新座・朝霞・和光・志木旅行記(ブログ) 一覧に戻る
難波田(なんばだ)氏は武将金子高範(かねこ・たかのり)を祖とする一族で同氏の出自は平安時代末期に発生した小規模武士集団である武蔵七党の一派で東京都武蔵村山市から埼玉県狭山市にかけて勢力を有する村山党から派生した一族です。<br /><br />金子高範は源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)が鎌倉に初の武士階級による政治組織創設の際には御家人として名を連ね、その後北条執権時代の承久3年(1221)に後鳥羽上皇による倒幕反乱に対し当然ながら幕府追討軍として従軍しますが武運なく討死します。<br /><br />承久の乱に勝利した幕府から戦功に応じてその恩賞を与える中、高範の討死に対して難波田(南畑)の地が与えられ、その子の小太郎時代から「難波田」姓を名乗ったとされています。<br /><br />元弘3年(1333)足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)と新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)が偶然にも東西同一時期に最後の得宗家である北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)打倒に蜂起、尊氏は幕府出先機関京都六波羅(南北)を滅ぼし、義貞は鎌倉に進入攻撃を加え幕府抗しきれず高時一族は自害し約130年に亘る鎌倉幕府は滅亡します。<br /><br />鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇による公武統一の新政権発足しますが、前の戦いでの戦功は武士勢力に対しては恩賞薄く、戦功第一の尊氏などは鎮守府将軍という閑職に留まり新政権内での位置付けは低いものでした。<br /><br />やがて尊氏らは建武政権に公然と反旗を翻し南北朝内乱が始まります。離反する尊氏に対し後醍醐天皇から追討令を受けた新田義貞、北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)及び楠正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)らは各地で尊氏並びに実弟の直義(ただよし)軍を追い詰めますが雌雄決することができず、建武3年5月における湊川合戦で尊氏らが勝利したことで後醍醐天皇は京都を脱出し吉野に逃れ、建武政権は崩壊本格的な南北朝時代に入ります。<br /><br />京都に入って尊氏は空位となった天皇に光明天皇を擁護し、新たな武家政権を樹立、尊氏は征夷大将軍に直義(ただよし、1306~1352)は左兵衛督(さひょうえのかみ)にそれぞれ任じられ室町幕府が成立し、尊氏は軍事を直義は内政を分担する体制が作られ、それぞれを側近が補佐する形をとります。<br /><br />然しながら新幕府は兄弟による二頭政治とも解釈される体制で長続きせず尊氏・直義の側近らはそれぞれ自派の立場を主張し他派を攻撃するに至り内戦状況に陥ります。<br /><br />即ち尊氏側近の武闘派高師直(こうの・もろなお、生誕不詳~1351)と直義側近の上杉重能(うえすぎ・しげよし、生誕不詳~1350)や畠山直宗(はたけやま・ただむね、生誕不詳~1350)の反目対立となります。<br /><br />上述の顕著となった対立を契機に尊氏・直義兄弟にも亀裂が生じ、観応元年(1350)兄弟の全面対決が起ります。(観応の乱)<br /><br />京都から鎌倉に逃れた直義を討つべく尊氏は翌年関東に向けて出立、同年12月に駿河国薩た山合戦で直義軍を打ち破ります。<br /><br />その際尊氏の参陣呼掛けに応じた高麗経澄(こま・つねずみ)は尊氏軍と合流をめざすべく武蔵府中に向かう途中、迎え撃つ直義方武将難波田九郎三郎は現在の志木市宗岡の羽根倉橋付近にて戦い、九郎三郎は敗れて討取られます。(羽根倉合戦)<br /><br />戦国時代前半は小田原城から大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503)を追放した伊勢宗瑞を引き継いだ2代目伊勢新九郎氏綱は相模国の有力一族三浦氏を新井城で滅ぼし遂に相模国を手中に収め、同時に鎌倉執権北条氏を念頭に置きここに「北条」と姓を改めます。<br /><br />これに対し上述の大森氏及び三浦氏の主家である扇谷上杉氏は危機感をあらわにし、小田原北条氏の武蔵国進出を阻止するべく両者の戦いが20数年に亘り続きます。<br /><br />その中で扇谷上杉氏の重臣として仕えていた難波田善銀(なんばだ・よしかね)は主家の転戦に従事し中心的な働きをします。具体的には天文2年(1533)には大将として江戸・品川に出陣して妙国寺に制札を発給し、また天文6年(1537)には深大寺城(現東京都調布市)を修復、更に松山城(埼玉県比企郡)城代を勤めるほか、報恩寺(現埼玉県越生町)に二度にわたって所領を寄進しています。<br /><br />天文15年(1546)武蔵国覇権を決する事態となります。即ち北条網成以下僅か3千名で河越城を守る小田原北条氏を扇谷・山内の上杉氏連合軍に古河公方を加えた総勢8万の大軍が包囲したものの氏康を主力とする8千の軍で夜襲をかけ、連携を欠いていた包囲軍に打撃を与えます。<br /><br />この夜戦で善銀を始めとする武将たちはことごとく討死、そのうえ主家の上杉朝定(うえす技・ともさだ)も戦死し扇谷上杉氏は滅亡します。<br /><br />残された難波田氏一族はその後小田原北条氏の家臣に組み入れられ、棟岡(現志木市)及び池辺(現川越市)に所領を与えられます。<br /><br />そして難波田城は小田原北条氏の持城となり戦国時代にふさわしい城郭に改修、天正18年(1590)の小田原城開城と北条氏の降伏滅亡と共に廃城となります。<br /><br /><br />2023年9月12日追記<br /><br />現地案内板には城郭の縄張りと共に説明が述べられています。<br /><br />『 難波田氏の歴史と難波田城<br /><br />平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる主団が活動していました。その一つが村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。<br /><br />南北朝時代には、羽祢蔵合戦で高麗経澄の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣として活躍しました。しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、敗れて討ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となりました。<br /><br />難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが。戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院が建てられました。』<br /><br />

