2015/02/28 - 2015/03/03
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montsaintmichelさん
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琉球王国の栄華と悲哀を伝える壮麗な赤い宮殿 首里城。琉球王国繁栄の礎となる海洋貿易の拠点 那覇港を望む丘の上に建ち、地勢学や風水学を考慮した設計で琉球の政治・経済・祭礼・文化の拠点として威容を誇りました。しかし、創建時期も築城者も不詳で、謎に包まれた神秘の城です。
14世紀に中山王 察度(さっと)が浦添城から移って来て建立したという説と15世紀初頭に尚巴志が浦添城の中山王 武寧を滅ぼした後に築いたとする説があります。察度王統(1350~1405年)が築いたという説が有力ですが、往時の王府は浦添にあり、首里城は支城のひとつに過ぎず、すっきりしません。その後第一尚氏王統の時代に大改修され、国王の居城として整備されたと伝わります。
城は東西410m、南北273m、面積63000平方mの広大な規模を持ち、和風の築城形式ながら8つの楼門は全て中国風です。明治時代の廃藩置県が発布されるまで約500年に亘り琉球国王の居城、また琉球の政治・文化を司る拠点として君臨しました。戦前、建物は国宝に指定されましたが、沖縄戦の戦火で全て焼失しています。
城はグスクと呼ばれ、世界遺産に登録された大規模なグスクは5つあります(今帰仁城跡、座喜味城跡、勝蓮城跡、中城城跡、首里城跡。つまり首里城自体は世界遺産ではありません)。しかし、グスクには宗教的聖地なる「御嶽」も含まれ、「城」としての機能を持たない小さな遺跡は、南西諸島に400以上あるそうです。首里城にも御嶽があり、築城後に聖地を設けたのではなく、先に聖地があってその周りに城を築いたと考えられています。グスクは時代毎にその性格に変遷があり、聖地や集落、墓とも言われますが、未解明のところも多いそうです。
それでは、胸が熱くなるような首里城復元の秘話を交えながら、首里城の神秘のベールを剥がす旅にでかけましょう。
<旅程>
1日目:伊丹空港→那覇空港→糸満(泊)サザンビーチホテル&リゾート沖縄
2日目:ホテル→万座毛→ナゴパイナップルパーク→古宇利オーシャンタワー→備瀬のフクギ並木→琉宮城 蝶々園(昼食)→海洋博公園・美ら海水族館→恩納村(泊)ホテルモントレ沖縄スパ&リゾート
3日目:ホテル→辺戸岬→大石林山→茅打バンタ→琉球村(昼食)→那覇(泊)ロワジールホテル那覇
4日目:ホテル→首里城跡(首里城正殿入館)→那覇空港→伊丹空港
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス JALグループ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
首里城 守礼門
地下駐車場のある首里杜館(すいむいかん)から地上へ出ると、右手やや先に赤い門が見えます。それが、首里城の玄関口に当たる守礼門です。
那覇市外を見下ろす首里の高台に建ち、首里城のシンボル的な建造物のひとつです。首里城は城門の多い城ですが、その中でもひときわエレガントな趣のある門です。一見中国建築風ですが、中国と日本様式の両方の影響を受けた琉球建築の白眉と言われています。
古来は守礼門の外に「中山門」があったそうですが、復元されていないため、現在は守礼門が首里城のフロントゲートとなっています。
因みに、2000年に発行され話題になった、記念紙幣2000円札の絵柄にもなりました。最近は全く見かけませんが…。 -
首里城 守礼門
16世紀の4代尚清王の時代に創建され、構造は三間坊楼、入母屋造。2層の屋根は本瓦を葺き、赤瓦をカーラムチ(瓦餅)と呼ばれる白い漆喰で固めた琉球独特の優美な牌楼(ぱいろう)形式の景観を呈します。創建当時は板葺で、扁額は「待賢」だったそうです。その後「首里」の扁額が掲げられ、現在の「守禮之邦(くに)」は、中国から冊封使が来ている間だけ掲げられたそうです。9代尚質王の時代から「守禮之邦」の扁額を常掲しはじめたと言われています。
通路は5つに分かれています。往時は身分毎に厳格に通路が定められ、中央が王族方、その両端が役人方、そのまた端が庶民でした。
沖縄戦で焼失しましたが、1959年に復元されています。
第二尚氏王朝時代、中国からの冊封使が琉球に招かれた際には、国王以下の高官らが守礼門まで出迎え、三跪九叩頭の礼(中国清朝皇帝の前でとる臣下の礼のひとつで、合計9回、手を地面につけて額を地面に打ち付ける=現在で言う土下座?)をとっていたそうです。 -
首里城 守礼門
扁額には「守禮之邦」と書かれ、「守礼」とは「礼節を守る」という意味があり、「琉球は礼節を重んずる国である」という意味があります。6代尚永王の冊封の際の中国皇帝(万暦帝)からの詔勅にあった、「琉球は守禮の邦と称するに足りる」という文言が由来です。
また、この扁額は、中国から冊封使が来た時だけに掲げられていたの説があり、往時の琉球王国と中国のポジショニングを窺い知ることができます。
また、それに加えて「武器を使わず国を治めている」ことを示すものとも言われています。往時、琉球には武器が一切なく、兵士も存在しませんでした。そのため諸国からは武器を持たない友好的な民族と認められていました。その琉球の国是とも言えるのが、「守禮之邦」という四文字だと言うことです。つまり、「武」ではなく、「美」や「芸」をもって王国の威信を高めることで約500年もの間存続した高貴な国なのです。
憲法第9条の精神のルーツが琉球にあったとは吃驚です。 -
首里城 守礼門
本瓦葺の屋根には、模様が描かれた丸と逆三角の瓦が見られます。これは各々、軒丸瓦(丸型)と軒平瓦(逆三角型)と呼ばれ、そこに描かれた模様は瓦当(がとう)紋様と呼ばれます。この紋様には、中国起源とされる形の異なる牡丹模様が多く用いられています。
因みに、牡丹の花言葉は「王者の風格」。まさに王城を飾るに相応しい紋様と言えるのではないでしょうか?
また、3つの勾玉(まがたま)を巴に組み合わせると三つ巴紋になります。「巴三曲がり」と表現され、これは尚氏の家紋「左三つ巴」紋と考えられています。他には「玉の三つ廻り」などと表現されています。尚氏の「尚」、この文字は上の3つの点を除いた文字は「回」という意味で、3つの点を勾玉とみなせば、「尚」は「3つの勾玉が回る」となります。すなわち、三つ巴紋を漢字として表現したものとも考えられます。 -
首里城 守礼門
壮麗な門を支えている4本の柱は、礎石の上に建てられ、脚部を方形にして輝石安山岩の挟石を基礎より建てて組み固め、各々前後に袖柱を建てて安定させています。
どことなく厳島神社の大鳥居の袖柱を髣髴とさせる姿です。
厳島神社の大鳥居は、次のサイトを参照ください。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=29987618 -
首里城 守礼門
城門には親しみを込めて琉球名が付けられています。それらには往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれ、守礼門は「上の綾門(いいのあやじょう)」と称えられました。「上の方にある美しい門」という意味です。
因みに、守礼門は、「高知のはりまや橋」や「札幌の時計台」と並び『日本三大がっかり名所』のひとつに数えられているそうです。がっかりされる方々は、守礼門に何を期待されているのか不思議でなりません。当方にとっては見所満載のフォトジェニックなのですが…。 -
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
沖縄は独立した琉球王国として独自文化を築いてきました。そのため、今でも琉球語が残り、沖縄出身者でなければ読めない地名がほとんどです。この門も例外ではありません。
園比屋武御嶽石門は、守礼門と歓会門の中間地点にあり、1519年に尚真王によって創建されました。日中両国の様式を取り入れ、木製扉以外を琉球石灰岩で造った琉球独特の石造建造物です。国王が首里城を出発して各地を巡る際、道中の安全を祈願した拝所です。また、王府の最高位の神女(シャーマン) 聞得大君(きこえおおぎみ)が就任する時に最初に拝礼したと伝わっています。つまり、門の形をしながら人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」と例えるべき存在でした。『琉球国旧記』には「この神に祈れば必ずおのれに応ず」と書されており、現在でも多くの方々がお参りに訪れています。
1933年、国宝指定されましたが、沖縄戦で王城と共に戦禍を被り大破。1957年、門の残骸を再利用して復元後、1986年に解体修理して今の姿があります。実はこの石門も首里城跡と同じく世界遺産です。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として登録されています。 -
園比屋武御嶽石門
築造者は竹富島出身の石大工 西塘(にしとう)。屋根飾り等に日中両国の様式を融合させた秀逸な門で、単層平入りの唐門の左右を切石積の石垣で囲っています。屋根は、木造建築様式を模し、細い棒状の軒回りの垂木(たるき)・唐破風・妻飾りの懸魚(げぎょ)・棟飾りの細部まで石造で表現しています。また、最上部の棟石(むねいし)部分に施された繊細な彫刻も見所です。
この門には、離れて見ると錯覚を起こす遠近法が用いられています。設計図通りに復元を試みたところ、端の部分で予想しない寸法誤差が生じ、関係者を手こずらせたそうです。
西塘は、オヤケアカハチの乱で王府軍が八重山へ出兵した際、将のひとりの大里按司に見込まれて首里に連行されて来ました。オヤケアカハチの乱とは、1500年に八重山島大浜村(現 石垣市大浜)の豪族オヤケアカハチと中山との間で行われた戦で、八重山が朝貢を断ったことから勃発したと伝えられています。
