2010/06/07 - 2010/06/07
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kenichi291さん
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旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっています。上野公園からも近いので、美術館に行く前に訪ねて見ました。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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洋館 「1896年(明治29年)に竣工し、岩崎家の迎賓館として用いられた西洋館である。木造2階建、屋根はスレート葺き、外壁は下見板張りとする。お雇い外国人として来日し、独立後は三菱・岩崎家の仕事を数多く手がけたジョサイア・コンドルの設計である。北面を正面とし、正面玄関部分は平面四角形の塔屋となっている。反対側の南面は1階、2階とも列柱のある大きなベランダを設ける。晩年の作品に比べると装飾性が強く、内外装とも全体のスタイルや装飾は英国17世紀のジャコビアン様式を基調としつつ、南面のベランダにはコンドルが得意としたコロニアル様式がよく表れている。一方、客室の天井装飾、床のタイル、暖炉などの細部にはイスラム風のデザインを施すなど様々な様式を織り交ぜている。岩崎久弥の留学先であったペンシルベニアのカントリー・ハウスのイメージも取り込まれている。なお、東側のサンルームは後年(1910年頃)の増築である。内部は階段ホールを中心に、1階には岩崎久弥が用いた書斎、客室、大食堂などがあり、2階には内向きの客室や集会室などがある。2階の2部屋に2種類の金唐革紙(手製の高級壁紙)が使用されており、現在は復元品がはられている。
設計 - ジョサイア・コンドル 、竣工 - 1896年(明治29年) 、構造 - 木造2階建、煉瓦造地下室付、玄関部塔屋付、スレート葺 建築面積 - 531.5m2 なお、1915年(大正4年)にコンドルが作成した建替計画図が静嘉堂文庫に収蔵されている。鉄筋コンクリート造3階建・建坪348坪の大規模な洋館に立て替え、和洋併置をやめて家族の居室も洋館内に完結する計画であったが実施には至らなかった。」ウィキペディアによる -
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イオニア様式の列柱の並ぶ庭園側。
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一階のテラス部分の床は英国ミントン社に特注したイスラム風図柄のタイル張りになっている。二階ルーフバルコニーの床部分はチーク材が張られています。
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洋館内部の撮影は禁止になっています。見学の途中から、ガイドツアー(無料)に出会い、説明を聞きながらじっくり鑑賞。鹿鳴館の時代にタイムスリップしたような感覚。内装はイスラム風の装飾が施されています。金唐革紙(手製の高級壁紙)の復元品を使用した作品や栞など販売するショップもあります。調度品は殆ど残っていないのだそうですが、書架など数点が残されているのだそうです。東京會舘に残されていたガラス器が寄贈されて残っています。バカラ社製の特注品のグラス類が展示されていました。
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和館 「洋館と同時期に竣工した、書院造を基調とした和風建築である。明治期の大邸宅では、洋館と和館を並べ建て、和館を日常生活空間、洋館を公的な接客空間として使い分けることが多かった。岩崎邸においても、迎賓館としての洋館に対し、生活の場としては和館が使用された。洋館と和館は船底天井の渡り廊下で結ばれ、当時の和洋折衷の生活スタイルを伝えている。設計は大工棟梁の大河喜十郎と伝えられている。長大で良質な木材がふんだんに用いられている。釘隠しなど各所に岩崎家の家紋である三階菱の意匠が見られる。1969年(昭和44年)に「大広間」の名称で重要文化財に指定されたが、同時期に和館の大部分が取り壊された。往時は550坪に達する大邸宅であったが、現存するのは大広間、次の間、三の間の3室と、茶室(待合室)、渡り廊下、便所のみである。設計 - 大河喜十郎(推定) 竣工 - 1896年(明治29年) 構造 - 木造、桟瓦及び銅板葺、廊下、茶室、便所付属建築面積 - 319.6m2」 ウィキペディアによる
洋館から数寄屋造りの廊下を通って書院造の和館に入ります。進駐軍に接収されていたため、「三階菱」の留具など持ち去られているのだそうで、復元品があしらわれています。 -
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庭園 「大名庭園の形式を一部踏襲する庭は、本邸建築に際して池を埋め立てて広大な芝庭とし、庭石・灯篭・築山などを配した和洋併置式の庭園として改修された。現在の庭園は国有化以降の用地転用・売却により大幅に削り取られているが、今も残る雪見灯篭や亭跡の石敷が往時の姿を偲ばせている。」ウィキペディアによる
往時の風情を残す庭。 -
