2013/11/08 - 2013/11/08
130位(同エリア842件中)
キートンさん
永すぎた夏が終り、すっかり秋めいてきましたね。
秋といえば紅葉シーズンの前にこれやっときますか。
というわけで、ブラチャモリ第4弾!
今回は大阪府北西部の豊中と池田あたりを超テキトーに攻めてみたいと思います。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 一人あたり費用
- 1万円未満
-
自宅を出発してチャリンコころがし約30分。
ここは豊中東部にある服部緑地。
朝から小学生の遠足でにぎわっている。
今回もこの何の変哲もないチャリくんでブラつきます。 -
最初の寄り道は服部緑地内にある「日本民家集落博物館」。
17〜19世紀に建築された東北から九州までの民家11棟を移設した野外博物館。
昭和31年(1956年)と開館は古く、「日本最初の野外博物館」であるそうだ。
その割には地元大阪でもあまり知名度が高くないような・・・
開館時間、9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日、毎週月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日)
入館料、大人500円
この入口の門は「河内布施の長屋門」(大阪府東大阪市)。
塩爺「しおじい」こと元財務大臣塩川正十郎氏の塩川家から寄贈されたもの。 -
順路に従って行くと、先ずは「日向椎葉の民家」(宮崎県)。
「竿家造り」と呼ばれる併列間取りの細長いつくりをしている。
国の重要文化財に指定されている。
詳しくはこちら
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kenzoubutsu/kentiku004.html -
コザ(上座敷)からデイ(下座敷)とウチネ(茶の間)を見たところ。
急な山の斜面に建てられるため奥行きが狭く、ドジ(土間)、ウチネ(茶の間)、デイ(下座敷)、コザ(上座敷)の各部屋が一列に並んでいる。 -
「信濃秋山の民家」(長野県)。
長野県と新潟県の県境にある秋山郷は有数の豪雪地帯で、陸の孤島ともいうべき山国の村だった。
18世紀中頃の建築で「越後中門造り」という雪国特有の形をしており、茅壁が独特の外観にしている。
国の重要文化財に指定されている。
詳しくはこちら
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kenzoubutsu/kentiku002.html -
内部は広間型の間取りで建具類がほとんどない。
床貼りもせず、地面にムシロを敷いただけの土間住まいであった。
掘立柱を使用しているなど、中世の趣きを残す貴重な文化遺産だという。 -
「大和十津川の民家」(奈良県)。
十津川村は吉野紀伊山地のただなかにあり、山の斜面をけずって家が建てられた。
部屋が横に細長く一列に並ぶ間取りになっている。
この家のもとの持ち主は、江戸時代の終わりごろに造り酒屋をいとなんでいて、母屋の横に立派な蔵が建てられている。
詳しくはこちら
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kenzoubutsu/kentiku102.html -
「中の間」と「奥の間」を見たところ。
「奥の間」は畳敷きの和室になっているが、「日本民家集落博物館」に展示されている民家では畳敷きはほとんど見かけなかった。
昔は畳は相当な高級品であったようだ。 -
すっかり秋めいて落ち葉の季節。
その向こうに見えるのは「越前敦賀の民家」。 -
「越前敦賀の民家」(福井県)。
琵琶湖北岸から福井県西部に見られる「湖北型」の民家。
外壁に柱を塗り込め、太い梁や柱を使用して豪雪に耐える頑丈な造りになっている。
台所が他の部屋より一段低くなっているのは、土間にムシロを敷いて暮らしていた名残りとか。
詳しくはこちら
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kenzoubutsu/kentiku103.html -
「南部の曲家(まがりや)」(岩手県)。
馬の産地として栄えた旧南部藩の農家は、主家に大きなうまやをL字型に接続したつくりから「曲家」と呼ばれる。
ニワ(土間)には昔の農機具や雪国ならではのソリなどが展示されている。
詳しくはこちら
