2014/06/14 - 2014/06/14
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montsaintmichelさん
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法隆寺<前編>は、アプローチから西円堂、西院伽藍をレポいたしました。引き続き、<後編>では東院伽藍を中心に法隆寺コードの解明をレポしたいと思います。
実は、梅原猛氏が「夢殿は聖徳太子の霊廟」と書かれている八角円堂が東院伽藍にあります。通常、夢殿のような八角円堂は霊廟や廟堂とされていますので、あながち的外れな仮説ではありません。しかし、法隆寺の説明では、あくまでも「太子の供養堂」としています。ここを訪ねれば、法隆寺コードの謎解きの糸口がつかめるかもしれません。
地中海クレタ島にあるミノア文明の王宮と伝えられるクノッソス宮殿は、1900年英国人考古学者アーサー・エヴァンスによって発見されました。1200に及ぶ部屋が迷路のように重層的に存在する大宮殿ですが、外敵を防ぐ城壁がなく、南向きの窓がなかったり、部屋の出入り口が石板で遮蔽されていたり、キッチンがひとつもなく、小さ過ぎて人が入れない浴槽が沢山あり、その材質に水に弱い石膏を使い、また排水溝がない(つまり棺桶?)など魑魅魍魎的な迷宮でした。因みにこの宮殿は、生け贄を殺すための両刃の斧「ラブリュス」が祀られた迷宮だったことから、「ラビリンス(迷路)」の語源とも言われています。
ドイツ人地質学者ハンス・ゲオルグ・ヴンダーリヒは、著書『迷宮に死者は住む』で、「ここは上半身が牛で下半身が人間という怪物ミノタウロスを封じ込めた迷宮」だと述べています。梅原猛氏は、この本を読んで電撃が走り、法隆寺を当て嵌めてみたら次々に符合する点が現れ、一気に『隠された十字架』を書き上げたと言われています。『迷宮に死者は住む』は絶版になっていますが、偶然にも市の図書館にありました。梅原氏の論法やアウトサイダー的発想の起源は、この本に由来することが窺えます。
一方、法隆寺側は、「怨霊封じ説など、とんでもない。仏様や寺院への冒涜だ」と梅原氏の説を一蹴して一歩も譲りません。肝心の史学者たちは、保身のために定説を振りかざすだけで、定説を見直す気配すらありません。まさに「ゆでガエル」状態です。
再び、ミステリアスな法隆寺コードの解明に向けた過酷なミッションへの旅立ちです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
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法隆寺 西院伽藍 楠の古木
法隆寺の境内には松と楠が多く植えられています。
鏡池の近く、子規記念碑の南側に、樹齢1000年以上と伝えられる老楠の巨木が枯れ朽ちて空洞になったお腹を露わにしています。主幹のほとんどは化石化したように白っぽくなっていますが、葉の生い茂る様子にはみなぎる生命力が感じられ、パワーをもらえそうな老木です。
因みに、この木の周りではじめて人以外の生物と遭遇しました。写真右端に写り込んでいますが、胴体が黒っぽいトンボです。この木の周りで群れを成していました。黄色の縞模様が見られるのでオオシオカラトンボの雌と思われます。
東大門を潜って直ぐ左にある律学院の塀の外南西の角に、2m程の石柱の記念碑が立てられ、「聖徳太子1300年記念に楠木を壱萬株献納し境内山林に移植」と記されています。
楠は常緑の大木になり、全体に芳香があり、古来アジア圏の国では魔除けの木とされていたことから、聖徳太子ゆかりの法隆寺を芳香で包んで魔物から守ろうとしたのでしょう。 -
法隆寺 西院伽藍 聖霊院前の手水舎
鏡池の手前にポツンと手水舎が佇んでいます。
この鏡池にも聖徳太子の伝承が残されています。法隆寺の秘宝となっている35〜45歳の聖徳太子座像は、この鏡池の水に自らの姿を映して描いたものだそうです。
因みに、金堂前に安置された礼拝石は、この池の護岸として使用していた石を1353年に移設したものだそうです。 -
法隆寺 西院伽藍 聖霊院前の手水舎
ペルシアンポットを彷彿とさせますが、舎利瓶という設定なのでしょうか?
