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かつては朝敵とされた将門が、地元では将門公と呼ばれ「東国の独立を望み、命を懸けて悪政に苦しむ民を守った」と崇敬・敬慕されている。今回は「坂東市観光ガイドマップ」を持って将門終焉の地・坂東市を訪ねた。<br />東隣の常総市にも将門公一族墳墓之地や将門公苑や奈良時代の国庁あとなどがあり、この地は古代からの政治の拠点地域と考えられている。<br />表紙はこの地で没した将門公の木像をご神体とする国王神社の茅葺・流造りの社殿(県重文)です。<br /><br />平将門は、900年ころ桓武天皇五代の末裔、賜姓皇族の平良将の子として千葉県佐倉に生まれた。現在でも将門町という地名がある。少年時代を相馬郡(現在の取手・竜ケ崎・守谷・我孫子などの諸市)で過ごし、15歳ころ平安京に出て藤原忠平に仕えた。父の死により東国に帰ったが、将門の父の遺領を占有した叔父との争いが下総国、常陸国におよぶ平氏一門の争いとなった。<br /><br />この平安朝末期の豪族の私闘から始まった将門の軍勢は、庶民の期待と同情を得て反体制の軍勢となり、短時日で勢力を伸ばしたので、将門を頼る官人がでてきた。<br />武蔵国権守の興世王は、受領の百済貞連と不仲になり将門に身をよせた。また、常陸国で追補令がでていた藤原玄明を匿って追補令の撤回を求め、939年に将門は常陸国に出兵して国府軍を破り国衙の印綬を没収した。<br />つづいて興世王の教唆を受けて将門は下野・上野(栃木・群馬)でも印綬を奪って関東一円を制し、上野(群馬)の国衙で文武百官を任命し、茨城県坂東市に政庁を置き、京都の朱雀天皇に対する「新皇」を自称して東国の独立を標榜した。<br /><br />この戦いで将門は、騎馬隊の編成、反りがある日本刀など、武士の時代を先駆け、武士の台頭の烽火となったが、「新皇」即位の2か月後、940年陰暦2月14日に藤原秀郷、平貞盛(従兄弟)らとの戦いで、夕刻に及んで本陣への帰途、流れ矢に当たって亡くなった。38歳であった。<br />同時代に瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友も941年に討伐された。<br /><br />当時、乱世を統治すべく登場した荘園領主の藤原氏は、貴族政治を強行して我が世の春を謳歌したが、地方官僚は善政を忘れて民の膏血を絞り、災害もあって庶民の窮状は言語に絶した」(神田明神の掲示)<br />このような状況下で、体制刷新と東国の独立を掲げて蜂起した将門は、「命を懸けて庶民の窮状を救った」と地元で評価されている。<br />これら承平天慶の乱は、巨大官僚組織で国を支配した平安時代の律令制度の崩壊の象徴であった。<br /><br />平成の世に、巨大官僚組織を背景とする公務員年金の積立金はローリスクで運用し、庶民の国民年金と厚生年金の積立金をハイリスクで運用する「官安全・民不安」の現状を考えると、将門の出現を期待したくなる。<br /><br />当時、平安京では失意の王族の怨霊が夜ごと貴族を悩ませていた。最大の怨霊は藤原氏に疎まれて配流先で没した菅原道真(後世に祟り神から学問の神に変質)であったが、道真の没年(903年)頃に生まれた平将門は道真の生まれかわりともいわれた。<br />将門記によれば、文武百官を任命した時に八幡大菩薩の託宣があり「朕が位を平将門に授けその位記は右大臣菅原朝臣の霊が表す」と告げたという。<br /><br />将門の没後に、京都で晒された首級は夜ごと「体はどこか、首をつないでもう一戦せん」と叫んだとか、三日後には空を飛んで大垣で射落され大垣市で御首神社(みくびじんじゃ)として祀られたとも、武蔵国まで飛んで現在の東京・大手町の三井物産わきに落下して大地鳴動したとも、密かに京から持ち帰られたともいわれる。(別旅行記:平将門を歩く(その1)将門の首級・・・)<br />最近の旅で知った説話は、藤原秀郷(俵藤太)が将門一党の19の首級を持って東海道を上り、掛川で京都から下ってきた勅使の首実検を受けた後、その地に埋葬された(掛川市・十九首塚)という説で、最もリアリティがある。<br />平将門と菅原道真の怨霊は「最後で最大の怨霊」ともいわれている(日本史のしくみ)。<br /><br />東京からはJR山手線日暮里駅>JR常磐線快速で柏駅>東武野田線愛宕駅>茨城急行バス・岩井行で茨城県坂東市役所の庁舎がある岩井局前で降ります。バスは1時間ごとですが、これが最も頻繁な公共交通で東京から日帰り可能です。<br /><br />なお、将門の次女春姫は江戸、畠山、河越、稲毛など諸氏の源流である秩父平氏に嫁いでいる。<br />また、都内西部の青梅、五日市などに残る伝説は、将門が藤原秀郷などに追われて相模からこの地に来て立て籠ったという伝説であるが、将門は山岳戦よりも平地で騎馬隊の戦いが得意だったと思われ、資料からも多摩地区に来た事実はないようです。おそらく、将門の一族が潜伏して生まれた伝説と思われる。