因みに、西塘は首里城の東にある弁ヶ御嶽の石門や優美で独特な曲線美を誇る首里城外壁も手がけたとされています。後に、王府の役人として竹富島に帰り、竹富大首里大屋子として八重山統括を任されました。 -
園比屋武御嶽石門
台座部分が中央に向けて微妙な円弧を描くなど、輪郭ラインは直線ではなく丸みを帯び、見る位置や角度によって印象を変えます。
本土の城壁が直線的なのに対し、琉球のグスクの城壁は曲線で構成されています。こうした視覚的な作用をもたらす石垣や城壁の曲線は、石職人の美意識により、意図をもって造られたと考えられています。 -
園比屋武御嶽石門
石門の背後に広がる森が園比屋武御嶽です。この御嶽は国王が旅に出る際に拝礼した場所、いわば国家の聖地でした。また、琉球神道の聖地とも言われ、王家尚氏の出身地 伊是名島(いぜなじま)を遥拝するための御嶽で、同島の田の神御嶽ソノヒヤブの神を移して祀ったと伝えられています。かつての聖地は門の背後に広がる鬱蒼とした樹林地でしたが、今日では門自体が拝所となり、広大だった聖地の森は現在では小学校の敷地となっている箇所もあり、現存するのはその一部に過ぎないそうです。 -
園比屋武御嶽石門
御嶽に立ち入って見学する人はあまりいないようですが、石門の裏側へ回るとわずかながら石畳が残されています。森の中は石門の表の喧騒が嘘のように静かで厳かな雰囲気に満ち、かつての御嶽の片鱗を今に残しています。
御嶽とは村落共同体毎にある聖域で、古代よりここを中心に農耕儀式や漁労、狩猟儀式などの神に関わる祭や行事が行われてきた場所です。『琉球国由来記』によると、村を愛護する祖霊神や祝福をもたらすニライカナイ神、航海守護神などが祀られているようです。御嶽の多くが村の発祥地や祖先の納骨地の近くにあります。 -
園比屋武御嶽石門
棟中央には火焔宝珠、棟両端には鯱を象った鴟尾(しび)が付けられています。宝珠は仏教において様々な願いを叶えるものの象徴であり、宝珠の上部に炎を模ったのが火焔宝珠と言われます。火難除けを祈念して取り付けられたものと思われます。
一方、鯱は飛鳥時代に大陸から日本に伝わった瓦の様式と伝わります。寺院の甍屋根の両端に取り付け、魔除けや厄除けを祈念したものです。元々、鯱は、インドから伝わった雨を呼ぶ空想の魚であり、火難除けのおまじないとして用いられています。
両妻飾りに見られる懸魚(火伏せまじないの魚)の装飾を合わせて考察すると、園比屋武御嶽は首里城を災厄から守る守護神であったと言えるのではないでしょうか? -
園比屋武御嶽石門
棟中央に火焔宝珠を載せるなど石造で木造建築を再現しており、その苦労が目に浮かぶようです。往時、日本本土の木造建築に対する崇敬と憧憬があったことが窺われます。
その下の棟石にある繊細な唐草模様風の牡丹と思しき彫刻も見事です。 -
園比屋武御嶽石門
鯱を象った鴟尾です。
目が大きく、牙が生えた鯱です。
御嶽を守るに相応しい鯱のデザインをあれこれ考えた結果の賜物なのでしょう。 -
園比屋武御嶽石門
門に掲げられた石製の扁額には「首里の王おきやかもいかなし(=尚真)の御代にたて申候、正徳十四年巳卯十月二十八」 と記され、琉球最古の候文の遺文とされています。文字はヤマトと同じですが、元号は中国 明代のものです。
往時、国王からの任命書は「ひらがな」の草書体で書かれた候文でした。それならば、「ヤマトと同じ」と思われるかもしれませんが、実はそうではありません。何故なら、中世日本では公文書には「ひらがな」を使わず、「和様漢文」という和風漢文を用いました。「ひらがな」は「女文字」と呼ばれ、主にプライベートな文書にだけ用いられました。
また、琉球ではひらがなを用いながらも、ヤマトにない琉球独特の言葉や表現を使っているため、ひらがなを知っているだけでは読めても意味は理解できなかったのです。
結局、琉球は外から入ってきた文化を積極的に採り入れ、独自のチャンプルー文化を開花させたと考えるべきなのでしょう。
また、石造扁額は、他の門の扁額と形式を異にしており、孤立的な作風と言われ、注目を集めています。
石造扁額は、隅の突出部を持たない花先形の額縁形状を持ち、額面の銘文はかな文の陰刻によって表されています。また花先形額縁の内郭四周には、一種の唐草文様のような連続文が陽刻によって彫出されています。復元時に以前の形態と違えたのかどうか、詳細が未だ掴めないそうです。
復元事業に関与したのは建築家 仲座久雄氏。守礼門の修理工事主任として工事を担当し、戦後は守礼門の復元や沖縄各地の文化財資料の収集と保全に携わり、また戦後沖縄における近代的な公共建築物や住宅建築の創出に活躍した人物です。戦後の沖縄における鉄筋コンクリート建築の普及と結びつけて語られる建築家でもあります。中でもカーテン・ウォールなどに用いられる「花ブロック」は氏の考案によるものとも言われています。 -
園比屋武御嶽石門
両端の鴟尾の下には、鬼瓦が設らわれ、木造建築様式への拘りがここにも見られます。
また、屋根自体も板葺きを模しているようにも窺えます。
恐らく、木材と琉球石灰岩のコスト・入手性・耐久性等を鑑み、天秤に掛けた結果、やむを得ず石造りを選んだということではないでしょうか? -
首里城 歓会門(かんかいもん)
首里城は外郭と内郭によって2重に囲まれていますが、ここが城郭内へ入る第一の正門です。
15世紀に尚真王が創建し、石造のアーチ状城門の上に木造の櫓を載せています。「歓会」とは歓迎するという意味です。往時、首里城へは中国皇帝の使者 冊封使が招かれ、彼らを歓迎する意味で命名されました。沖縄戦で焼失し、1974年に復元されています。
城壁は隅角部が上を向き、少し丸みを帯びた独特のフォルムです。この部分を隅頭石(すみがしらいし)と言い、諸説ありますが、昔から角には悪い気が集まり易いと言われており、角を無くすことで人当たり(風あたり)を良くするという意味があるようです。
また、首里城の城郭は自然の地形を生かした緩やかなカーブを呈し、綺麗な曲線美を誇りますが、鳥の眼で見ると、国王の象徴である龍が躍動している姿にも窺えます。 -
首里城 歓会門
ここは外郭の最初の門なので、琉球名「あまえ御門(うじょう)」とも呼ばれます。
「あまえ」とは琉球の古語で「喜ばしいこと」を意味します。 -
首里城 歓会門
首里城の門や正殿は中国がある西の方角を向いているため、午前中それも陽が高くない間はこのように逆光になってしまうのが残念です。
きれいに撮るには、午後の訪問をお勧めします。
余談ですが、この歓会門は、NHK『テンペスト』の最終回で「琉球王国はここに沖縄県となった」とテロップが出た時、城郭が封鎖されたシーンに使われました。 -
首里城 歓会門
門の両側には一対の石造の堅牢なシーサーが魔除けとして安置されています。1974年に門と同時に復元されたものです。
しかし、沖縄でよく見かける一般的なシーサーとは少し趣が異なります。
首輪のような飾帯(首飾りと鈴)が付けられ、そこには琉球らしいパイナップルを象ったおうな飾りが見られます。
琉球時代は冊封使を歓迎したシーサーですが、今は行き交う観光客を歓迎しています。 -
首里城 瑞泉門(ずいせんもん)
1470年頃に創建された首里城第二の門で、「瑞泉」とは「立派なめでたい泉」という意味です。名の由来は、石彫刻「龍樋」から注ぐ湧き水の清水が国王の飲料用に使われていたためです。
双璧の石門の上に直接木造の櫓が載せられた櫓門で、アーチ門より古い形式だそうです。
戦前に国宝指定されましたが、沖縄戦で焼失し、1992年に復元されています。 -
首里城 龍樋(りゅうひ)
瑞泉門の手前右下を覗き込むと「龍樋」という湧水があり、石造りのプール状の鉢が清らかな水を満々と湛えています。龍樋完成から500年近く枯れることなく湧き出る水は、城の下方にある人工池 円鑑池(えんかんち)へと注いでいます。
龍樋は首里城第一の泉で、「樋」とは水を放出するための水門や管を指し、龍の口から湧き出すことから「龍樋」と命名されました。沖縄は常態的に深刻な水不足に悩まされ、こうした湧水は「カー」や「ヒージャー」と呼ばれて信仰の対象として敬われてきました。
この水は、王朝時代には冊封使の向けの料理や飲料水として供され、那覇港近くにあった宿舎 天使館まで毎日届けられたそうです。しかし、庶民は一滴たりとも飲むことが叶いませんでした。何故なら、城内にさえ立入ることができなかったのですから…。 -
首里城 龍樋
水が湧き出す石龍頭(中国産輝緑岩製)は、約500年前の1523年に世宗帝即位の慶賀使として北京へ赴いた正使 沢岻盛里(たくしせいり)が明国から持ち帰ったものです。
復元された首里城の中にあって、唯一沖縄戦で原形を残した貴重な遺物だそうです(上顎部は一部修復)。
また、この龍樋の奥には、大人が這って入れる大きさのトンネルが水源まで30mも続いているそうです。 -
首里城 冊封七碑(さっぽうしちひ)
瑞泉門への階段の両脇に安置されている7つの石碑の総称です。琉球王の即位宣言のために遣わされた歴代の冊封使が、龍樋の銘水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり、題字を残したものです。
オリジナルの碑は沖縄戦で破壊され、「飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)」(階段の左手にありますが、逆光のため撮影していません)を除いて現存していません。1984年の発掘調査の際、「飛泉」という割れた石碑が発見され、県立博物館に保存されていた「漱玉」という石碑の残り半分であることが判明し、当時話題になりました。
現在の7碑は、拓本を元に1996年に復元されたものです。
①中山第一 「徐葆光(じょほこう)」
泉の水量は、水質は琉球第一の甘露泉である。
②雲根石髄 「全魁(ぜんかい)」
山の高いところの穴から湧き出る石の乳である。
③暘谷霊源 「趙文楷(ちょうぶんかい)」
東のはての日の出るところにある不可思議な泉である。
④活潑潑地 「斉鯤(せいこん)」
魚がはねるように水の勢いが極めて活発な泉である。
⑤源遠流長 「林鴻年(りんこうねん)」
泉は源が遠く流水が長い。
⑥飛泉漱玉 「高人鑑(こうじんかん)」
