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かねてから懸案であった高取城址にゆく。朝起きれず昼から。紅葉は終わったので静かであった。行く気にもならないインドパラダイスの壷阪寺を見ながら急坂を車で登る。10分ほど。冬は厳しいと思う。健脚の人は登るようだがこちとら、不健康が命。ここで大失敗。途中の高取城址の看板に車を停めてしまった。後で気づいたがまだまだ車で登れた。30cmもあるような階段が続く。いやになり死にそうになる。クチコミの鞍馬山、死の彷徨を思い出す。550mの道を登り城址に着く。3時前に到着。以外に山の頂上なので明るかった。落ち葉の絨毯を踏みしめ撮影する。4時。陽が落ちると怖いので早々に撤収する。ただ雪のときや紅葉のときも来たいと思った。道が心配だが・・・・結果は写真で。<br /><br /><br />高取城<br />高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。<br /><br />概要<br />城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。<br /><br />曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。<br /><br />歴史・沿革<br />室町時代・安土桃山時代[編集]南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。<br /><br />その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。 天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。<br /><br />筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。<br /><br />天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。<br /><br />利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。<br /><br />江戸時代<br />俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉した。<br /><br />本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となったが寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5,000石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受ける。<br /><br />近現代 <br />旧二の門(子嶋寺山門)明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる[1]。<br /><br />この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが[1]2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。<br /><br />殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。<br /><br />貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。<br />

落葉を求めて 奈良 高取城址

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2013/12/07 - 2013/12/07

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bakaneko

bakanekoさん

かねてから懸案であった高取城址にゆく。朝起きれず昼から。紅葉は終わったので静かであった。行く気にもならないインドパラダイスの壷阪寺を見ながら急坂を車で登る。10分ほど。冬は厳しいと思う。健脚の人は登るようだがこちとら、不健康が命。ここで大失敗。途中の高取城址の看板に車を停めてしまった。後で気づいたがまだまだ車で登れた。30cmもあるような階段が続く。いやになり死にそうになる。クチコミの鞍馬山、死の彷徨を思い出す。550mの道を登り城址に着く。3時前に到着。以外に山の頂上なので明るかった。落ち葉の絨毯を踏みしめ撮影する。4時。陽が落ちると怖いので早々に撤収する。ただ雪のときや紅葉のときも来たいと思った。道が心配だが・・・・結果は写真で。


高取城
高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

概要
城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。

曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。

歴史・沿革
室町時代・安土桃山時代[編集]南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。

その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。 天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。

筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。

天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。

利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。

江戸時代
俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉した。

本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となったが寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5,000石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受ける。

近現代
旧二の門(子嶋寺山門)明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる[1]。

この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが[1]2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。

殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。

貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。

旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車 徒歩

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  • やっと着くと銀杏が迎えてくれた。

    やっと着くと銀杏が迎えてくれた。

  • ここから渋い道が続く

    ここから渋い道が続く

  • ええ感じ

    ええ感じ

  • 来た甲斐がある

    来た甲斐がある

  • こんな絨毯の連続です。

    こんな絨毯の連続です。

  • 人も少なく撮りやすい

    人も少なく撮りやすい

  • ええ天気でした

    ええ天気でした

  • 撮ってみたかった写真。

    撮ってみたかった写真。

  • 秋の斜光に燦然と輝く

    秋の斜光に燦然と輝く

  • 城の風格があります

    城の風格があります

  • ここも絶景

    ここも絶景

  • 天守まで登る道

    天守まで登る道

  • 落ち葉の向こうにあでやかな黄色

    落ち葉の向こうにあでやかな黄色

  • すごくきれい

    すごくきれい

  • 下山途中。奈良の夜景が見れるでしょう

    下山途中。奈良の夜景が見れるでしょう

  • 画にならない壺阪山パラダイス

    画にならない壺阪山パラダイス

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