平将門を歩く(その2)坂東市 ―終焉の地と地元民の敬慕―

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2015/02/15 - 2015/02/15

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

かつては朝敵とされた将門が、地元では将門公と呼ばれ「東国の独立を望み、命を懸けて悪政に苦しむ民を守った」と崇敬・敬慕されている。今回は「坂東市観光ガイドマップ」を持って将門終焉の地・坂東市を訪ねた。
東隣の常総市にも将門公一族墳墓之地や将門公苑や奈良時代の国庁あとなどがあり、この地は古代からの政治の拠点地域と考えられている。
表紙はこの地で没した将門公の木像をご神体とする国王神社の茅葺・流造りの社殿(県重文)です。

平将門は、900年ころ桓武天皇五代の末裔、賜姓皇族の平良将の子として千葉県佐倉に生まれた。現在でも将門町という地名がある。少年時代を相馬郡(現在の取手・竜ケ崎・守谷・我孫子などの諸市)で過ごし、15歳ころ平安京に出て藤原忠平に仕えた。父の死により東国に帰ったが、将門の父の遺領を占有した叔父との争いが下総国、常陸国におよぶ平氏一門の争いとなった。

この平安朝末期の豪族の私闘から始まった将門の軍勢は、庶民の期待と同情を得て反体制の軍勢となり、短時日で勢力を伸ばしたので、将門を頼る官人がでてきた。
武蔵国権守の興世王は、受領の百済貞連と不仲になり将門に身をよせた。また、常陸国で追補令がでていた藤原玄明を匿って追補令の撤回を求め、939年に将門は常陸国に出兵して国府軍を破り国衙の印綬を没収した。
つづいて興世王の教唆を受けて将門は下野・上野(栃木・群馬)でも印綬を奪って関東一円を制し、上野(群馬)の国衙で文武百官を任命し、茨城県坂東市に政庁を置き、京都の朱雀天皇に対する「新皇」を自称して東国の独立を標榜した。

この戦いで将門は、騎馬隊の編成、反りがある日本刀など、武士の時代を先駆け、武士の台頭の烽火となったが、「新皇」即位の2か月後、940年陰暦2月14日に藤原秀郷、平貞盛(従兄弟)らとの戦いで、夕刻に及んで本陣への帰途、流れ矢に当たって亡くなった。38歳であった。
同時代に瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友も941年に討伐された。

当時、乱世を統治すべく登場した荘園領主の藤原氏は、貴族政治を強行して我が世の春を謳歌したが、地方官僚は善政を忘れて民の膏血を絞り、災害もあって庶民の窮状は言語に絶した」(神田明神の掲示)
このような状況下で、体制刷新と東国の独立を掲げて蜂起した将門は、「命を懸けて庶民の窮状を救った」と地元で評価されている。
これら承平天慶の乱は、巨大官僚組織で国を支配した平安時代の律令制度の崩壊の象徴であった。

平成の世に、巨大官僚組織を背景とする公務員年金の積立金はローリスクで運用し、庶民の国民年金と厚生年金の積立金をハイリスクで運用する「官安全・民不安」の現状を考えると、将門の出現を期待したくなる。

当時、平安京では失意の王族の怨霊が夜ごと貴族を悩ませていた。最大の怨霊は藤原氏に疎まれて配流先で没した菅原道真(後世に祟り神から学問の神に変質)であったが、道真の没年(903年)頃に生まれた平将門は道真の生まれかわりともいわれた。
将門記によれば、文武百官を任命した時に八幡大菩薩の託宣があり「朕が位を平将門に授けその位記は右大臣菅原朝臣の霊が表す」と告げたという。

