2013/12/02 - 2013/12/03
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サンフランさん
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いよいよ前半の山場、大井川へ
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12月2日、
今日も快晴、気分のいい1日になりそうで、府中宿、城前を出発 -
西郷ー山岡会見の史碑が静岡の目抜きの街角に!
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伊勢丹の角に札の辻の跡
こちらへ左折して本通りへ -
本通りを行きます。
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庚申塔が路端に
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安倍川架橋の碑
「宮崎総五が明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川架橋の顛末を後世の人に伝えるために建てられたものです」静岡市
それ以前は仮橋はあったものの渡し船だったようで、「弥勒町には川越のための川会所が設けられていた。江戸時代は弥勒町一帯は安倍川の河原で弥勒院という山伏が河原で餅を売るようになった。これを安倍川餅と呼んだ」 -
こちらは安倍川の義夫の碑
正直な川越人夫の顕彰碑だそうで、「1738年、紀州の漁夫が大金をもって安倍川を渡ろうと人夫を頼んだが、貸し賃が高いため自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に財布を落としてしまう。たまたま、その近くにいた人夫の一人が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って、財布を渡した。旅人は礼金をあげようとしたが、その人夫は受け取らなかった。旅人は受け取らない礼金を奉行所に届けた。その人夫は奉行所からも礼金を受け取らないので、礼金は旅人に返し、別途、代わりに奉行所から褒美の金を渡した」という話で、1929年に学童や有志の募金で碑が建てられた。(静岡市) -
安部川手前にある弥勒緑地には、...由比小雪の墓石もある。 -
安倍川を渡る手前に安倍川餅の老舗、
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安倍川を渡りました。いまは近代的な橋が架かって入るが、交通は激しい。
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東海道らしき松ノ木が! 名残の松か?
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沢渡の子授け地蔵
その昔、子供に恵まれない夫婦はこの地蔵一体を借りて信仰すれば子供が授かるといわれていました。子供が授かった人は新しい地蔵を一体つくりお礼参りをした。そのためこの地蔵堂には子宝に恵まれた人があげた地蔵がたくさん祀られています」(長田西自治会) -
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丸子の一里塚はぽつんと道端に、....一里塚跡の石碑
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丸子宿江戸方見附あと
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道の反対側にも
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丸子宿本陣跡
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連子格子の民家に丸子宿の看板
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とろろ汁の丁子や
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芭蕉の歌碑が立っています。
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丸子橋の手前に立て札
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丸子橋を渡ったところに丸子宿高札場跡の復元
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丸子紅茶
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宇津の谷の集落は左とのこと
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車やさんから上は昔の街道の風情?江戸時代をほうふつさせる街並み。
トンネルの開通で宇津の谷は取り残されたような部落になってしまったようだ。 -
お羽織や(石川家)
名物団子の旗が立ってるが、人影はない。 -
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ここが旧東海道の峠の入り口!
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宇津の谷の部落が下に見える。
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宇津の谷峠へ向かいます。
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峠を過ぎて、だいぶ下へ降りてきました。舗装道路になっている。石畳はここで終わりかと思ったらしばらく行ったらまた石畳でした。
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ようやくここで石畳は終わり
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坂下の地蔵堂にようやくたどり着く
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岡部宿へ急ぐ
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これより岡部宿か?
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秋葉常夜灯
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ようやく柏屋さんに
残念ながら今日はお休みだそうで! -
同じく柏屋です。
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問屋場あと
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小野小町姿見の橋
小川はいまや下水のようになっている。 -
五智如来
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松ノ木が少し残った国道へでる。
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国道の反対側に岡部宿の碑、藤枝へ
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これより西巌村領
もう暗くてよく読めない。 -
もう日はとっぷりと暮れました。
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闇の中に西田中領の傍示杭が! 藤枝は近い?
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日はとっぷり落ちて、ようやく藤枝宿へ
成田山の前を通過 -
街の中の眼科の前に白子由来記の碑
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常夜灯がともっています。現用の常夜灯は初めてです。
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藤枝の商店街に入ってきました。上伝馬問屋場跡が、....
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上本陣跡は路上のタイルに!
