2014/08/10 - 2014/08/15
153位(同エリア710件中)
MechaGodzillaⅢ&703さん
- MechaGodzillaⅢ&703さんTOP
- 旅行記1805冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 4,026,665アクセス
- フォロワー326人
■夏の車旅、岡山〜福井〜能登半島〜北アルプス〜京都
恒例となった夏の長距離車旅、全走行距離は2030kmでした。5泊6日のひとり旅日記、第2編です。表紙の写真は福井市のゆるキャラお江ちゃんの顔抜きです。
≪夏の車旅、旅行1日目≫
▼広島市の自宅を出発
▼山陽自動車道「道口PA」/岡山県倉敷市玉島道口
▼備中高松城跡/岡山県岡山市北区高松
▼舞鶴若狭自動車道「西紀SA」/兵庫県篠山市
▼北陸自動車道「杉津PA」ゆうひのアトリエ/福井県敦賀市
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
▼福井城址/福井県福井市大手
▼福井駅前H泊
2日目へつづく・・・
■越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
柴田勝家は織田信長から49万石を与えられ、数年の歳月をかけて築かれたと言われています。
天正11年(1583)、豊臣秀吉の軍に攻められた勝家は、自ら火を放ち、妻のお市の方や一族とともに壮絶な最後を遂げ、同時に北の庄城もわずか8年という短い命をとじました。
現在、柴田神社には柴田勝家の像をはじめ、北の庄城の唯一の遺物や鬼瓦、勝家の時代に造られた足羽川・九十九橋に使われたという石柱、九頭竜川に掛けられた舟橋をつないだ鉄鎖が大切に保存されています。
この公園は、平成19年に『日本の歴史公園100選』にも選ばれました。
▼お市の方、柴田勝家との再婚
天正十年(1582年)、信長と嫡男の信忠が本能寺の変で亡くなると、信長の跡目を誰が継ぐかを決めるため、重臣たちは清洲に集まりました。
このとき秀吉は信忠の息子の三法師を跡継ぎとし、自分が後援者になることを主張し、勝家は信長の三男の織田信孝を跡継ぎに推薦しました。
家臣団の中の格でいえば、もちろん勝家の方が上です。しかし、秀吉は逆臣の明智光秀を殺し、主君の仇を討ったという錦の御旗を背負っていました。
両者は舌鋒鋭く対立し、妥協点は見つからず、信長が築き上げた帝国は分裂するかと思われました。そんなとき、「お市様を勝家殿のご正室にしてはどうか」という意見が出されました。
信孝が勝家を味方につけるためにそれを言い出したのだという人もいるし、秀吉が勝家の不満を和らげるためにそうしたのだという研究者もいます。
ともかく、織田家重臣たちの間で、勝家がお市に惚れ抜いていることはよく知られていたのでしょう。
その結果、清洲での会談に臨む前、信孝を織田家の主にして自分が重臣筆頭としてそれを支えるという体制を考えていた勝家は、お市を妻とすることに満足して自分の主張を引っ込めて、北陸に帰ってしまったのです。
勝家にとって、お市を娶ることは生涯の目標だった。お市を妻にするために 信行に組した三十年前から、勝家はただこの日を夢見て戦場を駆け巡ってきました。夢がかなって虚脱状態に陥っていた勝家は、その隙を秀吉に衝かれ、賤ケ岳の戦いに敗れて自害するところまで追い込まれます。
もちろん、勝家にはお市を道連れにするつもりなどありませんでした。たとえ僅かの間でも、お市を妻とすることができただけで充分でした。
だから、お市が城を脱出せず自分とともに死ぬと言ってくれたとき、信じられぬ思いがしました。
だが、お市はもうこの修羅の世に未練がなかったのです。
物心ついてから今日まで、接するすべての男性はお市の美貌に憧れ、我が物にしようとしました。
しかし、自分が愛したのは浅井長政一人で、もう二度とその胸に抱かれることはないこともわかっています。
もしかしたら信長の後継者になれたかもしれない資質を持ちながら、愚直に自分への愛を貫いて滅ぼうとしている勝家のために、ここで死んでやってもいいとお市には思えたのです。
そして三人の娘たちに、愛する長政の血脈を護ることを命じて逃がし、勝家とともに死出の旅につきました。天正十一年(1583年)四月二十四日のことでした。WEBサイトより
【手記】
夏の車旅日記、「越前北の庄城址・柴田公園」編です。スタミナと台風が心配でしたが、初日の台風については気象情報をしっかり分析して、途中途中で寄り道をしながら時間調整、1時間刻みで場所を計算して、比較的風雨の弱い台風進路の西側を走破していくように安全第一でのんびりと福井まで走って行きました。予想通り、風雨についてはぜんぜん大丈夫でした。
※広島市安佐南区・安佐北区で大規模土砂災害で被災された方々およびご親族・関係者の皆々様に心よりお見舞い申し上げます。何はともあれ多くの方々がご無事であり一刻も早く元の生活に戻れるよう祈るばかりです。まだまだ懸命な救助活動が続けられておりますが災害復旧救護活動にあたっておられる方々には本当にご苦労様です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 自家用車
-
■夏の車旅、岡山〜福井〜能登半島〜北アルプス〜京都
恒例となった夏の長距離車旅、全走行距離は2030kmでした。5泊6日のひとり旅日記、第2編です。写真は福井鉄道福井駅前の路面電車です。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
広島市の自宅を出発してから8時間余り。疲れていましたが、まだ表が明るいので福井駅近くをコンデジ持ってちょっくら散策してきました。
