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深川七福神を巡りました。<br />深川七福神は三つの神社と四つのお寺にまつられています。深川神明宮の寿老神から富岡八幡宮の恵比須神まで。<br />途中、寄り道をしながら、3時間弱のコースでした。<br />ご開帳期間は毎年元日から1月15日の午前8時から午後5時までです。この期間には「色紙」と「笹・鈴」の授与があります。<br />笹・鈴にしました。<br />七福神のご尊像を模したお鈴を福笹に一つずつかけていきます。<br />福笹は、七つの寺社のどこでも授与しています。(初穂料・千円)<br />七福神のお鈴は各寺社で授与しています。三百円です。<br /><br />後半はこちら。<br />http://4travel.jp/travelogue/10849210

深川七福神巡り 前半☆深川神明宮~龍光院☆2014/01/11

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2014/01/11 - 2014/01/11

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杏仁豆腐

杏仁豆腐さん

深川七福神を巡りました。
深川七福神は三つの神社と四つのお寺にまつられています。深川神明宮の寿老神から富岡八幡宮の恵比須神まで。
途中、寄り道をしながら、3時間弱のコースでした。
ご開帳期間は毎年元日から1月15日の午前8時から午後5時までです。この期間には「色紙」と「笹・鈴」の授与があります。
笹・鈴にしました。
七福神のご尊像を模したお鈴を福笹に一つずつかけていきます。
福笹は、七つの寺社のどこでも授与しています。(初穂料・千円)
七福神のお鈴は各寺社で授与しています。三百円です。

後半はこちら。
http://4travel.jp/travelogue/10849210

同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩

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  • 大江戸線森下駅からスタート。<br />深川神明宮。<br />

    大江戸線森下駅からスタート。
    深川神明宮。

  • 深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社です。大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元年(一五九六年)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。<br />徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたがないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになったそうです。

    深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社です。大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元年(一五九六年)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。
    徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたがないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになったそうです。

  • 寿老神は、寿老人とも書き、中国道教の神です。また中国の老子の化身の神ともいわれています。<br />寿老神は、白髪長寿の老人の姿をして、杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っています。鹿は、長寿を司る寿老神の神使とされています。寿老神は、人に延命長寿の福徳を授ける福神として、信仰されてきました。

    寿老神は、寿老人とも書き、中国道教の神です。また中国の老子の化身の神ともいわれています。
    寿老神は、白髪長寿の老人の姿をして、杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っています。鹿は、長寿を司る寿老神の神使とされています。寿老神は、人に延命長寿の福徳を授ける福神として、信仰されてきました。

  • 深川神明宮の例大祭は、毎年8月17日に近い日曜日を中心に行います。氏子総代が参列してご本殿で神事を行い、氏子の平安を祈念します。とくに3年に一度、ご本社神輿(宮神輿)の巡幸を行う年を「本祭り」といい、氏子各町の12の町神輿が連合渡御(勢揃い)します。

    深川神明宮の例大祭は、毎年8月17日に近い日曜日を中心に行います。氏子総代が参列してご本殿で神事を行い、氏子の平安を祈念します。とくに3年に一度、ご本社神輿(宮神輿)の巡幸を行う年を「本祭り」といい、氏子各町の12の町神輿が連合渡御(勢揃い)します。

  • 境内に並ぶ十二の町神輿を納めた神輿庫の扉に、各町自慢の神輿を描いた神輿絵が奉納されています。

    境内に並ぶ十二の町神輿を納めた神輿庫の扉に、各町自慢の神輿を描いた神輿絵が奉納されています。

  • 伊東深水誕生の地<br />

    伊東深水誕生の地

  • 深川神明宮から歩いてすぐの所に、芭蕉記念館があります。

    深川神明宮から歩いてすぐの所に、芭蕉記念館があります。

  • 芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。<br /> 大正6年(1917)の大津波の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)4月19日に芭蕉記念館を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館しました。

    芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。
    大正6年(1917)の大津波の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)4月19日に芭蕉記念館を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館しました。

  • 築山の句碑<br />ふる池や蛙飛こむ水の音(貞享3年吟)

