2014/06/27 - 2014/06/27
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sintabiさん
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松代城:
元和8年(1622)に真田信之が上田藩から移封されると当初海津城と称していたものを松代城と改称し、以来、松代藩の藩庁と真田家の居城として明治維新までの約250年の間治めた。
本丸を中心に石垣や土塁、水堀など昭和56年に国指定史跡に指定されています。その後、太鼓門や北不明門などが復元され平成18年に日本名城100選に選定されています。
松代町でも案内板や町に六文銭が目につきます
真田家の家紋:
真田氏の家紋は、「六文銭紋」や「六連銭紋」とよばれるもので、
三途の川を渡るときに困らないようにと
納棺の際に納める「報賽銭」(六道銭)に由来しているそうです。
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
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※※まさかの出来事※※
この画像は走る新幹線からの風景ではありません。(汗)
止まった新幹線からの画像です。(汗)
アナウンスが有り「非常停止します」とのことでした。
何処かの川の上です。まもなく新幹線は走りだしましたけど・・・ -
松代駅
大正11年(1922)開業当時の建物を残す駅舎。
長野電鉄屋代線が廃線となったが、駅舎は残った。 -
二の丸南門
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松代城(海津城)跡 [国史跡]
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。
そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。
海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認
できるのが永禄3年(1560)ですので、このころにはすでに
築城されていたことがわかります。
戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄
や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上で
の軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。
元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に
御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。
その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する
花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。 -
国史跡 松代城跡
附新御殿跡 -
太鼓門
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太鼓門前橋
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内堀
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内堀
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東不明門
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北不明門
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北不明門
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北不明門
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北不明門と矢狭間
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北不明門と矢狭間
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北不明門(本丸側から)
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海津城址之碑:
激戦となった第4回川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。
永禄3年(1560)ころには完成したと推定される。上杉謙信との合戦に備えて武田信玄は築城を急ぎ、山本勘助は80日で普請したという。 -
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戌亥櫓台
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戌亥櫓台
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戌亥櫓台
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戌亥櫓台石垣
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戌亥櫓台石垣
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山出で来て
尾長の鳥の
遊ぶらむ
松代町の
春をおもふよ
牧水 -
本丸跡
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本丸跡
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太鼓門に架かる太鼓門前橋と内堀
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