2014/09/19 - 2014/09/19
133位(同エリア190件中)
ムッシュさん
奥州古道仙台道の中で一番栄えていた須賀川宿の訪問です。須賀川宿には芭蕉に纏わる名所、史跡も多そうです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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先ずは、乙字の滝に行く。
阿武隈川、乙字ヶ滝を上流側から望む
上流にかかっている橋から滝を望む。ここからは滝が乙字形に曲がっているのがわかる。 -
【乙字の滝】 (駐車場の説明板)
那須高原に源を発する阿武隈川が滝をなして乙字の形をしている。水嵩が増した時は百メートルの滝幅いっぱいに落下する水しぶきは、松の緑に映えて雄大である。
元禄二年(1688年)松尾芭蕉が「五月雨の滝降りうつ水かさ哉」の句を残し、句碑は滝見不動堂の傍らに建っている。昔は川を遡る鱒・鮎・鮭を城主に献上する御用梁場であり、また、阿武隈川舟運のため、滝の北壁を掘割りして舟を通した跡がある。
上流には慶長十年(1605年)会津蒲生領時代からの浜田用水の横断堰があり、明治三十八年(1905年)より水力発電にも利用されている。北岸の乙字ヶ滝遺跡よりは、旧石器時代の石斧等が出土した。
須賀川市 -
〒962-0814 福島県石川郡玉川村竜崎滝山
【乙字ヶ滝】 日本滝百選入選
古くは竜崎滝・石河滝とも称した。川幅百米・巨巌横に連なり乙字の形をなす。川の中央を玉川村と須賀川市の境界とする。
江戸時代白河藩領の頃、遠く海より遡上した鮭・鱒・鮎が滝を飛び跳ねるうちに梁に落下する魚が多かった。多い日には一日に千尾を越える程でこれの売却代は狩猟者の収入となった。
また、ここでとれた初漁は白河藩主に献上する事とされ、藩役人がこの辺に番所をおき看視した。
この役人の食事、宿泊など賄い一切地元竜崎村が負担した。そのかわりに藩に納入する雑税人夫役などは免除された。 -
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土手の奥に、芭蕉の句碑があった。
「五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉」と書かれている。 -
【松尾芭蕉と曽良の旅姿像】
芭蕉は須賀川に7日間滞在し、最後の日にこの滝を訪れている。折からの五月雨で阿武隈川は増水していたようだ。ここで次の句を詠んでいる。 「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」
滝の様子がよく見えるところに芭蕉と曾良の石像が建っている。今から300年以上前にこの場所から同じ風景を眺めたのだ. -
【瀧見不動堂】
滝の近くに建っている不動堂。古い由緒があり、代々の白河藩主が探勝、参詣した。
【滝見不動堂】
不動明王を本尊とする。和讃には大同三年(808)弘法大師の開基と伝える。本尊は寄木造彩色の不動明王。制作年代・作者共に不詳。祭日は四月八日。江戸時代初期より代々の白河藩主が参詣探勝し、堂宇修復費として竹木資材金品等を寄進した。 -
【乙字の滝】
日本の滝百選にも選ばれた阿武隈川唯一の滝として知られています。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅で、須賀川から郡山へ向かう途中に立ち寄っている。
滝見不動尊の傍らには、「五月雨の瀧降りうづむ水かさ哉」と刻まれた句碑や、芭蕉・その弟子の曽良の像が建立されています。 -
落差は3〜4mとあまりないが、川幅いっぱいに広がり水量が多いので、近くで見るとすごい迫力である
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【笠石宿(かさいし)】の入口
久来石宿から、13丁(約1.4km)しかない。
【熊野神社】
右手の広大な田圃を見て進むと、奥州街道36番目の宿場・笠石宿に入る。その入口にあるのが、この熊野神社である。
毎年10月の秋の祭りで行われる太々神楽は、鏡石町の無形文化財に指定されている。 -
街道左に【幸福寺】がある。
樹齢150年の枝垂桜が見事であった。
この境内は戊辰戦争の時、野戦病院となったようだ。戊辰戦争時の幕府軍の戦死者の墓がある。
また本堂前には、加波山事件の小針重雄の碑と遺髪碑があった。
この小針氏は、中畑新田の庄屋の名前と同じである。 -
【西光寺】