水が出る所は龍頭のような姿形をしていますが、瓶に描かれた線模様から判断すると鳳凰のようです。
寺紋の「大和法隆寺」鳳凰に引っ掛けているのでしょう。
しかし、牙が鋭く、ちょっと怖い鳳凰です。それで誰も近寄らないのでしょうか!? -
法隆寺 西院伽藍 馬屋
太子の愛馬「黒駒」像と手綱を取る従者「調子丸」像が安置されています。
太子は住居の斑鳩宮から執務場所の飛鳥京まで愛馬「黒駒」に乗って通勤されたそうですが、侍者の調子丸はじめお供の方は徒歩だったそうです。「黒駒」は、4脚が白い以外は全身真っ黒だったと伝わりますが、像を見た限りでは判りません。 -
法隆寺 西院伽藍 馬屋
太子の生母「間人皇女」が宮中を散歩されていた際、廐の戸に当って急に産気づき、出産されたので「廐戸王子」と名付けたと伝わります。廐戸王子は生存中の名前ですが、上宮太子とも呼ばれていました。馬小屋といえば、イエスが生まれた場所。東院伽藍の舎利殿に祀られた太子の2歳像には、2月15日に東に向かい合掌して南無仏と唱えられると、愛らしい合掌の手の間から一粒の釈迦の左眼の舎利が出てきたとの言い伝えがあります。この2月15日は釈迦の命日です。どうもイエスや釈迦を相当意識した伝承のようにも思えます。 -
法隆寺 西院伽藍 聖霊院(国宝)
秘仏の聖徳太子45歳像(国宝)を安置する神殿風の建物です。
西院伽藍の東側にある東室の南部を1121年に改造し、聖徳太子を祀る御堂としたものです。現在の建物は、1284年に建て替えて独立した仏堂としたものです。
内部は前後を内陣と外陣に分けています。内陣正面にはよく観ないと判らないような唐破風がありますが、これは最古の唐破風として貴重なものだそうです。緩やかな曲線が美しい唐破風です。
中央には秘仏 聖徳太子像、左右の厨子には如意輪観音半跏像と地蔵菩薩立像が安置されていますが、普段、厨子は開帳されていません。その他、山背大兄王や太子の弟、教師役の高句麗僧 恵慈など太子ゆかりの人物の像が安置され、法隆寺内における「太子信仰の場」と言えます。
太子の命日は旧暦2月22日ですが、新暦に合わせるために1ヶ月遅らせ、3月22日にお会式がこの聖霊院で執り行われ、秘仏や厨子に安置された像を拝むことができます。 -
法隆寺 西院伽藍 聖霊院・東院(国宝)
現存しない寝殿造の対屋がこのような建物だったそうで、平安末期から鎌倉時代の住宅建築を知るための貴重な建築と言われています。また、ここには蔀戸(しとみど)という、細かく格子を組んで裏に板を貼った板戸が取り付けられています。上部を金具で吊って外側か内側に押し上げて開き、金具に引っかけて止めるものです。これは鎌倉時代の建造物を象徴する貴重なものだそうです。そういえば、京都 御所 清涼殿にもありました。
京都御所 清涼殿の写真はこちらを参照ください。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=27057510 -
法隆寺 西院伽藍 食堂(国宝)・細殿(重文)
大宝蔵院を出た所から見た食堂です。
食堂(じきどう)と細殿(ほそどの)は、並んでいるので双堂(ならびどう)と言われます。双堂としては唯一の遺構で、貴重なものだそうです。
食堂を兼ねた大講堂が925年に落雷に依り焼失したため、法隆寺の事務所に当たる政屋を平安時代の初期に食堂に改造したと言われています。細殿は食事の準備や食事前の儀式を行った所と言われています。 -
法隆寺 西院伽藍 食堂・細殿
食堂の妻の壁には、二重の虹梁があります。
また、鬼瓦の下方、屋根の突合せの所に下げられている木製の飾りは、懸魚(げぎょ)と言い、棟木(むなぎ)の端を隠す役目をしています。これは猪目(いのめ)と呼ばれるハート形の穴をくり抜いた猪目懸魚にあたります。 -
法隆寺 西院伽藍 綱封蔵(こうふうぞう)(国宝)
高床造りの倉庫で寺宝を保管するための蔵で、天平時代を代表する双蔵(ならびくら)の唯一の遺構だそうです。双蔵とは、両端を蔵とし、扉は吹き抜けに向かって開く、奈良時代の代表的建物です。
