2015/01/29 - 2015/01/31
439位(同エリア615件中)
ひま人さん
昨年の大河ドラマは「官兵衛」でしたが、山崎合戦が終焉し黒田家は豊後国へ転封。それ以後、秀吉と官兵衛の関係は次第に冷めてゆき、疎遠になってしまいます。二人の間にいったい何があったのでしょうか・・・?そして同じく昨年のNHK朝の連ドラで注目された柳原白蓮と伊藤伝右衛門でした。
今回は、男と女の愛と別れ、男同士の信頼と別れ、二組の出会いと別れを大分から福岡へと辿ってみました。
写真は中津城天守閣。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 新幹線 JRローカル 徒歩
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中津城天守閣。周防灘河口に、黒田孝高(官兵衛)によって天正16年(1588年)に築城が開始され、、孝高は馬ケ岳城より入城。城郭は平城の堀に海水が引き込まれた水域で、今治城、高松城とともに日本三大水城の一つに数えられています。
黒田家が52万石で転封するのと入れ替わりに、細川氏、小笠原氏、奥平氏と入封し、奥平氏が明治2年の廃藩まで居城していました。
現在の天守閣は昭和39年、奥平宗家17代当主・奥平昌信らが中心となり造営しました。地下1階5層5階、高さ23m。内部は「奥平家歴史資料館」となっています。 -
中津城石垣。真ん中の右側が黒田時代の石垣です。
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黒田官兵衛孝高像。昨年のドラマ「官兵衛」の制作決定にともない城内の再整備が行われ、官兵衛の石像としてはじめて建立されました。
像柱には「我 人に媚びず 富貴を望まず」と読めます。 -
合元寺。通称「赤壁」と呼ばれる当寺は、天正15年(1587年)に従って来津した浄土宗西山派の空誉上人の開山で建立されました。その後天正17年4月、官兵衛が豊前の実力者であった宇都宮鎮房(しげふさ)を謀略結婚により中津城内に誘致したとき、その従臣等が中津城を脱出してこの寺を拠点として奮戦し最期を遂げました。以来、門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになったそうです。当時の激戦の様子は、現在も境内の大黒柱に刀の痕として点々と残されています。
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浄土宗西山 合元寺本堂。
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合元寺の赤壁。
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福澤諭吉生家宅跡碑。
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福澤諭吉生家。福澤諭吉は、天保5年(1835年)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福沢百助の次男として生まれました。1歳6ケ月の時に父と死別、母子6人で中津に帰郷し貧しくても信念を持った少年時代を過ごし、14歳の時に儒学者白石照山の塾に入りました。
安政元年(1860年)、19歳で蘭学を志し長崎に遊学、翌年から大坂の緒方洪庵の「適塾」で猛勉強に励みました。安政5年(1858年)には、藩命によって江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きますが、これが慶応義塾(現、慶応大学)のはじまりです。
この生家は諭吉が1歳6ケ月から19歳まで暮らした家が保存され、国指定の史跡になっています。 -
旧居右にある土蔵の2階は諭吉自らの手で改造して、二階を勉強部屋にしていたそうです。
諭吉は万延元年(1860年)には「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広め、その後「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概論」など著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。 -
福澤諭吉記念館。平成17年12月開設。福澤諭吉の遺品・遺墨・書簡などをはじめ、福澤諭吉関連の資料を展示及び保管しています。
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福澤諭吉胸像。
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耶馬溪・青の洞門。この古くから知られ全国の「耶馬溪」の源名称であるこの景勝地は、新生代第四紀の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる大地の浸食によってできた奇岩の連なる絶景で、文政元年(1818年)に頼山陽が当地を訪れ、当時の「山谷国」という地名に中国風の文字をあて、「耶馬溪天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬溪という名前の起こりです。
「青の洞門」は参拝者が難所を渡る際に命を落とさないようにと、羅漢寺の禅海和尚がノミ一本で手掘りで掘り抜いたという隧道(トンネル)で、菊地寛が「恩讐の彼方に」を上梓して広く知られ、国語の教科書にも紹介されて有名になりました。
青の洞門には、手前の道路が工事中で残念ながら通り抜け出来ませんでした。 -
「青の洞門」をノミで手掘りで掘った「禅海和尚像」。
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深耶馬渓。山国川の支流、山移川支流に位置する渓谷で、一度に海望嶺他八つの景色が眺望できることから「一目八景」と名付けられた景観で有名なのが深耶馬渓です。紅葉の季節が見事だそうです。
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深耶馬渓。
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咸宜園(かんぎえん)・秋風庵。江戸後期に生まれた儒学者・廣瀬淡窓が豊後日田に開いた日本最大規模の私塾(学校)です。塾名の「咸く宜し」(ことごとくよろし)を理念とし、淡窓は門下生一人ひとりの意志や個性を尊重する教育方針をこの塾名に込めたと言われています。
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咸宜園・秋風庵。
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咸宜園・秋風庵資料館内部。
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日田市豆田町の町並み歩き。豆田町は江戸時代初頭に開かれた城下町、または陣屋町です。筑後川水運の便もあって九州における商業、金融の一中心として栄えました。
江戸時代の商家や土蔵が多く残り、古い街並みが保存され、平成13年には国土交通省の都市景観100選定から発展した「美しいまちなみ大賞」を受賞、2004年には、文化庁が選定する重要伝統的建造物保存地区となり、さらなる町並み保存が行われています。 -
長福寺山門。
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長福寺本堂。寛文9年建築、九州最古の真宗寺院様式(国重文)。
咸宜園を開いた廣瀬淡窓が文化2年(1805年)にこの寺の学寮で開塾。咸宜園の前身となりました。 -
岩尾薬舗日本丸館。創業安政2年の薬屋で「日本丸」という万能薬の製造元です。木造4層3階建ての館内には昔の薬や家財道具を展示しています。
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廣瀬資料館。国指定史跡で、儒学者廣瀬淡窓とその弟久兵衛の生家。
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廣瀬資料館・廣瀬淡窓旧宅。江戸時代の貴重な資料を展示しています。旧宅庭園も公開しています。
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廣瀬資料館。
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