鏡石本町を抜けると、広大な行方野の一本道を進むと、鏡沼地区に入る。
正しくは、真言宗智山派若宮山無量院西光寺という。
江戸時代の白河風土記によると、永禄年間(1558~1569年)、須賀川の城主二階堂氏の属臣鏡沼藤内の菩提のために開山されたとある。
また、墓所には郷士の常松次郎右エ門夫妻と、常松家十代の墓が残されている。
境内にある「たらよう」は、鏡石町の天然記念物に指定されている。
樹齢250年、樹高12mの常緑高木で、モチノキ、イヌツゲと同じモチノキ科に属している。 -
【須賀川の一里塚(西の塚)】
鏡石町から須賀川市一里坦(いちりだん)に入ると、旧街道の両側に一里塚が残されている。日本橋から59番目の一里塚で、往時は「江戸から須賀川六十里」といわれてきた。
【須賀川一里塚】 国指定史跡(昭和11年9月3日指定)
一里塚は、今から約四百年前の江戸時代に、当時の将軍徳川家康の命により全国の主要街道を改修した際、江戸日本橋を基点として一里ごとに築かれたものです。
須賀川の一里塚は、旧陸羽街道に残る数少ないもので江戸日本橋から五十九番目のものとされており、二基(東側径十五メートル×十二メートル、西側径十五メートル×十メートル)相対し塚型が良く保存されています。
また、当時塚の上には榎が植えられていたと伝えられ周囲の風景の中にあって、街道を行き来する人々の距離の目安や休憩の場として、利用されていたと考えられます。
塚のある旧国道の両側には、かつて見事な松並木がありましたが、現在は数本を残すだけとなっています。
昭和六十三年五月一日 須賀川市教育委員会 -
一里塚は、道を挟んで両側に残ってます。こちら東の塚
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車の通行の多い真っ直ぐな道を2Kmほど進むと、国道4号線に沿った旧道に「須賀川の一里塚」が残されていた。道の両側に綺麗な形を保っており、国の指定史跡となっている。日本橋から59番目の一里塚で、「江戸から須賀川六十里」といわれていたそうだ。
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一里胆(地名)
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【須賀川宿(すかがわ)南の黒門木戸跡】
朝夕に開閉され、門内番屋前で鉤の手に曲がり、町に入ったと。これで須賀川宿に入っていく。
枡形を抜けると、東北電力の敷地に須賀川宿南の黒門跡の標識がある。
ここが奥州街道37番目の宿場・須賀川の南の入口。
黒塗りの木戸があり、番小屋も置かれていた。
朝の七ツ時(朝4時)に開門され、四ツ時(夜10時)に閉門されたという。 -
須賀川宿の道しるべ
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忍耐」円谷幸吉
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この地は、東京オリンピックのマラソン銅メダリスト円谷幸吉の出身地であります。
「大町よってけ広場」と書かれた休憩ゾーンのような広場があり、奥のほうには東京オリンピックで銅メダルに 輝きながらも、オーバーワークから腰椎のカリエスを抱えて失意の自殺を遂げた「円谷幸吉」の写真と足型、略歴が記されたのが飾られていた。 -
小さな十字路の片隅に【軒の栗庭園】と書かれた小広場があり。
元禄2年 (1689)6月9日に芭蕉と曾良が等窮宅を訪れ滞在するがその時、「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ句にちなんで、軒の栗庭園と名付けられた。
元禄2年(1689年)芭蕉が「奥の細道」行脚の際、須賀川に7泊8日滞在ししたことを記念して 平成元年に奥の細道紀行300年を期に建設された
可伸庵の路地から、旧街道に復帰すると、その角に軒の栗公園がある。
元禄2年(1689年)6月9日(陰暦4月22日)、芭蕉と曾良が等窮宅に到着、
翌日夕、裏手の可伸庵を訪れた時に
「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ句より、軒の栗公園と名付けられた小公園だ。
須賀川には、芭蕉を記念する小公園がいくつか造られている。
写真左中央のベンチの背後の石像は、相楽等窮の坐像である。
【軒の栗庭園】