古代の蔵と言えば「校倉造」か「板倉造」が主流ですが、「土壁造」とは極めて貴重なものです。漆喰壁だけでは無用心なので、盗難避けに壁の内部に厚さ6cm、高さ1.6mの板が張ってあるそうです。綱封蔵が土壁造となったのは、防火対策ではなかったかと思われます。細長い屋根や高床、縁下は胴張の円柱ですが、縁上は角柱を使用しています。
因みに、全国各地の役所に税として納められた物品を保管する双蔵を正倉と呼び、その正倉の何棟もの集合体が正倉院です。 -
法隆寺 西院伽藍 東大門(国宝)
国宝に指定された門は20棟あるそうですが、そのうち3棟が法隆寺にあります。東大門は西院伽藍と東院伽藍の間にあるため「中の門」とも呼ばれ、当初は鏡池の東側に南向きに建っていましたが、平安時代に現在の地に移設されたと言われています。
門の下から見上げると、大きな屋根の下に棟が3つ並んだように見えるため、「三棟造り」と呼ばれています。奈良時代の八脚門の建物としては貴重な遺構です。この東大門は後世の改築も少なく、天平時代の面影をよく留めた門と称えられています。 -
法隆寺 西院伽藍 東大門より夢殿を望む
大きな八角形をした屋根のある建屋が夢殿です。
その奥にある緑青色の屋根は、中宮寺の一角になります。 -
法隆寺 東院伽藍 四脚門(重文)
東伽藍への玄関口のような門構えです。右脇には「上宮(かみつみや)王院 夢殿」の文字が躍っています。鎌倉時代前期の建造物で、国の重要文化財に指定されています。
東院伽藍は上宮王院を前身としています。
上宮王院の前身となる斑鳩宮は、605年に完成し、その後聖徳太子が17年間住んだ宮殿です。しかし、山背大兄皇子をはじめ太子の血族25人が、黒幕の中臣鎌足や軽皇子(後の孝徳天皇)に唆された蘇我入鹿に命じられた巨勢徳太と土師娑婆らに攻められ、山背大兄皇子は宮殿に火を放って焼身自殺をカモフラージュしました。こうして一度は逃れたものの、周囲の庶民を巻き込むことを正義としなかった血族一同は、法隆寺の前身となる若草伽藍(斑鳩寺)で自害して果てました。
時を経た奈良時代の738年、太子の遺徳を偲んだ僧 行信が焼失した斑鳩宮跡が荒れ放題なのを嘆き、安倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)に具申して斑鳩宮跡に堂宇を築いたのが上宮王院の始まりと言われています。往時の伽藍は、八角仏殿(夢殿)だけは瓦葺でしたが他の建物は桧皮葺だったそうです。しかし、この再建に光明皇后(中臣鎌足の孫)らの影が見え隠れし、行信が光明皇后からの寄付で「太子の怨念を封じ込める霊廟」を造ったというのが梅原氏の仮説です。
その後上宮王院は荒廃し、9世紀には道詮が復興するものの再び衰退し、平安時代に法隆寺に組み込まれて現在の東院伽藍となっています。しかし、通常、東院に行くとは言わずに夢殿に行くと言うように、門の標識にも「上宮王院 夢殿」と掲げられ、上宮王院としての矜持が窺えます。
1934年から行われた発掘調査により、斑鳩宮跡は東院伽藍のランドマークの夢殿の北西にあり、飛鳥の古い地形に合わせて南北軸が西へ20度傾いていたことが判りました。尚、この傾きは法隆寺の創建時の姿である若草伽藍とも一致したそうです。 -
法隆寺 東院伽藍 手水舎
こちらはアニメチックながら、鳳凰だとすぐに判ります。
聖霊院前の手水もそうでしたが、法隆寺では寺紋に関係する鳳凰を象ったものが散見されます。
因みに、鳳凰は、古代中国で麟・亀・竜と共に四瑞として尊ばれた想像上の霊鳥です。中国最古の地理書『山海経』では、「鶏の頭にツバメの顎、首が蛇、尾は魚、背中は亀」とされ、別の説では前が麒麟、後ろが鹿のような姿とも記されています。翼は青・白・赤・黒・黄の五色に輝き、梧桐(ごとう)に宿り、竹の実を食べ、醴泉(れいせん)を飲むと伝えられ、聖徳の天子の兆しとして世に現れるとされます。ここから、聖徳太子に因んで寺紋に採用されたものと思われます。
