナウヴェルト10:25発のRBでアウクスブルクへ。
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アウクスブルク11:02着。
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アウクスブルク駅。
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ケーニヒ広場/王の広場。
ホテルはケーニヒ広場の傍のオスト・アム・ケー、駅から10分ほど歩きました。 -
ケーニヒ広場のバスターミナル。
ケーニヒ広場は市内各方面に行くバスが発着する交通の要所です。
チェックインまで20分待てというので先にすぐ近くの聖アンナ教会に行きました。 -
聖アンナ教会。
1321年建立。 -
エヴァンゲリッシュ・ルター教会 ザンクト・アンナ。
1518年、95か条の提題を表してローマ教会と対立したマルチン・ルターが教皇の特使から審問をうけるためこの教会に滞在しています。
アウクスブルクの豪商フッガー家の礼拝堂、墓所があるのもこの教会です。。 -
主祭壇方向。
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後方。
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後方には大きなパイプオルガン。
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身廊の天井。
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エヴァンゲリッシュの教会にしてはかなり華やかです。
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外観からは思えない立派な教会です。
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後陣の天井。
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主祭壇。
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キリストの復活。
キリストは死してのち三日後に復活します。 -
回廊。
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古い墓碑。
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墓碑銘が並んでいます。
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古いフレスコ画のようで剥げてきています。
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キリスト昇天の場面?。
絵の一番上に天に昇るキリストが描かれています。 -
ルター・シュティーゲ/ルターの階段を上がると宗教改革記念室があります。
1517年、「95か条の提題」を表しローマ教会に反旗を翻したマルチン・ルターは1518年10月、ローマ教皇の特使から審問をうける間ここに滞在しました。 -
階段の途中には宗教改革の流れが年譜で掲示されています。
1415年コンスタンツの宗教和議でのヤン・フスの処刑。
フスのローマ教会批判は宗教改革の先駆けとされ、マルチン・ルターはフスに非常に影響を受けている。 -
1450年グーテンベルク活版印刷術発明。
これにより聖書などの大量印刷が可能になり、その民衆への普及が実現。 -
1483年マルチン・ルター誕生。
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1516年ロッテルダムのエラスムス、ギリシャ語の新約聖書出版。
宗教改革はエラスムスが卵を産みルターが孵したとも言われます。 -
1546年ルターの死。
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記念室入口。
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シュマルカルデン戦争(1546~1547年)の主役たち。
皇帝軍(カトリック)とシュマルカルデン同盟軍(プロテスタント)との闘い。一応皇帝軍の勝利に終わりました。
左上:神聖ローマ帝国皇帝カール5世。ティチアーノ作。
右上:ザクセン選帝侯モーリッツ。クラーナハ作。
左下:ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ寛容公。クラーナハ作。
右下:アウクスブルク市司令官セバスチャン・シェルトリン。
戦いはモーリッツの裏切りによりシュマルカルデン同盟軍の敗北となった。そのためモーリッツは「ザクセンのユダ」と呼ばれた。
この時ルターはすでに死んでいました。もし生きていたらどうなっていたか分かりません。なにしろ皇帝軍の勝利後、皇帝側の大将アルバ公が「ルターの墓を暴いて骨をさらし者に」と皇帝に迫ったといいますから。さすが皇帝は拒否しました。 -
1648年ヴェストファーレン/ウエストファリア条約締結、ドイツ30年戦争終わる。
この絵はよく分かりませんが推測するに伝令が戦争終結を触れ回っているようです。
荒れ果てた国土です。 -
宗教改革上のアウクスブルクでの画期的出来事。
1518年:ルターの滞在、ローマ教皇の審問。
1530年:カール5世帝国議会開催、新旧両派の和解を図るが失敗。メランヒトン「アウクスブルク信仰告白」提出。
1555年:アウクスブルクの和議。一応新旧の対立収まる。ルター派の信仰の自由が認められる。
等々。 -
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ルターが持ち歩いた旅行用トランク?。
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左:ルターの援護者。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世賢公と盟友フィリップ・メランヒトン。