-
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
北の庄城址・柴田公園には柴田勝家が築城した北庄城の天守があったとされています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
北庄城は天正3年(1575)に築城がはじまり、織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ、9層の天守閣をもつ日本最大級の城だったと記録にのこっています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城堀跡
この公園は、平成19年に『日本の歴史公園100選』にも選ばれました。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・九十九橋と北の庄城址資料館
九十九橋(つくもばし)は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋ですが、江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。半石半木とは、橋の南半分が石で、北半分が木で造られるという構造のことを意味しています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・九十九橋の復元
この橋が架けられていたという記録は朝倉時代にもありますが、半石半木の橋として架けたのは、文献、絵図等の研究から勝家公だと考えられています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・九十九橋の復元
江戸時代前期(1685年)の「越前国地理指南」では「大橋 長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋 四拾一間」とその大きさが記載されています。
-
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・明治初期の九十九橋
石橋の部分は全て笏谷石で作られ、橋脚の長さは立てる場所によって異なりますが、2.5m〜2.8mと推定されています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・明治42年の九十九橋
江戸時代の二百数十年の間に九十九橋の架け替え工事は、記録としては十回以上あり、最後の工事は安政元年(1854)でした。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・九十九橋
また、明治7年(1874)に半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われたと記録されています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
展示されている鎖は、北陸道が九頭竜川と交わるところに、柴田勝家公が天正6年(1578)に渡したと伝えられる舟橋で用いられていたものです。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
勝家の時代に造られた足羽川・九十九橋に使われたという石柱 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
柴田勝家は織田信長から49万石を与えられ、数年の歳月をかけて築かれたと言われています。
-
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館 柴田勝家公肖像画
天正11年(1583)、豊臣秀吉の軍に攻められた勝家は、自ら火を放ち、妻のお市の方や一族とともに壮絶な最後を遂げ、同時に北の庄城もわずか8年という短い命をとじました。
-
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館 お市の方肖像画 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
福井市のゆるキャラお江ちゃんの顔抜きです。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館 柴田勝家公とお市の方 辞世の句
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
-
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
ルイス=フロイス(1532〜1597)は、安土桃山時代に30年以上にわたり日本に滞在したイエズス会の司祭です。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・北の庄城址資料館
こういった歴史ものは大好きなんですけどねー。なにせ疲れていて・・・文字を読んでいても頭が働いていない^^; -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
福井城日向門枡形 後方は柴田勝家公銅像 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・瓶割り柴田