清らかな泉があたかも玉のように飛び散っている。
⑦霊脈流芬 「趙新(ちょうしん)」
霊妙の水脈から出る薫り高い流れである。 -
首里城 瑞泉門 阿形シーサー
門の両脇には魔除けの意味を持つ一対のシーサーが控え、石の年代の古さから最古のシーサーとも言われていました。 -
首里城 瑞泉門 吽形シーサー
吽形のシーサーは、歓会門同様に首輪にはパイナップルのおうな飾りが見られます。
左右で一対のはずですが、どうもデザインが異なるように思えます。
最古のシーサーなので、そこまで気が回らなかったのかも? -
首里城 瑞泉門
櫓中央の扁額「瑞泉」が琉球独特の持ち味を醸しています。
琉球名「ひかわ御門」とも呼ばれ、「ひ」は樋、「かわ」は沖縄では井戸や泉を指します。「ひかわ」とはこうした表現を合わせた言葉で「フィージャーガー」とも発音します。
尚真王時代には、歓会門や久慶門(きゅうけいもん)ができるまで正門として使われていました。 -
首里城 瑞泉門
石段を登りきって瑞泉門の手前から振り返ると眼下にはこのような景色が広がっています。
石大工 西塘が手がけたと言う、優美で独特な曲線美を誇る首里城外壁が延々と伸びている姿には爽快な気分にさせられます。 -
首里城 漏刻門(ろうこくもん)
15世紀頃に創建された第三の門で、「漏刻」とは中国語で「水時計」という意味です。琉球名「かご居せ御門」とも呼ばれていました。当時、身分の高い役人は駕籠に乗って登城しましたが、高官も国王に敬意を表し、この場所で下乗して徒歩で登城したことに由来します。
門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったと言われています。「漏刻」制度は、1456年の朝鮮の記録に「我が国のものと何ら変わりない」と記されているそうです。
晴天時には門の東方20mの所に設置した日時計「日影台(にちえいだい)」、雨天時は櫓の中の水時計を用いて時間を計っていました。時刻を確認後、役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が 東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせました。 -
首里城 日影台
漏刻門の正面に置かれた日時計です。1739年、水時計の精度に満足しなかった三司官 蔡温によって設置され、以後この時間制度は1879年の廃藩置県まで続けられました。沖縄戦で破壊されたものを2000年に復元したものです。
復元に当たり、時刻板の一部と思しき破片(1/4程)は発掘されたのですが、全体が判る史料が無く、発掘された部分から規則性を見いだして復元を行ったそうです。こうした復元の裏話を聞くとその作業が大変だったことに驚かされます。
十二支の刻まれた石製の時刻盤に銅製の棒が取り付けられ、その陰によって時刻を計ったと推測されています。日影台の時刻計測システムは、節気毎の時刻を正確に計るため、24節気毎に時刻盤を変更していたそうです。現在でも春分・秋分・夏至・冬至の年4回、時刻盤を変更しています。
ところで、日影台の示す時刻(地方太陽時)は、日本標準時に対し約30分遅れています。しかし、「うちなータイム」は標準時間より27分遅れているのでぴったりです。そこまで読むとは、すごいですね〜。 -
首里城 日影台
蔡温による時刻の改革は、精度だけに留まらず、従来下級役人が計っていたのを黄冠という部長クラスに代え、しかも中国文化の伝道者である久米村の士族を重用しました。これは、改革の目的が、時刻の精度向上による生活の質の向上だけでなく、「支配者はその世界を空間的に支配するだけでなく、時間も支配しなくてはならない」との中国の教えに倣ったからです。中国の朝貢国が中国の元号を使わなければならなかったのは、皇帝が朝貢国の時間をも支配すると言う発想からであり、往時の重要な統治行為のひとつだったからです。それまで時間にルーズだった琉球を変革させたいとの願いが込められた日時計だったのです。
単なるものの改革に留まらず、モチベーション改革まで行うとは大したものです。インフラさえ整えば業務改革は進むと考える経営者が多い中、頭が下がる思いです。 -
首里城 日影台からの眺め
那覇市街とその先にある東シナ海が一望できる眺望です。
手前にある門が久慶門、左端が歓会門になります。
曲線を描く外壁や深い緑色の木々が美しく、琉球王国時代の景色が広がっています。
しかし、遠くに見えるコンクリート製の白っぽい建物群に違和感を感じてしまうのは当方だけではないように思います。
意外にも那覇市の人口密度は高く、都道府県県庁所在地の中では全国で4位です。因みに、1位は新宿区、2位は大阪市、3位は横浜市です。ですから、その景観は推して知るべしです。 -
首里城 万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)
供屋には、万国津梁の鐘(銅鐘)のレプリカが納められています。仏僧 渓隠安潜(けいいんあんせん)が銘文を起案し、大工 藤原国善が制作し、史料では1458年に首里城正殿に掛けられていたとされる梵鐘です。
しかし、具体的な設置場所が不明なため、現在はこの供屋に設置してあるそうです。本物は県立博物館に収蔵されています。
「万国津梁」とは「世界の架け橋」という意味です。一般的な解釈は、鐘には「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮や中国、日本との間にあり、船を万国の架け橋として貿易によって栄える国である」という銘文が刻まれ、往時の海洋王国としての誇らしい心意気を示しています。
しかし、一説には、尚泰久王が仏教を浸透させて平和な世を築いたことを讃えたものとの解釈もあります。仏教はこの頃から古琉球社会に深く根付き、特に禅宗が盛んになり、日本の大徳寺派の禅僧が大勢渡来して仏教を広めたそうです。 -
首里城 供屋(ともや)
万国津梁の鐘が吊られている供屋です。古絵図などの史料に基づいて復元したものです。しかし、往時の具体的な使われ方は判っていないそうです。
因みに、万国津梁之鐘以外の鐘は、第二次世界大戦の際の軍需供出にあい、砲弾などに形を変えましたが、この鐘だけは見識ある人たちのおかげで唯一守られたそうです。
県立博物館収蔵の実物は、この青銅色のレプリカに比べて明らかに黒ずんでいるそうです。これは、梵鐘が度重なる火災や戦火を乗り越えて琉球人の思いを伝えているからと言えます。
余談ですが、沖縄県知事が会見する際、背後に屏風が置かれています。実はその屏風に書かれているのが万国津梁之鐘の銘文です。古来は琉球人が、そして今は沖縄県民が大切にしている世界の架け橋という「万国津梁」の魂こそ、現代の日本に最も必要とされる信念ではないかと思います。 -
首里城 広福門
「広福」は「鎮まる」の名詞で、「鎮まる」には「長い」という意味もあることから、「中山は治世よく永(とこ)しえに」との願いを込めて命名されたそうです。琉球名「中御門(ながうじょう)」と呼ばれ、現在は一角が券売所とトイレに利用されています。
木造平屋建・入母屋造・本瓦葺の首里城内郭第二の門で、役所としての機能があり、東側が士族の相続問題等を調停する「大与座(おおくみざ)」、西側は神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」がありました。
築造年代は不詳。明治時代末期に第一尋常小学校の建設のために解体されましたが、数枚の古い写真や発掘調査で出土した礎石を基に1992年に復元されています。 -
首里城 首里森御嶽 (すいむいうたき)
広福門の内側は「下之御庭(しちやぬうなぁ)」と呼ばれる平坦な広場になっています。広福門を抜けると目を惹くのが、首里城内で最も格式の高い拝所の「首里森御嶽」です。石積みの塀に囲まれ、ガジュマルやクロツグなどが生い茂る小さな杜といった風合いのこじんまりした拝所です。男子禁制(国王のみ許可)の「京の内」への遥拝所でもあります。
広場にポツンとあるので何だろうと違和感を覚えますが、これが首里城の名の由来になった御嶽です。
首里城は東西の軸線に沿って建物が並べられていますが、不思議なことにこの首里森御嶽だけは軸線を外れ、独立した方角を向いています。これは、城ができる前からこの宗教上の精神空間「御嶽」があり、崇敬の念や畏怖からそれに手を加えずに城の一角に内包する形で温存されたと考えられています。現在のものは1997年に復元されたものです。
それにしても、植物が一切存在しない、石敷で覆われた下之御庭に、熱帯雨林を彷彿とさせる木々がそこにだけ生い茂る御嶽とは、何とも神秘的な異空間です。 -
首里城 首里森御嶽
首里森とは首里城の別称で、御嶽とは聖地または拝所を表します。『琉球開闢神話』によると、「首里森御嶽」は神アマミキヨが造った聖地であると記され、聖域「京の内」にある真玉森御嶽と対をなし、首里城を守る御嶽として崇められてきました。また、首里城内にはここを含めて十嶽(とたけ)と呼ばれる10箇所の拝所があり、国王が城外の寺社に出かける際、祈りを捧げ、神女たちが多くの儀礼を行いました。拝所は、聞得大君に仕える「大阿母志良礼」という3人の神女(首里・真壁・儀保の大君)が管理し、単独あるいは共同で巡拝し、王府の安寧を祈願したと伝わっています。 -
首里城 首里森御嶽
首里城一のパワースポットとして名高い、祈りの場でもあります。
外見は、小さな木の茂みの周囲を切石積の石垣で囲んでいるだけですが、琉球最古の古歌謡集『おもろさうし』にもよく詠まれるほど歴史ある御嶽です。 -
首里城 首里森御嶽
1997年に復元されたのですが、実際に御獄の中にどのような植物が植えられていたのかは全く不明で、研究者自身が10m以上も掘削作業を行った結果、そこからガジュマルの種子を発見したことで往時の状態が想定され、それを基に再現されています。
考古学は、執念と根性の学問なのだと感心させられました。 -
首里城 首里森御嶽
棟の上に設けられた両端の鴟尾の鯱は、園比屋武御嶽石門のものより丸みを帯び、異なった意匠で復元されています。