日本では、江戸時代の『和漢三才図会』には、「前面はヒシクイ、後面は麒麟、顎はツバメ、くちばしは鶏、首は蛇、尾は魚、額はコウノトリ、顎の先はオシドリ、龍の模様に亀の背中を持ち、羽は5色で高さは4〜5尺ある」とあります。
360種の羽を持つ動物の長であり、聖天子の治める平和な世にのみ姿を現す縁起のよい動物の総称でもあります。鳳凰が飛翔する時には、その徳によって雷も嵐も起こらず、河川も溢れず、草木も揺れないと言われます。
「鳳」は雄鳥を「凰」は雌鳥を表し、2つを組み合わせて鳳凰と呼び、雌雄同体の動物とされています。
歌舞伎座のシンボルマークとして目にすることも多い「鳳凰丸」は、鳳凰を象ったものですが、そのルーツは法隆寺の寺紋というのは意外に知られていないそうです。 -
法隆寺 東院伽藍 夢殿(国宝)
739年に建造された東院伽藍の「金堂」兼「塔」に当たる建物で、世界的な表現主義建築家ブルーノ・タウトが「建築の真珠」と絶賛したように優美な姿をしています。八角形でも円堂と呼ばれますが、日本では正式な円堂は造られなかったようです。それは、完全な円より八角形の方が変化に富み、趣が深いからと言われています。基壇や柱、須弥壇共に八角形で統一されています。基壇には大理石が使われ、梅原氏が説くように石棺に思えなくはありませんが、建屋全体の高さと大理石の高さの比を鑑みれば木造のお堂と言えます。太子や血族の墓が発見されていないことから、このような仮説に至ったものと思われます。
「夢殿」と命名されたのは平安時代で、それ以前は「八角仏殿」「八角円堂」「正堂」と呼んだそうです。後の言い伝えによると、聖徳太子が夢殿で三経の注釈書を作成中、難解点に遭遇した際に瞑想すると釈迦が現れて解説を受けたという説話が名の由来です。ただし、この時の夢殿は、焼失した斑鳩宮にあった八角仏殿です。夢殿とはなんともロマンチックなネーミングにしたもので、建物の姿に相応しく、多くの人々から親しまれる所以だと思います。そう言えば、夢殿は旧壱万円札(聖徳太子)の透かしにも使われていました。
古代の伽藍は、金堂と塔が対になるのが普通です。そのため夢殿は、本尊 救世観音像を祀る建屋を「金堂」とし、その頂点に君臨する露盤宝珠を「塔」に見立てて疑似的な伽藍を構成しています。太子の怨霊を封じ込めるのが目的なら、正式な「金堂」と「塔」の双璧を築いたのではないかと思われます。 -
法隆寺 東院伽藍 夢殿
救世観音立像は、聖徳太子の等身大像で在世中の制作と伝わりますが、像高は179cmもあり、古代人としては巨人です。樟の一木造であり、木彫像では現存最古の遺品でもあります。飛鳥時代の仏像で白亳があるのは珍しく、胸の前で火炎付宝珠を捧げています。蕨手型垂髪、四段に反る鰭状天衣などは飛鳥時代の特徴と言えます。面長な顔、分厚い唇など少しデフォルメされ、アーネスト・フェノロサが「東洋のモナリザ」と喩えた薄気味悪いアルカイックスマイルを浮かべ、旧壱万円札の肖像画の太子の面影は全くありません。特筆すべきは、恨みを晴らすかのごとく光背が後頭部に太い釘で打ち込まれ、まるで魂を抜き取るかのように背面がくり抜かれていることです。本尊と崇められてきた秘仏が、このような誰もが吃驚する、あり得ない惨たらしい姿だったことにショックを受け、梅原氏は「太子の怨霊を封じ込める寺」と言う法隆寺コードに導かれていったようです。
1884年、フェノロサと岡倉天心は、寺僧が秘仏の救世観音像を開扉すれば仏罰が落ち、この世が滅ぶとの猛反対を押し切り、まるでミイラ男のように厳重に何重にも巻かれた経文を認めた布や和紙を取り外しました。すると封印後、1200年の経過を感じさせない、金銅像と見間違えるほどの仏像が現れたのです。秘仏であり、信仰だけの対象であった仏像が、今のように鑑賞の対象になったのは、ひとえにフェノロサのお陰と言えます。しかし、如何に秘仏とは言え、人目に触れないように厳重に布をグルグル巻状態にするという行為には、誰もが何か特別の理由があると勘ぐるのは必然ではないでしょうか?