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kenzoubutsu/kentiku104.html -
「南部の曲家(まがりや)」では、はたおり体験の催しがあるようだ。
-
「小豆島の農村歌舞伎舞台」(香川県)。(左側)
荒神社の境台に本殿と向かい合って建てられていた。
田植えを祝う春の祭りなどで、村人たちが歌舞伎芝居を演じ、神様にも芝居をいっしょに楽しんでもらったのだという。 -
「堺の風車」。
大正時代から昭和20年代まで、大阪湾の堺港の浜から高石浜にかけて700基以上あったという。
農業用水として地下水をくみ上げていたようだ。 -
「摂津能勢の民家」(大阪府)。
摂津・丹波地方特有の妻入り入母屋造りの民家。
屋内を2分し、片側を馬屋と土間、もう方側を部屋とした特徴的な間取り。
江戸時代初期の建築と推定され、国の重要文化財となっている。
かまどは右の3つは家族の料理用で一番大きな左端は馬など家畜用に使用されたようだ。
詳しくはこちら
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kenzoubutsu/kentiku003.html -
「飛騨白川の合掌造民家」(岐阜県)。
茅葺・切妻の大屋根が掌を合わせたような形から「合掌造り」と呼ばれる。
屋根は1階部分に固定されておらず、載せてあるだけの柔構造で、強風に対し復元力があるという。 -
1階は家族の住む場所、2階以上は養蚕の作業場として使用された。
20人前後、多い場合は40人近くの大家族がひとつの家屋に暮らしていたという。 -
「むかしのくらし展示」のコーナーには、唐箕(とうみ)、千石どおし、千歯こき、足踏み脱穀機、踏み車などの昔の農具の展示がある。
一番手前の縄編み機などちょっと面白そうである。
使い方はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=jkLiOU8TU84 -
1時間30分ほど「日本民家集落博物館」を見学した後、北へ北へとチャリンコをこぐ。
豊中亀岡線のなかでも、中央環状線の少路交差点から国道171号線の牧落交差点にかけては、誰が名付けたか「ロマンチック街道」と呼ばれているとか。
ロマンチックなのかどうかは微妙なところだが、少なくともチャリンコでこの坂を上る身になれば、「ロマンチック街道」というより、どちらかというと「サディスティック街道」・・・ -
ロマンチックな?街道を北上して箕面市役所の交差点を左折し、今度は西へ西へとこいでいく。
秋色の街路樹の中を進む。 -
池田市に入り、本日2つ目の寄り道は「小林一三記念館」。
開館時間、10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日、毎週月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日)
入館料、大人300円 -
小林一三の旧邸「雅俗山荘」は、昭和10年8月に着工し翌年9月に完成。
翁の逝去後、永らく「逸翁美術館」として使用されてきた。
「逸翁美術館」が2009年に新しい建物に移転したのを機に、旧邸と附属建物をもって「小林一三記念館」として新たに2010年に開館した。 -
玄関ホールに続く吹き抜けを持つ広間。
フランス料理レストラン「雅俗山荘」のエントランスにもなっている。
あまり庶民的なプライスではないけど・・・ -
主な展示エリアは2階にある。
小林一三の起業家としての主要な業績に関するものより、文芸、美術品収集、茶人、交友関係といった側面的な展示物が多い。
明治6年(1873年)山梨県に生まれた小林一三(こばやしいちぞう)は、慶応義塾を卒業後、20歳で三井銀行に入社する。
一見エリートコースを歩んでいるように見えるが、本人はどちらかというと作家志望で実際に小説なども書いていたようである。
銀行員はあまり向いている職ではなかったようで、どちらかというとダメ社員だったようだ。 -
2階にある書斎。
机の横にある家具が何なのか気になる・・・
小林一三は34歳の明治40年1月に三井銀行を退職し、同年4月に阪鶴鉄道株式会社の監査役に就任、さらに同年10月箕面有馬電気軌道株式会社を創立する。
ここから小林一三の輝かしい業績の数々が始まるのである。 -
陽だまりのサンルーム。
-
昭和48年に増築された「白梅館」は、起業家としての小林一三の業績に関する展示となっている。
小林一三という人物が全国的にどれほどの知名度なのか定かではないが、阪急電車を利用しているとたびたびその名を目にする。