元禄二年新暦の六月九日芭蕉と曾良は等躬を訪ねて須賀川へ入りました。「奥の細道」の本文に「すか川の駅に等躬といふものを尋ねて、四、五日とヾめうる。」とあります。その等躬宅は、現、NTT須賀川の付近にありました。
等躬は本名を相楽伊左衛門と言い、問屋の仕事をしながら、その商業活動のために江戸へ度々出かけていました。その間に江戸での俳諧活動も持たれ、芭蕉との関係が生まれました。等躬は奥州俳壇の宗匠としてその地位にあり、芭蕉に多くの情報を提供し、「みちのく歌枕の地」探訪の旅を助けました。
風流の初めや奥の田植歌 芭蕉
覆盆子を折りて我まうけ草 等躬 (覆盆子=いちご)
水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良
ここ「軒の栗庭園」は、等躬の住む本町に芭蕉が逗留し
世の人の見つけぬ花や軒の栗 芭蕉
と詠まれたことから名付けられました。
平成十三年 本町々内会 -
【等窮(とうきゅう)坐像と芭蕉、曾良の立像】が建っていた。
相楽等窮の裏手(西側)にある可伸(かしん)庵である。
隠棲の僧・可伸が庵を結んでいたところで、芭蕉がここに訪れ、
「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」
と詠んだところである。
なお、可伸は等窮の友人で、栗斎と号する俳人でもあった。 -
【可伸庵跡碑】
【軒の栗 可伸庵跡】
芭蕉は元禄二年(1689)陰暦四月二十二日に須賀川を訪ずれ相楽等躬宅に滞在した。この可伸庵を訪ねて、この宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのしむ世をいとう僧あり、「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と、「奥の細道」に書留めている。
「軒の栗」の句碑は、文政八年須賀川の俳人石井雨考が建立した。
現在の栗は四代目で相楽氏の寄贈である。
須賀川市 -
【軒の栗 可伸庵跡】
芭蕉は元禄二年(1689)陰暦四月二十二日に須賀川を訪ずれ相楽等躬宅に滞在した。この可伸庵を訪ねて、この宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのしむ世をいとう僧あり、「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と、「奥の細道」に書留めている。
「軒の栗」の句碑は、文政八年須賀川の俳人石井雨考が建立した。
現在の栗は四代目で相楽氏の寄贈である。
須賀川市 -
可伸庵跡にある
「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」
と詠んだ芭蕉句碑 -
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市役所の真ん前の大きな商屋はフジ薬局
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裏通りに出ると【二階堂神社】があり、【須賀川城】の石碑が建つ。
今から420年前の天正17年(1589)、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)城主芦名氏を滅ぼし、次に須賀川城も狙っていた。まさに戦国時代で、同年、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られた。ところが、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守が、城本丸の風上にあった二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ち、町中が火の海と化し、文治5年 (1189)から400年にわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家の須賀川城も遂に落城した。 -
大木のサイズは、近くに立つ人と比べると 、そのデカさがわかる。
須賀川城の本丸跡は、現在二階堂神社となっている。
ここは須賀川城の本丸があった所。 須賀川城は応永6年(1399)、3代鎌倉公方・足利満兼の家臣、二階堂行続が築城したとされる。
須賀川城主の二階堂氏は、鎌倉幕府政所執事 二階堂氏の一族で、南北町動乱の時、領地のあった須賀川に下向し、土着した名族である。