科学的な目で見れば古代史の定説を反証する余地は多分にあるのですが、宗教的感性によれば信仰対象としては疑う余地がないと言うことなのでしょう。
因みに、救世観音像の開扉期間は、春季の4月11日〜5月18日と秋季の10月22日〜11月22日です。夢殿には、救世観音立像の他、知名度では負けますが、上宮王院の祖 行信僧都坐像(国宝)と復興の祖 道詮律師坐像(国宝)が安置されています。共に東院の再建に尽力した僧侶であり、仏像以外の人物像を彫ることがなかった時代にしては写実的に彫られた貴重な作品と評されています。 -
法隆寺 東院伽藍 夢殿 露盤宝珠
興福寺北円堂の露盤宝珠と並ぶ傑作のひとつに数えられています。
露盤宝珠は青銅製で、露盤、反花、蓮華、花実、宝瓶、天蓋、光明で構成され、宝珠から光明が四方八方へ広がる様を表しているそうです。
梅原氏は、屋根の露盤宝珠が五重塔初層西面の舎利塔の形に似ていることを根拠に、聖徳太子の霊廟ではないかという仮説を示されています。確かにこのような形の舎利瓶が大宝蔵院に展示されていたような気もしますが、背景の空の青さも手伝ってか、残念ながら凡庸な当方には美しく装飾された宝瓶にしか見えませんでした。 -
法隆寺 東院伽藍 夢殿 露盤宝珠
帰宅後に調べて判ったことですが、夢殿は鎌倉時代の1230年に大修理を施されているようです。現在の宝珠露盤もその時に付けられたものだそうで、鎌倉時代の職人がご愛嬌で舎利瓶に似せてしまったのが物議の端緒といったところかもしれません。
また、同じ八角円堂でも伽藍の「中心」に位置する場合は例外的に霊廟や廟堂とは見做さず、供養堂との位置付けのようです。元々、現在の夢殿は、太子に傾倒した僧 行信が再建したと伝えられていますので、例え霊廟であったとしても太子の怨霊を封じ込める必要はなかったはずです。
唯一、夢殿で秘仏化された救世観音像の正体が謎のままです。誰がどんな意図でこのような姿の仏像を造らせ、あるいは後世に補修を行い、それを夢殿へ安置し、永遠に開扉させない秘仏としたのか…。真意を悟った僧が「夢殿には相応しくない仏像」と考え、開けたら祟りが降りかかると諭して永遠に葬ろうとしたのかもしれません。その意味では、「救世観音像(=聖徳太子)の霊廟」と言えるのかも??? -
法隆寺 東院伽藍 礼堂(重文)
夢殿の周囲の回廊の南側にある建物で、その名の通り礼拝するための場所として建造されたものです。当初あった中門の跡地に鎌倉時代前期に新造されています。この東伽藍も西伽藍同様にこうした建物と回廊で取り囲こまれた構成です。
因みに、この礼堂の間口は15mあり、法隆寺の中門と同じサイズです。かつてここにあった中門も相当な規模を誇るものだったのでしょう。
古代では、中門を通路用の門としていただけではなく、礼堂の役割を担っていた名残と言われています。
戸は美しい蔀戸となっています。ここでは間近で見られます。 -
法隆寺 東院伽藍 舎利殿・絵殿(重文)
礼堂の反対側(北側)にある鎌倉時代の建物です。棟続きの建物ですが、絵殿と舎利殿の間に馬道があり、それを境に仕切られています。
右側が舎利殿と言い、聖徳太子が2歳の時、合掌した掌中から出てきたという釈迦の左目の舎利を安置する建物だそうです。
左側が絵殿と言い、かつては摂津国の絵師 秦致貞が1069年に描いた障子絵(国宝)「聖徳太子絵伝」が飾られていたそうです。太子の生涯を描いた最古の作品ですが、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館が所蔵しています。その代わりに江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」レプリカが飾られているそうです。 -
法隆寺 東院伽藍 袴腰付鐘楼(国宝)