右:ルターの対立者。教皇レオ10世と皇帝マキシミリアン1世。 -
服装など当時の民衆の風俗が分かります。
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1708年にニュルンベルクで印刷出版された聖書。
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教会の前の広場。
昔のアウクスブルクの金細工のマイスター像。
アウクスブルクは昔から金銀細工が盛んな町です。 -
ホテルにチェックインしてトラムでモーツアルトハウスに行きました。
赤い建物です。 -
レオポルト・モーツアルトの生家。16世紀後半の建物。
1719年11月14日この家で生まれ1787年ザルツブルクで没。 -
ザルツブルク宮廷作曲家、ヴァイオリン奏者であると同時に有能なヴァイオリン教師でした。
彼の著わしたヴァイオリン教則本の幾つかです。 -
彼の指導、教育が無ければ息子ヴォルフガンク・アマデウス・モーツアルトの天才も花開かなかったかもしれません。
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レオポルト・モーツアルトと妻アンナ・マリア・ヴァルブルガ・ペルトゥル。
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左:マリア・アンナ・モーツアルト。愛称ナンネル。ヴォルフガンクの姉。
音楽の才能があったが弟の陰に隠れてしまった。1751~1829年。
右:ヴォルフガンク・アマデウス。モーツアルト。1756~1791年。
12歳の姉と7歳の弟は両親とともにヨーロッパ中を演奏旅行をして大喝さいを浴びている。 -
マリア・アンナ・テクラ・モーツアルト。愛称ベーズレ。
ヴォルフガンクの従姉妹で初恋の人。1758~1841年。 -
右:コンスタンツェ・ヴェーバー。
モーツアルトの妻。作曲家ウェーバーの従姉妹。1762~1842年。80歳と長命でした。
一般にコンスタンツェは悪妻で、モーツァルトの死を早めたと言われていますが、確かに良妻ではなかったがそれほどの悪妻でもなかったようです。モーツァルト自身ぞっこんコンスタンツェにほれ込んでいました。
二人の間には6人もの子供が生まれています。もっとも満足に育ったのは二人だけでした。 -
モーツァルト25歳の時、父レオポルトにあてた手紙。
「私の愛情の対象は誰だかわかりますか?・・・。僕の愛しているコンスタンツェは(姉妹の中で)一番善良で、・・・、心の正しいまめまめしい娘です。浪費癖もないし、小綺麗だし、髪もきちんと自分で結います。世界中に妻としてこれ以上の女性を望めるでしょうか・・・」
コンスタンツェの姉のアロイジアに失恋した後のことです。 -
フランツ・クサーヴァー・モーツアルト。
モーツアルトの息子。作曲家、ピアニスト。1791~1844年。
モーツアルトの死の年に生まれている。 -
演奏するモーツアルト一家。父レオポルト、ヴォルフガンク、姉マリアンナ・モーツアルト。
モーツアルト8歳。
数少ない歴史的なモーツアルトのリトグラフで、父レオポルト自ら(売り込みのため)ヨーロッパ中に宣伝したそうです。 -
マリア・テレジア。1717~1780年。
モーツアルト一家は1762年10月13日初めてウイーンで謁見しています。
この時6歳のモーツァルトが7歳のマリー・アントワネットに求婚したというエピソードが語られていますが、これは疑わしいでしょう。 -
館内の展示品。
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ヨハン・アンドレアス・シュタイン製作のハンマーフリューゲル/フォルテピアノ。
シュタインはアウクスブルクに住み、レオポルトの最も親しい友人の一人でした。
21歳の時就職活動のためパリに向かったモーツァルトはアウクスブルクに立ち寄り、改良されたシュタインのピアノを弾いて驚喜したらしい。それまで弾いていたハープシコードや旧式のピアノとは比べ物にならなかった。 -
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モーツアルトは父や母、姉とヨーロッパじゅうを演奏旅行して回りました。
その当時の馬車でしょう。がたごと道を走る馬車にモーツアルトは”とてもお尻が痛かった”と悲鳴を上げています。 -
モーツアルトが演奏旅行で訪れた町。
イタリア。 -
ドイツ、フランス、オランダ、イギリス。
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歩きながら南に下って行きました。
アウクスブルク聖マリア大聖堂です。 -
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アウクスブルク司教の教会、大聖堂として904年に建築開始。
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永年に亘る増改築のため複雑な形です。
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南門。1370年頃。
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南門のタンパン。
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ねこの顔に見える扉の把っ手。
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五つの身廊と側廊を持つ大きな聖堂です。
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側廊。
柱にホルバインの祭壇画が掲げられています。 -
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林立する柱が印象的です。