戦国時代になると、米沢の伊達氏、会津の芦名氏の強敵に囲まれており、家名の存続が厳しい状況であったため、二階堂盛義は一子盛隆を芦名の養子に出した。
しかし本人が天正9年(1581年)に死去し、嫡子がいなくなった。
その為、二階堂氏は、伊達政宗の伯母である盛義の妻、大乗院が城主の座についていた。そこへ、奥州の伊達政宗が攻め込み、天正17年(1589年)、須賀川城を陥落させた。負けた天乗院は、正宗の庇護を受けず、岩城家に養子に行っている兄親隆を頼っている。
次に、十念寺に向かう。 -
「十念寺」に行く。
浄土宗名越派の本山である下野大沢(現在の栃木県芳賀郡益子 町)円通寺の末寺として、文禄元年(1592)、良岌善龍上人により開創された。
元禄2年(1689)には、芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在した際に当山に参拝した。本堂の前には樹齢500年のイチイの木。
和尚さんに声かけしたら、【円谷幸吉の墓】を案内して下さった。 -
【奥の細道:十念寺の碑】
十念寺の開山は文禄元年(1592年)、浄土宗名越派の本山である下野大沢(現益子町)の円通寺の末寺として、良岌上人により開創された寺である。
元禄2年(1689年)に、松尾芭蕉が須賀川に滞在した時に、この寺を参拝している。
それを記念して、安政2年(1855年)に、須賀川の俳人市原多代女(たよじょ)により、芭蕉の「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑が建てられている。
なお、市原多代女は、安永5年(1776年)に須賀川で生まれた。
造り酒屋に嫁入りしたが、そこの主人が31歳で亡くなり、
後を継いだ多代女は苦労しながら家業を盛り立て、その傍ら俳句に打ち込み、
全国的に有名な女流俳人となった。
90歳で亡くなるまで、4千以上の句を残している。
境内には、東京オリンピックのマラソンで銅メダルとなった円谷幸吉の墓がある。
また、境内の推定樹齢500年のイチイは、福島県の緑の文化財に指定されている。
【十念寺(浄土宗)】
文禄元年(1992)善竜上人の開山である。芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在しここの寺に詣でたことで知れれる。安政二年須賀川の女流俳人市原多代女によって「風流のはじめや奥の田植唄」の碑が建立されてある。
また、多代女の「終に行く道はいづこぞ花の雲」の辞世の碑もある。別院の成田山は節分の豆撒きには善男善女でにぎわう。
なお、東京オリンピックでマラソン第三位となった円谷幸吉の墓がある。
須加川市 -
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十念寺に、【マラソンランナー円谷幸吉のお墓】
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芭蕉句碑:
後の安政2年(1855)須賀川の女流俳人市原多代女(いちはらたよめ)により、芭蕉田植え歌「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑が建てられた。
芭蕉作【風流の初めや奥の田植歌】句碑
等躬への挨拶吟。みちのくに入って耳にする田植歌は、俳諧風流の神髄だ。世辞を込めて須賀川をほめた句。 -
十念寺の隣には、【金徳寺(こんとくじ)】がある。
一遍上人の起こした時宗(じしゅう)のお寺で、本山は神奈川県藤沢市の遊行寺である。二階堂家城主、 三千代姫の供養寺でもあり、二代目尾上松縁の墓 がある。 境内には一遍上人の銅像も見える。
十念寺に隣接した金徳寺(こんとくじ)。
こちらは時宗の寺で、神奈川県の藤沢にある時宗の総本山清浄光寺(通称遊行寺)の末寺である。
本山の遊行寺は旧東海道五十三次を歩いた時に立ち寄る寺。
十念寺は、伊達正宗に滅ぼされた二階堂城の城主二階堂家、美千代姫の菩提寺であった。また、歌舞伎の2代目尾上松禄の墓がある。
金徳寺を過ぎると、急な坂で須賀川に向って下って行く。 -
下ると、翠ヶ丘公園がある。こちらで、コンビニおにぎり+缶ビールランチをした。
翠ヶ丘公園の五老山で、毎年11月に行われる、須賀川名物の火祭り、「松明(たいまつ)あかし」の舞台となるところである。
天正年間(1573?1591年)、須賀川城は伊達政宗に攻められ落城した。
毎年11月に行われる、日本三大火祭りの一つである「松明あかし」は、この時戦死した人々の霊を弔うために始められた祭りである。