1163年の建造との記録があり、鎌倉時代様式の袴腰付鐘楼としては現存する最古の遺構です。スカートの裾が広がったような姿で、均整がとれた優美な造形の鐘楼です。袴腰付とは、一階部分に腰板を張って軸部を隠す構造です。「貫」の技法が伝わる以前、楼造の鐘楼での構造上の問題点、例えば鐘を突いた時の横揺れや横殴りの雨風による建物の被害を解決するために考案された実用的な技法です。それまでの鐘楼とは違い、切妻屋根から変化に富んだ入母屋屋根に変わり、袴腰のデザインとマッチして好評を博したために以降袴腰付鐘楼が多く建立されるようになったそうです。特にこの袴腰付鐘楼は、秀逸なデザインで見応えのある鐘楼です。袴腰部分が総べて白壁という袴腰付鐘楼も散見されますが、この鐘楼も当初は白壁だったそうです。往時の姿に思いを馳せてみるのも趣があります。 -
法隆寺 東院伽藍 袴腰付鐘楼
鐘楼の中には、中宮寺の銘が入った天平時代の鐘が吊られているそうです。この鐘は、古くから舎利殿の舎利を奉出する時や東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれています。
鐘楼の軒天井と支輪を二手先組物で支えています。一手先目に三斗を載せず、直接支輪桁を受けているのは珍しい形式です。
確か、午前中に訪ねた矢田寺の鐘楼も袴腰付鐘楼でした。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=34030771 -
法隆寺 東院伽藍 伝法堂(国宝)
前身は天平時代の有力貴族の邸宅の遺構だそうです。平安や鎌倉時代の貴族の住宅の遺構がないだけに貴重な存在となっています。一説には橘夫人(たちばなぶじん)の邸宅にあった一屋の移築と伝わります。この橘夫人とは聖武天皇夫人の「橘古那可智(たちばなのこなかち)」とも言われています。往時の建屋としては珍しく床が板張りで、床を張った建屋としては現存最古のものとなっています。
尚、堂内には3組の乾漆阿弥陀三尊像(奈良時代)などが安置されています。阿弥陀如来は説法印を結んでいるそうです。このように、寺院建築様式が貴族の住宅に組み込まれた例はとても珍しいそうです。祖母の橘三千代(藤原不比等夫人)も叔母の光明皇后も不比等の祖先が犯した太子の血族への残虐行為を知るがゆえに懺悔の証として太子を祀っていたとすれば、その影響を受けて住居を施入したというのは腑に落ちる話です。 -
法隆寺 東院伽藍 伝法堂
妻側には曲線が美しい大虹梁と小虹梁に3つの蟇股を配した「二重虹梁蟇股」があります。その整った姿は、天平時代の二重虹梁蟇股の白眉と賞賛されています。横材を細くし、縦の線を強調するのが天平建築の真骨頂だそうです。際立つ白壁と木組だけで構造美の極致を造る感覚は、日本人固有のセンスを感じずにはいられません。また、野屋根がない分、勾配の緩い、軽快で穏やかな印象があります。
元々は東院の講堂であったものが伝法堂と呼称変更になったのですが、堂名の由来は不明です。
この建屋の左を進めば中宮寺に至りますが、今回はあまり欲張らずに法隆寺だけに留めておきます。 -
法隆寺 西院伽藍 中門前の手水舎
西院伽藍の中門の所まで戻ってきました。
往路に南大門から参道を歩いてきた時には全く気付かなかった手水舎です。
恐らく、中門にばかり気を取られていたのでしょう。
ここの手水は定番の龍ですが、髪型がちょっとお洒落で愛嬌があります。
一見の価値ありです。 -
法隆寺 西院伽藍 南大門
何が真実なのかは日本古代史に正確な記録がないために誰にも判りませんが、日本の仏法興隆の祖である聖徳太子や蘇我氏を滅ぼした、仏心を持たない一族郎党の末裔が建てたお寺だとすれば、そこに何か秘匿するに足りる特別な理由が存在したことは否めないのではないでしょうか?
