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JR武蔵野線新座駅からバスで約10分に、武蔵野の面影を残す13万坪の境内を有する金鳳山・平林寺(へいりんじ、埼玉県新座市野火止)は大河内松平家の歴代の菩提寺であり、幕府老中である松平信綱(まつだいら・のぶつな、1596~1662)の墓があります。<br /><br />信綱は第三代将軍家光に仕えて老中に抜擢され、その後第四代将軍家綱時代の老中を務め、信綱時代に改革を実行し幕藩体制の構築に貢献します。<br /><br />寛永14年(1637)年発生の島原の乱では激しい抵抗受けながらも一揆鎮圧し、この功によって寛永16年(1639)3万石の加増を受けると共に忍藩から川越藩に移封、この頃玉川上水、野火止用水の開削事業に貢献します。<br /><br /><br /><br />2022年9月11日追記<br /><br />現地で入手した「平林寺」と題されたパンフレットには次のように紹介されています。<br /><br />『豊かな自然に囲まれた平林寺は、禅修行の専門道場をもつ関東の代表的な臨済宗妙心寺派の禅刹です。<br /><br />平林寺は、南北朝時代の永和元年(1375)岩槻城主・太田備中守を開基、石室善きゅう禅師を開山として、現在のさいたま市岩槻区に創建されました。その後、大河内松平家の霊廟となり、幕府の老中で川越藩主となった松平信綱の遺言により、その子輝綱によって寛文3年(1663)岩槻から野火止の地に伽藍が移築され、現在に至ります。<br /><br />武蔵野の面影を残す13万坪の境内林は昭和43年(1968)に国指定天然記念物になり、コナラ・クヌギなどの雑木やモミジが多くを占め、30種類以上の野鳥が生息しています。境内には県指定史跡野火止用水が流れ、総門・山門・仏殿・中門は県の有形文化財に指定されています。』<br /><br />

武蔵新座 14世紀に岩槻にて創建し将軍家光・家綱を支えた老中松平信綱の遺志により野火止に移転した大河内松平家の菩提寺『平林寺』散歩

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2014/01/25 - 2014/01/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR武蔵野線新座駅からバスで約10分に、武蔵野の面影を残す13万坪の境内を有する金鳳山・平林寺(へいりんじ、埼玉県新座市野火止)は大河内松平家の歴代の菩提寺であり、幕府老中である松平信綱(まつだいら・のぶつな、1596~1662)の墓があります。

信綱は第三代将軍家光に仕えて老中に抜擢され、その後第四代将軍家綱時代の老中を務め、信綱時代に改革を実行し幕藩体制の構築に貢献します。

寛永14年(1637)年発生の島原の乱では激しい抵抗受けながらも一揆鎮圧し、この功によって寛永16年(1639)3万石の加増を受けると共に忍藩から川越藩に移封、この頃玉川上水、野火止用水の開削事業に貢献します。



2022年9月11日追記

現地で入手した「平林寺」と題されたパンフレットには次のように紹介されています。

『豊かな自然に囲まれた平林寺は、禅修行の専門道場をもつ関東の代表的な臨済宗妙心寺派の禅刹です。

平林寺は、南北朝時代の永和元年(1375)岩槻城主・太田備中守を開基、石室善きゅう禅師を開山として、現在のさいたま市岩槻区に創建されました。その後、大河内松平家の霊廟となり、幕府の老中で川越藩主となった松平信綱の遺言により、その子輝綱によって寛文3年(1663)岩槻から野火止の地に伽藍が移築され、現在に至ります。

武蔵野の面影を残す13万坪の境内林は昭和43年(1968)に国指定天然記念物になり、コナラ・クヌギなどの雑木やモミジが多くを占め、30種類以上の野鳥が生息しています。境内には県指定史跡野火止用水が流れ、総門・山門・仏殿・中門は県の有形文化財に指定されています。』

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 平林寺・寺標<br /><br />総門の右側に建つ平林寺石標が見事です。

    平林寺・寺標

    総門の右側に建つ平林寺石標が見事です。

  • 平林寺・説明板

    平林寺・説明板

  • 平林寺文化財・説明板

    平林寺文化財・説明板

  • 平林寺・総門<br /><br />生憎と総門は改修工事中です。左側に入口がありここを通りますと、左手の小屋で拝観料(¥500)を支払います。

    平林寺・総門

    生憎と総門は改修工事中です。左側に入口がありここを通りますと、左手の小屋で拝観料(¥500)を支払います。

  • 平林寺・絵地図

    平林寺・絵地図

  • 平林寺・境内

    平林寺・境内

  • 平林寺・山門

    平林寺・山門

  • 平林寺山門・説明板<br /><br />山門の上部に説明板が掲示されています。<br /><br />『 山 門<br />創建は寛文3年(1663年)で桜上には釈迦三尊仏、その左右に十六羅漢像を安置する。扁額の「凌しょう閣」は石川丈山の筆である。』

