国立・府中・稲城旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2015/1/2、東京都の府中市の大国魂神社に初詣に行ったが、あまりの人出の多さに、びっくりした。<br /><br />律令時代に武蔵国の国府が置かれた地である事から、武蔵国の国府という意味で府中と呼ぶようになった場所。<br /><br />その中心が大国魂神社辺りと言われていて、その歴史に触れるため、あらためて神社周辺を訪問してみた。<br /><br />実際廻ってみて、調べると古墳時代、飛鳥/奈良時代、鎌倉/室町時代、戦国/江戸時代、明治/大正時代それぞれの一瞬の歴史を垣間見ることが出来て、うれしい限りであった。

東京都府中市 ふるきを訪ねて (1)

8いいね!

2015/01/18 - 2015/01/18

400位(同エリア667件中)

0

49

Wind99

Wind99さん

2015/1/2、東京都の府中市の大国魂神社に初詣に行ったが、あまりの人出の多さに、びっくりした。

律令時代に武蔵国の国府が置かれた地である事から、武蔵国の国府という意味で府中と呼ぶようになった場所。

その中心が大国魂神社辺りと言われていて、その歴史に触れるため、あらためて神社周辺を訪問してみた。

実際廻ってみて、調べると古墳時代、飛鳥/奈良時代、鎌倉/室町時代、戦国/江戸時代、明治/大正時代それぞれの一瞬の歴史を垣間見ることが出来て、うれしい限りであった。

旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩

PR

  • JR南武線府中本町駅を降りると、すぐ目の前の空き地の情景。<br /><br />「国司館と家康御殿跡」<br /><br />2010年の発掘調査の結果、国内でも類例のない初期の国司館(こくしのたち)と考えられる国府の重要な施設跡と、徳川家康府中御殿関連の遺構が発見された。<br /><br />秀吉の小田原征伐後、家康はここに御殿を立て秀吉を接待したとのこと。<br /><br />現在は保存のため埋め戻され、また国指定文化財(史跡)に指定された。

    JR南武線府中本町駅を降りると、すぐ目の前の空き地の情景。

    「国司館と家康御殿跡」

    2010年の発掘調査の結果、国内でも類例のない初期の国司館(こくしのたち)と考えられる国府の重要な施設跡と、徳川家康府中御殿関連の遺構が発見された。

    秀吉の小田原征伐後、家康はここに御殿を立て秀吉を接待したとのこと。

    現在は保存のため埋め戻され、また国指定文化財(史跡)に指定された。

  • その跡地から府中街道の坂を下る。<br /><br />坂から左側には先の大國魂神社の敷地が続いている。<br /><br />その傍らに「天保二年」と読める小さな石が見え、奥に小さな金比羅神社があった。この辺りは歴史が詰まっている予感がした。

    その跡地から府中街道の坂を下る。

    坂から左側には先の大國魂神社の敷地が続いている。

    その傍らに「天保二年」と読める小さな石が見え、奥に小さな金比羅神社があった。この辺りは歴史が詰まっている予感がした。

  • その隣のお寺、妙光院。<br /><br />貞観元年(859年)真如法親王の開山と伝えられる真言宗の古刹。

    その隣のお寺、妙光院。

    貞観元年(859年)真如法親王の開山と伝えられる真言宗の古刹。

  • 境内に入ってみる。<br /><br />戦国時代には八王子城主の北条氏照が帰依、江戸時代には徳川家康から御朱印地を寄進されるなど、権力者たちの信仰が厚かったといわれる寺。