しかし、蘇我入鹿や山背大兄皇子が祟るならともかく、いきなり一族を象徴する聖徳太子に帰するのは少し飛躍があるかもしれません。とすれば、太子本人に対する何らかの恨みを買う行為が隠匿されていることの証左と読むこともできます。実は、太子の死には毒殺説も囁かれています。それは、太子の母 間人皇女は太子の死の前年に亡くなり、また太子夫人 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は太子の死の前日に亡くなっているからです。
ただし、初めはそのようないわくつきのお寺だったものが、時代が下だるに伴い、仏教信仰の拠点となっていったと考えれば腑に落ちます。その典型が北野天満宮です。北野天満宮は、元々は菅原道真の祟りを鎮魂するためのものでしたが、時の経過と共に学問の神様に大変身を遂げています。
いずれにしても、法隆寺が一筋縄では語れない、ミステリアスな謎を秘めた特別なお寺であることは間違いありません。
因みに、正史『日本書紀』に真実が書かれていないのは、編纂の最高責任者 藤原不比等がかの中臣鎌足の子であり、藤原一族の繁栄に血走った醜態ではないかと言われています。これが事実なら、日本の古代史には我々の想像をはるかに超える驚きの真実が潤沢に隠されていても何ら不思議ではありません。
信じるか、信じないか、それはあなた次第です!? -
法隆寺 西院伽藍 並松参道
自らの目で見て、法隆寺コードを検証するミッションは、これにて任務完了です。雑念を振り払ってピュアな心で接すれば普段見えないものも見えてくると言われますが、全ての謎を解明するには至りませんでした。
史学にとって真実を詳らかにすることは重要なことでしょうが、我々一般人にしてみれば真実が判ったとしてもそれは過ぎ去った歴史の一コマに過ぎません。元々、歴史は勝者の理屈で綴られたものです。時にはドラマチックな物語が覆ってがっかりすることもありますが、それが歴史の醍醐味とも言えます。
過去を引きずらずに時代の潮流の中で変化し、人々の信仰の、そして観光のメッカに遷移してきたのですから、現実を素直に受け止めればよいのでは?ダーウィンが言った「変化するものだけが生き残る」の典型だと思います。
木造建築ですので最も恐ろしのは火災です。ここまで完璧な世界に誇れる文化遺産が遺された理由こそ、憚られて記録に残せなかったものを後世に語り継いで醸成した畏怖心の賜物と考えるのは早計でしょうか?でもどこかの時点で語り継ぐ必要性がなくなってしまったということなのでしょう。 -
JR法隆寺駅
奈良交通 法隆寺前バス停からJR法隆寺駅へ向かいます。
途中の道が狭いこともあり、マイクロバスを使用されています。
乗車される方もそれほど多くはないので、合理的と言えます。
JR法隆寺駅は、JR関西本線 大和路線にある駅で、寺院風の瓦屋根が特徴です。
モダンの中に街の象徴を違和感なく融合させた、すっきりした印象の駅舎デザインです。 -
JR郡山駅
JR郡山駅で下車し、1km程離れた近鉄郡山駅へ向かいます。
駅舎の外観は郡山城をイメージしているそうです。近鉄郡山駅前交番の印象があまりにも強烈でしたのでそれほどインパクトはありません。
右端に見える尖塔は、マークスWホテル奈良に併設された聖ソフィーバラ教会です。もっぱら結婚式用のチャペルに使われているようです。 -
郡山市街 外堀緑地公園
郡山は平城京の朱雀大路南端にあった羅城門の外に広がる荘園にその端を発し、戦国時代に大和を制した筒井順慶(つついじゅんけい)によって郡山城が築城され、その城下町として歩み始めます。その後、1585年に豊臣秀吉の弟 秀長が紀伊、和泉、大和3国100万石の太守として入城し、大繁栄の時代を迎えました。この時の大規模な築城と町の形成が基となって現在その面影を遺しています。
郡山城の外堀の一部(常念寺〜薬園八幡神社周辺)を活用した散策を楽しめるスポットです。美しく整備された園内では堀が復元され、郡山名物の金魚や鯉がのどかに泳いでいます。郡山城柳大門を再現した外堀緑地南門「高麗門」や北門「冠木門」もここに置かれています。また、風情ある「なまこ壁」風のトイレや 「四阿(あずまや)」風の休憩所も設置され、情緒のある公園です。 -
郡山市街 タイサンボク
