2015/01/05 - 2015/01/05
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オータムリーフさん
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豊臣秀吉の権力は計り知れないものである。戦国時代末期に、豊臣秀吉によって築かれた石垣山城。籠城を続けた北条軍の度肝を抜いた一夜城である。実際には、延べ4万の人力と80日間で築城した本格的な石垣で造られたお城であった。その一夜城を観に、箱根登山線の入生田駅から歩いて、石垣山城に登り、反対の海側「早川」までの歩行記録です。入生田では、江戸時代初期の小田原城主「稲葉正則」開基のお寺「長興山・紹太寺」に眠る「春日局」のお墓をも観ることが出来ました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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小田原駅から箱根登山線に乗り、3つ目の駅「入生田駅」に到着しました。入生田駅は駅員が1人いる、小さな駅でした。ここから石垣山一夜城に向かいます。
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その駅前には案内板が出ている。石垣山一夜城に行く前に、春日局が眠る長興寺・紹太寺に寄って観ることにした。
紹太寺は駅から400mと書いて有ります。旧東海道の道を少し進むと、紹太寺の門があります。 -
ここが長興山・紹太寺の入口です。旧東海道に面しています。門と云っても、道幅が広く、車も通る一般道路に立っているが、そこから少し進むと長興山・紹太寺総門跡が有りました。
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長興山紹太寺総門(大門)跡
紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。今は立て看板のみですが、その説明板には次の様に書いて有りました。
「元禄4年(1691年)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向かう途中、この総門をみて彼は「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺あり、もう一方の側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が有っている。」この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隱元禅師の書き下ろしたもので現存子院清霊院(現・長興山紹太寺)の本堂正面い掲げられています。なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石はこの総門に使われていたと考えられる。(小田原市教育委員会)」建長寺 寺・神社・教会
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イチオシ
長興山・紹太寺の入口です。ここから本堂に入ってみました。お寺には誰も居ません。静かなものです。
「紹太寺は、江戸時代初期、小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺です。はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、第二代藩主稲葉正則は黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。その当時は七堂伽藍の整った大寺院であった。しかし、幕末と明治初期の火災で焼失してしまった。現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。」と説明に有りました。長興山紹太寺 寺・神社・教会
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これが長興山・紹太寺の本堂?お寺らしくない、茅葺屋根の一軒家です。
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本堂でお祈りをして、次に、稲葉氏一族が眠る墓所に向かいますが、360段の階段を上る必要が有るのです。
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苦労して360段を階段を上って来て、やっと到着です。しかしながら、入口は閉ざされていました。何故だろうと思いながら、恐る恐る中に入って行きました。
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稲葉氏一族の墓所の説明板です。ここに、どの墓石が誰の墓かを説明しています。春日局の墓は右から数えて5番目とあります。
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ところがです、墓所は周囲の樹木が倒木して、墓石はメチャクチャになっています。
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どうも、これが春日局の墓石らしいが、はっきりしない。
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この墓所からは相模灘が良く観えます。その当時はもっと良い景色が観えたのでしょうね。
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その墓所から少し歩くと、鉄牛和尚の寿塔がありました。
「鉄牛和尚は、はじめ臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺隱元禅師に師事しましたが、その後、稲葉正則に招かれ小田原に来て、寛文9年(1669)紹太寺の開山となりました。元禄13年(1700)8月に死去しましたが、正徳2年(1712)の13回忌に朝廷から生前の功績がたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜った高僧です。寿塔は貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世である超宗和尚が建立しました。」と説明板に書いてあります。 -
イチオシ
長興山の枝垂れ桜
小田原市指定天然記念物となっている枝垂れ桜は鉄牛和尚の寿塔から直ぐの所にありました。ここにも丁寧な説明があります。
「シダレザクラは本州中部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、絵だが垂れ下がる点が特徴です。また、サクラの種類のうちでも寿命が長く、大木になり、特異な樹形となることから、神社や寺院の境内によく植えられ、市内でも早川の真福寺、下大井の保安寺、域内の二宮神社などに見られます。
この木は、枝を八方へ平均に広げ、シダレザクラの基本的な形を整えています。3月下旬から4月上旬にかけて濃い緑の樹叢を背景に開花する姿はまことに美しく、県下にも比類のない名木です。このサクラは、稲葉氏が紹太寺を建立した頃、その境内に植えられたもので樹齢330年以上と推察されます。」 -