武蔵富士見 鎌倉幕府御家人で承久の乱で活躍するも戦国期では小田原北条氏と運命を共にした武蔵七党村山党出身の『難波田氏居館』訪問

16いいね!

2014/01/25 - 2014/01/25

90位(同エリア293件中)

0

48

滝山氏照

滝山氏照さん

難波田(なんばだ)氏は武将金子高範(かねこ・たかのり)を祖とする一族で同氏の出自は平安時代末期に発生した小規模武士集団である武蔵七党の一派で東京都武蔵村山市から埼玉県狭山市にかけて勢力を有する村山党から派生した一族です。

金子高範は源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)が鎌倉に初の武士階級による政治組織創設の際には御家人として名を連ね、その後北条執権時代の承久3年(1221)に後鳥羽上皇による倒幕反乱に対し当然ながら幕府追討軍として従軍しますが武運なく討死します。

承久の乱に勝利した幕府から戦功に応じてその恩賞を与える中、高範の討死に対して難波田(南畑)の地が与えられ、その子の小太郎時代から「難波田」姓を名乗ったとされています。

元弘3年(1333)足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)と新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)が偶然にも東西同一時期に最後の得宗家である北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)打倒に蜂起、尊氏は幕府出先機関京都六波羅(南北)を滅ぼし、義貞は鎌倉に進入攻撃を加え幕府抗しきれず高時一族は自害し約130年に亘る鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇による公武統一の新政権発足しますが、前の戦いでの戦功は武士勢力に対しては恩賞薄く、戦功第一の尊氏などは鎮守府将軍という閑職に留まり新政権内での位置付けは低いものでした。

やがて尊氏らは建武政権に公然と反旗を翻し南北朝内乱が始まります。離反する尊氏に対し後醍醐天皇から追討令を受けた新田義貞、北畠顕家(きたばたけ・あきいえ、1318~1338)及び楠正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)らは各地で尊氏並びに実弟の直義(ただよし)軍を追い詰めますが雌雄決することができず、建武3年5月における湊川合戦で尊氏らが勝利したことで後醍醐天皇は京都を脱出し吉野に逃れ、建武政権は崩壊本格的な南北朝時代に入ります。