そのせいか阪急電鉄に深い係わりがある人物であることだけは薄々感じていた。
しかしその多岐に渡る業績の数々は実に驚くべきものだったのである。
その最初の功績が明治43年(1910年)、梅田〜宝塚間及び石橋〜箕面間の箕面有馬電気軌道開業(現阪急電鉄)である。 -
鉄道事業に並行して安定的な旅客確保のために沿線の宅地開発を行ない、さらなる旅客誘致策として大衆娯楽施設を建設する。
「箕面動物園」(1910年開園)と「宝塚新温泉」(1911年開業)である。
後に箕面動物園を閉園し、娯楽施設を宝塚に集中して総合レジャーランドとして発展させ、「宝塚新温泉パラダイス」をオープンさせた。
私達の世代には関西の代表的な遊園地のひとつだった「宝塚ファミリーランド」の原点である。 -
小林一三は「宝塚新温泉パラダイス」の中でも利用者が少なかった室内プールを閉鎖し、それに代わる集客対策を考案する。
1913年温泉場の余興として、歌だけでなく、踊り、芝居、西洋音楽を融合させた演劇を上演する「宝塚少女歌劇育成会」を発足させる。
これが今年創立100周年を迎えた「タカラヅカ」(宝塚歌劇)の永い歴史の始まりである。 -
小林一三は慶応義塾在学中に野球を知り、いずれ日本でも受け入れられると洞察していた。
1913年、宝塚沿線の豊中に芝生を敷き詰めスタンドも設けた本格的なグランド「豊中運動場」を完成させた。
1915年、当時の中等学校生主体の野球大会の企画を提案し、同年8月、北は東北から南は九州に至る10地区の予選を勝ち抜いた代表10校による第1回大会が豊中運動場で行われる。
その後、第3回大会から鳴尾球場、第10回大会から甲子園球場に会場を変え、現在の「全国高等学校野球選手権大会」いわゆる「夏の甲子園」に至っている。
また、いち早く職業野球(プロ野球)の事業化構想を抱き、1936年に「大阪阪急野球教会」(後の阪急ブレーブス)を結成。
それらの功績が称えられ、昭和43年(1968年)に野球殿堂入りを果たした。 -
小林一三は、1925年に日本最初のターミナルデパート「阪急マーケット」(後の阪急百貨店)を開業。
鉄道会社の経営の多角化が日本の駅ビル事業の原型となった。
1932年、宝塚歌劇の東京進出のために「株式会社東京宝塚劇場」を設立。
1934年に東京宝塚劇場が開演し、その後も日比谷、有楽町界隈にも劇場を建設した。
映画界へも参入し、1937年に東宝映画株式会社を設立。
1956年には、新宿と梅田にコマ・スタジアムを設立。
写真は開業当時の梅田コマ・スタジアムの模型。 -
「阪急エリアマップ」と阪急電鉄の歴史を紹介する映像。
阪急京都線と北千里線の映像が流れているので、地図の京都線と北千里線にランプが灯っている。
このほか、田園調布の開発、東京電燈(現東京電力)の再建、政界への進出など東京での業績の展示もされている。 -
庭園から見た「雅俗山荘」。
1階右側が「即庵」と呼ばれる茶室となっている。
庭園内にはほかに「人我亭(にんがてい)」と「費隠(ひいん)」と呼ばれる2つの茶室がある。 -
さて、小林一三の次は安藤百福である。
こちらは世界の食文化に革命を起こしたといえる人物。
そしてこのミュージアムは「インスタントラーメン発明記念館」。
開館時間、9:30〜16:00(入館は15:30まで)
休館日、毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
入館料、無料 -
「食」こそがすべての原点だ。
戦争で焼け野原になった町。
1杯のラーメンを求めて行列する栄養失調の人々。
「まず、おなかいっぱい食べることだ。そうすればきっと心も豊かになる」 -
「いつでも、どこでも、手軽に食べられて家庭に常備できるラーメンをつくろう」。
そう決意した安藤百福は、自宅の裏庭に研究用の小屋を建て、「家庭でお湯があればすぐに食べられるラーメン」の開発に取り組んだ。
チキンラーメンの研究にはやはりチキンは不可欠だったのかニワトリ小屋がある。 -
安藤百福は、インスタントラーメンの開発にあたって5つの目標を立てた。
①おいしくて飽きがこない味
②家庭に常備できる保存性
③調理に手間がかからない簡便性
④安価
⑤安全かつ衛生的
1957年からこの小屋で研究に没頭する日々が休むことなく約1年続いた。
そして1958年8月25日、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」発売。 -
