2014/04/27 - 2014/04/27
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青柳トラベルさん
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新寺地区にある寺院のうち、①阿弥陀寺②龍泉院③成覚寺④愚鈍院⑤妙心院⑥松音寺⑦大林寺⑧善導寺・・・ここまでがその1、以下その2・・・⑨徳泉寺⑩金勝寺⑪政岡墓所⑫洞林禅寺⑬林香院⑭孝勝寺⑮正楽寺⑯光寿院の紹介です。
紹介の順序は順路とは関係ありません。
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徳泉寺山門。
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叢塚説明文。
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1836年(丙申(天保7年))の飢饉で亡くなった人を大きな穴に葬った「塚」。
その塚が、この「叢塚」。
天保7年の飢饉では、徳泉寺の2つの塚と金勝寺の2つの塚を合わせて2700人を葬ったと記録にある。 -
金勝寺山門。
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宮城野大通りの地下部は、現在の仙石線が走っているが、仙石線の地下化工事中に、大量の人骨がでたという。
ルート計画時から、1836年(丙申(天保7年))の飢饉で亡くなった人を大きな穴に葬った「塚」を掘り進むことは予想されていたが、工事で数カ所の塚を通った。
その塚が、この「叢塚」。1836年(天保7年)の飢饉では、金勝寺の2つの塚と徳泉寺の2つの塚と会わせて2700人を葬ったと記録にある。その人骨が地下化工事で出てきたのである。単純に計算すれば、ひとつの塚に675人の亡くなった人々が眠っていたことになる。そして、その塚の上に、一つの石碑が建てられたのである。
金勝寺の二つの塚は、離れた所にあったものが、ひとつにまとめられて、今は、移転されした寺の山門を入った境内の左側の場所で供養されている。 -
宮城県には「政岡の墓」と言われている墓が二ヶ所。一つは宮城野区榴岡サンプラザの西に隣接し場所。もう一つは、栗原市一迫真坂の龍雲寺。国土地理院の地図には「政岡の墓」と表記。
他に三沢初子の木像と銅像のある東京都中目黒正覚寺で境内にある墓標は供養碑。
多くの人は「伽羅千代萩」(めいぼくせんだいはぎ)に登場する亀千代(後の4代藩主、綱村)の乳母政岡と、生母三沢初子と混同。榴岡にある孝勝寺の「政岡の墓」は、2代藩主忠宗夫人振姫(考勝院殿)と亀千代の生母三沢初子(浄眼院殿)の御廟所。 -
御廟所。
御廟とか御霊屋の建築の最たるものは、徳川家康の霊廟日光東照宮。よく「日光を見ぬうちは結構と言うな」と言われるほどすばらしい建築。これにならって諸藩の大名の霊廟が流行、仙台藩祖伊達政宗の瑞鳳殿はよく知られています。
その起源は戦国の争乱が終わり、豊臣秀吉が天下を統一し、桃山時代に入ると、霊を華麗な建物で祀るようになる。豊国廟は豊臣氏が滅亡すると壊された。
「政岡の墓」という墓域の手前には2代藩主夫人振姫(孝勝寺殿)、奥には4代藩主綱村の生母三沢初子(浄眼院殿)の御廟があった。しかし明治6年に、伊達家が仏式から神道祭祀に替えたたときに解体。かろうじて浄眼院殿の御霊屋唐門が新寺小路の成覚寺に移築されました。
「政岡の墓」の中央には綱村夫人仙姫の墓石があります。仙姫の御廟寂静殿は宝永六年(1709)に建築されています。寂静殿は青葉区高松の万寿寺にありましたが、明治初年に解体されました。唐門は青葉区新坂通の大願寺に移され、今は改装され、往時のきらびやかな姿に接することが出来ます。また若林区東九番町常念寺の山門扉には稲葉氏家紋の「隅切り三の字」の木彫りがついています。
享保四年(1719)四月に、綱村の病が重態になると、綱村は側近の者に廟所建築を止めて石碑のみを建てるように遺言します。これより歴代藩主は大年寺に石碑を建てるようになり、霊廟建築はなくなります。仙姫の遺骸は昭和三十五年、万寿寺から榴岡「政岡の墓」に移されました。 -
政岡廟案内所。
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洞林禅寺山門。
曹洞宗、錦柳山。妙心院の末寺。正保2年(1645)開山。
平成2年につくられた仏足跡がある。 -
天保14年(1843)建立の華道、千家古流の花塚。
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えんぴつ地蔵。
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林香院門標。
曹洞宗、天総山。福島の龍泰寺の末寺。
天正期(1573〜95)に福島で開山し米沢、岩出山から現在地に移った。江戸時代に2度の火災があり、堂は新しく建て直された。一般の人が参加できる座禅会が行われている。
仙台の児童文化、民俗文化の保護者、天江富弥の墓があり、隣には荒町小学校出身で天江の親友、童謡作家で詩人のスズキヘキの碑「よう」がある。 -
林香院山門。
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仙台七福神の弁才天像。弁財天は七福神唯一の女神で、智恵、音楽、金運の神といわれる。ここの弁才天には嘉永7年(1854)の銘があり、林香院の移転前からこの地に祀られていたといわれる。いまも学・芸・利の神として信仰されている。
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孝勝寺門標。
日蓮宗の最北の本山。
開山は、中老僧、一乗阿闍梨日門上人で大仙寺として開かれる。
伊達政宗公、忠宗公、綱宗公、綱村公、吉村公と伊達家庇護のもと、伊達家一門格の寺院となりました。
伊達政宗公が出陣する際に、戦勝を祈願したところ沢山の武勲をあげることが出来たことから、縁起の良い寺として大仙寺だった寺号をから「全勝寺」と改めました。
万治2年2月5日、2代忠宗公正室振子姫は、52歳で他界。
法名を孝勝院殿秀岸日迅大姉と号し、その法号を以て現在の孝勝寺となる。
3代綱宗公は、幕府から突然隠居を命じられ、わずか1才の亀千代丸(綱村公)が、伊達家4代の家督を継ぐことになりました。
その事により、お家の騒動(寛文事件10年7ヶ月)が始まりました。この伊達家の一大事を、乗り越え亀千代丸を伊達家4代公として育て上げるために、母君三澤初子(政岡)は、その熱烈な法華経信仰により伊達騒動の危機を救いました。
こうして、命を狙われながらも立派に成長した4代綱村公は、母君のご恩に報いるため、ご母堂の大切にしていた一寸八部の釈迦如来像を安置する釈迦堂を建立しました。 -
釈迦堂説明文。
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釈迦堂は、仙台藩四代藩主・伊達綱村が、生母・三沢初子の冥福を祈るため、持仏堂として1695年(元禄8年)に、躑躅岡に建てたもので、1973年(昭和48年)の宮城県立図書館建設に伴い、孝勝寺に移されたもの。
柱は、黒漆塗り、特に向拝柱は、漆が剥げかかっており、下地の麻布が破れて木肌が見える。創建当時は、素木造だというから1695年(元禄8年)の木肌を見ることができたということになる。
形式は、三間四方で、一間の向拝が付いている。屋根は宝形造り、本瓦葺形銅板葺で、正面、中央間に折桟唐戸、その両脇に花頭窓が付く。
堂内の内陣(ないじん)の奥に厨子を備え、釈迦像を安置している。 -
孝勝寺五重塔。2003(平成15)年建立。高さは31.9m。
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政岡(三沢初子)石像標識。
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政岡(三沢初子)石像。
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正楽寺山門説明文。
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正楽寺山門。
仙台地方で浄土真宗最初の寺。北原山と号し、かっては大谷派に属したが今は単立。開山は笠島村(現・名取市)で、岩出山に移ったのちに日辺村(現・若林区)に移り、政宗が浄土真宗の宗寺と決め、現在地を得た。
明治22年(1899)に改修された本堂は、宝永5年(1708)の大火で焼けたのち享保5年(1720)に再建された木造瓦葺き。山門は若林城の裏門を寛永3年(1626)に移したものといわれている。
本堂、山門ともに古い木造で残っている数少ない寺のひとつ。 -
藩から寄進された平泉中尊寺蔵王堂の古鐘。(?)
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仙台市保存樹木のイチョウの木。この地に移ったときに植えられたといわれ、推定樹齢300年。
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同じく、仙台市保存樹木のクスノキ。推定樹齢200年。香木として植えられたものという。
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光寿院山門。
曹洞宗、喜雲山。北山の輪王寺の末寺。
天正7年(1579)に伊達政宗の祖父晴宗の夫人、久保姫(栽松院)が福島の信夫に慶昌院として開基。
天正末に名取の増田に移り、政宗が現在地に移した際に光寿院となった。 -
観音堂は仙台三十三観音十八番札所。
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天保4年(1833)の大飢饉の餓死者を埋葬した供養碑。同じものが河原町の桃源院、北山の大法寺の2寺にもあり、仙台の三叢塚(くさむらづか)と呼ばれる。
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境内の牡丹園。初夏には見物客でにぎわう。
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