2015/03/13 - 2015/03/13
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アルプ・グリュムさん
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沼津宿は東海道五十三次の12番目の宿場で、本陣3、脇本陣1、旅篭屋55の宿場町です。
又、三枚城、沼津城を有する城下町でもあります。
しかし、市内を歩いてみてもそのような建造物は見当たりませんが、その史跡を求め旧東海道の従是西沼津領から従是東沼津領までの沼津宿を散策してみました。
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黄瀬川を渡って清水町から沼津市に入ります。
橋から富士山が見られるのは三島宿の大場川と同じです。 -
潮音禅寺
駿河の3美人と言われた亀鶴姫。源頼朝に見初められるも応ぜず黄瀬川に身を沈む悲しい話です。 -
弘仁年中、弘法大師伊豆修善寺に御修行の砌、この地を通りたもう処感応ありて聖観音菩薩を刻み、一宇を建立安置したもう。祈願するもの利益をこうむる事恰も響き音に応ずるが如く、有験の霊像なり。黄瀬川村に小野善司左エ門正氏なる長者あり、一子なきを悲しみ祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。7歳の春両親に死別、18歳の時源頼朝公富士の牧狩の宴に再度召されたが応ぜず、この世を憂きことと思い、黄瀬川の水上、百澤の瀧のほとりに立ち、「み佛の深きめぐみぞ頼みたる 身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも”と一首の歌を残して飛和泉に身を沈む。この時建久4年5月27日なり。姫は駿河の三美女と云われ賢女にして亀鶴草紙などを残す。小野氏の遺財で碑を建て亀鶴観音堂を建立、明治12年廃寺、当山に移転安置、その霊を弔う。(木瀬川自治会)
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潮音禅寺
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潮音寺
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従是西 沼津領
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従是西 沼津領
大久保忠佐の死後、1614年に三枚城は廃城になった。その後沼津は天領となり、韮山の代官・江川太郎左衛門の支配下にあった。初代沼津潘主・水野出羽守忠友は1777年、将軍家治の御側用人になり加増されて2万石の大名になった。この時忠友は沼津の地に所領(1万2千石)を与えられ、将軍から築城を命ぜられている。翌1778年2月8日に「従是西 沼津領」の杭が韮山代官所から運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられ沼津藩領が確定した -
従是西沼津領から従是東沼津領まで沼津宿の関連する碑を追い求め散策します。
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歴史マップ
このあたりは富士隠れ坂という長い下り坂で, 掘り割りになっていたため富士山が見えなくなってしまうことからついたという。 -
歴史マップの横には「東海道 駿府へ五里」の碑があります。
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平作地蔵尊
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日本三大仇討の一
《日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来》
この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。 〈沼津千本の場面〉平作決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。(山王前自治会) -
ここには静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標がありました。
沼津一里塚跡 -
一里塚
この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺および宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに植えられています。(沼津市教育委員会) -
一里塚
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玉砥石
《玉砥石》 古墳時代 高さ−大砥石189cm・小砥石112cm
玉砥石は、今から千二、三百年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられています。柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。承平年間(931〜938)に書かれた和名類聚抄という書物には、駿河国駿河郡(現在の駿東郡)に玉造郷の名が見えます。この玉造郷は、一説では香貫地区一帯であったとされています。この説を支える根拠としては、狩野川対岸にある玉造神社、玉砥石が使われていたと考えられる時代の大集落である御幸町遺跡や藤井原遺跡があります。また、この付近には古墳が多く、各種の玉類を数多く出土しています。しかし、香貫地区一帯が玉造郷であるという確かな証拠は、今のところ得られていません。この玉砥石がいつから東海道の日枝神社参道脇のこの地にあるかは明らかでありませんが、天明6年(1786年)尾張藩士高力猿猴庵による見聞図集にはそれらしい大石が描かれています。玉砥石は静岡県下では他に発見されておらず、貴重なものであることは確かであり、静岡県指定の考古資料となっています。(沼津市教育委員会) -