1958年、チキンラーメン発売の4カ月後、「日々清らかに豊かな味を作りたい」という願いを込め、「日清食品」が設立された。
以後、日清食品はインスタントラーメンの新製品を次々と発売していく。
ちなみに、日清食品、日清製粉、日清オイリオは共通のグループ企業ではなく、3社とも全く無関係であるらしい。
3社とも食に関する企業なだけに勘違いしやすい。 -
国内のインスタントラーメン市場に参入企業が増え成熟期を迎えていた1960年代後半、安藤百福の目は「国際化」を見据えていた。
ラーメン国際化の可能性を確かめるために欧米へと旅立った安藤百福が目にしたのは、商談相手がどんぶり代わりに紙コップにチキンラーメンを入れ、ポットの熱湯を注いでフォークで食べ始めた光景。
そして帰路の飛行機で機内食として配られた、アルミ箔のフタで密閉されたマカデミアナッツの容器。
「容器入り即席めん」の構想を固め、容器の素材としてあらゆる材料を比較してたどりついた素材は「発砲スチロール」。
断熱性、軽量、安価、ゴミ処理の容易さと理想的な素材。
そして「片手で持てて座りが良い」紙コップを大きくしたような形状の容器に、アルミ箔のフタで密閉することが決定する。 -
カップヌードルの中の様子。
この配置には実は様々な苦労と工夫が詰まっている。
「湯もどしに最適なめん構造」、「宙づりの中間保持構造」、「逆転の発想」、「フリーズドライ製法」などなど。
なんのこっちゃわからないと思うので、詳しくはこちらを見てくだされ。
http://www.nissinfoods.co.jp/knowledge/madeby/cupnoodle/wisdom.html -
1970年代によく見かけた熱湯を注げる自動販売機。
当時袋入りのインスタントラーメンが25円の時代に100円のカップヌードルはどうしても割高でスーパーや小売店にはなかなか受け入れられなかった。
そこで安藤が考案したのが「熱湯を注ぐだけ」でできるメリットを生かしたこの自動販売機。
そして1972年2月、連合赤軍による「浅間山荘事件」が発生。
10日間に及ぶ人質立てこもり事件をテレビは連日大がかりな報道をし、鉄球による山荘破壊という強硬策に出た10日目には10時間以上にわたってテレビで生中継された。
驚異的な視聴率をたたきだしたこの中継で、極寒の現場で警官や機動隊員がカップヌードルを食べる映像が何度も映し出された。
これをきっかけにカップヌードルの知名度が飛躍的に高まり、爆発的なヒットへとつながった。 -
そして現在発売中のインスタントラーメン。
今やカップめんの種類は袋入りインスタントラーメンの種類を遥かに凌ぐバリエーション。
それでもなお現役であり続ける「チキンラーメン」。
チキンラーメンこっちに来て買ってってとてってっとてっと・・・ -
世界の国別インスタントラーメン年間消費量。
今やインスタントラーメンは日本だけではなく、世界各国で生産、消費されている。
その総数は年間約1000億食にもなるという。
中国が人口を反映してダントツの消費量で、やはり欧米よりアジアでの消費量が多いようである。
1人当たり消費量では、日本の43食/人・年より多いのが韓国、インドネシア、ベトナム、マレーシアあたりのようである。 -
アメリカで販売されているカップヌードル。
確かにホテルの売店などでこういうの見かけた記憶がある。
種類が多いせいか、わかりやすいように写真付きの紙で巻かれている。 -
1階では自分だけのオリジナルのカップヌードルが300円で作れる「マイカップヌードルファクトリー」、2階にはチキンラーメンを手作りできる「チキンラーメンファクトリー」がある。
この「チキンラーメンファクトリー」は事前の予約が必要なようだ。
毎週水曜日〜日曜日開催で、小学生300円中学生以上500円で体験できる。 -
インスタントラーメン発明記念館を後にし、西へ走って猪名川に当たると猪名川沿いに南へ下って行く。
-
国道171号線を横断して少し行くと、大阪国際空港(伊丹空港)沿いに走る。
しばらく走ると「伊丹スカイパーク」に到着する。
「伊丹スカイパーク」は大阪国際空港に面した長さ1km以上ある細長い公園。
公園の中央部に「スカイテラス」があり、空港全体が見渡せる。 -
空港ターミナルや管制塔からは距離があるが、2本ある滑走路のうち長い方のB滑走路(3000m)に近いので、大型機の離着陸が近い距離で見ることができる。
-
垂直尾翼に描かれているちょっと懐かしい全日空の旧マーク。
レオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプターからデザインされたという。 -
