2009/11/25 - 2009/11/25
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kubochanさん
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早朝までの雨もあがり快晴の天気の中今回は紅葉で有名な東福寺界隈を散策しました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄
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桂昌院
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禅堂
1347(貞和 3)年再建、別称「僧堂」とか「選佛場」といわれる座禅専修の道場。 -
東福寺
所属宗派:臨済宗東福寺派大本山 ・本尊:釈迦如来
平安時代からの藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)が前身。鎌倉時代の初め、早くから仏門帰依の思いがあったという兼実の孫の摂政関白九条道家※は、1236(嘉禎2)年、瑞祥(吉兆=よいことが起こる前ぶれ。)の夢を見て東福寺建立を発願。延応元年(1239)、法性寺内に釈迦如来像を安置する仏殿を建立。 -
東福寺は道家没後 3 年の1255(建長7)年に息子の一条実経によって三門・法堂・方丈・庫裏・禅堂・東司・浴室などの禅宗七堂伽藍をはじめ、開山堂や多くの塔頭が東山南麓に建ち並び、「東福寺の伽藍づら」といわれ、権勢を誇った九条道家の最大の記念建築となった。
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本尊の釈迦如来像(大仏)も像高約15m で、寺名は規模を東大寺に、教行を興福寺にならって「東福寺」とつけられた。室町時代には禅宗寺院は隆盛をきわめ、建武元年(1334)東福寺は「京都五山」の第三位となった。
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三門
「三門」とは「空門・無相門・無作門」の三解脱門を省略した言い方。五間三戸、重層入母屋造、両脇に階上へのぼる山廊を設けた、日本最大最古の遺構で、応永年間(1394-1428)に足利義持が再建。中世建築ではめずらしい一面の極彩画は、明兆およびその門人寒殿司の筆と伝えられている。 四方の柱は、天正の大地震の時、三門の傷みを心配した豊臣秀吉の大修理の時の柱で、“太閤柱”(材木不足で丸く削る余裕すらなく、柱は四角いままの材木を使っている)と呼ばれている。 -
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正面縁の大額「妙雲閣」(約3 畳の大きさ)の筆は足利義持。その「妙」の字の女編部分が「玄」で、禅宗の寺なので女性を入れないようにと、文字からも「女」を排除した結果、少し不思議な文字が誕生した。
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東福寺の建つ場所には元々藤原氏の氏寺である法性寺がありました。東福寺は摂政関白九条道家によって1236年(嘉禎2年)から1255年(建長7年)にかけて大道場が造られ、南都東大寺と興福寺から一字ずつとって東福寺と名づけられました。
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明治14 年(1881)の大火で、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失。 現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世に遡る建物が現存している。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたが、今なお25か寺の塔頭がある。また、明治時代の日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア兵捕虜の収容施設であった。
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浴室
室町時代建築の、京都最古の浴室建築。土間の奥の左右に腰掛を設け、中央の板敷を洗い場にした蒸し風呂 -
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本堂(仏殿)
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1890(明治23)年再建。南正面の前庭には昭憲皇太后(明治天皇皇后)の寄進とつたえる向唐破風の方丈表門があり、恩賜門ともいい、小型ながら明治期唐門の代表作。
庭園は近代の造園家・重森三玲によって昭和13 年(1938)に作庭され、方丈を囲んで四方に配されている。釈迦成道(悟りを開き、仏道を完成すること。)を表現し、「八相の庭」と命名されている。鎌倉期庭園の質実剛健な風格を基本とし、これに近代芸術の抽象的構成をとり入れた枯山水庭園。趣きの違う4つの庭を静かに眺めるのも東福寺拝観の楽しみのひとつ。 -
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南庭
荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されている。南庭全体で「九山八海」という仏教の世界観を表現。 -
恩賜門と四仙島
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四仙島「蓬莱」,「瀛洲(えいじゅう)」,「壷梁(こりょう)」,「方丈」の四島を表現している.
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北庭「市松の庭」
南の恩賜門内にあった敷石を利用し、石と苔を幾何学的な市松模様に配し、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家「ピエト・モンドリアン」を意識したとも言われている。 -
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東庭「北斗の庭」
東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配している。 -
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西庭「井田市松の庭」
さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図している。 -
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釣鐘形の華頭窓
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花岡大学童謡碑
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天得院(桔梗の寺)
南北朝時代の正平年間(1346〜70)に、当時の東福寺住職の無夢一清禅師が開創。その後、応仁の乱などの戦乱などで荒廃したが、豊臣秀吉・秀頼の学僧として寵愛を受けていた文英清韓禅師が住職となり再興。しかし、方広寺の鐘銘に端を発した「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」による豊臣家の滅亡の余波を受け、寺は取り壊し。 現在の堂宇は、その後の天明9年(1789)に再興、明治元年(1868)に東福寺塔頭の本成寺と統合し、現在に至る。荻
原井泉水(おぎわらせいせんすい)の句碑や花岡大学の童話碑がある。 -
泉涌寺
所属宗派:真言宗泉涌寺派総本山 本尊:三世仏(釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩) -
歴代天皇が葬られる皇室の香華院(菩提所、位牌を祀り供養する寺)であることから「御寺(みてら)」とも呼ばれる、真言宗の寺院。寺伝では、平安時代に藤原緒継が建立した法輪寺、後の仙遊寺に由来する。
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泉涌寺の名は、鎌倉初期に月輪大師俊?徑(しゅんじょう)が宋の法式を取り入れて、大伽藍を営むことを志した際、敷地の一角から清水が湧き出たことから改称された
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1241(仁治3)年、四条天皇が亡くなると泉涌寺がその葬儀場となり、のち代々の天皇の菩提所(御香華院 こうげいん=「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意。)となっていったことから、「御寺(みてら)」とも呼ばれるようになった。
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東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺
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楊貴妃観音堂
大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに将来された像である。
像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た。 -
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仏殿(重文)
寛文8 年(1668)、徳川家綱の援助で再建。密教寺院の中心堂宇は「本堂」「金堂」と称することが多いが、当寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いる。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。
・仏殿に安置の本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三尊仏。南宋の諸寺に倣ったもので、過去・現在・未来の三世にわたって、人類の平安と幸福を祈る人々の信仰を集めている。天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は狩野探幽の作になる。 -
唐門・霊明殿
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舎利殿
舎利殿は、釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿である。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。 -
見る場所によって龍の目が光って見えます
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雲龍院
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今熊野観音寺
本尊は十一面観音菩薩で、西国観音霊場15番札所。弘仁年間(825 年頃)に弘法大師が創建し、御白河上皇が熊野権現を勧請して、新那智山今熊野観音寺を称した。 -
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戒光寺
高さ10m(台座・光背含む)の木造釈迦如来立像を安置する -
泉爯寺
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帰りに千枚漬のお店に立ち寄りました。
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街並み
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