![007シリーズ最新作「スカイフォール」を見た時、軍艦島に似ている島が出ているなって思いました。ロケハンが実際に島に来たそうですが、映画はCGの活用で製作したそうです。ということもあり、軍艦島への興味が一気に増し、見物してきました。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/95/58/650x_10955824.jpg?updated_at=1417748500)
2014/11/01 - 2014/11/01
992位(同エリア3762件中)
キヌちちさん
007シリーズ最新作「スカイフォール」を見た時、軍艦島に似ている島が出ているなって思いました。ロケハンが実際に島に来たそうですが、映画はCGの活用で製作したそうです。ということもあり、軍艦島への興味が一気に増し、見物してきました。
-
軍艦島クルーズへの午後の便まで時間があったので、近くにあった長崎ちゃんぽん発祥の店という「四海樓」に行きました。
-
入り口の掲示板では20分の客待ちとありましたが、席に案内されるまで30分以上待たされました。とにかくすごい込み具合でした。
-
注文したちゃんぽんです。
-
乗船したシーマン商会の軍艦島ツアークルーザー「さるく号」。45人乗りでした。
-
さるく号内です。
-
出航します。
-
建造中の大型客船が見えました。
-
1986年まで高島炭鉱があった高島が見えてきました。炭住街も見えます。
-
軍艦島が見えてきました。島といえば高島のようなものが普通で、人工構造物である建物だけで構成された島はやはり異様です。昔見たアラン・ドロン主演の映画「冒険者たち」に登場した島をイメージしておりましたが…。
-
軍艦島
長崎市の西方約19キロメートルの沖合に浮かぶ島。長崎県長崎市(旧高島町)に属する。面積6.3ヘクタール、外周約1.2キロメートル。
外観が軍艦に似ていることからこう呼ばれるが、正式名称は端島である。
かつて海底炭田の採掘地として栄えたが、現在は無人の「廃虚の島」。
炭鉱施設の多くは解体されており、朽ちたコンクリートの高層住宅群だけが往時のおもかげを伝える。
この島で初めて石炭が発見されたのは、19世紀初頭のこと。
その後、1890年に三菱が旧肥前藩の領主鍋島氏から採掘権を買い取り、本格的な採炭を開始した。
以降、炭鉱労働者とその家族が移住。1916年には、日本初の鉄筋アパート(7階建て)が建設された。その後、7〜9階建ての高層住宅が次々に建てられ、最盛期には東京ドームの1.3倍ほどの面積に約5千200人が暮らしていたという。
大陸出身の労働者も多く、戦時中の43年には、朝鮮人500人、中国人240人がいたという調査結果もある。
「緑なき島」とも呼ばれたが、アパートの屋上には草木が植えられ、島内には食堂・共同浴場・学校の他、パチンコ店・映画館・プールまで備えられていた。
石炭の産出量は年間約25万トン。
良質の石炭は鉄鋼生産用として、おもに福岡県の八幡製鉄所に輸送され、日本の近代工業の発展を支えた。
太平洋戦争勃発の41年には、年間約41万トンを産出。74年に閉山するまで、戦後の高度経済成長にも貢献した。
その後、護岸工事が行われただけで、長らく放置されたままだったが、今世紀に入り、石炭産業の盛衰を象徴する貴重な建造物として、しばしばマスコミに紹介されるようになった。
2003年にはNPO「軍艦島を世界遺産にする会」も設立され、「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産に登録しようとする動きも盛んになっている。
長崎市も新たな観光名所として注目。07年から約1億500万円を投じて桟橋や見学用の通路を整備した。
一般観光客を対象とする「軍艦島上陸ツアー」も、09年4月から始まっている。 (「知恵蔵」の解説) -
軍艦島と高島の間にはある「中ノ島」。炭鉱が建設されたこともあるが、わずか数年で閉山 となり、端島の住民が公園、火葬場、墓地として使用していた。
-
別の軍艦島クルーズ船です。
-
近づいてきました。
右側の灯台の下は31号棟(鉄筋コンクリート造り6階建て、鉱員住宅、1階に郵便局、地下に共同浴場)です。 -
軍艦島には勝手に行けず、許可されたクルーズでしか上陸できないそうです。
出航時は土砂降りの雨。その後も断続的に降り続け、接岸間際も降雨状態でした。 -
右上に3号棟(鉄筋コンクリート造り4階建て、職員住宅)、その下は14号棟(鉄筋コンクリート造り5階建て、職員住宅)、その右下は22号棟(鉄筋コンクリート造り5階建て、老人クラブ、役場、公務員住宅)、その左は39号棟(鉄筋コンクリート造り3階建て、公民館)、その左は48号棟(鉄筋コンクリート造り5階建て鉱員住宅、地階はパチンコ店)、その上の百葉箱のような形は端島神社、その左下は51号棟(鉄筋コンクリート造り8階建て、鉱員住宅)。
-
参加したシーマン商会のクルーズのガイドはNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」代表という坂本道徳さんでした。