小さなお寺(光岸山「圓融寺」)の一角に一輪だけ咲いていました。1569年に実感法印により創建され、江戸末期の陶芸家で赤膚焼の名匠奥田木白の墓が有ることで知られるお寺です。赤膚焼は、小堀遠州が好んだ遠州七窯のひとつにも数えられています。
モクレン科モクレン属で、北アメリカ南部に分布する常緑性樹木。自生地のミシシッピー・ルイジアナ州では州花に指定されています。成木は樹高20mほどになり、ゆったりと枝を広げた姿は雄大な雰囲気です。開花期は6〜7月で直径15〜20cmの芳香を放つ白い花を咲かせ、丸く大きな蕾はパカッと音を立てて開くような質量感があります。
名の由来には諸説あり、花や葉、樹形などが大きくて立派なことを賞賛し、中国山東省にある名山 泰山に喩えた、また、花の形を大きな盃に見立てて「大盃木」、それから次第に訛って「泰山木」になった説や大きな樹形が大山のように見えるのが由来との説があります。
日本には明治初期に渡来し、現在では広く植えられています。1879年、アメリカ第18代大統領だったグラント夫妻が来日した際、上野公園に記念植樹されて有名になりました。この時植樹された木は、「グラント玉蘭」と名付けられています。
花言葉は「前途洋々」。高い梢の枝先にいくつもの巨大な白い花を上向きに咲かせる威風堂々とした樹姿からつけられたのでしょう。 -
郡山市街 柳町商店街
近鉄郡山駅に近づくにつれて柳町商店街と呼ばれる郡山の中心地に差しかかります。
昭和の匂いが立ち込める街並みが広がり、懐かしさが込み上げてきます。
目立つKECの看板は学習塾のものです。ここ奈良県は、全国で一番塾に通っている生徒の比率が高い、教育熱心な県だそうです。 -
郡山市街 箱本館「紺屋」
柳町商店街を右手に折れて進むと紺屋町通りに合流します。
郡山を代表する風景として有名な紺屋町の水路と昔ながらの紺屋は、今もひっそりとその姿を遺しています。水路は郡山城の外堀まで続き、かつては13軒の紺屋がこの水路で藍染め布を晒していたそうですが、現在は金魚や鯉が悠々と泳いでいます。
紺屋町は、藍染の仕事をする職人たちが集まった街で、16世紀末、豊臣秀長の時代に発展したと言われています。天正年間には箱本制度が始まり、紺屋町は地税を免除された有力な町として箱本13町のひとつとなりました。箱本制度とは、一言で言えば郡山城下で実施された自治制度のことです。染物屋のひとつである奥野家を資料館として公開しているのが紺屋です。 -
郡山市街 おみやげ処 こちくや 金魚すくい道場
大和郡山と言えば、夏に涼感を演出する金魚が有名です。土産物屋の左側に簾が掛けられた建屋がありますが、ここがかの有名な「金魚すくい道場」です。父から子へ一子相伝(少し大げさ?)の秘技を真剣に教える様子を覗き見ることができました。店内には金魚をモチーフにした小物類や郡山の仏閣等をデザインしたお土産、記念品がところ狭しと並んでいます。
因みに、現在、「金魚すくい道場」の門下生として352名が在籍しているそうです。
縁日の金魚すくいも懐かしい思い出ですが、需要は減少気味だそうです。大和郡山市の2013年の金魚販売量は5900万尾で、10年前から2割減っています。少子化でお祭りやイベント自体が減り、金魚に接する機会が減ったことが背景にあるようです。
金魚すくいで使われるのは「小赤」という種類で、日本産が7〜8割で残りが中国産だそうです。中国では、琉金やランチュウなどの高級金魚の養殖が盛んだそうです。
最近は若い女性の間で金魚柄が隠れたマイブームとなっているようですので、金魚の復権を見守りたいと思います。 -
郡山市街 おみやげ処 こちくや
金魚は、戦国争乱の時代に御朱印船に乗って中国から渡来しました。そして、柳沢吉里が郡山城に移った際、藩士のひとりがペットとして飼っていた金魚を連れてきたのが始まりです。やがて、藩士の間で金魚の飼育が大流行し、藩士 佐藤三左衛門が養殖を手がけ、明治になって失職した武士が地元農民と協力して全国へ出荷するようになったそうです。今や全国の40%シェアを誇る郡山の一大産業に成長しています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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