「松明あかし」は、須賀川城跡に建つ二階堂神社で奉受された御神火(松明)を、市内を一巡してから、会場となるここへ運ばれる。
また、長さ10m、重さ3トンもある、大松明が担ぎ出され、町を練り歩き、ここに運ばれてくる。そして、運ばれてきた大松明約30本をここに立て、一斉に点火し、松明太鼓が鳴り響くと言う豪壮な祭りである。
須賀川に架かる見晴橋を渡ると、目の前に中世の須賀川城(二階堂氏)があった
愛宕山がある。今は広大な翠ヶ丘公園となっている。 -
【多代の宙】碑
須賀川が全国に誇る女流俳人市原多代女(たよじょ)(1776~1865年)を輩出した。
多代女が眠る須賀川市池上町の十念寺。門を入り右手には、芭蕉が詠んだ〈風流のはじめや奥の田植唄〉の句碑がある。多代女の建立だ。左手に向かい合わせで立つのは多代女辞世の句碑〈終に行く道はいつこそ花の雲〉 -
須賀川の総鎮守である【神炊館神社(おたきやじんじゃ)】に向う。
江戸時代に朝廷より「諏訪大明神」として、正一位の位を授かり、諏訪大明神が神号として用いられたが、明治11年に、現在の社名である神炊館神社に戻っている。
須賀川の総鎮守で、松尾芭蕉も訪れている古社である。なお、この辺の地名は今も諏訪町となっている。
初代石背国造建美依米命とその親・建許呂命を主祭神に祀ります。.「曾良旅日記」にも参拝の記録があるようです。 境内の天満神社は(岡天神)ともいって、道真と共になんと数学者の岡潔が祀られている。 -
【山岡鉄舟 揮毫】
天保七年(1836)生、明治二十一年(1888)薨
名は高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。幕末・維新期の剣客で、一刀正伝無刀流の開祖。剣術に優れ書を能くした。西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させ、江戸城無血開城に貢献した。明治天皇の侍従を勤め、子爵、従三位、勲二等に叙せられている。海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」の一人。無私の精神を貫いた剛毅武人型の模範として後世に名高い。
この書は、明治十七年と推定される。 -
参道の燈籠が壮観であるが、
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一部は、東北大震災で転倒し、現在も復元されず、そのままになっている。
(復元には大変なお金が必要とのこと)
【神炊館(おたきや)神社】
主祭神は建美依米命で、成務天皇の御代、初代岩背国国造として当地に赴任した。
着任すると、社檀を築き、収穫された新穀を炊いて、天神地祇を捧げて、政治の成功を祈願した。
この故事にちなんで、社檀様(しゃだんさま)と呼ばれたが、その後社殿が築かれ、神炊館神社と名付けられた由。
室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が、信州諏訪神を合祀したことから、
「お諏訪様」とも呼ばれていた。
江戸時代に朝廷より「諏訪大明神」として、正一位の位を授かり、諏訪大明神が神号として用いられたが、明治11年に、現在の社名である神炊館神社に戻った。
須賀川の総鎮守で、松尾芭蕉も訪れている古社である。
なお、この辺の地名は今も諏訪町となっている。 -
【市原多代女句碑】
「けふはかりと翁の宣ひしか此うえに 又としよらん 初時雨」」
市原多代女は、安永5年(1776年)須賀川の酒造業で大庄屋を勤めた市原家に生まれ、本名はたよ。31歳で夫を失い、石井雨考の勧めで俳諧の道に入り、晴霞庵多代女と号し、芭蕉を崇敬して多くの秀句を作り全国にその名を馳せた。慶応元年(1865年)90才で歿。 -
参道には、真新しい石碑。俳聖、松尾芭蕉が元禄時代の旧暦4月28日参拝したのを記念して、平成18年12月に建立したもの。
右の芭蕉の肖像画と”うらみせて涼しき瀧の心哉”が載った『宗祇もどし』の石板。左が『曽良旅日記』の石板。共にこの神社由来の芭蕉の足跡を記したものです。
【「奥の細道碑」について】
『宗祇戻(そうぎもどし)』(柿衛文庫蔵)は、宝暦四(17541754)年、白河の俳人和知風光が編集した俳句の本。挿絵に松尾芭蕉の肖像と諏訪明神(神炊館神社)に奉納されていた芭蕉真筆の句として
「うらみせて涼しき瀧の心哉」
に説明を加えて掲載しています。
(この句は岩波版『芭蕉俳句集』(492)、加藤楸邨『芭蕉全句』(525)に収録されています)