また、棟石部分には、繊細な牡丹の彫刻が施されています。園比屋武御嶽石門の棟石の彫刻も、かつてはこのような鮮やかな模様で目を愉しませてくれたのでしょう。 -
首里城 奉神門(ほうしんもん)
正殿のある御庭(うなぁ)に入る最後の門で、ここから先が有料ゾーンになります。入城料は日本一高い820円です。しかし、姫路城が「平成の大修理」終了後に大天守再公開の2015年3月27日から1000円に値上げするため、首里城を抜いて「日本一」になるそうです。兵庫県民としては、喜んでいいのか悲しんでいいのか、複雑な心境です。
この門には「神をうやまう門」という意味があり、琉球名「君誇御門(きみほこりうじょう)」とも呼ばれています。
門に向かって左側は薬や茶、タバコなどを扱った納殿、右側は城内の儀式などに使われた君誇(きみほこり)という部屋でした。3つの入口の内、中央は国王や賓客、冊封使など身分の高い人専用の通路で、一般の役人は左右の門から出入りしていたそうです。
築造年代は不詳ですが、門の前の石造欄干が1562年に完成したという記録があり、それ以前に存在したとみられています。明治時代末期に一度撤去されましたが1992年に復元されています。 -
首里城 御庭
御庭に描かれたストライプ模様が異国情緒を漂わせ、正殿のファサードに施された赤や金、青、緑、黄の鮮やかな極彩色に目が眩むほどです。ある意味ストイックとも言える日本の城とは、美意識やコンセプトが全く異なる異国の城を実感できます。写真で見ると刺々しい装飾と色彩のように思えますが、実物は建物にバランスよく溶け込んで違和感がありません。
御庭は首里城の中心で、磚(せん)と呼ばれる23列あるタイル状の敷き瓦の斬新な赤と白のツートンカラーに度肝を抜かれます。理由を知らなければ、「ハイカラ」と感じることでしょう。実は、御庭は儀式のステージであり、儀式の際の道具の位置や役人の立位置を決めるためのバミリの役割を担う実用的な印です。
因みに、御庭には微妙な歪みがあり、中央の赤い浮道は、正殿に対して直角ではなく、17〜18°ずれています。その理由は、シンメトリーを嫌う琉球人の美学とか、玉座と首里森御嶽を結ぶ線とか、悪霊は真っ直ぐにしか進めないことから邪気祓いの意とか、風水の関係から建物の方角を変えたためとか緒説ありますが一致を見ていません。
また、奉神門と正殿を結ぶ浮道は神聖な道と位置付けられ、王朝時代は国王や冊封使など選ばれた人だけが通ることを許されました。現在は誰でも通れますので、堂々と浮道を歩いてみましょう。この浮き道にも秘密が隠されているのですが、それは後のお楽しみにとっておきましょう。 -
首里城正殿
正殿は琉球王国最大の木造建築物で、「国殿」や「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)」とも呼ばれ、琉球支配のシンボルでした。正殿は沖縄戦を含めて過去4回の焼失再建を繰り返し、1992年に復元された形は1712年から戦前まで存続した第4期の建物がモデルです。 正殿の復元は、厳密な時代考証を行ない、国内の史跡の中でも特に高水準の復元精度を誇ります。その経緯はNHK『プロジェクト?』でも紹介されましたが、赤瓦や壁の色彩の復元以外にも多くの困難に立ち向かって復元を成し遂げた情熱の物語が随所に息づいています。
正殿は北京の紫禁城の太和殿に範をとって造られたと伝わりますが、意匠の細部に日本建築の禅宗様式を取り入れたり、風土や嗜好に合った工夫を凝らしたりし、全体的には琉球独自の様式を創り出しています。尚、柱は、タイワンヒノキやイヌマキからなる253本で構成されています。
2層3階の構造や装飾された龍柱は、日本や中国にも類例がなく、琉球独自の意匠だそうです。壁等の彩色塗装には桐油が塗られ、下地の一部は漆塗りになっています。不思議なのは、正殿の正面が一般的な南向きではなく、西向きになっている点です。これは往時の宗主国の中国が西側に位置するため、敬意を表すために正殿の正面を西向きにしたためだそうです。 -
首里城正殿
1897年春、国王が追放されて「沖縄県」となった後、首里城は日本軍(熊本鎮台沖縄分遣隊)の兵所となり、その後学校が建てられました。学校移転後、正殿その他いくつかの城門が国宝に指定されています。その際、正殿は「沖縄神社拝殿」という名称で国宝指定されています。
ところが、沖縄戦では何を血迷ったのか、わざわざ首里城直下に地下壕を掘り、陸軍第32軍総司令部を置いたため、首里城が攻撃の標的にされて激しい地上戦と「鉄の暴風」と呼ばれる軍艦ミシシッピーなどからの60万発の艦砲射撃によって国宝11点を含めて灰燼に帰しました。これも日本軍の「No!と言えない」硬直した組織体系によるものと言えるのでしょう。因みに、軍司令部壕は総距離1kmを越える巨大な地下壕で、1000人超の軍人や軍関係者、学徒などが潜み、劣悪な衛生環境だったそうです。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が進み現在に至っています。 -
首里城正殿 唐破風妻飾
唐破風の妻壁には、中央に火焔宝珠とそれを包むような大蟇股、両脇には金色の阿吽の降龍と五色の瑞雲が彫刻されています。極彩色に彩られた煌びやかな唐破風は、まさに首里城の「顔」に相応しい威厳とアイデンティティを放っています。
妻飾りの下に覗く格子の向こうには「唐玻豊(からはふ)」と呼ばれる御庭から謁見を受けていた玉座があります。首里城正殿の顔なる唐破風ですが、古文書や古写真、更には台湾に残されていた拓本などを探し出し、それらを基に復元されています。
ここで『プロジェクトX』の首里城復元のダイジェスト版を紹介しておきましょう。
琉球王朝の王宮は、「壮麗な赤い城」と呼ばれていました。燃えるような朱塗りの柱、深みを帯た壁の弁柄、そして気品のある赤瓦の屋根。しかし、その壮麗な姿は沖縄戦で跡形もなく崩れ去りました。「赤」は世界中に1000種もあり、唐破風の赤や正殿を覆う5万8千枚の赤瓦がいったいどんな赤だったのか、それを紐解くところから物語は始まります。
1972年の本土復帰を契機に、源武雄氏が首里城復元の呼びかけを始め、1985年に首里城復元プロジェクトが生まれ、琉球史研究家の高良倉吉氏などが参画しましたが、手掛かりは殆どなく、残っていたのは白黒写真と古文書だけでした。
復元で最も重要なのは屋根瓦の色。それも風速40mの台風に耐える強度と気品を持ち合わせた「赤瓦」。城の復活を夢見る沖縄の瓦職人 奥原崇実氏の子息 崇典氏は、画家の夢が捨て切れず、父もそれを許していました。しかし、病に倒れた父に「瓦は俺が作る」と言って後を継ぎました。「生易しいものではない。ヤメロ!」と父に怒鳴られながらも、崇典氏は1億円の借金をして工場を新築したのです。
赤瓦の色のヒントになる窓格子の色は、古文書に「久米の赤土」と記されていました。そこで久米島に渡り、赤土を探すも見つかりません。島の陶芸家 中村康石氏の案内で漸く求めていた赤土に出会え、そこから悪戦苦闘の赤瓦焼きが始まりました。失敗が続き失意のどん底にあった時、病床にあった父が工場に現れ、「慌てるな!炎を見ろ!」とどの温度で空気を送るかを見極めるよう諭しました。焼き始めてから30時間。瓦と炎が透明に見えた刹那に空気を送りました。こうしてできあがった珠玉の屋根瓦5万8千枚は、6万枚以上の失敗の末に出来上がったかけがえのないものだったのです。 -
首里城正殿 唐破風妻飾
朱漆に金龍の巻く向拝柱の上には、牡丹唐草に金獅子の透かし欄間が美しく映えています。
縁起の良い組合せとして使われる「獅子に牡丹」という言葉は、「獅子身中の虫」の諺が由来との説があります。
「獅子身中の虫」とは、獅子の体内に寄生しておきながら、獅子を死に至らせる害虫の意味です。元々は仏教用語で、仏教徒でありながら仏教に害をもたらす者を例えた表現だそうです。
その「寄生虫」から我が身を守るには、何か薬になるものを飲まなくてはなりません。その薬となるのが、牡丹の花に溜まる朝露です。そのため、獅子は牡丹の花から離れることができない運命ということになっています。 -
首里城正殿 龍頭棟飾り
中国の城郭建築にならい、棟両端には陶器製の巨大な龍が置かれています。大屋根の両端に載せられているのが、鴟尾や鯱ではなく龍というのは奇抜です。しかし、龍も鯱も「水」由来の生物ですので、火難除けとして飾るという点では効能は同じなのかもしれません。きっと権力者のシンボル「龍」にとことん拘りたかったのでしょう。
また、琉球独特の赤瓦を強い風から守るためにカーラムチで固めた美しい屋根のラインは、「てりむくり」という日本独特の建築技術が採用されています。まさくし、日中融合の象徴と言えます。
湯川秀樹博士も創造性とはコンビネーションだと言われていたような…。 -
首里城正殿 唐破風の龍頭
唯一、対になっていないロンリー・ドラゴンが唐破風中央に君臨するこの龍です。釉薬を塗った焼物です。
大きな口を開け、こちらを威嚇しているようにも窺えます。
正殿にある龍の総数の内訳は、16対(32)+1=33と言う計算になります。 -
首里城正殿 龍頭棟飾り
首里城の赤瓦の復元に携わった奥原宗典氏は、与那原町で200年近く赤瓦業を営む奥原製陶の4代目。家業を告ぐ決意をした20歳の時、沖縄の赤瓦産業は消滅寸前で、戦後、県内に60軒あった瓦業者も奥原製陶だけが残る崖っぷちでした。
そんな氏に首里城復元の白羽の矢が射られたのは、それから10数年経った日でした。しかし、200年前の首里城の赤瓦の色を断定できる人は誰もいませんでした。復元で最も苦労したのが、赤瓦の色でした。かつて首里城を見たお年寄りに話を聞くと、ひとりは真っ黒、ひとりは灰色、赤かったという人もいるという有様で、10人十色の答えが返ってきたそうです。元々沖縄の瓦は、朝鮮から薩摩を経由して入ってきたものです。朝鮮の瓦は、寒い気候に耐えられるよう、しっかりと焼かれた黒に近い灰色の瓦でした。この瓦の時代が何100年か続いた後、次に中国の福建省系の赤瓦が入ってきます。沖縄と気候が似通った赤瓦は、いつしか黒瓦を凌駕して沖縄の瓦として定着していきました。こうした歴史の中で、首里城は幾度となく台風によって壊され、修繕が繰り返されました。つまり、黒瓦と赤瓦が混ざって使われていた時代があり、だから黒という人もいれば赤という人もいたことが判ってきました。その後、黒瓦は120年前に焼かれなくなったことが判り、復元に当たっては120年前の形式に戻すというコンセプトから赤瓦に決まったそうです。
