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お正月に、歴史人1月号徳川15代将軍西京ランキングという雑誌を買いました。日本史に疎い私には、なかなか面白い内容でした。これを読みながら、お正月気分で、増上寺へ行ってきました。<br />芝の増上寺御霊屋は、二代将軍秀忠公をはじめ、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公、御台所崇源院、皇女和宮さま経ち5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)をはじめ5人の側室、家光公第三子甲府宰相綱重他歴代将軍の子女多数が埋葬されています。1月15日まで公開されています。<br />御霊を祀る墓所、本殿、拝殿は、昭和20年3月10日に北廟が被災し、5月25日に南廟が被災、殆どの建物が焼失してしまいました。焼失した御霊屋は、暫く荒廃したままでしたが、昭和33年から文化財保護委員会の許可を得て、南北に配していた墓所はここに纏められて、改葬されたということです。<br />現在、増上寺とその周辺に現存する旧廟跡は、文昭院殿(六代家宣公)霊廟「中門」正徳2年(1712)境内源将軍墓所入り口、<br />台徳院殿(二代秀忠公)霊廟「惣門」寛永9年建造(1632)東京プリンスホテルパークタワー前、有章院殿(七代家継公)霊廟「二天門」享保元年建造(1716)東京プリンスホテル前、清揚院殿(三代家光公第三子、甲府宰相綱重公)霊廟「水盤舎」宝永2年建造 (1705)昭和53年増上寺境内参道脇に移築。<br />

徳川将軍家霊廟特別拝観へ

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2014/01/04 - 2014/01/04

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belledune

belleduneさん

お正月に、歴史人1月号徳川15代将軍西京ランキングという雑誌を買いました。日本史に疎い私には、なかなか面白い内容でした。これを読みながら、お正月気分で、増上寺へ行ってきました。
芝の増上寺御霊屋は、二代将軍秀忠公をはじめ、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公、御台所崇源院、皇女和宮さま経ち5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)をはじめ5人の側室、家光公第三子甲府宰相綱重他歴代将軍の子女多数が埋葬されています。1月15日まで公開されています。
御霊を祀る墓所、本殿、拝殿は、昭和20年3月10日に北廟が被災し、5月25日に南廟が被災、殆どの建物が焼失してしまいました。焼失した御霊屋は、暫く荒廃したままでしたが、昭和33年から文化財保護委員会の許可を得て、南北に配していた墓所はここに纏められて、改葬されたということです。
現在、増上寺とその周辺に現存する旧廟跡は、文昭院殿(六代家宣公)霊廟「中門」正徳2年(1712)境内源将軍墓所入り口、
台徳院殿(二代秀忠公)霊廟「惣門」寛永9年建造(1632)東京プリンスホテルパークタワー前、有章院殿(七代家継公)霊廟「二天門」享保元年建造(1716)東京プリンスホテル前、清揚院殿(三代家光公第三子、甲府宰相綱重公)霊廟「水盤舎」宝永2年建造 (1705)昭和53年増上寺境内参道脇に移築。

旅行の満足度
4.0
交通手段
徒歩
  • 徳川将軍家墓所門  元 文昭院殿(六代家宣公)宝塔前中門です。

    徳川将軍家墓所門  元 文昭院殿(六代家宣公)宝塔前中門です。

  • 中へ入って見た門の裏側です。

    中へ入って見た門の裏側です。

  • 現在の合祀塔には、家光公第三子で、家宣公の実父である家重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、11代家斉公正室廣大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の婦人や子女の多数が埋葬されています。この宝塔は、月光院輝子の墳墓に祀られていたものです。 

    現在の合祀塔には、家光公第三子で、家宣公の実父である家重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、11代家斉公正室廣大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の婦人や子女の多数が埋葬されています。この宝塔は、月光院輝子の墳墓に祀られていたものです。 

  • 文昭院殿(六代家宣公)家光公の三男綱重を父として、寛文2年(1662)に生まれ、宝永6年(1709)、将軍職を継ぎ、新井白石らを重用して、政治の刷新を計り、先代の生類憐れみの令を廃止するなど正徳の治を成し遂げたが、在職3年で江戸で流行っていた風邪に罹り、余病を併発して、51歳で没しました。増上寺の北霊域に造営された文昭院殿廟に参詣した永井荷風は、その荘重美麗な外観に驚き、神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を配した内部の「秩序の世界」に感嘆し、著書「霊廟」の中で、「広大なるこの別天地の幽邃(ゆうすい)なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気と何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される」と告白しています。 

    文昭院殿(六代家宣公)家光公の三男綱重を父として、寛文2年(1662)に生まれ、宝永6年(1709)、将軍職を継ぎ、新井白石らを重用して、政治の刷新を計り、先代の生類憐れみの令を廃止するなど正徳の治を成し遂げたが、在職3年で江戸で流行っていた風邪に罹り、余病を併発して、51歳で没しました。増上寺の北霊域に造営された文昭院殿廟に参詣した永井荷風は、その荘重美麗な外観に驚き、神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を配した内部の「秩序の世界」に感嘆し、著書「霊廟」の中で、「広大なるこの別天地の幽邃(ゆうすい)なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気と何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される」と告白しています。 