一通り、長興寺・紹太寺を観たので下ることにしました。先ほどの360段の石段はかなり高度を稼いだとみえて、ここからは急な下り坂となります。
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紹太寺から見上げると、遙か向こうに山並みがみえますが、これから向かう石垣山一夜城は、あの山の向こうに有りますが、これから、あの山を越えるのはしんどい。
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さて、一夜城に向かいます。まづは、国道1号線を越えて、地球博物館方向に歩きます。
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地球博物館です。過去に2度程中に入ったことがあります。
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博物館の前の太陽橋を渡ると、そこには早川が横たわっています。少し、下流に向かって歩くと対岸に渡る橋「太閤橋」があります。この橋を渡ると、そこからは自動車道路の歩道を歩きます。
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橋を渡ると、道は車道となり、真っ直ぐ伸びている。この場所から一夜城までは2.6kmあります。
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その道は、直ぐに「通行止め」となっています。何故だろうと訝ってみますが、少し先で、その理由が分かりました。
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一夜城への道標も、このようにしっかりとしています。
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道の右側にはミカンの段々畑が見えます。
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その先には石材が2つ道の横に転がっていました。立て看板があって、その説明には次の様に記述があります。
「運び出そうとした石垣用石材
ここに設置されている石垣用石材は、早川石丁場群関白沢支群の北西側を流れる関白沢の改修工事の際に発見されたものです。きれいな長方体に形が整えられていいることから、17世紀前半の江戸時代初期に早川石丁場群関白沢支群から江戸城へと運び出そうとした石垣用石材であったと考えられる。
早川石丁場群関白沢支群の石垣用石材は、平成17〜18年の発掘調査で発見された「石曳道」から早川へ至り、早川の河口から江戸城へ「石船」と呼ばれる船によって海上ルートで運び出されたと推定されます。
ここに保存されている2石は江戸城に運び出す際に何らかの原因で関白沢に落としてしまい、そのまま放置されたものと推定されています。」 -
その先は、雪が積もった車道が続きます。歩道も溶けた雪、氷があって、危なくて歩くのに苦労する。先ほどの通行止めは、この雪の為の様です。右手にはお茶畑が有ります。一人の男性が携帯電話で何やら話しています。側には1台野乗用車が停めてあった。聞いてみると、これから一夜城に行くのだが、滑ってこれ以上進めないと。そこで、JAFを呼んだらしい。通行止めがあるのを無謀にも突破して来るからこんなことになるのでしょう。
この辺りから一夜城には1.5kmの距離があります。 -
道はやがて、歩道が切れたので、側道に入りますが、ここも雪に埋もれている。その道は直ぐに車道の歩道に戻ったが、その先には歩道が切れて、歩道は急な階段になっている。どうもここを登るらしい。
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その急な階段を慎重に登って行く。何せ、凍っているので危険なのだ。登り切ると道は平坦になり、山道に入って行く。ここから一夜城までは1.2kmだそうだ。
そこには説明板があり、発見された石曳道の説明が書かれている。 -
山道を登り切ると、再び、車道に出るが、しかし、車道は遙か下の方にあります。この付近に石垣用石材の採掘場があると云うので行ってみました。
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それは自動車道路の下にあり、切り出そうとした石材が転がっていました。
ここに石切場がありました。箱根外輪山の安山岩質溶岩の転石が使われており、石を割る為の矢(クサビ)を入れる穴である矢穴が一列に掘られています。 -
さて、道は雪が消えた車道に出た。ここから観る景観は素晴らしいものがある。姫ノ橋の下は箱根ターンパイクが通っている、ひっきりなしに車が通る。
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この場所からは箱根が良く観えます。
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そこを過ぎると、峠である。あの険しい山を越えた事になる。
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峠には大きな「スダジイ」の大木があった。
かって神奈川県の低地では、常緑広葉樹を主体とした林が広がっていたと考えられます。しかし、人間が薪や炭を得るために木を切るようになってからは、ほとんど落葉広葉樹の林となりました。スダジイ(ブナ科)はかって繁茂した常緑広葉樹の代表的な樹種です。秋に実る小さなドングリは昔の人々にとって重要な食糧資源でした。 -
少し行くと、海岸方面に下る車道があるが、ここも通行止めである。この道も、どこかで行きに覆われているのだろうか。ここからは、一夜城までは310mほど。もう直ぐ石垣山一夜城に到着する見込みだ。
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小田原市街地と相模灘が観えてきた。
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そして遂に、石垣山一夜城に到着する。右手には、大きな無料駐車場がありその横には「一夜城ヨロイズカファーム」がありました。ここは有名なレストラン、カフェが有るが、ここは今日から臨時休業だそうである。昨日まではオープンしていたらしい。
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ここに到着したのは12時41分とお昼はとっくに過ぎていたので、この駐車場の東屋で昼食を取る事にした。そこから観る相模灘の景色は素晴らしい。
小田原で購入した弁当を開く。「おにぎりころころ」だ。美味しかった。それに持参したインスタントみそ汁も寒い中では美味しく感じられる。 -
この東屋の側にも移設された石垣用石材が有りました。
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この駐車場には結構、車が入って来る。お目当ては一夜城ヨロイズカファームだろうか、残念乍ら、先ほども書きましたが、今日から臨時休業です。誰かが、このヨロイズカファームの進入禁止線を越えて、敷地に入った人がいたが、アラームが出た「ここに入ると警察に通報されます」と何度も大きな音声で繰り返すのだ。5分ぐらいは鳴りつづけたろうか、やっと止まりました。