氏が瓦職人になろうと決意した理由のひとつには、「沖縄の原風景をひとつでもいいから取り戻そう。昔の沖縄に少しでも近づけたい」との熱い思いがあったからだそうです。「後世に受け継ぐための一歩を踏み出しただけ」と氏の言葉は謙虚ですが、その言葉には赤瓦のように素朴で温かく、故郷を思う気持ちが込められているように思います。 -
首里城正殿 唐破風
正殿の間際まで近寄って眺めてみます。
こうして仰ぎ見ると、遠くからみた表情とはまた違ったものがあります。
正殿の近くまで寄られる方は少ないのですが、間近でないと見られないものも沢山あります。 -
首里城正殿 大龍柱(だいりゅうちゅう)
正面の石段の両脇には、与那国島産細粒砂岩から彫られた大龍柱という彫刻が安置されています。手すりの奥にも一対の小龍柱の彫刻が控えます。
その他の柱や梁にも龍が用いられ、建物全体で33体の龍の彫刻や箔絵が施されています。これは、中国では龍は権力者のシンボルであり、おめでたい印として使用されたためです。
大龍柱は、2体の石を上下で繋ぎ合わせてあり、高さ4.1mあります。オリジナルは1509年に制作され、2度に及ぶ火災によって頭部を残して消滅しています。戦前までは頭部だけが立てられていたそうです。復元で元の形に再現されましたが、左右対面させて建てられています。これは、昭和初期の解体修理の際に対面させた形となり、この形で国宝指定されたことが根拠となっています。
大龍柱は「御庭向き」だったのか、それとも小龍柱のように「向かい合わせ」だったのかという論争があり、現在も議論が続けられています。また、方向以外にも後方の石段の石高欄とつながっていたのではないかという説もあります。高欄が屈折する箇所に小龍柱が組込まれていますが、大龍柱も同様だったとの説が有力です。
もし大龍柱と高欄がつながっていたとすれば、正面向きと考えるのが妥当のようです。実際、解体修理以前の正面向きの写真が現存し、本来は正面から来る敵や魔物を威嚇する意味を持つものとの指摘もあり、元来の形への見直しが叫ばれています。 -
首里城正殿
余談ですが、新たな「龍柱」論争の舞台となっているのが那覇市若狭沿岸部。同市と中国福州市との友好都市30周年のモニュメントに、全長15mの2体のマーライオン風「龍柱」を建造する計画が浮上。これは翁長知事が市長時代から肝入りで推めてきた事業で、城間市長が禅譲を受け、今年3月末までに台座に龍柱を設置して事業が完了する見通しです。
国の一括交付金が財源である点、また中国産材料を使用して中国で加工された点に鑑み、尖閣諸島の奪取を狙う中国に臣従するだけでなく、税金まで貢ぐのかと保守系市議や市民らが批判を浴びせています。
近年、和歌山や奈良でも中国ゆかりの建造物を巡る騒動が持ち上がり、背後に「親中派」の存在が浮かび上がったようです。専門家は、「中国の侵略は文化から始まる」と警鐘を鳴らしています。中国人は、こうした日本のモニュメントをどう捉えているのか、聞いてみたい気がします。友好の効果がなければやめればいいのですから…。
本来、福祉や市民生活に直結する事業に使われるべきお金が、あまり効果の期待できない日中友好事業に遣われたとあれば、納税している善良な一国民として計画段階での熟慮を切にお願いしたいものです。那覇市は納税者への説明責任があるのかもしれません。 -
首里城正殿 向拝柱の礎盤
人目につく金龍や五色の瑞雲が描かれた4本の向拝柱には、装飾性豊かな礎盤が施されています。四角の礎石上に丸い礎盤を2重に載せ、3個の石をほぞで繋いでいます。下部の礎盤には6等分された蓮弁文様が陽刻され、石彫刻のレベルの高さ及び仏教様式の影響が見られます。
これとよく似た礎盤の形式は、琉球国王の菩提寺や円覚寺にも存在し、やや近い形式の礎盤では首里城の番所や国王の世子が住んでいた中城御殿にも見られるそうです。 -
首里城 南殿と番所
正殿に向かって右側には南殿と番所が並んでいます。赤い漆塗の正殿とは対照的に、質素な白木造になっているのが風変わりです。これには徳川家康が島津氏に許した1609年の琉球侵攻が関与しています。琉球は、薩摩藩の侵攻により征服され、その後中国と薩摩藩の2重支配下に置かれました。薩摩藩からは在番奉行が監視役として駐在し、南殿は催行事や薩摩藩の役人の接待所として使われたために和風の造りになっています。 -
首里城 北殿
北殿は、王府の行政や外交を司る場所でした。北の御殿(にしのうどぅん)や議政殿(ぎせいでん)とも呼ばれ、1709年の首里城の大火で他の建物と共に焼失し、1712年頃再建されました。
かつては、中国の冊封使歓待やペリー提督を接待した場所でもありました。また、2000年に開催された九州・沖縄サミットの各国首脳の夕食会はこの北殿で催されました。図らずも時を超えて同じ目的で使われた事に少なからず驚きです。現在は首里城の歴史や復元作業を解説する展示施設となっています。
南殿と北殿は、復元に役立つ史料極めて乏しく、こうして外観だけの復元に留まっています。 -
首里城 御庭
こうして南殿から見下ろすと御庭の広さを改めて実感できます。
丁度団体観光客が引いた状態のようです。
奉神門から正殿前の石段へ真っ直ぐに伸びる赤い道が「浮道」です。何故、浮道と呼ばれるかご存知でしょうか?
実はこの浮道、なんと文字通り浮いていたと考えられています。つまり、そこだけ他の部分よりも高くなっていたということです。国王と冊封使しか歩くことが許されなかった浮道は、15cm程高かったと想定されています。その根拠が、正殿正面の石段にあります。石段の一段目だけが、他の段に比べて異常に高くなっています(次の写真が判り易いと思います)。一段目だけが高いというのは不合理なため、復元PJTはその分浮道が高かったと結論付けたのです。
そして復元された浮道もほんの数cmですが、気持ち程度高くしてあります。人がつまづかないよう、パッと見は判らないほどの段差ですが、小さなスロープ状にして浮道を高くしているのが判ります。少しでも忠実な復元をしたいというPJTの矜持と気概がそこには詰められています。 -
首里殿正殿
赤瓦の正殿を見ると条件反射的に「これぞ琉球王国の城」と思ってしまうのですが、それは必ずしも正しくはないそうです。17世紀以前の首里城の屋根は板葺が主流で、18世紀頃から瓦葺が普及し始めたそうです。瓦の色についても衝撃の事実があり、当初は黒色だった可能性があるようです。それは、首里城の大奥に当たる御内原で赤瓦を黒く塗った瓦が多数発見されたからです。往時、瓦といえば黒瓦が一般的だったとの調査報告もあります。
しかし、黒瓦は高温の炉で焼かねばならず、費用も時間もかかる上、人口の増加で慢性的な瓦の供給不足が生じました。こうした課題の解決策として考案されたのが、低温で焼ける赤瓦でした。沖縄の屋根瓦は赤色というイメージが定着したのには、このような背景があったのです。恐らく、当初は赤瓦に黒い釉薬(マンガン)を塗って黒瓦に見せかけていたものの、徐々に 手間が省けて実用的な赤瓦に切替わっていったのが真相だとされています。
実際に葺かれている瓦は、守礼門に約4000枚、首里城正殿に約57900枚使用されています。 -
首里城 書院・鎖之間庭園(さすのまていえん)
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を次のように詠んでいます。
「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、互い違いに植えている」。
地を這うように広がる樹高の低い琉球松を例えた言葉なのでしょう。琉球グスクの中で庭園があったことが分かっているのは首里城だけで、琉球石 灰岩を巧みに利用した造りは一見の価値があります。 -
首里城 書院・鎖之間庭園
冊封使が称えた「わだかまった松」とは、リュウキュウマツのことです。
トカラ列島以南南西諸島に分布する、マツ科マツ属の針葉樹。沖縄方言では「マーチ」と呼び、沖縄県の県木にも指定されています。
琉球王朝時代、三司官 蔡温が羽地大川の治水工事をした際、防風林や防砂林、防潮林として松並木を各地に造成し、以来美しい松並木は琉球人の愛する景色となったようです。
黄金御殿(くがにうどぅん)も復元が終わり、昨年から公開されています。しかし、内部は展示室となっていて写真撮影が禁じられています。
黄金御殿は、元々正殿の裏側にあった建物です。丁度江戸城の大奥のような男子禁制のエリア「御内原(おうちばら)」にあり、国王や王妃、王母の居間や寝室などがあり、家族のプライベート空間として使用されていました。正殿2階と黄金御殿は渡り廊下で結ばれ、王は2階から直接御内原へ出入りして日常生活を過ごしていました。
檜の香りとぬくもりが伝わる素敵な建物です。 -
首里城正殿 大庫理(うふぐい)
内部は薄暗く、漆で塗り尽くされた朱色の異空間が広がっています。赤色は風水では火の運気の持つ色で、マイナス運気やネガティブなものから身を守る効果があります。還暦祝いに赤を使ったり、神社の鳥居が朱色の赤であるのは、赤の厄除け効果に由来していると言われています。
2階は王家の行催事を執り行ったプライベートな「奥」の世界です。大庫理と呼ばれ、国王やその家族、身分の高い女官以外は立入禁止でした。
ですから、ご覧のように豪華絢爛な目を瞠るような装飾がなされています。我々庶民には決して落ち着けるようなスペースではありません。 -
首里城正殿 御差床(うさすか)玉座
中央の豪華絢爛な台座部は御差床と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座で、1段高く作られています。玉座は、朱螺鈿(らでん)を施した琉球漆器の最高技術を駆使したものと言われ、尚真王の肖像画を基に丹念に復元されています。 -
首里城正殿 御差床