    境内に入ってみる。

    戦国時代には八王子城主の北条氏照が帰依、江戸時代には徳川家康から御朱印地を寄進されるなど、権力者たちの信仰が厚かったといわれる寺。

  • 奥に朱塗りの美しい仁王門が見えた。

    奥に朱塗りの美しい仁王門が見えた。

  • 仁王さんをアップで撮ってみた。<br /><br />そして裏に廻ると竹林がきれいだった。

    仁王さんをアップで撮ってみた。

    そして裏に廻ると竹林がきれいだった。

  • さらにその隣の安養寺に裏から入る。<br /><br />6地蔵が並んでいた。<br /><br />

    さらにその隣の安養寺に裏から入る。

    6地蔵が並んでいた。

  • ここも隣と同じ859年(貞観元年)に開山された。偶然ではなかろう。<br /><br />円仁(慈覚大師)によって開山された天台宗の古刹。

    ここも隣と同じ859年(貞観元年)に開山された。偶然ではなかろう。

    円仁(慈覚大師)によって開山された天台宗の古刹。

  • 浅草観世音御分体。<br /><br />寺の敷地には向かいの施設の臨時の有料駐車場になっていた。<br /><br />それは・・・

    浅草観世音御分体。

    寺の敷地には向かいの施設の臨時の有料駐車場になっていた。

    それは・・・

  • 道を挟んで、府中のJRA東京競馬場がある。<br /><br />競馬場へは初めてなので、中に入ってみた。

    道を挟んで、府中のJRA東京競馬場がある。

    競馬場へは初めてなので、中に入ってみた。

  • スタンドにはそこそこ人がいて、大きな電光掲示板ではレースのライブ映像があったが、競技場には馬は見当たらない。<br /><br />何故だ。

    スタンドにはそこそこ人がいて、大きな電光掲示板ではレースのライブ映像があったが、競技場には馬は見当たらない。

    何故だ。

  • スタンドの中は暖かく、人も多く、馬券を買っているようだ。

    スタンドの中は暖かく、人も多く、馬券を買っているようだ。

  • レストランやCAFEもきれいで、まるでアウトレットモールに来ているようだ。

    レストランやCAFEもきれいで、まるでアウトレットモールに来ているようだ。

  • 広い場内を歩いているうちに、謎がかってきた。<br /><br />他の競馬場でやっているレースを中継していて、その馬券を買っていると推測。

    広い場内を歩いているうちに、謎がかってきた。

    他の競馬場でやっているレースを中継していて、その馬券を買っていると推測。

  • 西門から東門まで行き、JRA競馬博物館(無料)を見学。<br /><br />競馬の知識に乏しく、興味があまり沸かなかった。<br /><br />他にも子供用遊園地・ミニ新幹線があった。

    西門から東門まで行き、JRA競馬博物館(無料)を見学。

    競馬の知識に乏しく、興味があまり沸かなかった。

    他にも子供用遊園地・ミニ新幹線があった。

  • 八幡道(やわたみち)の坂を登る。<br /><br />先の国司館と家康御殿跡地もそうだが、ハケと呼んでいる府中崖線(段丘崖)で一段高くなっている。

    八幡道(やわたみち)の坂を登る。

    先の国司館と家康御殿跡地もそうだが、ハケと呼んでいる府中崖線(段丘崖)で一段高くなっている。

  • 坂を登りきると八幡緑地があり、踏み切り沿いに、武蔵国府八幡宮があった。<br /><br />

    坂を登りきると八幡緑地があり、踏み切り沿いに、武蔵国府八幡宮があった。

  • 令制国の国府の近くに創建された八幡宮であり、全国にあるが東京ではここだけである。<br /><br />ちなみに神奈川では、平塚八幡宮だけがそうだ。

    令制国の国府の近くに創建された八幡宮であり、全国にあるが東京ではここだけである。

    ちなみに神奈川では、平塚八幡宮だけがそうだ。

  • 線路沿いを歩き、府中競馬場正門前駅の黄金の馬の像

    線路沿いを歩き、府中競馬場正門前駅の黄金の馬の像

  • 坂を下り、競馬場前に出て、馬頭観音・馬霊塔を見る。<br /><br />馬霊塔は、競走馬の供養のために建てられたもので、左右に十数基の墓石が並んでいた。

    坂を下り、競馬場前に出て、馬頭観音・馬霊塔を見る。

    馬霊塔は、競走馬の供養のために建てられたもので、左右に十数基の墓石が並んでいた。

  • 今度は天神坂を上がる。ハケの段丘を登っていく。

    今度は天神坂を上がる。ハケの段丘を登っていく。

  • 初詣に来た大國魂神社の側面から入る。

    初詣に来た大國魂神社の側面から入る。

  • 参道周囲の出店はなくなっていた。(看板はまだあった)

    参道周囲の出店はなくなっていた。(看板はまだあった)