    築山の句碑
    ふる池や蛙飛こむ水の音(貞享3年吟)

  • 庭園築山には芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠があります。

    庭園築山には芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠があります。

  • 記念館入口の句碑<br />草の戸も住み替る代ぞひなの家(元禄2年吟)<br />

    記念館入口の句碑
    草の戸も住み替る代ぞひなの家(元禄2年吟)

  • 小さな日本庭園ですが、風情があります。

    小さな日本庭園ですが、風情があります。

  • 芭蕉記念館を出て、小名木川方面に歩くと、芭蕉稲荷神社があります。

    芭蕉記念館を出て、小名木川方面に歩くと、芭蕉稲荷神社があります。

  • 芭蕉庵跡碑<br />碑には、史蹟 芭蕉庵跡 昭和五十六年十一月吉日建之 <br />

    芭蕉庵跡碑
    碑には、史蹟 芭蕉庵跡 昭和五十六年十一月吉日建之 

  • 深川芭蕉庵旧地の由来<br />俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。<br />ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。<br />たまたま大正六年(1917)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。<br />昭和二十年(1945)戦災のため当所がが荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(1955)復旧に尽くした。<br />しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移し江東区において芭蕉記念館を建設した。<br />          昭和五十六年(1981)三月吉日<br />                                  芭蕉遺蹟保存会  

    深川芭蕉庵旧地の由来
    俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
    ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
    たまたま大正六年(1917)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
    昭和二十年(1945)戦災のため当所がが荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(1955)復旧に尽くした。
    しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移し江東区において芭蕉記念館を建設した。
             昭和五十六年(1981)三月吉日
                                     芭蕉遺蹟保存会  

  • 正木稲荷神社

    正木稲荷神社

  • 御祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと<br /><br />

    御祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと

  • 正木稲荷由来碑<br />創立年月は詳ではないが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられる。万年橋際に鎮座していたことから万年橋稲荷とも称されていた。腫れ物の治癒に霊験あらたかで、その祈願には全快までそばを断ち全快すればそばを献じる。

    正木稲荷由来碑
    創立年月は詳ではないが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられる。万年橋際に鎮座していたことから万年橋稲荷とも称されていた。腫れ物の治癒に霊験あらたかで、その祈願には全快までそばを断ち全快すればそばを献じる。

  • 芭蕉庵史跡展望庭園

    芭蕉庵史跡展望庭園

  • 川上と この川下や 月の友

    川上と この川下や 月の友

  • 小名木川五本松と芭蕉の句<br />  松尾芭蕉は、延宝八年(1680)冬<br />より小名木川と隅田川が合流する辺りに<br /> あった深川芭蕉庵に住んでいました。<br /> 「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄<br /> 六年(1693)、50歳の秋に小名<br /> 木川五本松のほとりに舟を浮かべ、<br /> 「深川の末、五本松といふ所に舟をさして」<br />の前書きで「川上とこの川下や月の友」<br />の一句を吟じました。この句は、「今宵<br /> 名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮<br />かべて月を眺めているが、この川上にも<br />風雅の心を同じゅうする私の友がいて、<br /> 今頃は私と同様にこの月を眺めている<br /> ことであろう」の意で、老境に入った<br />芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心<br />が淡々と詠まれています。<br />  「五本松旧跡」(猿江二丁目一六番<br /> 小名木川添い)とは、江戸時代、丹波綾<br /> 部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の<br />松の大木のことで、徳川三代将軍家光公<br />がその小名木川の川面に張り出した立派<br />な老松を激賞したことから、「小名木川<br /> 五本松」として、又、月見の名所として<br />一躍江戸市民の人気を博しました。<br />  この芭蕉句碑は、その地にあった<br />住友セメントシステム開発株式会社が<br />創立20周年を祝して平成20年12月<br /> 4日に社屋の敷地に建立したもので、<br /> 今回同社屋の移転の伴いご寄贈いただき、<br />ここに再建立いたしました。

