2015/04/11 - 2015/04/12
698位(同エリア1734件中)
ひま人さん
桜前線が信州を北上中、タイミング良く長野の100名城指定の内、高遠城を除いて松本城、松代城址、上田城址、小諸城址を訪ねました。どこの城も桜が咲き誇っていました。
松本城の天守は、現存国宝指定4城(姫路城、犬山城、彦根城、松本城)の一つです。松代城は武田信玄が、上杉謙信と戦うための拠点として築かせた城です。上田城は2度徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。小諸城は武田信玄の侵攻の後、30年間武田氏の城代によって支配されました。
写真は松本城天守・乾小天守です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 新幹線 JR特急 JRローカル 徒歩
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「国宝 松本城天守」碑。
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松本城お堀。桜が満開でした。
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黒門。本丸に入る正門で、櫓門と桝形からなり、本丸防衛の要です。
昭和35年(1960年)に復興しました。 -
太鼓門。太鼓門桝形は文禄4年(1595年)頃築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図等の発信源として重要な役割を果たしていました。平成11年に復元されました。
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天守閣。国宝。5重6階の大天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合式天守です。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突き上げ窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けています。
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枝垂れ桜と天守閣。
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大天守・乾小天守。
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松代城。橋詰門とその後ろが太鼓門です。武田信玄が、上杉謙信と戦うための拠点として築かせた城です。その後城主の交代がありましたが、元和8年(1622年)に真田信之が上田から移封されて以来、真田氏10代が城主として続きました。国史跡指定。春は桜の名所として賑わいます。
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橋詰門。
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松代城石垣。
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南櫓門。
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土塁。
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松代城お堀。
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桜満開の松代城石垣とお堀。
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海津城石碑。松代城はもともと「海津城」と呼ばれていました。
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松代藩文武学校。茨城県水戸の「弘道館」にならって造られた松代藩校「文武学校」です。安政2年(1855年)に開校しました。
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文武学校校舎。嘉永6年(1853年)建築、松代小学校の校舎として使われていたこともあるそうです。
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文武学校校舎。
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旧樋口家住宅。代表的藩士公舎。旧樋口家は江戸時代、真田家の家臣として、藩の目付役(監査官にあたる役職)などを務め、禄高は230石。
他の藩士たちの住宅と同様、一種の公舎です。 -
松代城跡附新御殿跡。真田家住宅。
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真田邸。江戸時代の大名家の御殿として、その姿をよくとどめている真田邸(新御殿)は、江戸時代末期に、9代藩主幸教が母・貞松院の隠居所として建てたものです。明治維新以降は、真田家の私邸として使われていました。庭園は四季折々の美しい姿を見せてくれます。
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真田家庭園。
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真田家庭園。
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真田宝物館。真田家の歴史を今に伝える資料館です。真田家に伝来した古文書や武具、調度品などの大名道具を収蔵、テーマに合わせた展示を行っています。
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上田博物館。昭和40年6月開館。上田地方の中世以降の歴史を通観出来る歴史・民俗資料および自然資料を収蔵・展示しています。特色ある収蔵品としては、歴代上田城主の甲冑ほか上田藩関係資料、織田信長所用カワ胴服(重要文化財)、反射望遠鏡(重要文化財)、染屋焼コレクション(重要文化財)、養蚕資料、古文書類などがあります。
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上田城お堀と桜。
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上田城、東虎口櫓門・北櫓。上田城は天正11年(1583年)、真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置しています。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城ですが、第1次、第2次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。しかし、上田城は関ヶ原の合戦後に破却され、藩主であった真田信之も松代へ移封となりました。その後、小諸から入封した仙石氏により城は再興され、近世後半には松平氏の居城となりました。
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東虎口櫓門・南櫓。
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北櫓前の枝垂れ桜。
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真田石。(長径約3m)。真田幸之が松代移封の際に父・昌幸の形見にと運び出そうとしたが、数万人の力でも動かなかったという。
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真田神社。歴代藩主が祀られています。
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真田井戸。真田神社境内にある真田井戸。市北部、太郎山の隠し砦まで通じる抜け穴だったという伝説もあります。
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西櫓。尼ケ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓。外壁は板張りとし、その上から軒の部分までを塗籠としている。これは寒冷地の城に多く見られ、初期城郭建築様式とも言われます。また、格子窓に突き上げ戸がついた「武者窓」や、矢や鉄砲を放つための小窓「矢狭間」「鉄砲狭間」も設けられています。
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西櫓。
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西櫓。
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小諸城大手門。正門(国重文)。慶長17年(1612年)仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築。二層入母屋造の楼門で、全体として雄大な気宇を持つ桃山期の建築様式を備えています。石垣と門が一体化していないことや、1階が敵の侵入を防ぐ強固な作りに対し2階は高度な居館形式をとっていることなど多くの特徴を持ち、日本の城郭建築の中でも初期の代表的な城門です。
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大手門内側。
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三の門(国重文)。元和元年(1615年)頃仙石秀久の子、忠政により創建されたが、寛保2年(1742年)の大洪水で流失しました。現在の門は明和2年(1765年)頃の再建されました。二層寄棟瓦葺の楼門で、両袖の塀には矢狭間・鉄砲狭間が付けられている戦闘形式の門です。門の正面には徳川家達による揮毫による「懐古園」という扁額が掲げられています。
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徴古館。小諸城の歴代藩主の武具甲冑等を展示。藩主牧野家由来の品々が公開されています。
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小諸城二の丸跡。
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本丸跡。
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本丸跡石垣。
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北の丸跡。
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南の丸跡。
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天守台跡。
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小諸城内にある藤村碑。島崎藤村は、明治23年かつての恩師木村熊寺二に招かれて、小諸義塾の英語と国語の教師として赴任。4月函館の網問屋の三女冬子と結婚。小諸町馬場の士族屋敷跡に新家庭を持ちました。以降、小諸で過ごした6年余の間「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破戒」起稿されました。
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藤村詩碑。「千曲川旅情のうた」。昭和2年、有島生馬の発案により、藤村の友人や門下生によって詩碑が建てられました。
*千曲川旅情のうた
”小諸なる古城のほとり
雲白く遊子かなしむ
みどりなすはこべはもえず
・・・・・・ -
小諸城内と藤村記念館。
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藤村記念館。昭和33年開館。藤村の小諸時代の活躍ぶりをしのぶ作品、遺墨、遺品を数多く展示。建物は日本最高峰の建築家「谷口吉郎」氏による設計です。
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藤村記念館前の「島崎藤村」胸像。
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