将門の没後に、京都で晒された首級は夜ごと「体はどこか、首をつないでもう一戦せん」と叫んだとか、三日後には空を飛んで大垣で射落され大垣市で御首神社(みくびじんじゃ)として祀られたとも、武蔵国まで飛んで現在の東京・大手町の三井物産わきに落下して大地鳴動したとも、密かに京から持ち帰られたともいわれる。(別旅行記:平将門を歩く(その1)将門の首級・・・)
最近の旅で知った説話は、藤原秀郷(俵藤太)が将門一党の19の首級を持って東海道を上り、掛川で京都から下ってきた勅使の首実検を受けた後、その地に埋葬された(掛川市・十九首塚)という説で、最もリアリティがある。
平将門と菅原道真の怨霊は「最後で最大の怨霊」ともいわれている(日本史のしくみ)。

東京からはJR山手線日暮里駅>JR常磐線快速で柏駅>東武野田線愛宕駅>茨城急行バス・岩井行で茨城県坂東市役所の庁舎がある岩井局前で降ります。バスは1時間ごとですが、これが最も頻繁な公共交通で東京から日帰り可能です。

なお、将門の次女春姫は江戸、畠山、河越、稲毛など諸氏の源流である秩父平氏に嫁いでいる。
また、都内西部の青梅、五日市などに残る伝説は、将門が藤原秀郷などに追われて相模からこの地に来て立て籠ったという伝説であるが、将門は山岳戦よりも平地で騎馬隊の戦いが得意だったと思われ、資料からも多摩地区に来た事実はないようです。おそらく、将門の一族が潜伏して生まれた伝説と思われる。

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 東武野田線の愛宕駅。ここは千葉県で、なつかしい感じの古い駅だが日曜日だったせいか、駅付近の商店は全部シャッターが下りていた。<br /><br />仕方なく駅近くのスーパーでパンとジュースを買って店内で食べて昼食として出発。<br />醤油の町なので駅にはキッコーマン病院の産科再開という看板が出ていた。

    東武野田線の愛宕駅。ここは千葉県で、なつかしい感じの古い駅だが日曜日だったせいか、駅付近の商店は全部シャッターが下りていた。

    仕方なく駅近くのスーパーでパンとジュースを買って店内で食べて昼食として出発。
    醤油の町なので駅にはキッコーマン病院の産科再開という看板が出ていた。

  • 利根川を越えて 茨城県 坂東市です。日本に7ッしかない鉄道駅がない市です。<br />実際の巡回経路ではなく、ストーリィを作って紹介します。<br /><br />これはベルフォーレという図書館・音楽ホールの前にある平将門の騎馬像です。<br />日本で最初の騎馬隊を組織した将門の雄姿です。

    利根川を越えて 茨城県 坂東市です。日本に7ッしかない鉄道駅がない市です。
    実際の巡回経路ではなく、ストーリィを作って紹介します。

    これはベルフォーレという図書館・音楽ホールの前にある平将門の騎馬像です。
    日本で最初の騎馬隊を組織した将門の雄姿です。

  • 伝説には何らかのモノがあって確からしさを伝えているのと、証拠不要の言い伝えとがあります。<br />最初の訪問地は 証拠がある神田山(かどやま)の延命院です。<br />将門の首は京都に運ばれて晒されたとか、東海道の真ん中、掛川で検死をうけて掛川に埋葬されたとかいうが、胴は密かにこの地に埋葬されたという。<br /><br />タクシーの運転手が寺の横から入ったので寺の写真は撮りそこなった。

    伝説には何らかのモノがあって確からしさを伝えているのと、証拠不要の言い伝えとがあります。
    最初の訪問地は 証拠がある神田山(かどやま)の延命院です。
    将門の首は京都に運ばれて晒されたとか、東海道の真ん中、掛川で検死をうけて掛川に埋葬されたとかいうが、胴は密かにこの地に埋葬されたという。