京都に入って尊氏は空位となった天皇に光明天皇を擁護し、新たな武家政権を樹立、尊氏は征夷大将軍に直義(ただよし、1306~1352)は左兵衛督(さひょうえのかみ)にそれぞれ任じられ室町幕府が成立し、尊氏は軍事を直義は内政を分担する体制が作られ、それぞれを側近が補佐する形をとります。

然しながら新幕府は兄弟による二頭政治とも解釈される体制で長続きせず尊氏・直義の側近らはそれぞれ自派の立場を主張し他派を攻撃するに至り内戦状況に陥ります。

即ち尊氏側近の武闘派高師直(こうの・もろなお、生誕不詳~1351)と直義側近の上杉重能(うえすぎ・しげよし、生誕不詳~1350)や畠山直宗(はたけやま・ただむね、生誕不詳~1350)の反目対立となります。

上述の顕著となった対立を契機に尊氏・直義兄弟にも亀裂が生じ、観応元年(1350)兄弟の全面対決が起ります。(観応の乱)

京都から鎌倉に逃れた直義を討つべく尊氏は翌年関東に向けて出立、同年12月に駿河国薩た山合戦で直義軍を打ち破ります。

その際尊氏の参陣呼掛けに応じた高麗経澄(こま・つねずみ)は尊氏軍と合流をめざすべく武蔵府中に向かう途中、迎え撃つ直義方武将難波田九郎三郎は現在の志木市宗岡の羽根倉橋付近にて戦い、九郎三郎は敗れて討取られます。(羽根倉合戦)

戦国時代前半は小田原城から大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503)を追放した伊勢宗瑞を引き継いだ2代目伊勢新九郎氏綱は相模国の有力一族三浦氏を新井城で滅ぼし遂に相模国を手中に収め、同時に鎌倉執権北条氏を念頭に置きここに「北条」と姓を改めます。

これに対し上述の大森氏及び三浦氏の主家である扇谷上杉氏は危機感をあらわにし、小田原北条氏の武蔵国進出を阻止するべく両者の戦いが20数年に亘り続きます。

その中で扇谷上杉氏の重臣として仕えていた難波田善銀(なんばだ・よしかね)は主家の転戦に従事し中心的な働きをします。具体的には天文2年(1533)には大将として江戸・品川に出陣して妙国寺に制札を発給し、また天文6年(1537)には深大寺城(現東京都調布市)を修復、更に松山城(埼玉県比企郡)城代を勤めるほか、報恩寺(現埼玉県越生町)に二度にわたって所領を寄進しています。

天文15年(1546)武蔵国覇権を決する事態となります。即ち北条網成以下僅か3千名で河越城を守る小田原北条氏を扇谷・山内の上杉氏連合軍に古河公方を加えた総勢8万の大軍が包囲したものの氏康を主力とする8千の軍で夜襲をかけ、連携を欠いていた包囲軍に打撃を与えます。

この夜戦で善銀を始めとする武将たちはことごとく討死、そのうえ主家の上杉朝定(うえす技・ともさだ)も戦死し扇谷上杉氏は滅亡します。

残された難波田氏一族はその後小田原北条氏の家臣に組み入れられ、棟岡(現志木市)及び池辺(現川越市)に所領を与えられます。

そして難波田城は小田原北条氏の持城となり戦国時代にふさわしい城郭に改修、天正18年(1590)の小田原城開城と北条氏の降伏滅亡と共に廃城となります。


2023年9月12日追記

現地案内板には城郭の縄張りと共に説明が述べられています。

『 難波田氏の歴史と難波田城

平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる主団が活動していました。その一つが村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。

南北朝時代には、羽祢蔵合戦で高麗経澄の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣として活躍しました。しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、敗れて討ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となりました。

難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが。戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院が建てられました。』

旅行の満足度
4.0
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 難波田城公園・案内図<br /><br />入場口には公園内部が説明されています。中央部資料館の右側が復元された難波田城跡の配置が示されています。

