2012/04/12 - 2012/04/12
114位(同エリア364件中)
元カニ族さん
小田急線生田駅の近くに明治大学生田校舎があります。この敷地の中に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」(以下「資料館」といいます)があります。この資料館は2010年3月29日に開設されました
「登戸研究所」は、秘密戦のための兵器の研究・開発を行う旧帝国陸軍に属する機関で、現在の川崎市多摩区にありました。最盛期の1944年には敷地面積11万坪、建物100棟余、技術将校・技師・技手など幹部所員250名、一般雇員・工員など合わせ総勢1,000名に達する大規模な研究所でした。
猶、秘密戦とは戦争に付随して行われる水面下の戦いで、防諜(スパイ防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・攪乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)の4つの要素から成り立っています。
明治大学は、戦後、この登戸研究所の敷地のうちから3万坪の払い下げを受けて大学用地とし、建物や施設をそのまま利用して1950年に「生田校舎」を開設しました。現在ではほとんどの建物や施設は建て替わっていますが、残された昔のままの建物の一つが改装されて「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として生まれ変わったのでした。
資料館の設立趣旨には
「・・・登戸研究所という機関の行ったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として、保存・活用することを目指して地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたい。・・・・」
と、あります。
私はすでに、何回もここを訪れていますが、特別の許可を得て撮らせてもらった写真や、資料館でももらった資料の写真を用いて旅行記としてまとめます。
写真は「第二展示室」に浮かぶ風船爆弾の十分の一の模型です。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
PR
-
明治大学生田キャンパスの正門です。
-
明治大学生田キャンパスの内部を通って資料館に向かいました。
-
-
明治大学平和教育登戸研究所資料館の建物です。
この建物は、登戸研究所第二科が研究施設として実際に使用していた建物です。
戦後は「36号棟」と命名され、長らく明治大学農学部の教育施設として利用されていました。明治大学平和教育登戸研究所資料館 美術館・博物館
-
分厚い鉄筋コンクリートの建物で重い鉄の扉がついていました。
-
建物の内部の配置図です。
5つの展示室、レストスペース、暗室、事務室、倉庫などがあります。 -
建物の中央の廊下です。
-
レストスペースです。
ここには、戦争の時代の写真が展示されています。また大型テレビがあって、登戸研究所に関する映像をDVDで見ることが出来ます。 -
第一展示室です。
この部屋には、登戸研究所が設置された歴史的な背景と目的、立地条件、組織の概要、運営体制、他機関との関係、そして戦争の進展とともに研究所の規模と役割が次第に変化していく過程を中心に研究所の全体像が紹介されています。 -
登戸研究所がこの場所を選んだ経緯が書かれています。
-
登戸研究所の当時のジオラマです。
-
写真は、戦後米軍が撮った登戸研究所の航空写真です。
-
第二展示室です。
この部屋には、登戸研究所第一科の活動に関する展示がされています。
第一科は特殊兵器・電波兵器の研究・開発部門であり、登戸研究所の中核的な組織でした。
代表的な研究・開発が「ふ号兵器」(風船爆弾)でした。写真は第二展示室に浮かぶその10分の1の模型です。 -
和紙をコンニャク糊で張り合わせた直径10mの気球に当初計画では牛に対して強い感染力を持つ牛疫ウイルスを搭載し、ジェット気流にのせてアメリカ本土の攪乱をねらうものでした。
しかし作戦実施にあたってはアメリカの反撃を恐れた陸軍中央の最終的な判断によって牛疫ウイルスではなく、焼夷弾が搭載されました -
実戦にあたっては、約1万発が生産され、1944年11月から1945年3月までに千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来から9,300発が発射(放球)され、1,000発程度が北米大陸に到達したと推定されています。
-
写真は、茨城県大津の発射基地です。(資料館のパンフレットから)
-
写真は風船の製造風景の写真(林えいだい氏所蔵)が展示されています。
-
風船に使った和紙が展示されています。
-
和紙を触って、感触を確かめることが出来るようになっていました。
-
第一科のその他の研究の説明がありました。
電波で人体を攻撃する「く号兵器」(怪力光線・怪力電波)、
超短波を利用したレーダー「ち号兵器」などの電波兵器や、
気象兵器、宣伝・諜報兵器などの研究・開発などです。 -
第三展示室です。
この部屋では、登戸研究所第二科の活動を紹介しています。
第二科は生物兵器・毒物・スパイ機材などの研究・開発を行い、日本陸軍が水面下で行っていた秘密戦を兵器・資材の開発という点で支えていました。 -