船内で坂本さんは「今日の午前中まで2000回以上案内しているが、雨に当たったのはわずか2回だけ。海が雨でも上陸すると不思議と晴れます。今回が3回目になりますかどうか。島内は傘は禁止です。心配な人には船内で200円で合羽を売っています」とアナウンスがありました。私は買いませんでしたが、参加者45人の大半が合羽を買っていたようです。 -
乗船時間約40分。
上陸します。合羽姿が目立ちます。
しかし、上陸した途端に雨はぴたりと止みました。
神は信じないのですが、この時はびっくりしました。
坂本さんはガイドの時に「言った通りでしょう」と言葉を添えておりました。 -
軍艦島の地図。島内では自由に歩き回ることはできませんでした。見学場所もガイドと一緒で3か所に限定されていました。
-
中央頂上は貯水槽、右側は3号棟、左側に少し見えるのは30号棟です。
-
右上は3号棟です。
-
島全体を囲む高さ約10mの防波岸壁。
岸壁右側の海上に2つあるのは積込桟橋の橋台。
端島炭鉱の石炭は石炭運搬船で製鉄所などに向けて出荷された。貯炭場の岸壁には石炭を運搬船に積み込むための桟橋があった。それを支えていた基礎橋台だけが残っている。 -
ドルフィン桟橋です。
1962年に完成。ドルフィンとは海底から杭で支えられた係留施設の一種で、主にタンカーの係留に使用されるが、軍艦島は護岸に船を着けられないため、人の乗降用に設けたそう。1954年、1958年に続き、現在のドルフィン桟橋は3代目。 -
天川の護岸。明治期に石灰と赤土を混ぜた天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤を使った石組み工法より造られた。
-
左端にベルトコンベア支柱。中央は貯炭場。
採掘後に選炭された石炭は出荷前に、ベルトコンベアで貯炭場に送られ野積みされた。
中央の貯炭場の奥は資材倉庫、その後ろの建物は端島小中学校。 -
貯炭ベルトコンベアーの支柱。精選された石炭はこのベルトコンベアーで貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれた。
-
第2竪坑桟橋。操業時代、炭鉱夫らはこの階段を上ってケージに乗り込み、地下数百mの坑道に下りていった。
-
灯台の右側は貯水槽、中央は竪坑桟橋。
-
頂上に貯水槽。
貯水槽が設けられたのは写真記録から大正時代の建設と推定されている。
離れ小島の軍艦島では生活水の確保が大問題だった。
明治・大正時代は海水から蒸留していたが供給量は不十分、昭和時代は給水船で輸送していたが、悪天候時は船が出せずに慢性的に水不足だった。
1957年の本土との海底水道開通後も不足気味だったが、操業末期の1967年に本土側の大型貯水池の完成でようやく水不足が解消されたそう。 -
1998年に設けられた灯台。
閉山後に設置された唯一の建造物。端島炭鉱は3交代制の24時間操業だったため灯台は必要なかったが、閉山に伴い無人島になったことで必要性が生じた。閉山翌年の1975年に初の灯台が置かれ、老朽化に伴い1998年に現在の灯台に建て替えらた。 -
竪坑桟橋、その上に貯水槽、その右は3号棟。
-
3号棟です。
-
左端の赤れんがの建物は三坑捲座(資材事務所)。
三坑は1896年(明治29年)から1935年(昭和10年)まで使用された。三坑が竪坑としての役割を終えた後、閉山まで資材置場、事務所として使われた。
明治時代に始まった端島炭鉱で、初期の姿を残すのは護岸の石積みとこの三坑捲座くらいだそうです。 -
操業時、この場所にドルフィン桟橋と住居エリアを往来するために、鉱業所を横断する形で人道トンネルが造られていた。ドルフィン桟橋と30号棟近くを結ぶ住居エリアへのメインルートだったそう。
-
右側は島内に指示を出した総合事務所跡。軍事機密があり、子供たちは入れなかったそう。左側は会議室。
-
右側は掘削機器の研磨などを行った鍛冶工場。
左側は1949年(昭和24年)に造られた二坑捲座で四坑と共に閉山時まで使われた。 -
中央に鍛冶工場と二坑捲座
-
プール跡
-
30号棟と31号棟アパート。1916年(大正5年)に竣工した30号棟は日本初の鉄筋コンクリート造り7階建ての高層アパートだったという。
31号棟は1階に郵便局、理髪店、地下に共同浴場があった。 -
高波が島を襲った際の写真を掲げる坂本さん。右側は26号棟、プレハブ2階建ての下請従業員住宅。
-
手の写真には子供たちが海水浴にゆく姿が写っています。
-
左側は65号棟鉱員住宅、右側は70号棟(鉄筋コンクリート造り7階建て、端島小中学校)。
-
端島小中学校は1958年に完成。
端島の学校は1893年(明治26年)に三菱が小学校を開設した後、大正時代に公立に移管された。島の人口がピークに達したころに建設された7階建て校舎は、1-4階が小学校、5、7階が中学校、6階が図書室と講堂という造りだった。
校舎には島で唯一のエレベーターがあったが、それは給食配膳用で児童、生徒、教師は階段を使っていたという。 -
下船時にもらった上陸証明書です。
-
土産に買った貝殻製の軍艦島のキーリングです。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
長崎市(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
44