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イチオシ
石垣山一夜城
この辺りは、笠懸山と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万とも21万ともいわれる大軍を率いて包囲し、その本営として総石垣の城を築いたことから石垣山と呼ばれる様になった。石垣山に築かれた城が、世に「石垣山一夜城」又は「太閤一夜城」と呼ばれるのは、秀吉が築城に当り、山頂の林の中に櫓の骨組みを造り、白紙を張って城壁のように見せかけ、周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城の将兵が、一夜のうちに城が出現したと思い士気を失った、という伝承によるものです。しかし、実際は延べ4万人が動員され、天正18年4月〜6月まで約80日間が費やされました。
秀吉はこの城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び、茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積は野面積を用い、長期戦に備えた本格的な城造りであったと言えます。石垣は度重なる大地震に耐えて、築城後400年以上経過した今日でもとうじの面影が良く残っています。 -
さて、いよいよ、一夜城に入って行く。
史跡石垣山はJR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。又7、小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。 -
このお城には、二の丸、本丸、天守台そしてその周りには南曲輪、西曲輪、更には、井戸曲輪等があります。
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石垣山一夜城二の丸(馬屋曲輪)
ここ二の丸です。本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張り出した部分及び東の腰曲輪部分、これら3つの部分からなっている。「新相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが、伝承に依れば馬屋が置かれ、本丸寄りには馬洗場と呼ばれた湧水もあったようで井戸曲輪に行く道の直ぐ横には櫓台跡が残っており、他の曲輪にも櫓台跡が確認されている。小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営が置かれた箱根湯本の早雲寺には一夜城で使用した梵鐘が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが詳細は不明。 -
石垣山一夜城の石垣の跡
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二の丸から本丸に登ってみます。
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次は本丸に登ってみる。そんなに広くはない敷地だが、ここにも展望台があり、ここからの眺望は最高である。
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本丸に展望台が有りました。そこからは相模灘や小田原の市街地が良く観えます。
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そして、小田原城攻防の説明板がありました。それに依れば、豊臣秀吉がこの石垣山一夜城に陣取り、山側には池田輝政、細川忠興、羽柴秀次、羽柴秀勝等が配置され、海側には毛利軍、羽柴秀長軍等、小田原城は完全に包囲されていた様子が伺える。
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さらに、その本丸の展望台からは小田原市街地が丸見えで、このお城の築城の目的だった小田原・北条氏攻めの為に、小田原城が丸見えだ。
小田原城 名所・史跡
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史跡・石垣山城
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さて、本丸から降りて、再び二の丸を通り、反対側の展望台に向かいます。ここは二の丸と本丸の間の石垣の跡です。
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本丸横の櫓台跡です。
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展望台からは別の景色が素晴らしい。特に、箱根方面の山々が良く観える。駒ヶ岳、神山、冠ケ岳そして明神ケ岳も観えます。
駒ヶ岳 自然・景勝地
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この写真の左手窪地が石垣山一夜城の井戸曲です。
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地夜城から観る小田原城(望遠で撮りました)
小田原城 名所・史跡
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石垣山に参陣した武将たち。
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イチオシ
さて、一通り石垣山一夜城の見物も終わり、次は早川方面に下山する事にした。そこからは車道を歩くが、かなり勾配のきつい坂道である。面白いことに道に沿って、石垣山に参陣した武将たちの説明板が設置されています。それらをひとつ1つ呼んでゆくのも面白い。その車道を下っているあいだ中は小田原城や小田原市街地が良く観えて、そして、段々と近づいてくる。
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やがて、海蔵寺まで降りてきた。ここには、秀吉方の堀秀政のお墓があるそうだが、しかし、疲れてきたので、そこには寄らなかった。
海蔵寺 寺・神社・教会
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イチオシ
早川に下りてきた。小田原港に行くが、ここは小さな漁港でした。
小田原漁港 名所・史跡
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この漁港の防波堤の突端には、小田原で有名な小田原提灯を模した灯台が有りました。
さて、これで石垣山一夜城の物語はお終いです。今日は箱根側から海側の早川まで、良く歩きました。早川で美味しい海産物を食べたかったが、残念ながら実現できませんでした。
完
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