    平林寺山門・説明板

    山門の上部に説明板が掲示されています。

    『 山 門
    創建は寛文3年(1663年)で桜上には釈迦三尊仏、その左右に十六羅漢像を安置する。扁額の「凌しょう閣」は石川丈山の筆である。』

  • 平林寺・仏殿

    平林寺・仏殿

  • 平林寺・鐘楼堂

    平林寺・鐘楼堂

  • 平林寺・中門

    平林寺・中門

  • 平林寺・本堂

    平林寺・本堂

  • 平林寺本堂・説明板<br /><br />本堂の上部に本堂説明板が掲示されています。

    平林寺本堂・説明板

    本堂の上部に本堂説明板が掲示されています。

  • 平林寺・載渓堂

    平林寺・載渓堂

  • 平林寺・境内

    平林寺・境内

  • 平林寺・境内

    平林寺・境内

  • 松永安左衛門墓

    松永安左衛門墓

  • 見性院(武田信玄娘)供養塔<br /><br />武田信玄の二女で信玄の重臣で一門衆の穴山信君(あなやま・のぶただ・梅雪)の正室で、秀忠の子幸松丸(後の保科正之)を引き取り養育した事で家康と交流があったようです。<br /><br />

    見性院(武田信玄娘)供養塔

    武田信玄の二女で信玄の重臣で一門衆の穴山信君(あなやま・のぶただ・梅雪)の正室で、秀忠の子幸松丸(後の保科正之)を引き取り養育した事で家康と交流があったようです。

  • 増田長盛墓

    増田長盛墓

  • 増田長盛事績・説明板<br /><br />長盛は移転前の岩槻で亡くなり埋葬されています。<br /><br />『 増田長盛の事蹟<br /><br />幼名照澄、天正元年近江江東浅井郡びわ町大字益田、増田山真宗寺住職増田祐?の次男に生る。<br /><br />若年その才能を認められ、近江長浜城主豊臣秀吉に仕え三百石を領す。行政に長じ殊に検地にまされり。仁右衛門改め右衛門尉長盛と称す。<br /><br />秀吉の朝鮮出兵に当り兵站を掌握り重責を果す。功により従四位下に叙せらるる。秀吉の奉行設制に当り、その一に列し、五大老(五奉行の誤り)の一を占め徳川家康等と並び重きをなす。<br /><br />大和郡山20万石を与えられ16年に亘り在城す。その間総国検地の革新的大事業を完成し、城郭の整備拡大、外堀の構築、道路河川の改修、城下町の発達等に尽くし、雄大な郡山を造成す。<br /><br />慶長3年秀吉逝去、秀頼継ぎ徳川家康と不和を生じ、大坂の陣起こり、関ヶ原の役に惨敗し、徳川の代となり、豊臣の一族多数罪となる中に長盛は死を免ぜられ、高野山に僧となる。後武蔵国岩槻高力氏に移され蟄居す。<br /><br />その後尾州家に仕えし長男兵大夫盛直(盛次の誤り)、尾州家を去りて大阪城に入り、元和元年五月七日の合戦に討死した事を聞きて自刃す時に元和元年五月二十七日享年七十一歳、戒名長盛院殿?徳??大居士、その墓所明治年代に至り岩槻より当寺に移さる。       末裔増田哲次郎 記  』

    増田長盛事績・説明板

    長盛は移転前の岩槻で亡くなり埋葬されています。

    『 増田長盛の事蹟

    幼名照澄、天正元年近江江東浅井郡びわ町大字益田、増田山真宗寺住職増田祐?の次男に生る。

    若年その才能を認められ、近江長浜城主豊臣秀吉に仕え三百石を領す。行政に長じ殊に検地にまされり。仁右衛門改め右衛門尉長盛と称す。

    秀吉の朝鮮出兵に当り兵站を掌握り重責を果す。功により従四位下に叙せらるる。秀吉の奉行設制に当り、その一に列し、五大老(五奉行の誤り)の一を占め徳川家康等と並び重きをなす。