古文書に基づき、御差床の手すりにはあえて楕円柱を採用しています。
壇の形式は寺院の須弥壇に似ており、台座側面の羽目板には「葡萄の木に遊ぶリス」といった南蛮渡来の意匠が彫刻され、華麗に彩色されています。大きな実がたくさん成る葡萄と子沢山なリスという吉祥図にあやかり、王家の繁栄が末永く続くようにとの願いを込めた図象です。また、語呂合わせですが、葡萄は「武道」、栗鼠は「律す」に通じるとも言われています。首里城にはこうしたさりげない意匠が方々に散り嵌められています。 -
首里城正殿 御差床
御差床の高欄には正面に一対の阿吽の金龍柱が立ち、他の部材には黒漆に沈金が施されています。また、高欄には、沈金で鉄線(クレマチス)という花が描かれています。これは、現在のクレマチスの原種のひとつに相当するそうです。こうした花模様が江戸で流行したため、琉球でも工芸品の模様に取り込み、ついには国王の玉座にまで鉄線が使われました。葡萄もリスも鉄線も琉球在来種ではありませんが、それでも中国や日本から輸入される工芸品の模様を真似、見たこともない動植物を玉座の意匠に採用しています。こんな所に、沖縄の「チャンプルー文化」のルーツが潜んでいるのかもしれません。
余談ですが、『テンペスト』で真鶴(孫寧恩)の子「孫明」が第三尚氏王朝を宣言したシーンの場所がこちらです。 -
首里城正殿 大庫理 皇帝の扁額
かつて、大庫理には中国の皇帝から贈られた書を9枚の扁額に仕立てて掛けていたそうです。故に、御書楼とも呼ばれていました。皇帝即位のお祝いや古希のお祝い時に自ら認めた書を琉球に贈っていたそうです。琉球ではこれを扁額に書き写して漆を塗り、金箔を貼って大庫理に掲げていました。現在は1712年再建後の正殿を復元モデルとしたため、往時掲げていた3つの扁額を復元しています。
『中山世土(ちゅうざんせいど)』康熙帝
琉球は中山が代々治める王国である。
『輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)』雍正帝
琉球(球陽)にはめでたい印集まっている。
『永祚瀛壖(えいそえいぜん)』乾隆帝
海の向こうにある琉球を永く幸いに治めよ。 -
首里城正殿 大庫理
王国解体後、これらの扁額は別の場所に安置されていましたが沖縄戦で焼失しました。実は復元に際し、扁額に記された文字は分かっていたものの、写真などの史料は残されていませんでした。忠実な復元を目指し、各皇帝の筆跡は中国紫禁城内やベトナムなどに残存する直筆の扁額や古文書の調査を行い、落款は皇帝の扁額に押されている印影を参考にしました。見つからなかった文字は、皇帝の書からパーツを取り出し、コンピュータで合成しています。扁額の形は、記録や国内に現存する琉球の扁額を調査し、朱漆に金文字とし、周囲の額木には黒塗に炎の珠を取り合う龍を沈金で描いた模様としています。また、古文書に基づき、琉球王国の漆塗りの技法を再現しています。こうして全く同じとは言えないまでも、現時点での最先端技術を駆使し、極めて本物に近いレプリカに仕上げられています。
全く手掛かりのないものの復元に情熱を注いだ数多のドラマがあったことを思えばこそ、より一層の感慨が伝わってきます。
龍の爪の数が5本のものは高貴なものとして中国皇帝、4本が琉球と区別されていましたが、扁額の額縁に描かれた龍の爪は5本になっています。その直ぐ下の龍の爪は4本になっているのが判ります。因みに、日本本土は3本です。 -
首里城正殿 御差床
沖縄戦で焦土と化した首里城は、気の遠くなるような膨大な史料を綿密に分析することによって忠実に復元されました。18世紀の姿を復元することで直面したのは、「誰も直接見たことがない」という難題でした。しかも、復元ポリシーは、「根拠がないものは復元はしない」という厳格なものでした。
失われた城の痕跡を求めて古文書の山に分け入り、在りし日の首里城というパズルのピースを丹念に拾い集めたのです。やがて2筋の光明が射し、大きな手がかりが2つ発見されました。
一つは、染色家 鎌倉芳太郎氏が保管していた往時の首里城の図面「寸法図」でした。そこには正殿の柱の数や大きさ、瓦や階段の数などを往時の役人や絵師が忠実に記録しており、正殿の間取りや玉座の詳細が初めて詳らかになったそうです。正殿は総木造のため、建造に当たっては本土の宮大工が参加していたのです。
もう一つは、琉球王国の末裔 尚家に残る首里城修繕の際の史料「尚家文書」でした。使用する木材の種類や大きさ、管理や調達方法が克明に記されていました。
これらの史料が大きな自身となり、復元は大きく前進したのです。
まず仮説を立ててそれを史料に基づいて多面的に検証し、いくつもの謎を解明しながら作業は進められました。その中で、特筆すべきは、御差床の手すりが楕円柱だったことや、正殿の鮮やかな朱色が実は30工程もの塗り重ねが生んだ工芸の結晶という発見でした。
時代考証ディレクターの琉球大学 高良教授は、「復元は単なる入口に過ぎません。史料や儀式に向き合う度に、琉球王国の技術や知識水準の高さ、奥深さに驚かされ、新たな謎や宿題が次々と生まれる」と吐露しています。首里殿の鮮やかな朱色は、復元に全身全霊を傾けた人々の情熱の色ではないでしょうか?
琉球王国復元の壮大なロマンは、首里城復元20数年を経ても、まだプロローグに過ぎないのかもしれません。恐るべし、琉球王国です! -
首里城正殿 御差床
現在の首里城にはトイレがありますが、王宮だった頃には用を足すための場所がなかったそうです。この理由は、働いている時に用を足すことはよくないという暗黙のルールがあったからだそうです。史料には、「糞箱」や「小便筒」が記されており、困った時はそれらで済ませていたことが窺えます。所構わず用を足したとされるベルサイユ宮殿よりは、文化レベルが勝っていたようです。 -
首里城正殿 御差床 葡萄の木に遊ぶリス
室内は暗いのでこうした台座の羽目板の彫刻や沈金細工を撮影するには、多少光が差し込んで明るい、向かって左側面のものをお勧めします。この写真のメタデータは、ISO:6400、絞り:f/4.8、SS:1/20秒です。
琉球王国にも日本本土の古代史に匹敵するようなミステリアスな出来事が満載です。その中から選りすぐりの3代傑作を紹介いたします。
護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱
尚巴志が築いた第一尚氏王統は40年で幕を閉じましたが、日本古代史を彷彿とさせるドロドロした王位継承事件がめじろ押しです。最大級の危機が「護佐丸・阿麻和利の乱」です。
尚泰久(たいきゅう)は、第6代王位に就くや首里城再建に着手。その矢先、中城城(なかぐすくじょう)主 護佐丸が謀反を企てているとの情報を耳にします。情報源は勝連城(かつれんじょう)主 阿麻和利。これは王国にとっても泰久にとっても一大事でした。何故なら、護佐丸は父 巴志と共に戦った功労者であり、王国の最高実力者でもあり、王府への忠臣の鑑だったからです。一方阿麻和利は、貿易で勝連を繁栄させ、勢力を伸ばしてきた最も警戒すべき人物でした。そんな情報を何故信用したのかと言うと、偶然が心眼を狂わせたのです。
度重なる政権交代で王府の権力が弱まり、護佐丸や阿麻和利のような看過できない按司が台頭してきたため、王府は彼らと婚姻関係を結んで解決を図りました。泰久の妻は護佐丸の娘、阿麻和利の妻は泰久の娘でした。しかし、王府にはどちらも警戒すべき相手に変わりありませんでした。そんな折、中城城を偵察した密偵は、兵馬訓練の様子をそれとは知らずに目撃し、誤報をもたらしたのです。その結果、泰久は護佐丸を討つ英断をし、阿麻和利に王府軍を任せました。王府軍は中城城へ向かいましたが、謀反の疑いをかけられたことを知った護佐丸は、反旗を翻すことなく忠臣として無抵抗で落城し、一族共に自刃して果てました。
宿敵 護佐丸を亡き者にした阿麻和利の次のターゲットは首里城。しかし、ここで綻びが生じます。彼の妻、つまり泰久の娘 百度踏揚(ももとふみあがり)と付き人の大城賢雄(うふぐすくけんゆう)が策略に気付き、城を抜け出して首里城へ亡命したのです。これを知った阿麻和利は、策略の発覚を悟り、首里城へ兵を進めました。一足先に首里に着いた踏揚の報告で王府は防衛体制を整え、阿麻和利軍に対峙しました。最初は防戦を強いられた王府軍でしたが、次第に劣勢を挽回。首里城攻略を諦めた阿麻和利は勝連城に篭城しました。王府は大城賢雄に討伐軍を任せました。勝連城は難攻不落を誇りましたが、奇策により阿麻和利は討伐されました。大城賢雄は功労者となり、その褒美として踏揚を娶り、踏揚には2度目の政略結婚となりました。
こうして王府は脅威の2大勢力を一挙に排除し、最大の危機を乗り越えました。一連の事件が単なる偶然だったのか、あるいは王府が企てた策略だったのか、その真相は闇の中です。
泰久王は、心労が祟ったのかこの乱の2年後、在位7年、46歳の若さで亡くなりました。次に即位したのは泰久の三男 尚徳でしたが、長くは続きませんでした。尚徳王は若くして謎の死を遂げ、これをきっかけに巴志が築いた王朝は崩壊します。クーデタが勃発し、王家一族の粛清が始まりました。大城賢雄もこの激流の中で非業の死を遂げ、踏揚は玉城に逃れてひっそり余生を送っています。
戦乱の世とはいえ、血肉を分けた一族が互いに憎しみ合って争い、祖父の一族と最初の夫の一族が滅亡、弟 尚徳王の謎の死、そして最期には2番目の夫を含む一族の滅亡 と、筆舌に尽くし難い辛酸と数奇な運命に翻弄された踏揚の一生でした。そして悲劇の王女は、あまり人目につかない玉城地区富里の小さなお墓でひっそりと静かに眠りに就いています。 -
首里城正殿 御差床 葡萄の木に遊ぶリス
第一尚氏王統最後のミステリー
尚徳王は謎の死を遂げました。病死か、事故死か、暗殺かは不明ですが、確かなことは彼の死が判明するや否や同時に金丸を支持する勢力が首里城でクーデタを起こしたことです。故に、第一尚氏王統最後のミステリーとされています。