  • 本殿拝殿へのお参りは行列でいまだ100mほど並んでいる。<br /><br />流石に無料のお神酒と甘酒は配っていなかった。

    本殿拝殿へのお参りは行列でいまだ100mほど並んでいる。

    流石に無料のお神酒と甘酒は配っていなかった。

  • 元旦2日に来た時の行列は、横幅いっぱいであった。

    元旦2日に来た時の行列は、横幅いっぱいであった。

  • 本殿横には大イチョウと東照宮がある。<br /><br />家康公歿後、駿河国久能山から下野国二荒山に霊輿を遷された時、その途中、この国府の斎場に一夜逗留せられたので、その遺跡を後世に伝える為造営された。

    本殿横には大イチョウと東照宮がある。

    家康公歿後、駿河国久能山から下野国二荒山に霊輿を遷された時、その途中、この国府の斎場に一夜逗留せられたので、その遺跡を後世に伝える為造営された。

  • 武蔵国府跡。<br /><br />ヤフーマップを見ると、大國魂神社横に、この名称の場所があり、それが気になり、今回一番来てみたかった所。<br />

    武蔵国府跡。

    ヤフーマップを見ると、大國魂神社横に、この名称の場所があり、それが気になり、今回一番来てみたかった所。

  • ざっと敷地は20m^2だろうか。<br /><br />柱に見立てた模造柱と簡単な説明部屋があった。<br /><br />それでもここに1200年前に、に

    ざっと敷地は20m^2だろうか。

    柱に見立てた模造柱と簡単な説明部屋があった。

    それでもここに1200年前に、に

  • 実際の国府は100m^2と言われているが・・<br /><br />8世紀中ごろに掘立柱から礎石建ちに改修され、10世紀末には機能を失っていたと推定されるらしい。<br /><br />悲しいかな、それも歴史だ。

    実際の国府は100m^2と言われているが・・

    8世紀中ごろに掘立柱から礎石建ちに改修され、10世紀末には機能を失っていたと推定されるらしい。

    悲しいかな、それも歴史だ。

  • 馬場大門けやき並木。<br /><br />大國魂神社敷地を抜けると、かつての参道であったけやき並木が続く。<br /><br />これは、徳川家康が関ケ原の戦いや大坂の陣の戦勝祈願成就のお礼として、大國魂神社に馬場を寄進し、その両側にけやきの苗を補植したという説が、史実として有力だそうだ。<br /><br /> <br />

    馬場大門けやき並木。

    大國魂神社敷地を抜けると、かつての参道であったけやき並木が続く。

    これは、徳川家康が関ケ原の戦いや大坂の陣の戦勝祈願成就のお礼として、大國魂神社に馬場を寄進し、その両側にけやきの苗を補植したという説が、史実として有力だそうだ。

     

  • けやき並木にある源義家の像。<br /><br />平安時代に、源頼義・義家の父子が、前九年の役で、戦勝祈願して戦に勝てたお礼として、参道にけやきの苗1000本を奉納したことに始まるとされる伝説。<br />

    けやき並木にある源義家の像。

    平安時代に、源頼義・義家の父子が、前九年の役で、戦勝祈願して戦に勝てたお礼として、参道にけやきの苗1000本を奉納したことに始まるとされる伝説。

  • ケヤキ並木沿いには、天然温泉の縄文の湯があった。<br /><br />ナトリウム-塩化物泉だそうだ。

    ケヤキ並木沿いには、天然温泉の縄文の湯があった。

    ナトリウム-塩化物泉だそうだ。

  • 府中街道に戻ると、江戸時代の高札場跡が残っていた。

    府中街道に戻ると、江戸時代の高札場跡が残っていた。

  • ここは当時、甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)が交差する交通の要であった。

    ここは当時、甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)が交差する交通の要であった。

  • 西に少し歩くと、番場宿の石碑があった。<br /><br />名主の茂右衛門によってこの辺りは開発され、幕末には家数百三軒だったという。

    西に少し歩くと、番場宿の石碑があった。

    名主の茂右衛門によってこの辺りは開発され、幕末には家数百三軒だったという。

  • 鎌倉時代の寛喜2年(1230)天台宗として創建した古刹。<br /><br />八角形の本堂が特徴的だった。

    鎌倉時代の寛喜2年(1230)天台宗として創建した古刹。

    八角形の本堂が特徴的だった。

  • 河川を埋め立てたような一本道があった。<br /><br />下川原線の廃線跡である下川原線緑道だ。<br /><br />東京砂利鉄道-国鉄下河原線の看板を読んでみた。<br /><br />明治6年、多摩川の砂利を運ぶため建設され、大正時代は軍事利用となり、昭和51年、武蔵野線の開通で廃止された。