  • 昭徳院殿(十四代家茂公) 11代家斉公の養子、斉順の長子として弘化3年(1846)に生まれ、安政5年、将軍の養子となり、14代将軍となりました。世継ぎ問題や日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まりましたが、事態収拾のために、公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えました。尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は、長州討伐を指揮しますが、出征途中の大阪城で持病の脚気のため、慶応2年(1866)、21歳で病死します。

    昭徳院殿(十四代家茂公) 11代家斉公の養子、斉順の長子として弘化3年(1846)に生まれ、安政5年、将軍の養子となり、14代将軍となりました。世継ぎ問題や日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まりましたが、事態収拾のために、公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えました。尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は、長州討伐を指揮しますが、出征途中の大阪城で持病の脚気のため、慶応2年(1866)、21歳で病死します。

  • 崇源院殿 お江の方 <br />織田信長の妹、お市の方と近江の浅井長政との間に生まれた三女。3度目の結婚で、秀忠の妻となり、3代家光を生みました。長姉は秀忠の側室淀殿。

    崇源院殿 お江の方 
    織田信長の妹、お市の方と近江の浅井長政との間に生まれた三女。3度目の結婚で、秀忠の妻となり、3代家光を生みました。長姉は秀忠の側室淀殿。

  • 有章院殿 七代家継公 家宣公の第三子として宝永6年に生まれました。父の没後、兄二人の早世で、正徳3年(1713)、僅か5歳で七代将軍職を継ぐこととなります。正徳5年、皇女八十宮吉子(当時2歳)と婚約しますが、病弱だったため、翌年8歳で没。こうして、宗家出身の将軍は途絶えることになります。

    有章院殿 七代家継公 家宣公の第三子として宝永6年に生まれました。父の没後、兄二人の早世で、正徳3年(1713)、僅か5歳で七代将軍職を継ぐこととなります。正徳5年、皇女八十宮吉子(当時2歳)と婚約しますが、病弱だったため、翌年8歳で没。こうして、宗家出身の将軍は途絶えることになります。

  • 惇信院殿 九代家重公  正徳元年八代将軍吉宗公の長子として生まれましたが、生まれつき病気がちで、言語不明瞭だったと言われています。唯一家重の言葉を理解した側用人、大岡忠光に政務を依存していました。復元される容貌は、歴代将軍の中で最も美男子であったらしく、遠くから拝謁するだけの大名にとっては、気高く見えたと言う。宝暦10年(1760)49歳で将軍職を譲り、隠退しましたが、翌年、51歳で没。

    惇信院殿 九代家重公  正徳元年八代将軍吉宗公の長子として生まれましたが、生まれつき病気がちで、言語不明瞭だったと言われています。唯一家重の言葉を理解した側用人、大岡忠光に政務を依存していました。復元される容貌は、歴代将軍の中で最も美男子であったらしく、遠くから拝謁するだけの大名にとっては、気高く見えたと言う。宝暦10年(1760)49歳で将軍職を譲り、隠退しましたが、翌年、51歳で没。

  • 静寛院宮 皇女和宮  十四代家茂公正室 兄孝明天皇即位の年、仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれ、嘉永4年に有栖川宮と婚約。しかし、婚儀間近になって、公武合体により、15歳で徳川家に降嫁します。家茂公没後、落飾して静寛院と称し、波瀾万丈、変転激しい時代の中、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くしますが、明治10年(1877)31歳の短い生涯を閉じました。<br />本人の遺言に従い、遺体は家茂公と並んで、増上寺に祀られました。宝塔の形は、夫婦同様ですが、家茂公石塔に対して、青銅製になっています。 

    静寛院宮 皇女和宮  十四代家茂公正室 兄孝明天皇即位の年、仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれ、嘉永4年に有栖川宮と婚約。しかし、婚儀間近になって、公武合体により、15歳で徳川家に降嫁します。家茂公没後、落飾して静寛院と称し、波瀾万丈、変転激しい時代の中、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くしますが、明治10年(1877)31歳の短い生涯を閉じました。
    本人の遺言に従い、遺体は家茂公と並んで、増上寺に祀られました。宝塔の形は、夫婦同様ですが、家茂公石塔に対して、青銅製になっています。 

  • 大日本 東京 芝 三縁山 増上寺 境内全図のコピー<br />明治34年5月当時

    大日本 東京 芝 三縁山 増上寺 境内全図のコピー
    明治34年5月当時

  • 有章院殿(七代家継公)霊廟 水盤及び井戸屋形 <br />享保2年造営され、昭和20年に焼失したため現存していません。本霊廟は、増上寺北廟に、文昭院殿廟と並んで、造営され、勅使門を入ると、右に鐘楼、相対して左に水盤舎(写真左)、井戸屋形(写真右)がありました。