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主祭壇裏のステンドグラス。
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豪華な祭壇がいくつもあります。
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拡大。
左端に聖顔布を持つ聖ヴェロニカがいます。 -
下部拡大。
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聖母マリアと手風琴を弾く天使。1490年頃。
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キリストのゲッセマネの園の祈り/オリーヴ山の祈り。
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以下4枚、ハンス・ホルバインの祭壇画。
マリアの生涯を描いています。
1493年。 -
ホルバインはアウクスブルクの生まれで、有名な同名のハンス・ホルバインの父です。
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ピエタ。
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高さ15mのクリストフォロスのフレスコ画。
1491年。 -
聖クリストフォロス。
川の渡し守だった。あるとき小さな子供が川を渡してくれと云う。子供を肩に載せ川を渡り始めるとだんだん子供が重くなっていき渡り終わった時は耐えきれないほどに重くなっていた。
向こう岸に着いたとき子供は名乗った。「私はイエスである」。クリストフォロスはキリストに帰依しのちに殉教して聖人になった。旅人の守護聖人。
肩の上に子供が乗っています。 -
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地下クリプタ。
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大聖堂から南に歩いて市庁舎前広場に来ました。
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アウクスブルク市庁舎です。
アルプス以北で最も重要な非宗教的ルネサンス建築、ドイツルネサンスの最高傑作と言われています。当初1620年の建築でしたが先の大戦で破壊され、今の建物は1962年に再建されたものです。
しかし元通りに再建された建物はその前に立つと威容に圧倒されました。 -
天辺の松ぼっくりはアウクスブルク市の紋章で古代ローマで豊穣のシンボルとされていました。古代ローマとアウクスブルクの強い結びつきが窺えます。
双頭の鷲は帝国自由都市の象徴です。 -
市庁舎の北隣に建つペルラッハの塔。98m。
11~12世紀に造られた土台の上に16世紀に鐘楼と屋根が増築されました。
上に登れるそうですがエレベーターが無いのでパス。 -
広場にはこの町の名前の由来となったローマ皇帝アウグストゥスの像のある泉があります。
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アウグストゥス。
ローマ帝国初代皇帝。紀元前63~紀元前14年。 -
市庁舎の黄金の広間です。
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奥行き33m、幅17m、高さ14mの大きなホール。
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全て金箔が貼られています。
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まさに黄金のアウクスブルク。
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天井。
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じっと見ていると目が眩みます。
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目まできんきらきんになりました。
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天井。
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隣りの部屋では姉妹都市長浜と尼崎市、それに日本の風俗などが紹介されていました。
なぜ長浜と尼崎市なのか。ウィキにこう書いてあります。
日本にヤンマーディーゼルという会社があります。その創業者山岡氏が戦前ディーゼルエンジンの研究でアウクスブルクを度々訪れていました。ディーゼルエンジンはルドルフ・ディーゼルがアウクスブルクで開発したのです。
その縁で山岡氏の奔走によりヤンマーの工場がある長浜と尼崎市がアウクスブルクと姉妹都市になったのです。 -
結婚式の着物。
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ホッホツァイツキモノ/結婚式の着物。
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説明書きには結婚式の着物を着た花嫁とあります。。
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日本の戦闘時の鎧、騎馬の侍、17世紀、と説明されていました。
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姉妹都市は他にもあるのに日本だけ特別扱いとは、最近の日本ブームですか。
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黄金の広間から覗いた市庁舎前広場。
アウグストゥスの泉。
その2に続きます。
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