玉砥石
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日枝神社
この神社に芭蕉の句碑があるので寄って行きます。 -
日枝神社
長月の末都を立て、初冬のみそかちかきほど、沼津に至る。旅館のあるじ所望によりて、
風流捨がたく筆を走らす
都出て神も旅寝の日数哉 はせを -
日枝神社
平安時代からの神社で山王社とも称され、人々には山王さんとして親しまれています。 -
川廓通(かわぐるわとおり)ほぼ中央部に案内板が設置してあり、大変興味深い内容であった。
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《川廓通りの由来》(かわぐるわとおり)
城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城、館内の区画を表す「くるわ(曲輪・郭・廊)が由来となった「川廊通り」はその名のとおり東側は狩野川に面し、背後には沼津城(元三枚橋城)の外郭にあたる東海道として形成されてきました。川廊通りは狩野川の舟運(しゅううん)が開かれていた頃の船着場に隣接するなど物資や人々の交流が盛んであり、江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心的な地域に位置していました。(説明版) -
静岡藩時代沼津略図
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東海道分間延絵図
沼津城と沼津宿の家並みが描かれています。 -
一雄齋国輝画 末広五十三次 沼津
富士山の背景に沼津城が描かれています。 -
沼津市内で唯一江戸時代と同じ道幅で残っているのがこの川廓通りです。
通りの出入り口には碑が設置してあり石畳風に舗装されています。 -
川廓の由来の碑
志多町と上土町の間の東海道沿いにあって東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外廓に接した狭い町。 「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名づけられたものとされている -
狩野川沿いにある水神社
名の通り水神社は曲輪の守護神であり、狩野川洪水の守り神です。 -
三枚橋城
アゴラ沼津(静岡銀行沼津支店)の地下から発見された石垣がモニュメントとして使われています。 -
三枚橋城
アゴラ沼津(静岡銀行沼津支店)の地下から発見された石垣が写真で紹介されています。 -
旧一国通り
面白い名の通りですが旧東海道のこと? -
中央公園
石垣が沼津城を彷彿しますが、ここにはそのような案内板がありません。 -
中央公園の横には碑と案内板が並んであります。
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中央公園
沼津城本丸址の碑 -
中央公園
《沼津城本丸址》
この中央公園は三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。三枚橋城は天正7年(1579)武田信玄の子勝頼が後北条の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)には大久保治右衛門忠佐(ただすけ)が城主となりました。しかし同18年(1613)忠佐の死後世継ぎがいなかったため大久保家は断絶となり、翌19年三枚橋城は廃城になりました。その後160年余の間当地に城はありませんでしたが、安永6年(1777)後に老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。この沼津城は三枚橋城の北半分を路用して造られましたが、規模は三枚橋城に比べ小さなものでした。慶応4年(1868)水野氏が菊間(現千葉県市原市)転封後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われましたが明治4年(1871)の兵学校廃止後払い下げられ姿を消しました。この碑の周囲の石は、昭和48年に上土町の静岡相互銀行(現静岡中央銀行)新築工事の際に地中から発掘されたもので、三枚橋城当時の石垣に使われたものです。(沼津市教育委員会) -
中央公園
「沼津城のあゆみ」として沼津城の平面図が現在の場所と対比して描かれています。
沼津城の年表、水野忠成の肖像、生い立ち等が記載されています。 -
リバーサイドホテル
一階の駐車場には発掘された石垣が見られます。 -
リバーサイドホテル
その石垣です。 -
リバーサイドホテル
三枚城外堀石垣と記されています。 -
歩道にも石垣が
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この周辺には今も城壁が埋もれていると記されています。
今になっては大発掘は難しくなっていますがここに城があった事実の歴史は変わりません。 -
リバーサイドホテルの裏には上土朝日稲荷神社があります。
裏というよりこの神社のために設計されたホテルです。 -
上土朝日稲荷神社
「きつねの嫁入り」で有名です。 -