    有章院殿(七代家継公)霊廟 水盤及び井戸屋形 
    享保2年造営され、昭和20年に焼失したため現存していません。本霊廟は、増上寺北廟に、文昭院殿廟と並んで、造営され、勅使門を入ると、右に鐘楼、相対して左に水盤舎(写真左)、井戸屋形(写真右)がありました。

  • 有章院殿 霊廟 勅使門  享保2年(1717)造営、昭和20年に焼失。<br />勅使門左右の外透塀は、霊廟主要部分の左右廊に至るまで、百七間(約195m)に及びます。外透塀奥には門内右手にある鐘楼が見えます。

    有章院殿 霊廟 勅使門  享保2年(1717)造営、昭和20年に焼失。
    勅使門左右の外透塀は、霊廟主要部分の左右廊に至るまで、百七間(約195m)に及びます。外透塀奥には門内右手にある鐘楼が見えます。

  • 有章院殿 霊廟中門・左右廊内部 享保2年(1717)に造営され、昭和20年に焼失。<br />有章院殿霊廟主要部(拝殿、相之間、本殿)の入り口で、中門、左右廊内部より勅使門を望んだものです。

    有章院殿 霊廟中門・左右廊内部 享保2年(1717)に造営され、昭和20年に焼失。
    有章院殿霊廟主要部(拝殿、相之間、本殿)の入り口で、中門、左右廊内部より勅使門を望んだものです。

  • 文昭院殿 霊廟 鐘楼 昭和20年に焼失。<br />正徳3年(1713)造営。勅使門から中門に至る参道の右にありました。裄行三間(約5,5m)、梁間二間(約3,6m)入母屋造り、銅瓦葺き。

    文昭院殿 霊廟 鐘楼 昭和20年に焼失。
    正徳3年(1713)造営。勅使門から中門に至る参道の右にありました。裄行三間(約5,5m)、梁間二間(約3,6m)入母屋造り、銅瓦葺き。

  • 文昭院殿(六代家宣公)霊廟 奥院唐門 正徳3年に造営され、昭和20年に焼失。<br />本殿横の仕切り門を出て、西進すると、奥院前の石段へいたる。奥院はm唐門、拝殿、一段上がって、中門(現存しています)、宝塔(現存)が一直線に配されていました。

    文昭院殿(六代家宣公)霊廟 奥院唐門 正徳3年に造営され、昭和20年に焼失。
    本殿横の仕切り門を出て、西進すると、奥院前の石段へいたる。奥院はm唐門、拝殿、一段上がって、中門(現存しています)、宝塔(現存)が一直線に配されていました。

  • 文昭院殿 霊廟 左右廊内部 正徳3年造営され、昭和20年に焼失。<br />第三の門である中門の左右に続く廊内部。中門の内に、拝殿、相之間、本殿より成る権現造りの御霊屋(霊廟主要部)がありました。

    文昭院殿 霊廟 左右廊内部 正徳3年造営され、昭和20年に焼失。
    第三の門である中門の左右に続く廊内部。中門の内に、拝殿、相之間、本殿より成る権現造りの御霊屋(霊廟主要部)がありました。

  • 文昭院殿 霊廟 拝殿内部 正徳3年に造営され、昭和20年に焼失。<br />本霊廟は、増上寺北廟の南半を占めていました。二天門から勅使門,中門を抜けて、渡り廊下を進むと、霊廟主要部である拝殿。相之間、本殿へ至る。<br />

    文昭院殿 霊廟 拝殿内部 正徳3年に造営され、昭和20年に焼失。
    本霊廟は、増上寺北廟の南半を占めていました。二天門から勅使門,中門を抜けて、渡り廊下を進むと、霊廟主要部である拝殿。相之間、本殿へ至る。

  • 台徳院殿(2代秀忠公)霊廟 奥院宝塔 寛永9年造営され、昭和20年に焼失。<br />奥院、八角の覆堂内部に祀られた宝塔(墓塔)は、装飾美麗で、当時の工芸美術の粋を尽くしたものでした。

    台徳院殿(2代秀忠公)霊廟 奥院宝塔 寛永9年造営され、昭和20年に焼失。
    奥院、八角の覆堂内部に祀られた宝塔(墓塔)は、装飾美麗で、当時の工芸美術の粋を尽くしたものでした。

  • 台徳院殿 霊廟 惣門 寛永9年(1632)造営され、戦火を免れた数少ない建造物です。台徳院殿霊廟の表門にあたり、奥に見える勅使門から本殿、奥院へ続きます。

    台徳院殿 霊廟 惣門 寛永9年(1632)造営され、戦火を免れた数少ない建造物です。台徳院殿霊廟の表門にあたり、奥に見える勅使門から本殿、奥院へ続きます。

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