    タクシーの運転手が寺の横から入ったので寺の写真は撮りそこなった。

  • 胴体を埋めた塚は少し盛り上がっただけの塚だが、将門山古墳とされている。<br />塚には天然記念物に指定された大きなカヤの木が生えていた。

    胴体を埋めた塚は少し盛り上がっただけの塚だが、将門山古墳とされている。
    塚には天然記念物に指定された大きなカヤの木が生えていた。

  • 神田山 将門・・・・ という石碑の前には花が供えられ、何本かの酒も供えられていた。<br />亡くなったのが旧暦2月14日で、訪ねた日が新暦だが2月15日だったので、あるいは地元の人が供えたのかもしれない。<br />それにしても1000年以上も前に、困窮の民を救うべく律令制度に反旗を翻して滅んだ武士を これほどまでに敬慕していることに感銘を受けました。

    神田山 将門・・・・ という石碑の前には花が供えられ、何本かの酒も供えられていた。
    亡くなったのが旧暦2月14日で、訪ねた日が新暦だが2月15日だったので、あるいは地元の人が供えたのかもしれない。
    それにしても1000年以上も前に、困窮の民を救うべく律令制度に反旗を翻して滅んだ武士を これほどまでに敬慕していることに感銘を受けました。

  • 延命院の墓地の近くにある碑

    延命院の墓地の近くにある碑

  • もう一つ、証拠がある伝説地です。これも疑問をさしはさむ余地がない伝説です。<br /><br />この國王神社は、出家した将門の三女が 将門33回忌にこの地に庵を結び、自ら彫り上げた次の写真「衣冠束帯の将門公坐像」(県重要文化財)をご神体としています。

    もう一つ、証拠がある伝説地です。これも疑問をさしはさむ余地がない伝説です。

    この國王神社は、出家した将門の三女が 将門33回忌にこの地に庵を結び、自ら彫り上げた次の写真「衣冠束帯の将門公坐像」(県重要文化財)をご神体としています。

  • 鳥居から杉木立のさきの社殿が見えます

    鳥居から杉木立のさきの社殿が見えます

  • これは読んでいただきたい由緒です。<br />宮司は東京杉並区の大宮八幡宮で2年間修業された方で、フランクで親切な方でした。<br /><br />前日の2月14日に東京の青梅市から訪ね来たひとが、青梅に将門神社があること、鞭にしていた梅の枝を「我が志成るものならば根付け」と言って挿して根付いたのが青梅の始まりと述べていたそうです。<br />調べてみたら、青梅線・鳩ノ巣駅東方数百メートルの尾根上と、奥多摩駅西北、約2??ほど、ヘリポートの先の尾根上の2か所に将門神社がありました。<br />

    これは読んでいただきたい由緒です。
    宮司は東京杉並区の大宮八幡宮で2年間修業された方で、フランクで親切な方でした。

    前日の2月14日に東京の青梅市から訪ね来たひとが、青梅に将門神社があること、鞭にしていた梅の枝を「我が志成るものならば根付け」と言って挿して根付いたのが青梅の始まりと述べていたそうです。
    調べてみたら、青梅線・鳩ノ巣駅東方数百メートルの尾根上と、奥多摩駅西北、約2??ほど、ヘリポートの先の尾根上の2か所に将門神社がありました。

  • 将門公の三女は、戦火を逃れて四ツ倉の恵日寺で日々を過ごしていたが、地蔵菩薩が夢に現れて道を教えられ、出家して父の冥福を祈っていた。<br /><br />将門公33回忌にあたり、石井の地に帰り霊木を得て一刀三拝して父の像を刻み、祠を立てて祀ったのが国王神社の創始という。写真は由緒書きから複写。