尚徳王は、在位9年、29歳という若さで薨じました。その死は明国皇帝の勅書にも「遽焉として薨逝」とあり、「急死」という表現がピッタリです。王府正史では、彼は「暴虐王」として罵られ、その執拗なまでの記述から暗殺されたという見方が強いようです。事実、王府四史書は、筆をそろえて尚徳王の悪政を激しい論調で罵っています。旧王をこき下ろし、新王の徳を賛美するのは革命の常ながら、尚徳王に対する悪罵は異常です。と言うのも、王府史書の全てが尚徳王を滅ぼした金丸(尚円)王統制下で編纂され、金丸の「徳」を称える目的でその対極に尚徳王を置いているからです。正史の真偽はベールに覆われていますが、尚徳王が鬼界島遠征を行って領土を拡大したという功績も事実です。
つまり、藤原不比等が編算したとされる「日本書紀」と同類の改竄疑惑がここにも見られます。琉球にもこんな歴史があったとは吃驚です。 -
首里城正殿 御差床 葡萄の木に遊ぶリス
琉球王国のクーデタ
尚泰久亡き後、第7代王には三男 尚徳が即位しました。徳王は21歳、危機を乗り切った王国の再出発に相応しい王の誕生でした。一方、泰久のブレーンの金丸は、泰久から交易を司る要職を授かり、王に次ぐ地位に登りつめていました。泰久と同年代の金丸は、徳王にとっては口うるさいご意見番でしかなく、老臣の進言を諫言として不快な思いで聞いていました。こうして血気溢れる王と老練なナンバー2の溝は深まり、それが決定的となる事件が起こりました。
鬼界島遠征から凱旋した徳王が久高島を参詣した帰り、与那原 の浜で休息を取る慣わしを巡って金丸と対立したのです。これをきっかけに金丸は首里を離れ、内間村に隠居したのでした。これで誰もが金丸の時代は終わったと確信したのですが、翌年不可解な事件が起こりました。徳王が29歳の若さで突然死したのです。死因には、病死説や毒殺説、久高島で美しい娘と恋に落ちて治世を疎かにしたための投身自殺説など諸説あります。伝聞では、徳王は恒例の久高島参詣の際、当時17、8歳の祝女を嗣いだクニチャサという美しい娘を見初め、首里に帰るのが遅れたとあります。
徳王の死を受け、首里では粛々と新王即位の準備を進めていましたが、この後継者選びで事件が起こります。徳王の子が王に即位することに異議を申し立てる者が現れ、徳王の政治を批判し、金丸こそ新王に相応しいと主張したのです。これに端を発して暴動が起こり、王一族は抹殺されてしまいました。10歳に満たない徳王の世子は、母親や乳母に抱かれて城内の真玉森に逃げ隠れましたが、見つけられて殺害され、王妃と世子の死体は無残にも首里城の崖下に投げ捨てられました。こうして7代に亘る第一尚王統は滅びました。
その後民衆に推されて54歳の金丸が尚円と名乗って王となり、第二尚王統が始まりました。しかし、この事件は多くの疑惑を孕んでいます。若い徳王の突然死や治世への執拗な批判、あまりにもあっけない第一尚王統の滅亡、隠居していたはずの金丸の返り咲き等々。歴史は敗者には常に厳しく、歴史を語るのは常に勝者です。このクーデタを企てた張本人 は、今なお謎に包まれたままです。 -
首里城正殿 大庫理 国王の玉冠((たまんちゃーぶい)
皮弁冠(ひべんかん)とも言い、中国の明朝皇帝から冊封の際に琉球国王に贈られ、国王が正装して儀式に参加する際に被った冠です。
表面は黒縮緬で覆われ、その上に金糸の帯が12筋縫われ、その筋上に金や銀、水晶、珊瑚、碧玉、ガラスなど7種類の飾玉が金の鋲で24個ずつ、合計288個留められています。側面を貫く金簪の頭部には琉球国王の象徴の「阿吽の双龍」と「火焔宝珠」の文様彫刻が精密に刻まれた豪華なつくりになっています。
レプリカは原資料の約1.2倍の大きさに復元され、布地は化学繊維製です。本物は尚家から那覇市に寄贈され、歴史博物館に所蔵されており、国宝に指定されています。 -
首里城正殿 大庫理 国王の玉冠
龍の爪の数が5本のものは中国皇帝、4本が琉球と区別されているように、皮弁も差別化されていました。『大明会典』には皮弁に係る定めが記されています。「黒い紗で覆われ、前後にそれぞれ12の縫があり、その中にそれぞれ5采の玉12を散り嵌める。縫と冠武、それに簪を通す部分と纓を繋ぐ部分は金で飾り、簪は玉である。絋と纓は朱色皮弁の縫を飾る玉は、赤・白・青・黄・黒の順である」。皇帝が12縫、新王が9縫、郡王が7縫でしたので、皇帝から下賜された琉球玉冠が7縫だったことから郡王と同格だったと窺われます。
清朝になり、皇帝からの皮弁の下賜が断たれた琉球は、皮弁の老朽化に伴って自分たちで調達を行いました。そのために明朝の定めが破られ、明皇帝が5采なのに対して金と銀の2色を加えた7采、7縫を12縫に格上げしています。ということは、この複製品の元になった玉冠は、下賜されたものではなく、自分たちで調達したものだと窺われます。 -
首里城正殿 大庫理 18世紀の琉球国王印
18世紀に中国 清朝の乾隆帝から尚質王に贈られた琉球国王印です。こちらも展示されているのは玉冠同様にレプリカです。上部の持ち手は駱駝を象っています。これは元王朝期(1271〜1368年)にチベットに贈られた印(シルクロードの駱駝がモチーフ)を参考にして復元したためです。チベット同様に琉球にも国王印が贈られていた事実は、中国に臣下の礼をとっていた国の中でチベットと同ランクの国と見なされていた証拠と言えます。
すっとぼけたような顔つきの駱駝の持ち手に違和感を覚えるのですが、興味深いことに琉球王朝崩壊の時にある事件が発端で行方不明になったという謎を孕んだ国王印でもあります。政治的意図や犯人捜しにも多様な推理がなされている事件だそうです。この事件は、池上永一著『テンペスト』 のストーリーにも反映されています。 -
首里城正殿 大庫理 17世紀の琉球国王印
17世紀に清朝皇帝から贈られた琉球王印のレプリカです。国王は、律儀にも以前明朝から贈られた国王印を返還してこの印を貰ったそうです。鍍金(金メッキ)銀製で、サイズは縦97mm、横100mm、高さ100mm、質量は4.5kgもあるそうです。
右半分に篆書2行で「琉球国王之印」と刻まれ、左半分には漢字と併せて清朝のルーツを示すモンゴル語に似た満州文字が刻まれています。
「Liu Qiu gurun-i wang-ni dorun(琉球国の王の印)」。満州民族 女真(じょしん)的なデザインと言えます。 -
首里城正殿 大庫理 17世紀の琉球国王印
18世紀の琉球国王印同様に、持ち手は駱駝を象っているように窺えます。 -
首里城正殿 大庫理
隣の部屋には3階へ上るための階段がありますが、頑丈な据付型ハシゴと言った方が正確かもしれません。傾斜度は、80度位あるのではないでしょうか?
しかし、見ての通り封鎖されており、登ることはできませんでした。(やれやれ。)
因みに、3階は通風のために設けられた屋根裏部屋だそうです。 -
首里城正殿 下庫理(しちゃぐい)
1階は下庫理と呼ばれ、国王や重臣たちが重要な儀式や政治を行う「表」舞台です。
玉座の左右、一段下がったところには、国王の子や孫が着座した平御差床(ひらうさすか)があります。玉座とは違い、ただ床があるだけの簡素なものです。 -
首里城正殿 下庫理
正面にあるのは、政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座です。琉球畳を敷いただけのような素朴な玉座です。
御差床の後方にある障子戸を開くと、奥には国王専用の階段(おちょくい)があり、儀式の際にはこの階段を下りて出御したそうです。
朱柱には躍動感溢れる金色の龍と五色の瑞雲が描かれています。大庫理よりも暗く、天井は丸くて意外に低いため、重圧感さえ覚える空間です。 -
首里城正殿 下庫理
両脇の柱には、金龍や五色の瑞雲が描かれています。 -
首里城正殿 下庫理
玉座を挟むかのように、両脇の床の間には麒麟と鳳凰の絵が掛けられています。
こちらは鳳凰です。孔雀のようにも見えますが、とても繊細な描写がなされています。
鳳凰の顔は、人の顔のようで結構デフォルメされていて味わいがあります。
よく観るとつがいなのか2羽描かれていますが、1羽は牡丹の花に埋もれて目立ちません。 -
首里城正殿 下庫理
こちらが、麒麟です。
赤い炎のような背毛がユニークです。体が燃えているようにも見えます。
麒麟にも種類があり、これは青色の体なので聳弧(しょうこ)と思われます。
両脇に安置された鳳凰と麒麟の絵にどのようないわれがあるのかは、参考文献も見当たらず不明です。 -
首里城正殿 下庫理 首里城跡の遺跡
首里城正殿は創建以来、戦火や失火により4度の焼失と再建を繰り返しています。現在の首里城は本来の遺構を保護するため、70cm程かさ上げして建築されており、その遺構の一部をガラス越しに覗き見ることができます。
この遺構こそが、首里城跡が世界遺産の登録に至った決定打であり、極めて価値の高いものですのでお見逃しなく。 -
首里城正殿
北殿から見た正殿です。 -
首里城 右掖門(うえきもん)
北殿の北側に位置し、かつて国王や親族が暮らした正殿裏側にある御内原への通用門として使用された門です。双璧の門の上に櫓が設置されている櫓門で、創建は15世紀頃とされています。別名は「寄内御門(よすふぃちうじょう)」と呼ばれていました。
見学コースでは御庭からの帰路の門となっており、この写真は門を潜った後に振り返って撮影しています。
沖縄戦で焼失しましたが、1992年に城壁部、2000年に櫓が復元されています。
門を潜って直ぐ左側にある石垣の下方の一部が黒ずんでいます。これが、旧首里城の石垣跡です。 -
首里城 久慶門(きゅうけいもん)
見学コース最後に潜る門です(守礼門は除く)。
国王や外国の使臣など男性が使用する正門の歓会門に対し、久慶門は主に女性が利用する通用門の役割を担っていました。また、国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ外出する際にも使用されました。
造られたのは尚真王の時代で、1983年に復元されました。
別名、「喜び誇る」を意味する「ほこり御門」とも言われていました。 -
首里城 城壁
こうして見ると、隅頭石で城壁のエッジを丸くしているのは、来城した人々に威圧感を与えないようにとの優しい心遣いなのかもしれません。縁起を担いだり、風を弱めるためでもあり、おもてなしの心でもあったのでは?