『曾良随行日記』(天理大学図書館蔵)は、元禄二(1689)年、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に随行した弟子の河合曾良が書きとめていた日記。須賀川には四月二十二日から二十九日まで滞在しました。碑に刻まれているのは、二十八日諏訪明神に参詣した時の一節です。
「二十八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三良来而(きたりて)延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而(ゆきて)及暮(くれにおよぶ)。十念寺・諏訪明神へ参詣。朝之内、曇」
三基の石灯篭は、芭蕉が参詣した元禄年間に当神社に奉納されたものです。
平成十八年十二月 総鎮守 神炊館神社 -
一部は、東北大震災で転倒し、現在も復元されず、そのままになっている。
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一部は、東北大震災で転倒し、現在も復元されず、そのままになっている。
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本来はこんなに立派な燈篭。
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一部は、東北大震災で転倒し、現在も復元されず、そのままになっている。
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一部は、東北大震災で転倒し、現在も復元されず、そのままになっている。
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【神社本堂】
【由緒】
主祭神は建美依米命。同命は、成務天皇の御代に初代石背国国造として当地に赴任しました。着任するや、社檀を築き収穫された新穀を炊(かし)いて天神地衹に捧げて政治の成功を祈願しました。社名はこの古事に由来しています。その場所(現西川茶畑町)は、「社壇様」と呼ばれましたが後に社殿が築かれ、「神炊館神社」と名づけられました。後世当地を支配した二階堂氏は、城郭内に諏訪社を建立し建美名方神を勧請しましたが、落城後の慶長三(1598)年に両神社を併せて新たに社殿を造営し、諏訪大明神と称しました。会津城主上杉景勝公の庇護を受けていましたが、北門の石鳥居は景勝公寄進のものであります。正徳二(1712)年、正一位の神階を授けられ、「岩瀬総社諏訪大明神」を称し、末社は郡内八十社に及びました。松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の途次、当神社を参拝したのは、元禄二年四月二十八日でした。(「曾良随行日記」)
明治十一年現在の社名に復称し、須賀川町の総鎮守となり、現在に至っています。
神炊館神社社務所 -
狛犬
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【羽黒山妙林寺】
妙林寺は開山当初は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の末寺として寺運も隆盛しましたが室町時代の応永年間(1394~1428年)に衰退、文安元年(1444)に二階堂氏が鎌倉から須賀川城主として移封してくると同じく鎌倉にあった法界寺の僧明栄を招いて再興してい17年(1589)、須賀川城が伊達政宗の侵攻により落城するとその兵火により堂宇、寺宝、記録などが焼失します。 -
【曹洞宗長松院】
萬年山長松院は福島県須賀川市諏訪町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。長松院の創建は室町時代の文明年間(1469~1487年)に当時岩崎郡一帯を支配していた須賀川城主二階堂山城守行詮の室が開基となり麟山禅師を招いて開山したのが始まりとされます。 -
【相良等窮の句碑】
『あの辺はつく羽山哉炭けふり』
須賀川の俳祖「相楽等躬」は須賀川宿の長老、俳人。元禄2年、芭蕉は奥の細道途中、旧知の等躬宅を訪れ7泊した。 平成八年十月 須賀川史談会
【松尾芭蕉の知人・相楽等躬の善堤寺】
曹洞宗の寺院で、芭蕉が宿をとった知人・相楽等躬の善提寺。境内には等躬の「あの辺はつく羽山哉炭けぶり」の句碑と墓所があります。 -
これは何でしょうか?