    難波田城公園・案内図

    入場口には公園内部が説明されています。中央部資料館の右側が復元された難波田城跡の配置が示されています。

  • 城跡ゾーン渡橋<br /><br />橋を渡ると水堀に囲まれた郭を見ることができます。

    城跡ゾーン渡橋

    橋を渡ると水堀に囲まれた郭を見ることができます。

  • 郭4<br /><br />橋の途中から水堀を越えて郭4を見ます。

    郭4

    橋の途中から水堀を越えて郭4を見ます。

  • あずまや<br /><br />橋の途中から広い水堀を挟んであずまやが見えます。

    あずまや

    橋の途中から広い水堀を挟んであずまやが見えます。

  • 追手門<br /><br />郭4に隣接する北側に追手門が見えます。

    追手門

    郭4に隣接する北側に追手門が見えます。

  • 郭3<br /><br />追手門を過ぎて郭3方向に進みます。

    郭3

    追手門を過ぎて郭3方向に進みます。

  • 食い違い虎口<br /><br />進入者攻撃を困難にするため食い違いの入口に造られています。

    食い違い虎口

    進入者攻撃を困難にするため食い違いの入口に造られています。

  • 食い違い虎口・説明板

    食い違い虎口・説明板

  • 難波田氏・説明板

    難波田氏・説明板

  • 難波田城跡古絵図<br /><br />古絵図を見ると平坦な城郭は水堀で囲まれ、東から南を経て西は大規模外堀が周囲を巡らします。近隣には荒川が流れており、荒川から水を引き入れ敵を寄せ付けない水堀を造っています。

    難波田城跡古絵図

    古絵図を見ると平坦な城郭は水堀で囲まれ、東から南を経て西は大規模外堀が周囲を巡らします。近隣には荒川が流れており、荒川から水を引き入れ敵を寄せ付けない水堀を造っています。

  • 東門

    東門

  • 郭2<br /><br />東門を入りますと正面に郭2が見えます。

    郭2

    東門を入りますと正面に郭2が見えます。

  • 木橋<br /><br />手前の郭3と郭2を繋ぐ木橋幅は異なり、城兵は郭2側(幅1.8m)から郭3側(幅2.7m)繰り出しやすく、敵兵は逆に郭3から郭2へは進入を難しくさせています。

    木橋

    手前の郭3と郭2を繋ぐ木橋幅は異なり、城兵は郭2側(幅1.8m)から郭3側(幅2.7m)繰り出しやすく、敵兵は逆に郭3から郭2へは進入を難しくさせています。

  • 復元木橋・説明板

    復元木橋・説明板

  • 本城(主郭)門<br /><br />郭2から主郭へは木橋が施されて敵兵侵入を困難にさせます。

    本城(主郭)門

    郭2から主郭へは木橋が施されて敵兵侵入を困難にさせます。

  • 本城(主郭)門<br /><br />本城門の先は行き止まりとなっていますがその脇には難波田城跡石標と難波田直次郎の墓石が並んでいます。

    本城(主郭)門

    本城門の先は行き止まりとなっていますがその脇には難波田城跡石標と難波田直次郎の墓石が並んでいます。

  • 難波田城跡石標<br /><br />本城(主郭)門の傍らに難波田城跡石標が建立されています。尚当石標の右側は一段高くなった主郭の一部があります。本来の主郭は東西45m、南北30mの広域であったとされます。

    難波田城跡石標

    本城(主郭)門の傍らに難波田城跡石標が建立されています。尚当石標の右側は一段高くなった主郭の一部があります。本来の主郭は東西45m、南北30mの広域であったとされます。