    小名木川五本松と芭蕉の句
     松尾芭蕉は、延宝八年(1680)冬
    より小名木川と隅田川が合流する辺りに
    あった深川芭蕉庵に住んでいました。
    「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄
    六年(1693)、50歳の秋に小名
    木川五本松のほとりに舟を浮かべ、
    「深川の末、五本松といふ所に舟をさして」
    の前書きで「川上とこの川下や月の友」
    の一句を吟じました。この句は、「今宵
    名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮
    かべて月を眺めているが、この川上にも
    風雅の心を同じゅうする私の友がいて、
    今頃は私と同様にこの月を眺めている
    ことであろう」の意で、老境に入った
    芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心
    が淡々と詠まれています。
     「五本松旧跡」(猿江二丁目一六番
    小名木川添い)とは、江戸時代、丹波綾
    部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の
    松の大木のことで、徳川三代将軍家光公
    がその小名木川の川面に張り出した立派
    な老松を激賞したことから、「小名木川
    五本松」として、又、月見の名所として
    一躍江戸市民の人気を博しました。
     この芭蕉句碑は、その地にあった
    住友セメントシステム開発株式会社が
    創立20周年を祝して平成20年12月
    4日に社屋の敷地に建立したもので、
    今回同社屋の移転の伴いご寄贈いただき、
    ここに再建立いたしました。

  • 芭蕉記念館分室史跡展望庭園は、小名木川が墨田川に流れ込む角地に有ります。<br />芭蕉さんは、墨田川と下流の清洲橋を見つめています。<br />

    芭蕉記念館分室史跡展望庭園は、小名木川が墨田川に流れ込む角地に有ります。
    芭蕉さんは、墨田川と下流の清洲橋を見つめています。

  • 晴れた日の景色は格別です。

    晴れた日の景色は格別です。

  • 東京のいい景色です。

    東京のいい景色です。

  • さて、七福神巡りは、まだ一箇所しかお参りしていません。<br />二つ目を目指しましょう。<br />萬年橋を渡ります。

    さて、七福神巡りは、まだ一箇所しかお参りしていません。
    二つ目を目指しましょう。
    萬年橋を渡ります。

  • 萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8年(1680年)の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載があります。

    萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8年(1680年)の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載があります。

  • 小名木川<br />旧中川から隅田川を結ぶ運河です。

    小名木川
    旧中川から隅田川を結ぶ運河です。

  • 深川七福神巡りの道には、オレンジ色の旗が立っていて、地図なしでも歩けます。迷うことはありません。

    深川七福神巡りの道には、オレンジ色の旗が立っていて、地図なしでも歩けます。迷うことはありません。

  • 深川稲荷神社に着きました。<br />布袋尊です。<br />

    深川稲荷神社に着きました。
    布袋尊です。

  • 深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)の創立、深川地区では、創立の古い神社です。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいいます。この付近の旧町名は、深川西大工町でしたが、昭和七年八月一日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていましたので、この町名が生まれたといわれています。この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されています。

    深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)の創立、深川地区では、創立の古い神社です。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいいます。この付近の旧町名は、深川西大工町でしたが、昭和七年八月一日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていましたので、この町名が生まれたといわれています。この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されています。

  • 清澄庭園を通過。<br />

    清澄庭園を通過。

  • 本誓寺

    本誓寺

  • 村田春海(むらた はるみ)の墓があります。<br />村田春海は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人です。

    村田春海(むらた はるみ)の墓があります。
    村田春海は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人です。

  • 境内には、迦楼羅(かるら)立像があります。

    境内には、迦楼羅(かるら)立像があります。

  • 石造迦楼羅(かるら)立像 <br /> 像の石質は花崗岩で、丸堀に近い浮彫である。<br /> 横笛を吹き、甲冑をつけて立つ。口ばし有し、二臂、<br /> 二翼、三又の火炎光背をもつ。朝鮮高麗時代の作と<br />推定されるが、その渡米の時期などの来歴は不明で<br /> ある。<br />  「カルラ」はgaruda(ガルダ)の音写でインド神<br /> 話上の架空の大鳥、理想化された霊鳥である。天下<br />の大樹におり、龍を常食とし、羽は金色で両翼を広<br />げると三百三十六万里あるという。大乗仏教では、<br /> 仏教を守護する天龍八部衆の一つとされ、火害・疫<br /> 病を除き、幸福を与えるといわれる。密教であは、<br /> 娑婆世界を主宰する梵天・大自在天の神々が衆生を<br />救うために化身したものといい、また文殊菩薩の化<br /> 身ともいう。<br />  この迦楼羅の信仰は南アジア諸国一般に広がって<br /> おり、「ガルーダ・インドネシア航空」の名称もこ<br /> れに由来している。<br />

