2013/12/03 - 2013/12/03
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junemayさん
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浜名湖は何度か行ったことがあるけれど、連れ合いの第二の故郷である浜松の街は知らない。姫街道、天竜、奥浜名、掛川も歩いてみたいと思っていたところ、たまたまオンラインで見つけたホテルが3連泊取れそうな塩梅。新幹線なら東京から1時間だけれど、なんだかそれでは旅気分が出ないので、あえて渋谷からバスで出発。思い立ってからわずか1週間余りで実現の運びとなった旅でした。
12月3日(火)東京→浜松(復興記念館、浜松城、犀ヶ崖資料館、蜆塚古墳)
12月4日(水)浜松→奥山方広寺→神宮寺→龍潭寺→気賀→長楽寺→浜松
12月5日(木)浜松→磐田→掛川→浜松
12月6日(金)浜松→西鹿島→天竜二俣→秋野不矩美術館→二股城址→鳥羽山公園→西鹿島→浜松→東京
行きの車中で、真っ白な富士山が出迎えてくれました。お茶処牧之原も瞬く間に通り過ぎて、4時間後に浜松到着。駅から7,8分のホテル米久に荷物を預け、早速町歩き開始です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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車中からの富士山。最初くっきりとその姿を見せていた富士山は、あっという間に雲に覆われていきました。
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牧之原付近の茶畑通過中。確かバスは牧之原サービスエリアで休憩をとったような記憶。
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天竜川の彼方に、浜松のランドマーク アクトシティが見えてきました。
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東海道の交通標識・・・「国道1号線」と書いてあるより、こちらのほうが嬉しいですね。
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渋谷を朝9時過ぎに出たバスは、午後1時頃浜松に無事到着しました。このくらいの時間バスに揺られると、「はるばるやってきた!」という実感がわきます。
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浜松駅前地下道にあった、「浜松うなぎから東京は台東区のどぜう宛の果たし状」。
浜名湖の豊かな環境で育ったうなぎとくれば、おぬしとは比べ物にならないスタミナ源じゃ! と吠えていますが、私もそう思う。どぜうに勝ち目はないです。でも、なぜこんなところに果たし状があるのか、さっぱりわかりませぬ。 -
浜松で初めて見つけたマンホールはこれ!合流と呼ばれるもので、「汚水」と雨水」が両方流れ込むマンホールらしい・・・太陽を中心に、様々な模様が周りを取り巻いています。
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南米出身者が多い浜松ならではの町の風景から1枚。下はマラドーナでしょうか? とすると、上の絵はチェゲバラかな?
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街歩きは、まずは浜松復興記念館からスタート。太平洋戦争中、浜松は実に27回もの空襲を受け、市街地は焦土と化しました。この記念館は、戦後の長い復興事業が昭和58年に終了したことの記念に建てられたもので、古い資料や写真、記録などが展示、保存されています。
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復興記念館の近くにあった五社神社・諏訪神社。二つの神社の名前が併記されているのは、あまり見たことがありません。昭和35年に元々隣接していた二つの神社が法人格を一つにしたのだそうです。どちらの神社も戦前は国宝、重要文化財級の建物だったようですが、昭和20年6月18日に戦災により全焼しています。
五社神社は、2代将軍徳川秀忠の出生の地だそうです。 -
二一四番街区? これも住居表示? しようもないものばかり撮っていますね。
前に見える道をまっすぐに進むと、市役所前に出ました。市役所脇の駐車場奥の道を歩いていくと、目指すものが見えてきました。 -
少しはまともなものを撮ろうとは思っているのですが、木が邪魔して中々見ることが叶いません。そう、浜松城はこの先。見えそうで見えない・・・
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こちらは、浜松城本丸跡の公園内にあった、「若き日の家康公」という銅像。髭のせいか、あまり若くは見えません。それどころか、最初見たときは、「年老いた日の家康公」に見えました。彼がこの城にいたのは、29歳から45歳までの駿府城に入るまでの17年間だそうで、お城のガイドさんによると、40歳位の時の姿じゃないかなというお話でした。
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彼が手にしているのは、勝草(かちくさ)と呼ばれていたシダの一種だそうです。
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城に近づいても、やはり見えにくい天守閣。明治維新後に壊され、荒れ果てていた浜松城は、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建しました。
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どうしても木が邪魔で、トホホ…というような写真が続きます。
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やっと天守閣の下まで来ましたが、なんだい!この不細工な撮り方は!今度は近すぎて、やはりまともな写真が撮れません。
天守閣にはボランティアガイドさんが常駐していて、次々と面白い話を披露してくれるのでついつい長居。
有名な信玄との三方が原の戦いで、敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、家臣に咎められると、「これは味噌だ!」と言い放ったという有名な逸話は真偽のほどはわからないそうです。 -
まだ紅葉が残る天守閣からの眺めはなかなかなものでした。城は三方ヶ原台地の斜面に沿い、北西の一番高い場所に天守閣が作られています。
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お城から見た北西方面。遠くに見える低い山々は、明日行く予定の奥浜名の奥山や引差あたりだそうです。
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出世大名「家康くん」を祀った?「開運さま」という社。開運? 運の字はこれで合っているんでしょうかねえ。
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こちらは浜松城で有名な野面積みの石垣。テキトーに積んでいるという印象ですが、実は周到に計算され尽されているのだとか。奥行きの十分ある石を使うことで、上の石の荷重を下の石が重心に近い位置で受け止めることができるので、見た目よりずっと安定性が増し、また、隙間があることで排水も容易なことから、何百年も崩れずに持ちこたえることができるのだそうです。
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もう一度アップで!