さんさん通りと御成橋通りの交差点には通横町(問屋場)の碑があります。
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通横町
問屋場が置かれたところです。
上土の町通りと本町の町通りとを横に通している町という意味から付けられた町名で、
江戸時代には主として横町と言われました。
沼津宿の問屋場が置かれ、当時は人や馬の中継地として賑わいました。
文政年間(一八一八年〜一八二九年)における問屋場の規模は表口八間(約十四・五六メートル)の白壁造りで、裏には間口四間半(約八・九メートル)、奥行二間(約三・六四メートル)の白壁瓦葺の土蔵が建っていたと言われています。 -
御成橋通りの旧大門町の案内板
この地にあった正見寺の大門に通じる小路沿いの地域に付けられた町名で、かつては正見寺の門前町でした。 -
道路の角地には広重の画が設置されています。
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東海道十三 五十三次之内 沼津
初代広重画 -
駐車場横には高田本陣跡の碑があります。
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高田本陣跡の碑
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歯科医の前には中村副本陣跡の碑
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中村副本陣跡の碑
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将棋倶楽部の前には清水本陣の碑があります。
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清水本陣の碑
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タクシー会社の前には間宮本陣跡の碑
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間宮本陣跡の碑
全て碑がぽつんと建っているだけなのが残念で、案内板がほしいところです。 -
ここが間宮本陣跡から見た碑本陣、副本陣があった通りです。
沼津駅方向を見ていますが好き視寂れた様子となっているのが残念で、これらの本陣をまとめた案内板があってもよいのでしょうか。
沼津市が沼津宿を本当に後世に残したいのであれば由比で見られたような復元された本陣があってもよいと思います。
沼津の観光地が沼津港周辺に偏りすぎているようですので! -
静岡県ではお馴染みの夢舞台東海道道標が設置されてありました。
次の宿場である原宿と明記されてあり沼津宿抜けます。
この原宿は竹下通りの原宿ではありません。 -
乗運寺
手入れが庭園がとても行き届いて目の保養になり疲れを癒してくれる寺です。 -
乗運寺は若山牧水の菩提寺で故人の墓があります。
境内に入ってすぐ横にあるのは正解で一般の方々と一緒の墓地だと行き難いものです。。 -
千本松原近くにあった首塚
明治33年5月、暴風雨の翌朝、千本松林の中で露出した頭蓋骨が発見された。これを集めて弔ったのがこの碑です。 -
首塚
戦国時代沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく特に天正8年(1580年)の千本浜の合戦は激戦であった。明治33年暴風雨で倒れた松の大木の下から多くの頭骸骨が発見され鑑定した結果この時代のものと確認された。地元市道町の人が今も霊を厚く弔っている。 -
出口町の碑
ここが沼津宿の出口となります。 -
出口町
浅間町の西続きが出口町で、この辺りは沼津宿の西の外れであり、宿の出口に当たることから付けられた地名です。 -
旧東海道と蛇松緑道
蛇松緑道は旧沼津港線の鉄道跡で、先日この緑道を散策しましたがここが旧東海道だとは気が付きませんでした。 -
六代松の道標
私はこれが六代松の碑だと勘違いしてしまいました。 -
間門の地名の由来の碑
むかし、この近くの浜辺で閻魔の像が網に掛かりました。像の背に天竺摩伽陀国毘首羯摩作と記されてあり、村人たちは御堂を建ててまつり、地名をマカダと称しました。
後に、マカドとなまり、間門という字を当てるようになったと伝えられています。
江戸時代に東と西に分かれ東間門、西間門となりました。
しかし、間門という地名は各地にあることから古語に由来するという説もあります。 -
従是東沼津領
安永6年(1777)沼津藩主となった水野忠友によって、翌安永7年(1778)2月に建てられたものである。沼津略記に「二月六日 韮山代官ヨリ榜示杭來(長一丈、八寸角)・・・・」とある。
これは、沼津藩の西限を示すもので、下石田の東榜示と対応する。石製で、下半分は欠損している。「従是東」と刻まれているが、もとは「従是東沼津領」であったと考えられる。 -
従是東沼津領
下半分が折られてなくなっています。 -
八幡神社
由緒がありそうな神社です。 -
バス停、旧東海道の道票、八幡神社の鳥居、従是東沼津領
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八幡神社前の旧東海道の道票
「東海道」はよく見かけますが「旧東海道」はあまり見ません。
この先は次の宿場である原宿までは何も見所がないようなので引き揚げます。
江戸時代の宿場間には松並木があったそうですが、海沿いの千本松原通りには延々と千本松原が続いています。
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