2015/05/09 - 2015/05/10
84位(同エリア206件中)
ばねおさん
縁あって初めて白石に来たのは30余年前のこと。
以来、この片倉小十郎の旧城下町に幾度となく足を運びながら
名所旧跡を訪ねることもないままに時が過ぎてしまった。
今回、所縁ある人たちの法要がこの地であり、その参列を機に
いままで足を向けたことのなかった場所をいくつか周ってみた。
さまざまな歴史を有する土地だけに、あらためて知識を整理して行ったつもりであったが、まさに百聞は一見にしかずであった。
とりわけ20年前に復元された白石城は
古来の工法、材料を用いて原型に忠実に再現されており
およそ復元された城など観光目当てにすぎないだろうと
内心たかをくくっていた気持ちを見事にひっくり返された。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車
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-
法要も済んだ翌朝
宿泊したJR白石駅横のホテルから眺めた蔵王連峰
前日の雨天から一転して晴れ渡り
山頂付近の残雪が陽光を浴びて光っている。
すでにしばらく前から噴火警報が出されているが
はたしてこの先どうなるのだろうか -
これから向かう予定の白石城の大櫓(天守)が
ビルの向こうに見える
白石駅からは1kmの道のりである -
ホテルで朝食を済ませ
白石城へ向かう途中で立ち寄ったのは
明治・大正期に味噌、醤油などを商っていた豪商渡辺家の屋敷
屋号をとって壽丸屋敷と称されている -
建物は明治中期〜大正にかけて
数次にわたって造られ、のちに修復されている
通りに面した店側の外観だが
商店街のアーケードの庇に遮られて全体像が見えにくいのが残念 -
昔の店蔵の出入り口
-
庭に面した住居側の縁側
奥に写っているのが店蔵 -
ここを訪れるには、秋の紅葉の季節がもっとも良さそうである
-
書院風な居室部
-
屋敷内は様々なイベント会場としても利用されており
こけしや和服、甲冑などが展示されている
特に手作りの甲冑は、立派な出来栄えである
時代は異なるが、源義経に仕えた佐藤継信、忠信兄弟の話に由来する
甲冑堂が白石にはある -
格子模様のかなり手の込んだ変わり天井
-
庭に面した縁側とは反対側に
長〜い廊下が店から住居奥まで伸びている -
壽丸屋敷をあとに、次いで向かったのは武家屋敷のある沢端町
この近辺の橋には必ず伝統工芸のこけしが立っている
こけしと並んで有名なのは、東大寺二月堂のお水取りで用いられている
ことでも知られている白石和紙であるが、今まさに後継者不足から伝統が
途絶えようとしている
終戦時にミズリー号上で調印された降伏文書には白石和紙が使用されたことを
今回初めて知った -
現在、沢端川と呼ばれるこのせせらぎは
古地図をみても今の形とあまり変わりがないようだ -
道路がアスファルトで覆われ、家々の形が変わっても
昔の城下町の雰囲気は今に残っている -
白石城北、三の丸外側の後小路に建つ旧小関家
旧城下で残されている唯一の武家屋敷である -
屋敷の前面と側面には清流が流れ
周囲の庭木と調和して心地よい景観をつくっている -
小関家は、1761年の城下絵図に現在の位置で記されていて
1730年に建築されたものであるという
全面的に修復されているとはいえ、285年前の姿をとどめている。 -
棟門を入り正面出入り口に立つと、横手に庭に通じるくぐり門が見える
-
くぐり門から縁側のある「なかま」とよばれる座敷前に出る
-
茶の間である「おかみ」の囲炉裏には
イミテーションではなく本物の火がおこされていたが
火災がいささか心配になる -
天井はなく、煙は茅葺の屋根裏へ昇っていく
-
建物裏手の屋根には、煙り出し用の破風がある
-
武家屋敷と言うよりは農家に近い簡素な造りで
中級武士の生活ぶりとその時代の有り様が伝わってくる -
この付近一帯は、小関家と同格程度の武士の屋敷が建ち並んでいたところで
各家々へは専用の渡り橋が架けられている -
来た道を引き返し、いざ城へ
川の流れは穏やかで、静かに水草が揺れ動き、何とものどかな情景である -
沢端川を渡り、この坂を登った先に城がある
-
その途中、かっての厩口門のあった場所