    石造迦楼羅(かるら)立像
     像の石質は花崗岩で、丸堀に近い浮彫である。
    横笛を吹き、甲冑をつけて立つ。口ばし有し、二臂、
    二翼、三又の火炎光背をもつ。朝鮮高麗時代の作と
    推定されるが、その渡米の時期などの来歴は不明で
    ある。
     「カルラ」はgaruda(ガルダ)の音写でインド神
    話上の架空の大鳥、理想化された霊鳥である。天下
    の大樹におり、龍を常食とし、羽は金色で両翼を広
    げると三百三十六万里あるという。大乗仏教では、
    仏教を守護する天龍八部衆の一つとされ、火害・疫
    病を除き、幸福を与えるといわれる。密教であは、
    娑婆世界を主宰する梵天・大自在天の神々が衆生を
    救うために化身したものといい、また文殊菩薩の化
    身ともいう。
     この迦楼羅の信仰は南アジア諸国一般に広がって
    おり、「ガルーダ・インドネシア航空」の名称もこ
    れに由来している。

  • 深川江戸資料館の通りです。

    深川江戸資料館の通りです。

  • 江戸みやげ屋 たかはし

    江戸みやげ屋 たかはし

  • 佃煮の魚保

    佃煮の魚保

  • 霊巌寺<br />松平定信の墓があります。

    霊巌寺
    松平定信の墓があります。

  • 深川宿

    深川宿

  • 武井咲さんも来店しましたな。

    武井咲さんも来店しましたな。

  • 深川江戸資料館を通過<br /><br />2011年3月に江戸資料館は来ました。<br />http://4travel.jp/travelogue/10556277

    深川江戸資料館を通過

    2011年3月に江戸資料館は来ました。
    http://4travel.jp/travelogue/10556277

  • 雲光院<br />阿茶局(あちゃのつぼ)の墓があります。

    雲光院
    阿茶局(あちゃのつぼ)の墓があります。

  • 龍光院に到着<br />毘沙門天です。

    龍光院に到着
    毘沙門天です。

  • 龍光院は、浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長十六年(1611年)馬喰町(中央区)に創立、明暦三年(1657年)の大火に焼失し、岩井町(千代田区)に移転、天和二年(1682年)の大火に焼失し、同年深川の地に移転しました。<br />龍光院が現在地に移ったとき、鬼門除けとして境内東北角に、三尺ほどの石造の毘沙門天が安置され、昭和十一年には境内の東南角に一間半四面の毘沙門堂が建立されました。昭和二十年、戦災のため、堂宇は焼失しましたが、復興し、昭和五十年、木彫の立派な毘沙門天が安置されました。

    龍光院は、浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長十六年(1611年)馬喰町(中央区)に創立、明暦三年(1657年)の大火に焼失し、岩井町(千代田区)に移転、天和二年(1682年)の大火に焼失し、同年深川の地に移転しました。
    龍光院が現在地に移ったとき、鬼門除けとして境内東北角に、三尺ほどの石造の毘沙門天が安置され、昭和十一年には境内の東南角に一間半四面の毘沙門堂が建立されました。昭和二十年、戦災のため、堂宇は焼失しましたが、復興し、昭和五十年、木彫の立派な毘沙門天が安置されました。

  • ここで、3箇所目。<br />寄り道をしたので、ちょっと時間がかかってしまいました。<br />先を急ぎます。

    ここで、3箇所目。
    寄り道をしたので、ちょっと時間がかかってしまいました。
    先を急ぎます。

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