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勝草橋のたもとにある常夜灯ですが、フラッシュが足りずに、常夜灯の頭が飛んでしまいました。上もあります。
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12月3日、藤枝駅前の旅籠を出発。
藤枝は宿場と現在の東海道線の藤枝駅はかなりはなれていました。 -
名も知れぬ社、東海道、いまは県道222号を行きます。
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鏡池堂6地蔵尊
表はそれらしく建物、サイドはいただけない。 -
これまで数々の地蔵堂を見てきたが、達筆な由緒書きで、…
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小さい地蔵堂が、
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瀬戸染飯伝承館の宣伝旗が、…
伝統文化財らしい。少し距離があるので、先を急ぐ -
千貫堤の碑と説明が! でもどこが堤か? よくわからない。
「1635年、田中城主となった水野漬物忠義は領内の大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山すそから南方藤五郎山をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360mに渡り、高さ3.6m、幅29mの堤防を千貫の労銀を投じて増築したのでこの名がある」(藤枝氏教育委員会) -
藤枝の追分
瀬戸山越えの中世の東海道と旧東海道との分かれ道
「瀬戸新屋や水上は池や湿地の多いところで、東海道が6地蔵のところを通るようになったのは開拓が進んでからである。瀬戸新屋を通るようになって、古道との分かれ道を追分と呼んだ」(青島史跡保存会) -
田中藩の境界石 -
上青島の松の並木
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上青島の一里塚跡
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藤枝のマンホール
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島田市へ入ります。県道34号です。
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西見附あと
島田の入り口には例のすくない枡形の見附が設けられていた。ここに宿場の番人をおいた記録はないので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所」(島田市教育委員会) -
島田宿の案内板
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銀行の角にある芭蕉の句碑
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大井神社の鳥居が右に! 大井川の渡しは近い?
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枡形見附のあと(西入り口)
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大善寺の前を通過
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上段の間が現存する塚本家
上段の間とは大名をお迎えする1段高くなった部屋のことで、本陣には必ず備えられていました。塚本家は伝わる文書によると大村藩によって建てられたもので、大村藩の参勤交代やゆかりのある諸大名や武家が大井川をわたるときに特別の便宜を図り、川越しの準備や手続きを代行した」(島田市教育委員会など) -
秋葉神社は常夜灯?
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島田市のマンホール
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いよいよ川越です。
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口取宿へ
「川越人足の定年は45歳でしたが、なお仕事を希望するものには口取宿に詰めさせました。彼らは川越しをする人や荷物を各組に公平に割り当てたり現役へのアドバイスや番宿間の連絡、忙しいときの手助けをした」 -
これが番屋のようです。
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中を拝見することに、…
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このような屈強なかたが、川越人足だったのでしょうか?
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荷縄や
名前のとおりの商売? -
番屋が立ち並んでいます。
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これに乗せて川を渡ったのでしょうか?これが川越の道具(連台)
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10番宿
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番宿にお住まいの方が!
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仲間の宿
「主に年配の川越人足立ちの集まった宿で、人足の代表である小頭や陸取りが集まって会合を開いた場所でもあります。
川越人足は江戸時代の終わりには島田側だけで650人ほどいたといわれています。宿とはここでは宿場ではなく、川越人足の詰め所。陸取りは人足の経験者で川会所から番宿まで旅人を案内して川越人足に引き渡す役目であった」(島田市教育委員会) -
八百屋お七の恋人、吉三郎の墓
八百屋お七の処刑あとは先日、鈴が森で見たばかり、… -
立会い宿あと
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札場
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こちらが川会所です。
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ここにも芭蕉の句碑
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れん台の数々が展示されています。
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このようなお役人が詰めていたのでしょう。
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これは大名用?
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八重枠稲荷神社
昔、ここは大井川の出し堤防があり洪水の時には蛇篭に石を詰めてくいで固定して、これを幾重にも並べて。激流から村を守りました。名前はそこから来ています。1760年に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立されたとされています。しかし、この神社の祭日は2月の初午の日であることから川で亡くなった人々の供養が主だったと考えられます。社殿は1812年と1901年に修繕がされています。石積みは当時のままで大井川の石を亀甲型にして、積み上げたものです」(門前の立札) -
案内をいただいたボランティアの方です。感謝感謝、....
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朝顔の松
公園になってます。松ノ木は江戸時代からこの大きさではないと思う。 -
島田市の大井川博物館
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大井川を見渡します。川幅は広いですが昔のような流れではありません。
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博物館前には歴史ある郵便ポストです。これ現用です。
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桜堤を上流へ歩きます。江戸時代にはこの堤が堤防だったようです。
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宗長庵跡
川越とは関係なく、宗長は1448年生まれの連歌師だそうで、連歌界の第一人者だそうです。 -
大井側橋の記念碑です。大きな石碑の前に夢舞台東海道の道標が!
今日はこれまでで、川止めです。
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