2014/03/20 - 2014/03/20
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Weiwojingさん
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1613年( 慶長18年 )11月、仙台藩主伊達政宗の命により当時スペイン領であったメキシコとの交易許可を得る目的で、後に 「慶長遣欧使節」 と呼ばれた支倉常長を団長とする使節団が伊達藩石巻月浦を出港した。昨年は正にその400年に当る年であった。
メキシコでの交渉は成功しなかったが、一行はヨーロッパ大陸に渡り、スペインの首都マドリードに到着し、スペイン国王フェリペ3世に謁見し、さらにローマへ移り教皇パウロ5世にも謁見した。
一行は約3年間ヨーロツパに滞在し、帰路はメキシコ、フイリピン、長崎を経由して、1620年( 元和 6 )9月仙台に戻った。しかし、時は江戸幕府による鎖国政策進む中、支倉一行の任務は成功したとは言えず、帰国後の支倉の立場は苦しいものになり、最後に悲劇的な死を迎えた。
○ 参考資料:遠藤周作『 侍 』( 1890 ) 新潮社刊
- 旅行の満足度
- 4.5
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上野の東京国立博物館で「 支倉常長と南蛮美術 ー 400年前の日欧交流 」という展覧会が開催された。
今から400年前に仙台藩主伊達政宗の命で太平洋を越え、メキシコそしてさらにヨーロッパまで航海した支倉常長とその使節団一行の足跡を辿った展覧会である。 -
日本でよく知られた「支倉常長像」であるが、これは1615年頃イタリア・ローマで描かれた油彩で、作者はクロード・デリュエ。日本最古の油彩画として国宝に指定され、仙台博物館に収蔵されている。現在、ユネスコの世界記憶遺産ともなっている。
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この写真は、支倉常長一行がメキシコに向けて出発した月浦港とサン・ファン・バウティスタ ( 洗礼者ヨハネ ) 号と名付けられた洋形船( ガレオン船 )の模型である。
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支倉常長が辿った航海図。月浦から出発し、メキシコ、スペイン、イタリアと回り、帰路はメキシコ、フイリピン、長崎を経て元和6年(1620)9月に帰国した。7年にも及ぶ長き航海であった。
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当時の世界を描いた「世界図屏風地図」であるが、右端に日本が小さく描かれている。スペインとポルトガルが画面の中央に据えられ、まだヨーロツパ人に発見されていないオーストラリアや南極は描かれていない。
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「世界及日本図屏風」( 重要文化財 )の6曲1隻に描かれた日本の姿であるが、北海道が除かれている。
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上下ともよく知られた「南蛮人渡来図」で、16世紀後半以後南蛮人の来航によって初めて遭遇した異文化への驚きと憧憬を見事に表している。
上の絵には「黒船」と呼ばれたヨーロツパの船と街を闊歩する南蛮人たちの姿を描いている。
下の絵は右上に「南蛮寺」が描かれ、その下には何人ものキリスタン伴天連の姿が見える。 -
ローマに残されている「支倉常長像」は、17世紀にアルキータ・リッチ( Archita Ri-cci ) によって描かれたキャンバス油彩で、196×146cmのかなり大きなものである。この肖像は常長と彼の一行が1615年10月29日ローマに入城し、その時の彼の伊達達を描いたもので、ローマで彼の世話役であったボルゲーゼ枢機卿が描かせたものである。
等身大で描かれ、当時の王侯貴族と互角と言つっもよい位である。彼は右手をテーブルの端に置き、左手を腰に置いて、右半身に重点を置いている。このようなポーズは当時の貴人たちによく見られるもので、座像が中心の当時の日本では見られない姿である。 -
この絵画に様々なモチーフが用いられていてれていて、当時の日本画には見ることが出来ないものが表されている。いわば、その絵の中にある謎解きのようなもに大変興味深いものがある。
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先ずは顔の部分である。常長がこの肖像画に描かれたのは45歳の、正に壮年期の時だと言ってもよい。しかし、髪の生え際には白髪が描かれ、表情もどことなくはにかんだような様を表している。
これは画家の前で見慣れないポーズを求められて、戸惑いないしははにかんだ様子を表しているのかも知れない。口元がわずかに開き、歯を見せている。 -
カーテンの紋章をよく見てください(見えにくいですが)。そこには支倉家の家紋「逆卍に違い矢」が描かれている。
ヨーロツパの紋章に見られる王冠を伴い、波打つカーテンと共に旗章のように見える。ローマ滞在中、彼は市議会から公民権を与えられ貴族に列せられているが、その証書の左上にも同じモチーフの紋章が見られる。 -
常長の足元に座す犬の姿は、西洋画においては「中誠」「忠義」を表し、よく狩猟の場面などで描かれている。
この絵ではスペイン国王隣席のもとで洗礼を受けた常長の、神への忠誠かそれとも外交使節としての、君主への忠誠なのか、謎を秘めたモチーフである。 -
身に着けている装束の絵柄に鹿と薄 ( すすき ) が描かれていて、薄は日本の秋を表す植物で、常長のローマ入りが旧歴の9月に当ることから彼が予め用意していたのかも知れない。
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常長の右肩の上に描かれているのは、空を飛んでいる鳩とその下に3人の人物が描かれている。
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足元を見てみたい。常長が履いている足袋はヨーロッパ製の金唐革と思われる素材で作られている。
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支倉常長が描かれている絵画がローマに残されていて、右端の人物が常長だと言われている。
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常長がローマで謁見した教皇パウロ五世の肖像画。
慶長遣欧使節がヨーロッパに到着するするおよそ30年前に、「天正遣欧少年使節」と呼ばれる4人の少年使節団が同じくスペインやローマを訪れていた。少年たちが見た風景や訪ねた地も同じ場所がたくさんあっただろう。しかも、同じ教えを受け入れた両者の日本での生涯は悲惨な最期を遂げなければならなかった。歴史の大きなうねりを感じざるを得ない。
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