「伊丹スカイパーク」の近くの「田能資料館」に寄ってみた。
開館時間、10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日、毎週月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日)
入館料、無料
昭和40年9月に工業用水道園田配水場建設工事現場から弥生式土器が多数発見され、1年間の発掘調査が行われた。
この田能遺跡は、弥生時代のほぼ全期間に及ぶ大集落跡だったようだ。 -
食事の器や食料や水の貯蔵用として、また煮炊きする鍋として使用された弥生式土器。
-
弥生時代は主に石や木で作られた道具を使っていた。
金属は弥生時代に日本に伝わったが、貴重品であったため、一般に広く使われだすのは弥生時代後期になってからだという。
弥生時代に多くみられた金属器は青銅器で、銅鐸のほか銅剣、銅矛などがある。 -
屋外には復元された住居などの建築物がある。
「高床倉庫」は、貯蔵の方法として弥生時代に最も発達した形である。
倉庫は床を地上より上げ密閉することで湿気や害虫を防ぎ、床と柱の接する部分にネズミ返しをはめこんでいる。 -
「方形竪穴住居」
兵庫県播磨町の大中遺跡で発掘された弥生時代後期の方形竪穴住居をモデルに復元したもの。
住居の床面を一段低く掘り下げて、固めて造っているため竪穴住居と呼ばれている。 -
方形竪穴住居の内部。
このような形の住居は、夏涼しく、冬暖かいといわれているようだ。 -
「円形平地式住居」
田能遺跡では3軒の住居跡が発掘されている。
この住居はそのうちのひとつを復元したもの。
直径約8mの円形を示す幅25cm深さ12cmの溝がめぐっていた。
静岡県の登呂遺跡で発掘された平地式の住居は周囲に土を盛った土手をめぐらせ、雨水が流れ込まないようにしているが、この遺跡ではそれが確認されていないようだ。 -
円形平地式住居の内部。
住居の面積は約49?で、普通5〜6人の家族が生活していたようだ。
復元にあたっては、4本柱の住居を想定して建てている。 -
「田能資料館」を16:00過ぎ頃出発して、本日最後の寄り道は旅客機の着陸を間近で見られる千里川土手にやって来た。
-
離陸準備に入るJALの旅客機。
-
間近で見られるということは通り過ぎて行くスピード感も相当なものである。
カメラで被写体を追っていくのも想像以上に難しい。
これが最も近くて構図が上手くいった写真だが、夕暮れ時だったので下部のディテールが暗くてわからないのが残念。 -
シャッターチャンスも僅かな瞬間。
これは少しシャッターが遅れてしまった。 -
光学ズームの望遠側が90mmで、それを越える望遠域がデジタルズームになるため、これくらいの望遠だと少し荒い画質となってしまう。
こういう被写体は偶然に迫力ある写真が撮れたりするかもしれないのでまた来てみたいと思った。
今回のブラチャモリは、小林一三と安藤百福の2人の起業家の巧績が特に興味深かった。
秋の日は短いです。
そろそろ黄昏てきたので、今回はこのへんにしときますか・・・
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 天星さん 2013/11/10 19:08:27
- 豊中・池田には
- こんばんは〜
お久しぶりです。
日本民家集落博物館ってスゴイですね
全国の地方の民家を展示してるんですね!
海外の友人なら喜びます。
おしんの世界だ〜って言って
ワイワイ(笑)
空港も着陸シーンがド迫力で
撮影できるポイントですね
いつか行ってみたいなぁ〜
天
- キートンさん からの返信 2013/11/10 20:32:51
- RE: 豊中・池田には
- 御無沙汰してます、天さん。
書き込みありがとうございます。
日本民家集落博物館の民家は学術的にはかなり価値があるのだと思いますが、あまり知名度は高くないようですね。
日本の民家に興味のある外国人には喜んでもらえそうです。
個人的には、もう少し家具や調度品を置いて当時の暮らしぶりを演出した方が面白いと思うのですが、そこが少し残念かな。
大阪国際空港の千里川土手は旅客機着陸シーンを見るには最適な場所ですね。
頭上すぐのところを降下してくるのでかなりの迫力です。
逆にその迫力を写真で表現するのは予想以上に難しいです。
ここはまた来て撮影チャレンジしてみたいですね。
では、また。
キートン
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