城壁の復元には、戦前の首里城を知る古老たちの証言が役立ったそうです。
古老たちの中に抜群の記憶力を持った方がおられ、その方は子どもの頃、ガキ大将で城の中をあちこち遊び回っていたそうです。身に着いた記憶と言うのは不思議なもので、大きさや形などはほぼ間違いないそうです。写真では判らないスケールなども多く、その時の記憶が生き証人として役立ったということなのでしょう。 -
歴史を語るアカギの大木
久慶門を潜って道路に出ると、門に対峙して青々とした葉を揺らす巨木が待ち構えています。この大木は「歴史を語るアカギの大木」と命名されているのですが、幹がアコウのようで違和感があります。実は、次のような生い立ちを持ったアカギでした。
このアカギはトウダイグサ科の常緑広葉樹で、戦前まで太い枝を首里城の城壁まで伸ばし、道行く人々に木陰を提供していました。しかし、首里城直下に軍司令部が置かれたため、首里城は沖縄戦では米軍の攻撃の的となり破壊されてしまいました。辺り一面焼け野原、瓦礫の山と化した中、ポツンと1本だけ焼け焦げたアカギの幹が残されていました。ある時、台風が襲来し、無残にもその幹も途中で折れてしまいました。しかし、鳥がアコウの木の種を運んできて、そこからアコウの新芽が生え、根を生やしました。アコウはアカギに寄生してスクスクと育ち、いつしかアカギの幹をすっぽりと包み込みました。すると、その後アカギ自身も芽を出して大きく育ち、今ではかつてのアカギを思わせるほどの大木となったということです。アコウは学術用語で「絞め殺しの木」とも言われるのですが、このように共生もできることを学びました。
首里城を挟んで南にある金城町には、天然記念物に指定されている大赤木群生地があります。
アコウが岩に抱きついた様子は、次のサイトでチェックしてください。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=37755935 -
龍淵橋(りゅうえんきょう)
道路を渡って右手にある池の方へ階段を下って行きます。
右の円鑑池(えんかんち)と左の龍潭(りゅうたん)を隔てる石橋は、小高い土手状になっており、龍淵橋と呼ばれています。
この橋は円鑑池同様に尚真王の頃に造られたと言われています。アーチの長さは1.5m、幅は9mで琉球石灰岩の切石積みの石造拱橋です。橋の真下にトンネル上の空洞が設けられています。
かつては「ニービヌフニ」と呼ばれる細粒砂岩で造られた石勾欄(いしこうらん)があり、羽目石には見事に麒麟や鶴亀などが彫刻されていたそうですが、沖縄戦で破壊されてしまい、現在では勾欄を支えていた持ち送り石が見られるだけです。
首里城内の水源から円鑑池に注ぎこんだ水は、池が増水すると龍淵橋の下のトンネルを通って龍潭に流れ込む仕掛けになっています。 -
龍淵橋 バリケン
龍潭付近にはアヒルと鴨のハーフと言われる、中国の家畜「バリケン(オランダ語)」が生息しています。元々は南米原産の野バリケンという野生の鴨の一種を家禽化したもので、タイワンアヒルやフランス鴨、麝香アヒルと呼ばれています。つまり、食用として導入されたものが逃げ出し、やがて野生化したものです。その昔、冊邦使が持ち込んだとか…まことしやかな流説が多々あるのですが、どれも真偽は検証されていないようです。 -
龍淵橋 バリケン
バリケンは近づいても怯えることもなく、人懐っこい動きでこちらを誘います。
ヨタヨタとした歩き方やひょうきんな表情は、いつまで見ていても飽きません。
また模様もまちまちで、真っ白なバリケンもいます。自然交配により種類が加速度的に増えてきているのでしょう。 -
円鑑池
円鑑池は、首里城や円覚寺からの湧水や雨水が集まる人工池です。浮島にある赤瓦の堂宇は、天女橋と言う小橋を渡って行き来できる弁財天堂です。天女橋は琉球石灰岩を切石積にした橋で、苔むした橋脚が時代の流れを伝えてくれます。
弁財天堂は航海安全を司る水の女神と財天を祀っていますが、元々は朝鮮王から贈られた方冊蔵経(ほうさつぞうきょう)を納めるために建立されました。
弁財天堂の奥に見えるのが、円覚寺の門です。沖縄における臨済宗の総本山で王族の菩提寺となっています。
往時、江戸城の大奥のような男子禁制のエリア「御内原(おうちばら)」の女性たちは、芸事をすることも絵や文字を書くことも許されませんでした。暇な時にすることと言えば、占いなどでした。退屈凌ぎに櫓を造り、人間ウォッチングを愉しんでいた琉歌が残されています。
「まものざな登て円覚寺見れば かくれすみばさが手巾ちゃげな」。
女人禁制の円覚寺の僧と男子禁制の御内原の女性たちが手拭を振り合い、お互いの境遇を慰め合っている光景が目に浮かぶようです。 -
弁財天堂
ふたつの池はいずれも人造池で、造られたのは本土の室町時代後期になります。
首里城に近い円鑑地の方が少し高い地にあり、水深3mの円鑑池から溢れた水は隣の龍譚へ流れていきます。 -
龍潭
龍淵橋から見た、龍潭です。
龍潭は尚巴志が冊封使一行を接待するため、国相の壊機(かいき)に命じて1427年に造らせた池です。懐機は、中国 明に赴き、造園技術を学んで首里城の庭園の一部として建造したそうです。
かつては魚が多く棲んでいたことから、魚小堀(いゆぐむい)とも呼ばれたそうです。『安国山樹華木之記碑』によると、池の周囲に各国の美しい花々が植えられ、池には魚が泳ぎ、水面には首里城が映り、琉球第一の名勝地と記されています。 -
那覇空港
利用者数が日本国内の空港では第6位(国内線旅客数では第4位)の南西諸島のハブ空港であり、国内幹線空港のひとつです。前身は1933年に建設された旧海軍の軍用飛行場「小禄飛行場(小禄海軍飛行場・海軍小禄飛行場)」です。
現在、滑走路増設事業が進行中です。那覇空港の沖合約160haを埋め立て、現滑走路から1310mの位置に長さ2700m、幅60mの滑走路1本を増設する拡張事業です。これにより年間発着枠は、現在の13.5万回から18.5万回に増加できる見通しだそうです。現在は旅客機と貨物機、自衛隊機が共用しており、観光シーズンなどは混雑や遅延が目立ち、キャパシティが限界に近づいているとの判断によるそうです。
南西諸島のハブ空港の位置づけから、もう少しストレッチしようという試みかもしれません。今後は、近隣国からの観光客も増えるとの読みなのでしょう。確かに、今回の旅行中も韓国や中国からの観光客が多かったように思います。距離的にもアクセスし易いですから…。ひょっとするとUSJもこれを当て込んでの進出計画なのかもしれません。
しかし、辺野古で議論されている珊瑚礁問題が、ここではある程度看過されているように思えるのは気のせいでしょうか?基礎などによる珊瑚礁への影響が議論されることが多いのですが、滑走路自体が太陽光を遮ります。珊瑚礁の生育には潤沢な太陽光が不可欠で、故に透明度の高い海でしか育ちません。珊瑚礁のように環境適応性の低い生物に関しては、生態系を守ってあげるのが人類としての「ノブレス・オブリージュ」ではないかと思うのですが…。 -
ポーク卵おにぎり
機内で軽い昼食を摂りました。
空港内のファミリーマートで150円でゲットしました。確か、「油みそ」とラベル表示がありました。
沖縄ではおなじみの「ポーク卵」をコンパクトなおにぎりにアレンジしたものです。ポーク・ランチョンミートを卵焼きで包み、おにぎり状にしてあります。ボリューム満点で、美味しかったです。
デザートは、御菓子御殿の「おいシーサー」です。
名産品をほおばりながら旅の思い出に浸るのも、なかなかのものです。
お弁当をたのまなくて正解でした! -
正味2.5日ほどの駆け足の旅でしたが、沖縄の文化や歴史に触れられ、また亜熱帯地方特有の自然の雄大さを満喫することができました。また、沖縄が抱える様々な問題をじっくり考えるよい機会にもなりました。米軍キャンプや辺野古問題など、沖縄の立ち位置は琉球王国時代と同様あるいはそれ以上に微妙になっていると思いますが、しっかりと見守って行きたいと思います。
USJの進出計画にはいささか疑問もありますが、沖縄に相応しく、沖縄の自然環境にやさしいテーマパークであれば、大歓迎です。例えば、環境対応型のハウステンボスのような…。
さて、「最果てシリーズ」としては、次回は「北海道}でしょうか???
何時になることやら…。乞、ご期待。 -
おまけ その1
3月24日に東京出張の際、主人が増上寺にて撮影した桜です。スマホでは初めての撮影です。一刻も早く皆様に春をお届けしたかったのでこの旅行記にアップしました。
東京では前日に桜の開花宣言がありました。
こうして見ると、増上寺の枝垂桜はすでに7分咲きといったところでしょうか? -
おまけ その2
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おまけ その3
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おまけ その4
鐘楼前の枝垂桜です。
何故か周りは国際色豊かだったそうです。 -
おまけ その5
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おまけ その6
-
おまけ その7
-
おまけ その8
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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