  • 難波田直治郎墓

    難波田直治郎墓

  • 本城(主郭)説明

    本城(主郭)説明

  • 郭2<br /><br />戦いに際して城兵を入れる馬出郭と言われています。

    郭2

    戦いに際して城兵を入れる馬出郭と言われています。

  • 馬出郭・説明板

    馬出郭・説明板

  • 水堀風景<br /><br />郭2から水堀を経て郭3方向を見据えます。

    水堀風景

    郭2から水堀を経て郭3方向を見据えます。

  • 水堀風景<br /><br />郭2から水堀を経て資料館の建物を見ます。

    水堀風景

    郭2から水堀を経て資料館の建物を見ます。

  • 十玉院(じゅうぎょくいん)墓地跡<br /><br />他所にあった十玉院の院主が難波田城の縁者であったので幕府の許可によって当所に移転・再興となりますが、明治5年(1872)修験道廃止令により廃寺となっています。

    十玉院(じゅうぎょくいん)墓地跡

    他所にあった十玉院の院主が難波田城の縁者であったので幕府の許可によって当所に移転・再興となりますが、明治5年(1872)修験道廃止令により廃寺となっています。

  • 上田家墓石<br /><br />十玉院院主であった上田氏の墓と思われます。

    上田家墓石

    十玉院院主であった上田氏の墓と思われます。

  • 十玉院墓地説明

    十玉院墓地説明

  • 水堀風景

    水堀風景

  • 水堀風景

    水堀風景

  • 菖蒲田風景

    菖蒲田風景

  • 水堀風景<br /><br />菖蒲田から資料館建屋方向を捉えます。

    水堀風景

    菖蒲田から資料館建屋方向を捉えます。

  • 難波田公園・案内図

    難波田公園・案内図

  • 水堀風景

    水堀風景

  • 水堀風景<br /><br />資料館から突出している展望デッキから郭2方向を見ます。<br /><br />

    水堀風景

    資料館から突出している展望デッキから郭2方向を見ます。

  • 古民家ゾ−ン<br /><br />名主を勤めていた旧鈴木家の表門は「長屋門」で江戸時代では武家・名主・寺院等で建築が許されていました。

    古民家ゾ−ン

    名主を勤めていた旧鈴木家の表門は「長屋門」で江戸時代では武家・名主・寺院等で建築が許されていました。

  • 旧鈴木家説明<br />

    旧鈴木家説明

  • 旧大澤家住宅<br /><br />江戸時代に市内大久保村の名主を勤めていた大澤家の母屋で明治4年(1871)の建築だそうです。

    旧大澤家住宅

    江戸時代に市内大久保村の名主を勤めていた大澤家の母屋で明治4年(1871)の建築だそうです。

  • 旧大澤家玄関先

    旧大澤家玄関先

  • 旧大澤家母屋説明

    旧大澤家母屋説明

  • 長屋門裏側<br /><br />中央部に部屋があり、左右両端の部屋は土間となっています。

    長屋門裏側

    中央部に部屋があり、左右両端の部屋は土間となっています。

  • 旧鈴木家庭園

    旧鈴木家庭園

  • 旧鈴木家住宅<br /><br />内部は広い上に当時としては書院造となっており格式の重さを感じます。

    旧鈴木家住宅

    内部は広い上に当時としては書院造となっており格式の重さを感じます。

  • 旧鈴木家穀蔵

    旧鈴木家穀蔵

  • 旧金子家母屋

    旧金子家母屋

  • 旧金子家住宅説明

    旧金子家住宅説明

  • 水塚(みづか)<br /><br />宅地の全体を盛り土して内一部を塚のように高く盛って土蔵を建てたそうです。たびたび洪水に見舞われた荒川や利根川などの川沿いの低地部によく見られたそうです。

    水塚(みづか)

    宅地の全体を盛り土して内一部を塚のように高く盛って土蔵を建てたそうです。たびたび洪水に見舞われた荒川や利根川などの川沿いの低地部によく見られたそうです。

  • 水塚頂上<br /><br />頂上には小振りの石仏が鎮座しているだけです。

    水塚頂上

    頂上には小振りの石仏が鎮座しているだけです。

  • 水塚説明

    水塚説明

  • 富士見市循環バス停<br /><br />1日に数回の運行ですがタイミングよく乗ることができました。

    富士見市循環バス停

    1日に数回の運行ですがタイミングよく乗ることができました。

この旅行記のタグ

16いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP