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週末の夕方、外灘までお出かけ。<br />あてもなく外灘周辺を歩きました。

上海★外灘周辺さーんぽっ!

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2013/11/09 - 2013/11/09

3221位(同エリア12001件中)

2

48

熱帯魚

熱帯魚さん

週末の夕方、外灘までお出かけ。
あてもなく外灘周辺を歩きました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
3.5
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 4時過ぎ、浦東の自宅付近からバスに乗り込み、外灘方面へ。

    4時過ぎ、浦東の自宅付近からバスに乗り込み、外灘方面へ。

  • トンネル(延安随道)手前にある陳桂春住宅。バスから見えました。

    トンネル(延安随道)手前にある陳桂春住宅。バスから見えました。

  • 四川中路で下車。

    四川中路で下車。

  • ○ 滬寧鉄路局(四川中路126弄5-21号)<br /><br />もともとは滬寧鉄路局(上海南京鉄路局)、その後、安順洋行。通和洋行(Atkinson & Dalls)の設計で、元芳洋行が建設を担当しました。1911年竣工。<br /><br /><br />数年前の様子:http://4travel.jp/travelogue/10539454

    ○ 滬寧鉄路局(四川中路126弄5-21号)

    もともとは滬寧鉄路局(上海南京鉄路局)、その後、安順洋行。通和洋行(Atkinson & Dalls)の設計で、元芳洋行が建設を担当しました。1911年竣工。


    数年前の様子:http://4travel.jp/travelogue/10539454

  • アヤシイ…けど気になるホテル。

    イチオシ

    アヤシイ…けど気になるホテル。

  • イチオシ

  • ○ 中山東一路

    ○ 中山東一路

  • ○外灘7号(大北電報公司大楼)<br />現:バンコク銀行上海分行<br /><br />ルネッサンス様式のビルで、統一感、左右対称、安定感、正面の装飾など、どれも非常に凝ったつくりとなっています。窓枠の模様も多種多様で、立体感があり、バロック式に近い趣。現在はバンコク銀行上海分行として使われていますが、1908年の落成以来、3度オーナーが替わっています。最初は大北電報公司大楼として、その後は中国通商銀行、長江航運公司として使用されました。

    ○外灘7号(大北電報公司大楼)
    現:バンコク銀行上海分行

    ルネッサンス様式のビルで、統一感、左右対称、安定感、正面の装飾など、どれも非常に凝ったつくりとなっています。窓枠の模様も多種多様で、立体感があり、バロック式に近い趣。現在はバンコク銀行上海分行として使われていますが、1908年の落成以来、3度オーナーが替わっています。最初は大北電報公司大楼として、その後は中国通商銀行、長江航運公司として使用されました。

  • イチオシ

  • ★★ 外灘12号 香港上海銀行大楼、市府大楼 ★★<br />現:浦東発展銀行大楼<br /><br />1923年に建てられた新ギリシャ建築。もともとは、米国商香港上海銀行上海分行。当時のアメリカでは、この建物を「スエズ運河と極東ベーリング海峡の間で最も洗練された建物」と形容していました。<br /><br />香港上海銀行(Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)は、1865年香港と上海で設立された銀行です。成立時、香港上海銀行は外灘中山東一路と南京路T字交差点、すなわち現在の和平飯店南楼の位置に会社を構えていました。1874年、業務が拡大し、更に広い土地が必要になったことから、海関大楼の南面にあった西洋人倶楽部の建物と庭園を購入、改築と改装を行い、当時としては非常に豪華な3階建ての建物を建てました。1921年になると、建物が老朽化したことから、その南面にあった11号の別発洋行、10号の美豊洋行の不動産を購入。もともとあった建物を取り壊して、公和洋行の設計、英国商徳羅・可爾洋行の建設で建物を建て替えました。1921年5月5日に建設が開始され、25か月をかけて、1923年6月3日竣工しました。<br /><br />太平洋戦争が勃発すると、日本の横浜正金銀行がこのビルを占領、終戦を迎えると、香港上海銀行が再び入居しました。1949年、香港上海銀行の支部機構を休業、上海分行は処理部門を設立、麦加利銀行とともに圓明園路にある蘭心大楼に引っ越しました。1955年4月、上海市人民政府の事務所がこの地にうつされ、1955年からは上海浦東発展銀行がビルを使用しています。

    ★★ 外灘12号 香港上海銀行大楼、市府大楼 ★★
    現:浦東発展銀行大楼

    1923年に建てられた新ギリシャ建築。もともとは、米国商香港上海銀行上海分行。当時のアメリカでは、この建物を「スエズ運河と極東ベーリング海峡の間で最も洗練された建物」と形容していました。

    香港上海銀行(Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)は、1865年香港と上海で設立された銀行です。成立時、香港上海銀行は外灘中山東一路と南京路T字交差点、すなわち現在の和平飯店南楼の位置に会社を構えていました。1874年、業務が拡大し、更に広い土地が必要になったことから、海関大楼の南面にあった西洋人倶楽部の建物と庭園を購入、改築と改装を行い、当時としては非常に豪華な3階建ての建物を建てました。1921年になると、建物が老朽化したことから、その南面にあった11号の別発洋行、10号の美豊洋行の不動産を購入。もともとあった建物を取り壊して、公和洋行の設計、英国商徳羅・可爾洋行の建設で建物を建て替えました。1921年5月5日に建設が開始され、25か月をかけて、1923年6月3日竣工しました。

    太平洋戦争が勃発すると、日本の横浜正金銀行がこのビルを占領、終戦を迎えると、香港上海銀行が再び入居しました。1949年、香港上海銀行の支部機構を休業、上海分行は処理部門を設立、麦加利銀行とともに圓明園路にある蘭心大楼に引っ越しました。1955年4月、上海市人民政府の事務所がこの地にうつされ、1955年からは上海浦東発展銀行がビルを使用しています。

  • 圓明園路で工事中だったお店はすでにオープンしていました。

    圓明園路で工事中だったお店はすでにオープンしていました。

  • ○ 圓明園路

    イチオシ

    ○ 圓明園路

  • ○ 圓明園路

    ○ 圓明園路

  • ○ 圓明園路

    ○ 圓明園路

  • ○ 新天安堂(南蘇州路x圓明園路)<br /><br />新天安堂(Union Church)は上海で最初期に作られた教会のひとつで、1886年に作られた木造レンガ造りのゴシック式教会。非聖公会教徒の在上海英国人のための礼拝堂で、社交場としての機能も果たしていました。蘇州河と黄浦江の合流地点である三角地帯に位置しています。2007年初めに火災に遭いました。

    ○ 新天安堂(南蘇州路x圓明園路)

    新天安堂(Union Church)は上海で最初期に作られた教会のひとつで、1886年に作られた木造レンガ造りのゴシック式教会。非聖公会教徒の在上海英国人のための礼拝堂で、社交場としての機能も果たしていました。蘇州河と黄浦江の合流地点である三角地帯に位置しています。2007年初めに火災に遭いました。

  • ○ 英国領事館(外灘33号、中山東路33号)<br /><br />約260年前、現在外灘と言われているエリアは「李家荘」という小さな漁村でした。上海老城の城壁外にあり、蘇州河と黄浦江の合流地点であるこの地に目をつけた英国商George Balfourは、1842年11月、上海道台宮慕久と上海開港について協議、1845年11月李家荘から呉淞江(蘇州河)間の土地126ムールを領事館建設用に当てることが決定されました。<br /><br />英国領事館の敷地面積は38559平方メートル、平面はH型。英国人設計士によって設計されました。建物は全体的にビクトリア女王時代の建築スタイルでありながら、上海の気候の特徴も考慮し、「東インド式」建築に近いスタイルになっています。<br /><br />領事館の建物は1849年に建設され、1870年に火災に遭い、1873年再建されました。外灘建築の中で保存状態の良い最古の建築と言われています。ここから上海の租界史がスタートしたともいえ、外灘のはじまり、「外灘源」と呼ばれています。

    ○ 英国領事館(外灘33号、中山東路33号)