綺麗に加工された石垣と比べると、崩れやすそうに見えますが、浜松城の石垣は、一部を除き、元亀元年(1570年)築城当時のままの姿です。なんと450年近くも持ちこたえていることには正直驚きました。
中にはハート形の石があるそうですが、残念ながら見つかりませんでした!
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すっかり長居してしまった城を後に。今度は姫街道を進んでいきます。姫街道とは、東海道の脇街道のひとつで、名前の由来は、取り調べが厳しいことで知られていた東海道の新居の関を避けて、主に女性たちが浜名湖の北側を通るこの街道を利用したことから名づけられたとされています。
姫街道、とてもロマンティックな響きですが、この辺りは大型ダンプやバスがひっきりなしに通る幹線道路で、私は静けさを求めて、途中から1本奥の道をたどりました。すると、こちらの看板が目に付きました。
犀ヶ崖(さいががけ)? -
そうそう、犀ヶ崖。つい先ほど浜松城でガイドさんが話してくれた三方が原の戦いのその後の話を思い出しました。敗走した家康の軍を追ってきた信玄の軍は、夜になり、犀ヶ崖辺りで野営をしていました。ここ犀ヶ崖は2kmに渡って続く大地の裂け目であり、当時、谷の深さは40mほどあったそうです。今でも覗き込むと底が見えないほど、大地に深い亀裂が走っています。
家康は暗闇に乗じて、浜松城近くの普済寺に火を放ち、城が炎上していると見せかけて敵の後ろ側に回り込み、急襲をかけて、信玄の軍をこの崖下に追い落したのです。地理に不慣れな信玄の軍は総崩れになり、馬もろとも多くが谷底に転落したという話、のちに信玄がこれを聞いて、「敵ながらあっぱれ」と言ったとか。 -
ここ犀ヶ崖には資料館があり、中には当時の戦いを再現したヴィデオなどが放映されていて、素人でもなかなか面白かったです。
三方が原での敗戦は、家康に多大なる影響を与えたようで、わざわざ絵師を呼んで描かせたという顰像(しかみ像)をみて、たくさんの兵を失った自分への戒めとしたそうです。
写真はお土産用の手拭いですが、有名な家康の遺訓「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」とセットで楽しめます?! -
外に戻って、再度犀ヶ崖を覗き込みます。写真ではなかなか伝わらないでしょうが、今でも下りていくのが大変そうな急峻な崖で、不意打ちに会ったらひとたまりもないことがよく理解できました。
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景色を見て、資料館でヴィデオを見て、もう一度景色を見ると、戦いのシーンが容易に想像できました。犀ヶ崖資料館。地味ですが、見応え充分お勧めスポットでした。
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師走の日の入りは早い。もうそろそろ日が傾き始めています。急がなくっちゃ!
姫街道から脇道に入りました。犀ヶ崖の戦いの際、家康によって火を放たれたという普済寺に寄ってみましたが、寺の境内はちびっ子たちのサッカー場と化していたので、遠くから眺めただけ。 -
続いて訪れた西来禅院。このお寺には、家康の正妻で、長男信康と長女亀姫を生んだ築山御前の墓があります。
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浜松市博物館を訪れたころには、もう日暮れ近く、閉館まであと10分しかないということで、入場を諦めました。いつもこの調子で、予定をすべて回ることが出来ません。
お手洗いだけお借りした際、ちらっと見えましたよ。物凄く大きなナウマンゾウの骨格が! -
仕方がないので、お隣の蜆塚遺跡を散策します。博物館には、この遺跡に関する出土品などの展示があったはずなのですが、取り急ぎ遺跡を回ってみましょう。
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蜆塚は縄文時代後期から晩期の遺跡。遺跡公園内からは、住居跡が20数軒ほど、墓が30、貝塚が4か所発見されたそうです。園内には、竪穴式住居もいくつか復元されていました。
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後ろに見える建物は、出土品の収蔵庫です。
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東京の大森貝塚よりはるかに層の厚い「立派な」貝塚には、ガラス張りの見学コースが設けられていました。現在の地面よりかなり低いところにあるので、階段を下りて、地層を間近に見ることが出来ます。
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しじみが多いことから名が付いた蜆塚ですが、他にもハマグリ、それにシカの骨等の表示もありました。いやあ、こんなに見事な!貝塚初めて見ました。
ちょうど見学し終えた頃に、博物館の職員の方がカギを閉めにおいでになりました。間一髪セーフです。 -
時刻は5時過ぎ。段々と暗くなってきました。
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蜆塚遺跡公園の中に、19世紀半ばの農家が移築されていました。旧高山家住宅は、向かって右手が土間、左手が床上で、それを「なんど」と「おい」に仕切っただけの簡単な造りの農家ですが、このあたりの標準的な家屋だったようです。
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博物館開館日の午前9時30分から午後4時30分までの間は、中の見学が可能です。貝塚を閉めにいらした博物館の職員は、まずこちらを施錠されたようで、もう中を覗くことは出来ませんでした。
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午後1時半から5時過ぎまで、3時間半の浜松街歩き。今日はここでお終いにしましょう。蜆の取れた近くの佐鳴湖を本日の終点としたかったのですが、これから行っても真っ暗な湖面が見えるだけでしょうから。
広々とした気持ちの良い公園と博物館。いつかまた訪れる機会を持ちたいと思いました。 -
博物館前からバスに乗って、あっという間に浜松駅前まで戻ってきました。
ホテル米久は、施設そのものは古いですが、駅からのアクセスも悪くはなく、部屋も十分な広さ、体を休めるなら十分のビジネスホテルです。 -
今夜はゆっくりと休んで、明日からの街歩きに備えるとします。それではお休みなさい。
この続きは、遠州せんちめんたるじゃーにー 曳馬野の風を感じて (2)奥山、気賀で。
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