拡大写真を見ると沢山の漢字が書いてある。 -
これは【須賀川城の土塁と空堀の遺構】です。
鎌倉時代二階堂氏によって築かれた須賀川城の遺構がある。1448年二階堂為氏によって整備され、1589年伊達政宗に攻撃され落城するまで須賀川の旧市街地一帯に存在した。 -
この場所は、須賀川城の土塁と空堀の一部を残している。
【須賀川城の土塁と空堀】
長松院境内西側の、墓地との間に見られる盛り土と窪地は、須賀川城跡の現存する数少ない土塁と堀跡の一部となっています。
須賀川城は、鎌倉時代に二階堂氏によって築かれた城で、現在の市街地のほぼ全域がその城域となっていました。文安五年(1448)、二階堂為氏が初代城主となって整備され、その後、九代にわたって二階堂氏が城主となり存続しました。しかし、天正十七年(
1589)、伊達政宗の攻撃を受けて落城しました。須賀川市の奇祭松明あかしの由来となった城跡であり、現在はその面影を留めている所はほとんどありませんが、この土塁や堀跡が数少ない貴重な遺構として残されているものです。このような土塁や堀跡は、この長松院の北側の神炊館神社と、本丸跡の二階堂神社にわずかに残されているのみです。
長松院の土塁と堀跡は、平成15年にその規模・構造などを把握する目的で、一部が試掘調査されました。その結果、土塁は、基底幅五・七メートル、現状の高さ一・六メートルありましたが、当時はもう少し高さがあったものと推定されます。堀を掘削した土で一気に盛り上げて築いていることもわかりました。堀跡は、土塁の基底面から対面までの上幅が十二・六メートル、底面までの深さは、現在の地表面から二・三メートル、土塁上端から底面までは約五・五メートルを測ります。堀の断面は擂鉢(すりばち)状となっており、容易に登り降りすることは困難なものです。当時としてもかなり大規模な土木工事であったものと思われます。部分的な調査であったために堀跡からの出土遺物はありませんでした。落城後、堀は埋め立てられ、今日に至ったものと思われます。
このように当時の須賀川城の様子を知る貴重な遺構であることが確かめられました。私たちは須賀川城の歴史を物語るこのような大切な文化財を守り、将来にわたって永く伝えて行く必要があると思います。
平成十七年十月 須賀川市教育委員会 -
曹洞宗長松院に、芭蕉をお世話した「俳人相良等窮の墓」がある。
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この交差点近くに、【明治天皇御行幸の際の休憩場所】が有ったそうな。
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いよいよ、須賀川宿を後にします。釈迦堂川の堤防に上ると、「中宿橋」が見える。堤防を歩いて、この橋を渡って進む。
現在の中宿橋の袂には常夜灯が設けられていた。この橋を渡り、対岸の中宿に向かう。
岩瀬の渡し碑
釈迦堂川の土手の下に歌碑があった。字か掠れて読みにくかったが、
「陸奥の 岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」 と読めた。
万葉集に出てくる歌である。みつまき山とは歌枕で有名な「岩瀬の森」とのことである。岩瀬は元の石背の国で、須賀川には国府があり、この近くを古代の東山道が通っていた。 -
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