2014/01/18 - 2014/01/18
538位(同エリア1826件中)
杏仁豆腐さん
小伝馬町は、江戸時代には旅人宿の多い賑わった町で、繊維問屋や金物問屋も多く連なっていました。
江戸幕府が牢屋敷を設置した場所です。
TBSテレビドラマ『JIN−仁−』でも小伝馬町牢屋敷が出てきました。
南方仁が皇女和宮にドーナツに毒を持った疑いをかけられ、小伝馬町牢屋敷の大牢に放り込まれました。
小伝馬町は、日比谷線で通過することは多々ありますが、下車するのは初めてです。
この旅行記の続きは、こちら。
http://4travel.jp/travelogue/10851518
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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小伝馬町の駅を出て、すぐ大安楽寺があります。
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大安楽寺は、高野山真言宗のお寺です。
建立に際して、大倉財閥創業者の大倉喜八郎と安田財閥の創業者安田善次郎が資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。 -
延命地蔵菩薩像です。
このお地蔵様が立っている場所で、死刑の人たちが処刑されたそうです。
延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立されました。 -
「江戸伝馬町牢御椓場跡」の石柱
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延命地蔵尊の向かいには、
「江戸伝馬町牢石垣之一部
江戸伝馬町牢井戸跡」 -
江戸八臂弁財天
江島弁財天と一緒に造られた弁財天三体の内の一つとされています。 -
この弁財天は、北条政子の発願で作られたそうです。
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宝安稲荷大明神
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色とりどりののぼり。
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塀に「江戸伝馬町処刑場跡」と赤い文字で刻まれた石柱があります。
赤い文字が何とも言えませんね。 -
庫裏(くり)
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大安楽寺の前が、十思(じっし)公園
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ここもかつての牢屋敷の敷地の一部でした。
公園の中に、石町時の鐘(こくちょうときのかね)があります。 -
江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報せていました。
この鐘は、石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので、近くに長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。宝永8年(1711年)に鋳直したもので、(徳川家宣時代)高さ1.7メートル、口径93センチの和鐘です。 -
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公園の裏側に、風情のある入口があります。
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吉田松陰縁の石碑
吉田松陰は、小伝馬牢屋敷に2度収容されました。
1度目は安政元年(1854)、再航した下田沖の停泊中のぺりー艦隊に乗船、密航の企てが失敗して収監され、長州の野山獄送りになっています。
2度目の安政の大獄での収容で、小伝馬町牢屋敷が最期の地となりました。 -
吉田松蔭終焉の地の石碑
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吉田松陰顕彰碑
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吉田松陰辞世の句
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
安政の大獄では吉田松蔭の他に橋本左内など百人近い勤皇志士が伝馬町の牢屋敷で処刑されています。 -
忠魂碑
日露戦争で亡くなられた人を弔う碑 -
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杵屋勝三郎歴代記念碑
江戸長唄三味線の家名「杵屋」 -
お隣の十思スクエア複合施設は工事中です。
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十思公園から昭和通り方面に歩きます。
日本橋本町3丁目の通り沿いに、宝田恵比寿神社への道案内のための石碑と、べったら市の由来碑があります。 -
べったら市の由来碑からすぐの所に、於竹大日如来井戸跡(おたけだいにちにょらいいどあと)。
小津本館ビルの脇にあります。
寛永の頃(1640年頃)江戸大伝馬町佐久間家(一説に馬込家)の下女お竹は日頃より慈悲心が深く、ある日、羽前羽黒山の行者より大日如来の化身であると告げられました。このことが市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れたといいます。現在、芝の心光院に、お竹の木像や使った流し板、お竹大日如来に信仰の厚かった桂昌院(五代綱吉の母)の納めた蒔絵の手文庫などが保存されています。また、お竹が愛用し、貧困者が市をなしたという井戸の跡に碑が建てられています。 -
宝田恵比寿神社
宝田恵比寿神社の創建年代は不詳ですが、徳川家康江戸入府以前は宝田村の鎮守社だったといいます。江戸城拡張により村の移転を命ぜられ、現大伝馬町へ遷座、当地は金銀為替、駅伝、水陸運輸と重要な役割を担い大変賑わったといいます。 -
宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として崇敬者は広く関東一円に及び毎年10月19日「べったら市」、20日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づき、お正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
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椙森(すぎのもり)神社に着きました。
椙森神社は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。 -
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社で、江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
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富塚の碑があります。
当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもので(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
椙森神社の富くじは江戸三富のひとつに数えられ、盛大に行われました。大正8年、江戸庶民の泣き笑いを思い富塚碑が建てられました。富くじ興行は寛永年間(1624年〜1643年)に神社仏閣の改修費用に充てるために始まり、その後一時禁止されました。のち再び許可されましたが弊害が生じ、天保13年(1842年)幕府の厳達によりついに終止符を打ちました。
宝くじが当たりますように、お祈りしました。 -
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人形町に向かって歩いていると、出世稲荷がありました。
マンションの中を通過します。自転車置き場になっています。 -
出世稲荷は洗濯機の向こうにありました。
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オレンジのライトに照らさせていました。
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人形町の交差点に、玄冶店(げんやだな)跡の石碑がありました。
「玄冶店」の地名は、江戸時代、ここの医者岡本玄冶(1587年〜1645年)が住んだことに由来し、歌舞伎「与話情浮名横櫛」の舞台ともなりました。玄冶は幕府の医官で、将軍家光が痘瘡を病んだ時、見事にこれを全快させて、一躍その名を高めた名医で、子孫も九代この地にその職と名跡を継ぎました。 -
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人形町の時計塔。
甘酒横丁に向かいます。
http://4travel.jp/travelogue/10851518
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