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一階テラスのタイル。
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内部。
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屋根裏。
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本館とつながる地下通路。
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上野公園 「上野恩賜公園は、明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で初めて公園に指定されました。ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いています。当初は、寛永寺社殿と霊廟、東照宮、それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが構築され、文化の薫り高い公園へと衣替えがされました。」公園案内より
昼時となりましたので、隣の不忍池の楠若葉の下で昼食。 -
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弁天堂 「寛永寺を創建した天海僧正が建立。創建当時のお堂は戦災で消失し、現在の堂は昭和33年(1958年)に再建したもの。ご本尊(八臂大弁財天)は、長寿や福徳・芸能の守りとして信仰されています。池の四方からお参りできるように八角形のお堂です。」公園案内より
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大黒天堂。
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顕影碑や供養塚のオンパレード。
不忍池由来碑 昭和41年(1966年)建立 裏面に不忍池の由来が記述されています。 -
銅地蔵 弁天堂の正面横にある銅地蔵。
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扇塚 作家佐藤春夫氏の詩文を配して”ああ佳き人か おも影も しのばざらめや 不忍の池 のほとりに、香を焚きかたみの 阿ふぎ納めつつ”初代花柳寿美が45年間 愛用した扇を埋めたもの.。6代目尾上菊五郎らの発起により昭和24年2月8日(1949年)建立。
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スッポン感謝之塔「スッポン感謝之碑 蘇叟九十二」の銘がある。
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ふぐ供養碑 題字:故岸信介元首相筆。東京フグ料理連盟。昭和40年9月建立。
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めがねの碑 東京眼鏡工業協同組合が昭和43年10月 明治100年事業として建立した記念碑にあるメガネのレリーフは、徳川家康が使用したと言われるメガネをかた採った碑。
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包丁塚。
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鳥塚 東京都内の東京食鳥鶏卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合有志が昭和37年3月24日の建立した供養塔。
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他にも色々の碑が立ち並びます。
高久靄崖の筆塚 高久靄崖(たかくあいがけ):江戸後期の南画家。下野国(栃木県)の人。別号、如樵(じょしょう)など。池大雅に私淑し、江戸に出て谷文晁に学ぶ。また、明、清の文人画を研究。江戸における純粋な南画家として高い評価を集めた。代表作「西園雅集図屏風」。小学館国語大辞典より
八橋検校頭彰碑 昭和41年8月21日建立箏曲の祖、盲目の音楽家橋検校(1614-1685)の顕彰碑。
利行碑 著名な洋画家・長谷川利行の顕彰碑利行碑の隣には有島生馬の筆による歌碑があり、そこには下記の詩が刻まれています。 これも長谷川利行のために建てられたものです。" 人知れず 朽ちも果つべき 身ひとつの いまがいとほし 涙ぬぐわず ""己か身の かげもとゝめず 水すまし 河の流を 光りてすへる"。
高久靄崖の筆塚 高久靄崖(たかくあいがけ):江戸後期の南画家。下野国(栃木県)の人。別号、如樵(じょしょう)など。池大雅に私淑し、江戸に出て谷文晁に学ぶ。また、明、清の文人画を研究。江戸における純粋な南画家として高い評価を集めた。代表作「西園雅集図屏風」。小学館国語大辞典より。 -
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不忍池ボート乗場。
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野外音楽堂。
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