    河川を埋め立てたような一本道があった。

    下川原線の廃線跡である下川原線緑道だ。

    東京砂利鉄道-国鉄下河原線の看板を読んでみた。

    明治6年、多摩川の砂利を運ぶため建設され、大正時代は軍事利用となり、昭和51年、武蔵野線の開通で廃止された。

  • 下川原線緑道を進み、南武線を超えて鎌倉街道に入った。

    下川原線緑道を進み、南武線を超えて鎌倉街道に入った。

  • 分倍河原駅に到着。<br /><br />駅前には、分倍河原の合戦で活躍した新田義貞公の像が建っていた。<br /><br />ほとんど知らなかったが、新田義貞は150年続いた鎌倉幕府を倒した!<br /><br />その戦の1つが分倍河原の合戦だそうだ。ただ、倒幕後足利尊氏に破れ、室町幕府は尊氏が開いた。<br /><br />分倍河原の合戦地はここから近いが、途中、古刹の寺を1つ見逃したため道を戻った。

    分倍河原駅に到着。

    駅前には、分倍河原の合戦で活躍した新田義貞公の像が建っていた。

    ほとんど知らなかったが、新田義貞は150年続いた鎌倉幕府を倒した!

    その戦の1つが分倍河原の合戦だそうだ。ただ、倒幕後足利尊氏に破れ、室町幕府は尊氏が開いた。

    分倍河原の合戦地はここから近いが、途中、古刹の寺を1つ見逃したため道を戻った。

  • 高安寺の観音堂。<br /><br />この高安寺の開基は、室町幕府初代将軍足利尊氏であった。

    高安寺の観音堂。

    この高安寺の開基は、室町幕府初代将軍足利尊氏であった。

  • 明治時代に再建された山門。

    明治時代に再建された山門。

  • 陽が傾いてきた。分倍河原古戦場はパスして、分倍河原駅から1つ目の西府駅まで南武線に乗った。<br /><br />その西府駅前に御嶽(みたけ)塚古墳がある。<br /><br />西府駅開発時の2006年に発掘された。

    陽が傾いてきた。分倍河原古戦場はパスして、分倍河原駅から1つ目の西府駅まで南武線に乗った。

    その西府駅前に御嶽(みたけ)塚古墳がある。

    西府駅開発時の2006年に発掘された。

  • 墳丘上に御岳大権現の石祠があった。

    墳丘上に御岳大権現の石祠があった。

  • 秋葉神社常夜灯。<br /><br />江戸時代1792年、旧甲州街道沿いのこの地に設けられた。、

    秋葉神社常夜灯。

    江戸時代1792年、旧甲州街道沿いのこの地に設けられた。、

  • 熊野神社古墳。<br /><br />7世紀後半とされる、国内では4例しかないとされる珍しい上円下方墳だそうだ。<br /><br />

    熊野神社古墳。

    7世紀後半とされる、国内では4例しかないとされる珍しい上円下方墳だそうだ。

  • 裏側から廻ってみた。

    裏側から廻ってみた。

  • 正面に廻る。現在は国史跡だ。

    正面に廻る。現在は国史跡だ。

  • 正面には江戸時代初期の創立と伝えられる熊野神社の本殿、拝殿があり、そのすぐ後ろが古墳である。

    正面には江戸時代初期の創立と伝えられる熊野神社の本殿、拝殿があり、そのすぐ後ろが古墳である。

  • 国史跡 武蔵府中熊野神社古墳展示館。<br /><br />丁度閉園の17時になっていて、入れず残念。<br /><br />府中巡りは、時間によりカットした所もあり、次回あらためて、続きを紀行する。<br />

    国史跡 武蔵府中熊野神社古墳展示館。

    丁度閉園の17時になっていて、入れず残念。

    府中巡りは、時間によりカットした所もあり、次回あらためて、続きを紀行する。

この旅行記のタグ

関連タグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP