2014/07/20 - 2014/07/20
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四国を統一した長宗我部元親公の嫡男、信親公の最後を偲ぶ旅をしました。
約20年前に初めてこの場所を知りましたが、四国の若武者がなぜこの場所で最後を遂げたのか、改めて知った旅となりました。
この写真は、南国市の岡豊城跡にある長宗我部元親公の像です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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大分市の国道10号線沿いの大野川河畔です。
戸次川(大野川)古戦場の跡です。
薩摩の島津氏が北上し、豊後の大友氏が攻められ、その救援のために、四国連合軍(軍監の仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、十河存保)が九州に入りました。 -
この地で、長宗我部信親公は、家臣の700人と共に、勇猛果敢に戦い、壮絶な最後を遂げられました。
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長宗我部軍の鎮魂碑です。
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信親公やその家臣の子孫の方々が、寄付をされて建てられています。
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左側の山崎台地に、長宗我部信親公、十河存保公の墓があります。
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戸次川から見る鏡城跡です。
四国連合軍は、この鏡城に入り、軍儀を行いました。 -
鏡城の本丸付近です。
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戸次川を挟み、右側の山が鶴賀城です。
島津家久公は、この大友方の鶴賀城を包囲しました。 -
長宗我部元親公や十河存保公は、豊臣秀吉の援軍が来るのを待つよう提案しました。
功をはやる、軍監の仙石秀久公は川を渡り、一気に攻めるよう主張して、反対を押し切り決行しました。 -
島津軍は大軍で待ち伏せをしており、長宗我部信親公は味方から孤立、敵に囲まれました。
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敵に囲まれる絶望的な状況の中で、獅子奮迅の戦いをされましたが、刀の刃は欠け、鎧はちぎれ、ついに家臣700人と共に22歳の短い生涯を終えられました。
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信親公は、島津勢によって、山崎台地に葬られました。
後に長宗我部元親公が送った僧により、荼毘にふされました。 -
戸次川合戦での戦死者の慰霊碑です。
十河存保公の墓もこの地にあります。 -
信親公の鎧が埋められていたと伝わる鎧塚です。
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山崎の台地では、戸次川合戦が行われた12月12日に、住民の方々による慰霊祭が行われています。
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近くの戸次の町並みです。
信親公が戦死して、関ヶ原の戦いで、弟の長宗我部盛親公は西軍に味方して、長宗我部家は所領を没収されました。戸次の町並み 名所・史跡
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盛親公は大坂の陣で、豊臣方に味方して戦いましたが敗れて、戦後に京都で処刑となりました。
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400年の時を超えて、信親公の壮絶な生き方と最後を、戸次川は静かに物語っているようでした。
信親公を偲ぶ旅、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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