実際の門は、市内延命寺の山門として移築保存されている -
そのすぐ側には片平観平の大きな石碑
天明・天保の大飢饉が起きた時代に農村の救済のため
私財を投じて切通し工事をおこなった人物
碑の大きさが、観平の偉大さを物語っているようだ -
坂を登り続け、神明社の鳥居を横に見てさらに進む
-
視界が開け、天守の下に出た
江戸時代、これを天守と呼ばず大櫓としていたのは江戸幕府の一国一城令があったがゆえのこと
一城令にもかかわらず、白石城は仙台城(青葉城)との併存が例外的に認められ
さらには城主片倉氏は伊達氏の家臣でありながら、大名並みの扱いを受けていた
きわめて稀な存在である -
明治期に毀された白石城が復元されたのは20年前
復元にあたってはかっての城と同じ規模、同じ建築方法によって
原型を忠実に再現させることを原則とした
これは天守下の井戸屋形 -
元の形というのは、この場合文政年間の城の姿であるという
-
壁土の作成から、適材の調達、建築の技法
何から何までたいへんな作業であったことがうかがえる -
天守閣の石垣は、石を加工しないで積み上げる
野づら積みという古い方法で再現されている。
石をほとんど加工せずに積み上げていく方法で
石垣の復元でこれを行ったのは白石城が初めてであるとのこと -
時代を下るにつれて
次第に加工が施された石垣となっていくわけだが
確かに表面の粗さがはっきりとわかる
しかしその裏側には栗石がくまなく詰め込まれ
土の圧力や水はけを十分計算して作られている -
城というのは見る角度によって様々な表情を見せてくれる
それに自分にとってお気に入りの角度というものがある
まあこれは別に城に限ったことではないが -
本丸、天守へ通じる大手ニ門は堂々たる佇まいである
-
門の柱には直径1.2m以上の檜が必要とされ
木の芯を避けて製材することを考えれば、かなりの大木でなければならない
そのような大木を入手することは、現実にはきわめて困難で
ここでは樹齢1000年以上の台湾檜が使われている -
三階層の天守閣
東日本大震災による被害は免れなかったものの
構造的な損傷はなく、しっかりと聳えている -
天守閣内部
国内各所から調達した良質な木材が
築20年を経てもまだ生き生きとしている
この先、こうした材を求めることは極めて困難との見込み -
木組みも古来の方法を忠実に守り
数百年の歳月に十分耐えうるような建築である -
三層天守の2階部分から見下ろした大手二門方向
眼下の向こうには白石市街が広がっている -
天守閣から眺めた蔵王連峰
-
現在、公園になっている本丸跡地には
赤地と黒地の二色に染め分けられた幟が何本も翻っていた -
赤地には「大阪夏の陣400年」とあり、信州真田家の六文銭が
黒地には「白石城開城20年」の文字と片倉家の九曜紋が描かれている
幟の赤地は真田幸村の赤備え、黒地は片倉小十郎の馬印である黒い大釣鐘から
採られているに違いない
白石と真田幸村とは深いふかい縁がある -
こちらは六文銭の幟が立つ真田氏の本拠信濃上田城
(2012年10月撮影)
大阪夏の陣では真田幸村と激闘を繰り広げ、鬼小十郎の名を天下に知らしめた
片倉小十郎であるが、大阪落城前夜に敵将真田幸村の遺児たちを救出し
白石でひそかに育て上げ、ついには仙台藩士として真田家の再興に至らしめている -
白石城は、明治維新という歴史の大転換期においても
重要な役割を受け持った
新政府が発した会津討伐の命に対抗するため
東北・北陸の諸藩が手を携えた奥羽越列藩同盟はここに設けられた -
この城は、この先年月を重ねてさらに味わい深くなっていくに違いない
季節を選ぶとすれば、やはり桜の頃がいいのかな -
白石城からの帰路にあったのが「神石しろいし」
史跡としては、ほとんど重要視されてなさそうなスポット
ここに白石の名の起こりとされる石が祀られていた -
説明文によると、白石の地名はこの灰白色の凝灰岩から起きていると
古くから言い伝えられてきたとのこと
江戸時代頃からは朱塗りの玉垣をめぐらして
神石白石として祀られてきたらしい
真っ白な石ではないだけに、むしろなるほどとうなづいてしまう
まだまだ見てない場所があるが、次回に譲ろう
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