    将門公の三女は、戦火を逃れて四ツ倉の恵日寺で日々を過ごしていたが、地蔵菩薩が夢に現れて道を教えられ、出家して父の冥福を祈っていた。

    将門公33回忌にあたり、石井の地に帰り霊木を得て一刀三拝して父の像を刻み、祠を立てて祀ったのが国王神社の創始という。写真は由緒書きから複写。

  • 鬱蒼とした木立の中の茅葺屋根の拝殿です。<br /><br />三百三十年以上前、1683年建立の社殿です。

    鬱蒼とした木立の中の茅葺屋根の拝殿です。

    三百三十年以上前、1683年建立の社殿です。

  • この付近ではよく目立つ森の中にありますが、乾燥期なので茅葺き屋根が燃えやしないかと、心配でした。

    この付近ではよく目立つ森の中にありますが、乾燥期なので茅葺き屋根が燃えやしないかと、心配でした。

  • 左が拝殿。右奥が本殿です。

    左が拝殿。右奥が本殿です。

  • 本殿の彫刻です。<br />1683年に建て替えられたもので、三百数十年前から無事に保存された来ました。

    本殿の彫刻です。
    1683年に建て替えられたもので、三百数十年前から無事に保存された来ました。

  • 国王神社前の石碑。明治45年の織田完之の揮毫、ほかに赤城宗徳による顕彰碑もある。

    国王神社前の石碑。明治45年の織田完之の揮毫、ほかに赤城宗徳による顕彰碑もある。

  • 上の写真の日陰部分。石碑は明治45年の建立で、将門に関係する地名が書かれています。

    上の写真の日陰部分。石碑は明治45年の建立で、将門に関係する地名が書かれています。

  • ここから後の写真は証拠物件はないが将門に関係すると伝えられる史跡です。<br /><br />これは辺田三叉路の近くにある西念寺。平安期の阿弥陀如来の坐像がある。<br />将門に関係するのは次の梵鐘です。

    ここから後の写真は証拠物件はないが将門に関係すると伝えられる史跡です。

    これは辺田三叉路の近くにある西念寺。平安期の阿弥陀如来の坐像がある。
    将門に関係するのは次の梵鐘です。

  • 西念寺の梵鐘です。<br /><br />戦陣に持参したところ、鐘を撞くたびに「辺田村に帰りたい」と鳴るので兵の士気が上がらず、この寺に戻されたという。

    西念寺の梵鐘です。

    戦陣に持参したところ、鐘を撞くたびに「辺田村に帰りたい」と鳴るので兵の士気が上がらず、この寺に戻されたという。

  • 島広山、将門の兵営跡と伝えられる場所です。各地にこのような案内板が作られています。

    島広山、将門の兵営跡と伝えられる場所です。各地にこのような案内板が作られています。

  • 島広山ですが、狭い区域が保存されていました。

    島広山ですが、狭い区域が保存されていました。

  • 県重要文化財の大日如来がある延命寺。島の薬師と呼ばれる。<br /><br />かつては将門の営所の鬼門を護っていたという。

    県重要文化財の大日如来がある延命寺。島の薬師と呼ばれる。

    かつては将門の営所の鬼門を護っていたという。

  • 延命寺の山門。このさきの石造太鼓橋とともに、市指定の重要文化財である。

    延命寺の山門。このさきの石造太鼓橋とともに、市指定の重要文化財である。

  • 坂東市は旧岩井市と猿島町が合併してできた市で、全国に六つしかない鉄道のない市である。<br />岩井の名はこの石井(いわい)の井戸に由来するという。

    坂東市は旧岩井市と猿島町が合併してできた市で、全国に六つしかない鉄道のない市である。
    岩井の名はこの石井(いわい)の井戸に由来するという。

  • 将門が水に困っていた時に老翁が巨石を地に投げつけて水を得たという。

    将門が水に困っていた時に老翁が巨石を地に投げつけて水を得たという。

  • 老翁はこの一言神社に祀られている。

    老翁はこの一言神社に祀られている。

  • 一言神社。隣の常総市にも将門一族墳墓之地や将門公苑があり、一言主神社もある。<br /><br />一言主命は、古事記・日本書紀では天皇と同格だが、続日本紀では天皇に土佐に流され、日本霊異記では役行者に使役されており、加茂氏の地位の低下に伴って地位が下がったという。<br />託占神であり、一言の願いであればすべて聞き届けてくれる神様である。

    一言神社。隣の常総市にも将門一族墳墓之地や将門公苑があり、一言主神社もある。

    一言主命は、古事記・日本書紀では天皇と同格だが、続日本紀では天皇に土佐に流され、日本霊異記では役行者に使役されており、加茂氏の地位の低下に伴って地位が下がったという。
    託占神であり、一言の願いであればすべて聞き届けてくれる神様である。

  • 質素な社殿でした。<br /><br />一言主神社の総本山は奈良県御所市の葛木一言神社。

    質素な社殿でした。

    一言主神社の総本山は奈良県御所市の葛木一言神社。

  • 九重の桜。<br /><br />九重とは宮中をさし、この桜が紫宸殿の庭から株分けされたものという故事にちなむ。

    九重の桜。

    九重とは宮中をさし、この桜が紫宸殿の庭から株分けされたものという故事にちなむ。

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