    約260年前、現在外灘と言われているエリアは「李家荘」という小さな漁村でした。上海老城の城壁外にあり、蘇州河と黄浦江の合流地点であるこの地に目をつけた英国商George Balfourは、1842年11月、上海道台宮慕久と上海開港について協議、1845年11月李家荘から呉淞江(蘇州河)間の土地126ムールを領事館建設用に当てることが決定されました。

    英国領事館の敷地面積は38559平方メートル、平面はH型。英国人設計士によって設計されました。建物は全体的にビクトリア女王時代の建築スタイルでありながら、上海の気候の特徴も考慮し、「東インド式」建築に近いスタイルになっています。

    領事館の建物は1849年に建設され、1870年に火災に遭い、1873年再建されました。外灘建築の中で保存状態の良い最古の建築と言われています。ここから上海の租界史がスタートしたともいえ、外灘のはじまり、「外灘源」と呼ばれています。

  • ○ Hua船倶楽部(南蘇州路76号)<br /><br />Hua船倶楽部(Shanghai Rowing Club)は、1904年に建てられたヨットクラブ。<br /><br />

    ○ Hua船倶楽部(南蘇州路76号)

    Hua船倶楽部(Shanghai Rowing Club)は、1904年に建てられたヨットクラブ。

  • ○ 外白渡橋<br /><br />外白渡橋(Garden Bridge of Shanghai)は、蘇州河下流の黄浦江との合流地点に位置する鉄橋。中国で最初にできた全鋼構造の橋であり、中国に唯一現存する不等高桁橋。<br /><br />初代外白渡橋は1856年に建設された、「威爾斯橋」という木造の橋でした。威爾斯橋は、怡和洋行の英国人威爾斯と宝順洋行の韋丈}、霍梅ら20名(そのほとんどが洋行経理もしくはアヘン販売の元締め)が共同出資して設立した「蘇州河橋梁公司」(中国初の橋梁建設をメインにした会社)が投資して建てられました。橋の長さは137.25m、幅7.015m。真ん中は可動式で、船が通る時に吊りあげて使用していました。威爾斯は、上海道台から「橋の通過税」の徴収を許可された、と主張。中国人のみから通行税を徴収し、外国車両や傭人の通行税を免除したことから、上海住民の怒りを買いました。その後、広東人の勝且瘠・ェ現在の山西路の交差点に、船着き場をつくったことから、中国人も無料で行き来できるようになりました。中国人も「ただで渡れる」ようになっため、白渡(ここでいう「白」は「無料」の意味)と呼ばれるようになったといわれています。<br /><br />それでも租界工部局は民衆の怒りをおさえきれず、1876年威爾斯橋の近くに通行税が無料の木製の浮橋を建設しました。この橋は外灘公園の近くにあったため、「公園橋」と名付けられました。そしてこのときから、橋を渡るのが無料になったため、「外白渡橋」と呼ばれるようになりました。その後、威爾斯橋は工部局に買収され、解体されました。光緒年間になると、何度も修復作業を受けた木造の橋は、交通の需要にそぐわないという理由で、工部局により鉄橋に建て替えられました。鉄橋が完成してから40年以上もの間、一度も大きな改修工事は行われていませんでしたが、1945年戦争に勝利すると、橋の台の下部分に亀裂が入っているのが発見され、コンクリートで修理がなされました。戦後は、何度か点検が行われ、大がかりな修理作業が9度行われています。

    ○ 外白渡橋

    外白渡橋(Garden Bridge of Shanghai)は、蘇州河下流の黄浦江との合流地点に位置する鉄橋。中国で最初にできた全鋼構造の橋であり、中国に唯一現存する不等高桁橋。

    初代外白渡橋は1856年に建設された、「威爾斯橋」という木造の橋でした。威爾斯橋は、怡和洋行の英国人威爾斯と宝順洋行の韋丈}、霍梅ら20名(そのほとんどが洋行経理もしくはアヘン販売の元締め)が共同出資して設立した「蘇州河橋梁公司」(中国初の橋梁建設をメインにした会社)が投資して建てられました。橋の長さは137.25m、幅7.015m。真ん中は可動式で、船が通る時に吊りあげて使用していました。威爾斯は、上海道台から「橋の通過税」の徴収を許可された、と主張。中国人のみから通行税を徴収し、外国車両や傭人の通行税を免除したことから、上海住民の怒りを買いました。その後、広東人の勝且瘠・ェ現在の山西路の交差点に、船着き場をつくったことから、中国人も無料で行き来できるようになりました。中国人も「ただで渡れる」ようになっため、白渡(ここでいう「白」は「無料」の意味)と呼ばれるようになったといわれています。