1570年、六角丞禎に攻められて近江の長光寺城に篭城中、飲料水の水瓶を割って城には戻らぬ覚悟で猛襲し、ついに敵を破ったことにより「瓶割柴田」の異名をとったといわれています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・お市の方像
絶世の美女と唄われた織田信長の妹。天正十一年(1583年)四月二十四日、三人の娘たちに、愛する長政の血脈を護ることを命じて逃がし、勝家とともに死出の旅につきました。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・浅井三姉妹像(茶々、初、江)
長女の茶々(淀殿)は、大阪冬・夏の陣で徳川家と戦い、浅井家の誇りを守る力強さを持った女性です。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・浅井三姉妹像(茶々、初、江)
お江(崇源院)は、波瀾万丈の人生を送りながらも常に平和を願い、最後には幸せな余生を送りました。
お初(常高院)は、出家し、姉の豊臣家、妹の徳川家の和睦を取り持つことに奔走しました。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
福井市では、柴田神社の建設工事、北の庄城址・柴田公園の整備工事を契機に、“福井城”、そして伝承されてきた“北庄城”を確認することを目的として平成5年度から6回にわたり発掘調査を実施しました。
-
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
北庄城は、これまで文献資料や伝承でのみ語られてきた城郭でありましたが、発掘調査によってはじめてその存在を確認しました。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
確認した堀は、大規模な城郭の一部でありますが、吉野川(のちの百間堀)と堀を東からの防御としていた城郭の構造であったとうかがえます。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・柴田神社
公園と隣接する地に、あたかもこれを護持するかのように柴田神社が再建整備され、勝家公およびお市の方が合祀されています。 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・柴田神社 -
▼越前北の庄城址・柴田公園/福井県福井市中央
・柴田神社 -
▼福井駅前通り/福井県福井市中央
・福井駅前通り 革工房銭屋 -
▼福井駅前通り/福井県福井市中央
・福井駅前通り 味庵「市」
お市の方からネーミングされているのでしょうね。 -
▼福井駅前通り/福井県福井市中央
・昭和の秘密基地「半兵エ」
レトロなホーロー看板 居酒屋さんのようです。 -
▼福井駅前通り/福井県福井市中央
・昭和の秘密基地「半兵エ」
目立ちますねー。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・御本庄橋
関ヶ原合戦後の1601年に徳川家康の次男結城秀康が北陸の押さえとして福井61万石に封じられると、北ノ庄城に代わる新城を構築しました。
これが福井城で、1606年(慶長11年)に完成しました。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・本丸復元図
以後、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城です。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・旅立ちの像…三岡八郎と横井小楠
横井小楠に同道して九州に旅立った三岡八郎は、長崎でオランダ商館と福井藩との間に生糸の販売特約を結ぶなど藩財政改善に尽力した人だそうです。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・藩祖結城秀康公
結城秀康は、1574年徳川家康の次男として生まれました。1584年羽柴秀吉の養子となり、秀康を名乗っています。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・福井城天守図面 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・天守閣跡 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・福の井
天守台にある福の井 地名発祥の由来となった。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
天守台下にある池に咲く蓮の花 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・山里口御門跡から見た御廊下橋
平成20年3月に屋根付きで復元されたそうです。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・御廊下橋
御廊下橋は、歴代の福井藩主が登城する際の専用橋として使われていました。明治初期に撮影された写真を元にしたということです。 -
▼福井城址/福井県福井市大手
・御廊下橋
この日は台風に気を遣いながらの長距離移動でホント疲れました。
THE END. それでは、また〜。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
MechaGodzillaⅢ&703さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
47