大きなパネルに、生物兵器・毒物・スパイ兵器について、その研究の内容、およびその開発と実行に関する流れが図示されています。
-
パネルを詳しく見てみます。
-
「生物兵器」は敵国の食糧である動植物に大打撃を与え、敵国の戦意を喪失させることを目的に、防御が不可能な未知の細菌を兵器とするものです。
登戸研究所では、敵国の食糧である小麦に被害を与える細菌や、稲を枯らしてしまう細菌、稲の害虫などさまざま研究・開発を行っていました -
「毒物兵器」は対人間用の謀略工作(殺人など)の目的で研究・開発が行われました。
毒物兵器の開発では、飲食物に混入しても疑いをもたれないものの開発を目指し、毒草や毒蛇などを取り寄せて研究が行われました。毒物兵器で成果があがったものに酸化ニトリルがあります。
中国でこれを使った人体実験が満州731部隊と協同して行われたとされています。 -
毒物開発・人体実験など外地機関とのネットワークが示されています。
-
「スパイ機材」についてはスパイ活動に使われるさまざまな機材の開発が行われました。
兵器らしく見せず、また証拠を残さず、原因不明を装うことの出来る兵器の開発が重視されました。
例えば雨傘のようの見える放火器具、缶詰型爆弾、万年筆の形をした毒物注入兵器、ライターやカバンに仕込まれたカメラ、スパイ同士の情報伝達手段としての超縮写法などの研究・開発が行われました。 -
陸軍大臣(総理大臣兼務)東条英樹の名で授与された陸軍技術有功章の賞状が展示されています。
-
賞状と同時に授与された徽章です。
-
第四展示室です。
この部屋には、偽札製造を行った登戸研究所第三科の活動を中心に展示がされています。
偽札は経済謀略戦の一貫として製造され、中国・蒋介石政権下の紙幣を中国で散布し、インフレを惹起させて中国経済の混乱・弱体化を図る目的でした。 -
偽札を作っていた工場の写真や、偽札製造の方法などがパネルに書かれていました。
-
実際に造られた偽札が展示されたいました。
-
-
偽札工場の模型が展示されたいました。
-
偽札工場の、内部を見せていました。
-
偽札以外にも偽造パスポート、偽インドルピー、偽米ドルなど様々な偽造印刷工作を担っていました。
-
第五展示室です。
この展示室では、日本軍の戦局の悪化にともなう本土決戦体制の構築の流れと、そのひとつであった登戸研究所の移転の様子が展示されています。
また敗戦・占領政策と登戸研究所の関係や、登戸研究所が現在の資料館として生まれ変わる過程を、高校生と元研究所員との交流を中心に紹介しています。 -
731部隊長石井四郎が研究・開発した石井式濾過機・濾過筒が展示されていました。
-
-
これらの展示の中で、これまで闇に葬られてきた登戸研究所の戦後について、写真(著作権の関係で一部カバーしました)のような「敗戦と登戸研究所」と題したパネルに「証拠隠滅・解散→接収→召喚→免責→協力」の流れが説明されていましたので、これについて要約します。
1945年8月15日、敗戦と同時に陸軍省から証拠隠滅のための極秘命令が出され、登戸研究所では機密文書、兵器等の徹底的な証拠隠滅作戦が行われ、翌16日に解散式が行われました。
一方、アメリカは日本各地の施設を次々に接収すると同時に、関係者を召喚し、秘密戦に関わる情報を、冷戦が進む中でソ連より早く収集しようとしました。しかし関係者の口は重く、尋問はスムースには進みませんでした。
こうした中、極東国際軍事裁判(東京裁判)の公判中、アメリカはソ連が731部隊関係者への尋問と訴追の準備をしているとの情報を入手しました。アメリカはソ連によって秘密戦情報が暴露・独占されることを恐れ、日本側へ免責を条件に、非協力的であった秘密戦関係者に情報提供を促しました。
その結果、アメリカは関係者より情報やサンプルを入手し、日本の秘密戦研究とその実戦に関する戦争責任は、東京裁判で不問に付されました。こうして関係者の協力によってアメリカに渡ったデータとノウハウは、朝鮮戦争やベトナム戦争に継承されて行くこととなりました。 -
暗室です。
登戸研究所時代の暗室が、再現されています。 -
暗室の机や椅子です。
-
図は、資料館でもらった、大学構内に残り遺構の配置図です。
資料館の見学の後、これらの遺構を探しました。 -
資料館のすぐ近くに、土に埋もれた弾薬庫跡がありました。崩壊の危険であり、立ち入り禁止です。
-
図書館前に残っている消火栓です。
-
学生会館前に残っている消火栓です。
-
「弥心(やごころ)神社」です。登戸研究所がもらった陸軍技術有功章の賞金で造られた神社です。
-
-
弥心神社の境内に「登戸研究所跡碑」が建っています。
-
裏に「すぎし日々 この丘に立ち めぐり逢う、昭和63年10月吉日建立、登戸研究所有志」と彫られています。
-
「動物慰霊碑」です。これも上と同じ賞金で、建立されました。現在も農学部の実験動物の慰霊が行われています。
-
登戸研究所とは関係ありませんが、芝生の広場に、明治大学農学部出身の探検家、植村直己の功績を讃える山型のモニュメントがありました。
-
正門近くの老ヒマラヤ杉の並木です。登戸研究所の変遷を見続けてきたヒマラヤ杉です。
-
生田駅側にある「登校路門」です。
-
最後に、資料館のパンフレットの最後の部分を抜粋し、アップします。
-
-
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
57