    それでも租界工部局は民衆の怒りをおさえきれず、1876年威爾斯橋の近くに通行税が無料の木製の浮橋を建設しました。この橋は外灘公園の近くにあったため、「公園橋」と名付けられました。そしてこのときから、橋を渡るのが無料になったため、「外白渡橋」と呼ばれるようになりました。その後、威爾斯橋は工部局に買収され、解体されました。光緒年間になると、何度も修復作業を受けた木造の橋は、交通の需要にそぐわないという理由で、工部局により鉄橋に建て替えられました。鉄橋が完成してから40年以上もの間、一度も大きな改修工事は行われていませんでしたが、1945年戦争に勝利すると、橋の台の下部分に亀裂が入っているのが発見され、コンクリートで修理がなされました。戦後は、何度か点検が行われ、大がかりな修理作業が9度行われています。

  • ○ 外白渡橋<br /><br />。<br />

    イチオシ

    ○ 外白渡橋


  • ○ 蘇州河

    ○ 蘇州河

  • ○ 礼査飯店(現:浦江飯店)<br />黄浦路1号<br /><br />礼査飯店は、英国商人Richard(阿斯脱豪夫・礼査)が、1846年に英国租界と上海県城の中間、ちょうど現在の金陵東路外灘付近に建てた、Richard&#39;s Hotel and Restaurantが始まりです。上海で最初に出来た現代化旅館でした。<br /><br />1856年、外白渡橋の前身である「威爾斯橋」が落成すると、この地が経済的に発展すると目をつけたRichardは、廉価で橋の北側の荒地を購入し、木造レンガ造りの建物を建設、礼査飯店をこの地に移しました。しかし、辺鄙な場所で交通が不便なことから、経営には非常に苦労していました。<br /><br />1860年、英国人Henry Smich(史密斯)が礼査飯店の経営を受け継ぎ、Astor Houseと改名。Henryの管理のもと、礼査飯店は客室のほかに、バー、ボールルーム、カードゲーム室などを開設、ロビーではダンスや劇の演出があり、多くの外国人客をひきつけました。<br /><br />19世紀後半になると、礼査飯店は中国で最初に現代設備を備え、注目を集めました。1867年上海初のガス使用が開始、1882年7月には中国初の電灯が備え付けられ、1883年には全上海初の水道がこのホテルに通りました。<br /><br />1906年、外白渡橋の改修のため、ホテルの土地の一部を明け渡さなければならなくなり、さらに6階建ての外資ホテル匯中飯店(Palace Hotel)がすでに南京路外灘という繁華街で営業を開始していたことから、礼査飯店はもとの建物を解体し、5階建てのビルに立て直しました。しかしそれでも匯中飯店には勝てず、礼査飯店は再び建て直しを行い、6階建てのビルになりました。<br /><br />礼査飯店は当時アジアで最も現代設備の整った豪華ホテルのひとつでした。24時間お湯の供給があり、どの部屋にも電話が設置され、中国で最初のエレベーターのひとつがあり、上海で最初に半有声映画(1908年)と有声映画(1913年)が上映されました。<br /><br />礼査飯店の最上階にあった孔雀大庁は非常に豪華で、500名を収納可能な大規模なレストランでした。夜になると、交響楽団がここで演奏を行い、多くの有名人が食事に訪れたそうです。<br /><br />19世紀から20世紀上葉には、イギリスのエディンバラ公、科学者アインシュタイン、喜劇役者チャップリンなど、世界各地の有名人が滞在しました。

    ○ 礼査飯店(現:浦江飯店)
    黄浦路1号

    礼査飯店は、英国商人Richard(阿斯脱豪夫・礼査)が、1846年に英国租界と上海県城の中間、ちょうど現在の金陵東路外灘付近に建てた、Richard's Hotel and Restaurantが始まりです。上海で最初に出来た現代化旅館でした。