    大和郡山20万石を与えられ16年に亘り在城す。その間総国検地の革新的大事業を完成し、城郭の整備拡大、外堀の構築、道路河川の改修、城下町の発達等に尽くし、雄大な郡山を造成す。

    慶長3年秀吉逝去、秀頼継ぎ徳川家康と不和を生じ、大坂の陣起こり、関ヶ原の役に惨敗し、徳川の代となり、豊臣の一族多数罪となる中に長盛は死を免ぜられ、高野山に僧となる。後武蔵国岩槻高力氏に移され蟄居す。

    その後尾州家に仕えし長男兵大夫盛直(盛次の誤り)、尾州家を去りて大阪城に入り、元和元年五月七日の合戦に討死した事を聞きて自刃す時に元和元年五月二十七日享年七十一歳、戒名長盛院殿?徳??大居士、その墓所明治年代に至り岩槻より当寺に移さる。       末裔増田哲次郎 記  』

  • 松平信綱・墓所(全景)

    松平信綱・墓所(全景)

  • 松平信綱・墓(近景)

    松平信綱・墓(近景)

  • 松平伊豆守信綱公墓誌・説明板<br /><br />『 松平伊豆守信綱公墓誌<br /><br />「知恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、同6年、久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」氏を相続していた松平正綱の養子となり、同9年7月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附きの小姓となった。<br /><br />元和6年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」を興した。同年5百石、同9年小姓組番頭となり、加増されて八百石を知行。同年7月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位下伊豆守に叙任した。<br /><br />寛永元年(1624)信綱は二千石となり、同4年には一挙に八千石の加増をうけて一万石を領した。さらにどう7年には五千石を加増されている。この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年11月に信綱は老中並となり、阿部忠秋・堀田正盛らとともに6人衆に任ぜられ、幕政に参画する。ついで10年5月、信綱は一万五千石加増の上、武蔵忍城主となり三万石を領し、さらに12年11月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。<br /><br />こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。<br /><br />寛永14年10月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。その功によって同16年川越城に転封され、三万石の加増をうけて六万石を領した。同20年、侍従に進み、正保4年(1647)一万五千石を加増され、その所領は合せて七万五千石となった。<br /><br />信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今んの名相とも謳われる一方、郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、川越街道の整備なども行っている。<br /><br />また、承応4年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行なった。<br /><br />信綱は、この野火止台地開発とともに所領の野火止村に、菩提寺である平林寺を岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文2年(1662)3月16日に逝去した。享年67歳。法名は、松林院殿乾徳全?大居士。<br /><br />初め、岩槻の平林寺に埋葬されたが、子の輝綱が父信綱の遺命を守り、翌3年に平林寺の伽藍および墓跡にいたるまで、現在地に移建したため改葬されたものである。<br />        平成5年6月<br />                   新座市教育委員会<br />                   平  林   寺 』<br /><br />

    松平伊豆守信綱公墓誌・説明板

    『 松平伊豆守信綱公墓誌

    「知恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、同6年、久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」氏を相続していた松平正綱の養子となり、同9年7月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附きの小姓となった。

    元和6年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」を興した。同年5百石、同9年小姓組番頭となり、加増されて八百石を知行。同年7月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位下伊豆守に叙任した。

    寛永元年(1624)信綱は二千石となり、同4年には一挙に八千石の加増をうけて一万石を領した。さらにどう7年には五千石を加増されている。この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年11月に信綱は老中並となり、阿部忠秋・堀田正盛らとともに6人衆に任ぜられ、幕政に参画する。ついで10年5月、信綱は一万五千石加増の上、武蔵忍城主となり三万石を領し、さらに12年11月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。

    こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。

    寛永14年10月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。その功によって同16年川越城に転封され、三万石の加増をうけて六万石を領した。同20年、侍従に進み、正保4年(1647)一万五千石を加増され、その所領は合せて七万五千石となった。

    信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今んの名相とも謳われる一方、郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、川越街道の整備なども行っている。

    また、承応4年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行なった。

    信綱は、この野火止台地開発とともに所領の野火止村に、菩提寺である平林寺を岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文2年(1662)3月16日に逝去した。享年67歳。法名は、松林院殿乾徳全?大居士。

    初め、岩槻の平林寺に埋葬されたが、子の輝綱が父信綱の遺命を守り、翌3年に平林寺の伽藍および墓跡にいたるまで、現在地に移建したため改葬されたものである。
            平成5年6月
                       新座市教育委員会
                       平  林   寺 』

  • 松平信綱・石碑

    松平信綱・石碑

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