    1856年、外白渡橋の前身である「威爾斯橋」が落成すると、この地が経済的に発展すると目をつけたRichardは、廉価で橋の北側の荒地を購入し、木造レンガ造りの建物を建設、礼査飯店をこの地に移しました。しかし、辺鄙な場所で交通が不便なことから、経営には非常に苦労していました。

    1860年、英国人Henry Smich(史密斯)が礼査飯店の経営を受け継ぎ、Astor Houseと改名。Henryの管理のもと、礼査飯店は客室のほかに、バー、ボールルーム、カードゲーム室などを開設、ロビーではダンスや劇の演出があり、多くの外国人客をひきつけました。

    19世紀後半になると、礼査飯店は中国で最初に現代設備を備え、注目を集めました。1867年上海初のガス使用が開始、1882年7月には中国初の電灯が備え付けられ、1883年には全上海初の水道がこのホテルに通りました。

    1906年、外白渡橋の改修のため、ホテルの土地の一部を明け渡さなければならなくなり、さらに6階建ての外資ホテル匯中飯店(Palace Hotel)がすでに南京路外灘という繁華街で営業を開始していたことから、礼査飯店はもとの建物を解体し、5階建てのビルに立て直しました。しかしそれでも匯中飯店には勝てず、礼査飯店は再び建て直しを行い、6階建てのビルになりました。

    礼査飯店は当時アジアで最も現代設備の整った豪華ホテルのひとつでした。24時間お湯の供給があり、どの部屋にも電話が設置され、中国で最初のエレベーターのひとつがあり、上海で最初に半有声映画(1908年)と有声映画(1913年)が上映されました。

    礼査飯店の最上階にあった孔雀大庁は非常に豪華で、500名を収納可能な大規模なレストランでした。夜になると、交響楽団がここで演奏を行い、多くの有名人が食事に訪れたそうです。

    19世紀から20世紀上葉には、イギリスのエディンバラ公、科学者アインシュタイン、喜劇役者チャップリンなど、世界各地の有名人が滞在しました。

  • 外白渡橋から浦東をのぞみます、

    外白渡橋から浦東をのぞみます、

  • ○ 上海大厦

    ○ 上海大厦

  • ○ Hiker Youth Hostel

    ○ Hiker Youth Hostel

  • ユースホステル内のレストランで食事

    ユースホステル内のレストランで食事

  • ハンバーガー★

    ハンバーガー★

  • 帰りは徒歩で南京東路駅へ向かいました。

    帰りは徒歩で南京東路駅へ向かいました。

  • ○ 南京東路

    ○ 南京東路

  • ○ 恒基名人商業大厦

    ○ 恒基名人商業大厦

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 銭形幸一さん 2014/05/06 23:06:00
    良い雰囲気
    こんばんは。
    GWに北京に行ってきました。

    旅行記拝見しました。
    上海では浦江飯店やハイアットオンザバンドに泊まることが多いのでこの旅行記の写真の場所、だいたいわかります。

    外灘のライトアップ見終わった後、ホテルにまっすぐ帰るのもなんなんで、歩くとついついこの辺歩いてしまいます。
    四川中路や北京東路、香港路あたりのちょっと赤味がかった街頭がいい雰囲気醸し出していて…。
    うらびれた感じがまた何とも言えません。

    北京も良かったですがやっぱり上海も良いですね。

    熱帯魚

    熱帯魚さん からの返信 2014/05/11 23:45:16
    RE: 良い雰囲気
    銭形幸一さん

    こんばんは!
    コメントどうもありがとうございました。
    北京どうでしたかー?大気汚染とかは問題なかったですか?

    そうなんですか、浦江飯店とハイアットだったら、まさに
    この旅行記のお散歩のルート通りますね!
    裏外灘は外灘とは対照的に人間臭い感じが漂っていて、
    またいい感じですよね。

    私はたまには北京で、胡同散歩しながら老北京を楽しみたいなー
    なんて思っていますが…
    北京は北京でやっぱり悠久の歴史と、いかにも中国っていう
    ダイナミックさが味わえるのとで、上海とは違いますね。
    今度旅行記拝見させていただきますねー

    それでは!

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