2013/10/29 - 2013/10/29
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belleduneさん
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もうすぐ世界遺産に登録されるという噂の富岡製糸場へ見学に行きました。もう各地からのツアーがたくさん見学されていました。約1時間半程、ボランティアのガイドさんが建物を説明しながら、案内されていました。
製糸工場の中のオートメーションの機械は、その当時のものとしては、とても精密に出来ていて素晴らしかったです。
どうやって、繭から生糸を引き出すのか、ビデオの映像を見て良く分かりました。
その当時、フランス・リヨンでは、絹織物産業が盛んで、その歴史は、シルクロードに始まりますが、1536年にフランソワ1世が、リヨンに絹織物の特許状を授けたことから、金糸、銀糸、絹織物の工史の始まりとなります。ローヌ・アルプス地方、ケブラー、炭素繊維、ガラス繊維、光ファイバーの製造が絹を上回り、繊維織物産業では、世界でも有名です。約3万人が化学繊維産業に従事していて、世界一だということです。
- 旅行の満足度
- 4.5
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創業翌年の明治6年(1873)6月に明治天皇の要請により、皇太后、皇后御一行が富岡製糸場を行啓されました。それから70年後に建立された行啓記念碑が向こうに見えます。
「いと車 とくもめくりて 大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ」という和歌には、製糸場の発展が日本の繁栄に繋がることへの期待感が表されています。 -
明治5年(1872)に建てられた東繭倉庫は、1階が事務所、作業場として、2階が乾燥させた繭を貯蔵するのに使用されていました。長さ104,4m、幅12,3m、高さ14,8mです。
大正10年(1921)、この倉庫1階に生糸を検査する調査部が設置されました。
建物の設計は、横須賀製鉄所建設に携わったフランス人のオーギュスト・バスティアンが担当しました。尾高惇忠は、政府の役人として建設当初から関わり、建築資材の調達などに尽力し、初代場長となりました。 -
器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が、果たされたころ、官営工場の払い下げの趣旨により、明治26年(1893)、三井家へ払い下げられ、三井富岡製糸場となりました。
主要な建物は、石、木、煉瓦、瓦で構成され、鉄枠のガラス窓や観音開きのドアの蝶番等はフランスから運び込まれました。 -
寒暖の気温差を計算して、煉瓦と材木との接着面の断面図
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中心となる材木は、主に官林で伐採し、杉の大きなものは、妙義山、松の木は吾妻から調達し、小さな材木は、近くの山林から集めたそうです。
礎石の石材は、連石山(甘楽町)から切り出しました。
煉瓦は、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教え、福島町の笹森稲荷神社東側に窯を築き、瓦と共に焼き上げたということです。
瓦の目地は、セメントの代用として、漆喰を使い、原料となる石灰は、下仁田町青倉・栗山産のものでした。煉瓦はフランス積み工法で、建物に優雅さを与えています。 -
明治35年(1902)、原合名会社に譲渡し、原富岡製糸場となりました。御法川式繰糸機による高品質生糸の大量生産や蚕種の統一などで注目されたそうです。
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明治38年(1905)、製糸場内に養蚕改良部が新設されました。
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東蚕倉庫の入り口天井部分
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大正3年(1914)、イタリアの蚕種製造所と一手委託製造の契約を結びました。
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東繭倉庫の横面
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繰糸場入り口
繰糸場は、明治5年(1872)に建てられ、長さ140,4m、幅12,3m、高さ12,1mです。 -
繰糸場の側面
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繰糸場工場入り口
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トラスト工法で、繰糸場内は縦の柱が一本もないので、内部が無駄なく、有効に使えます。
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ガラス窓から太陽光が入って、内部は明るいです。
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オートメーション化されていて、操業当時はその音が響いていたのでしょうね。
この上部のオレンジ色の籠で、繭が運ばれて行きます。 -
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繭から生糸を取り出すには、水が必要なので、至る所にパイプが張り巡らされています。
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長さやく140,4m、幅12,3m、高さ12,1mで、当時、世界的にみても最大規模だったということです。
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明治5年(1872)、工場長「尾高惇忠」の娘、尾高勇が工女第一号として入場しました。
創業当時は、フランス式の繰糸器が300釜設置され、500人の工女が働いていました。どんな光景だったか想像してみました。 -
繭糸の構造は、絹繊維になる2本のフィブロインとそれを覆うセリシンという2種類のタンパク質で出来ています。セリシンは、フィブロインの周りを囲んで糊の役目を果たしています。セリシンは、乾燥すると固まり、お湯に溶けるという性質を持っています。繭を煮ると、糸が取り易い状態になるので、糸を取る前に繭を煮ます。
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生糸と絹の違いは、生糸はセ氏林が多く残っているため、ごわごわしていますが、生糸からこのセシリンを取り除く作業(精練)をすると絹糸になり、独特の風合いと艶が出ます。
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この官営模範工場の基本的考え方は、様式の製糸器械を導入すること、外国人を指導者とすること、全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻って、器械製糸の指導者とする、ということでした。
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工女達は、まず繭の選別を習得してから繰糸場で西洋式の新技術の繰糸作業の習得に入ったそうです。
一等工女の下に、二等、三等、等外工女と段階別になっていました。 -
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トラスト工法 「真づか」「合掌」「つづか(つみ)」「万づえ」
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昭和15年(1940)に建てられた診療所は、3代目のものです。明治時代は、病院と言っていました。当初は、敷地の北東部に建てられ、フランス人医師が治療に当たっていました。官営時代は、治療費、薬代はすべて工場側が負担していました。片倉時代迄、厚生面は充実していたということです。
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繰糸場から寄宿舎への渡り廊下辺りの建物です。
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ブリュナ館へと続いています。
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ブリュナ館は、明治6年(1873)に建てられた高床式、回廊風のベランダがある風通しの良い開放感のある造りになっています。その建坪は、320坪でした。
ブリュナが帰仏した後は、寄宿舎や工女に読み書きや和裁を教える夜学校として利用されました。 -
地下には、建設当時に造られた煉瓦造りの地下室が現在も残っています。
Paul Brunat ( ポール・ブリュナ) は、蚕糸業の盛んなリヨンで生糸問屋に勤め、その後、エシュト・リリマンタール商会の横浜支店(蘭八商会)に派遣されます。1866年に横浜に到着し、明治に入って、生糸の生産を改革するために、製糸工場の建設が検討され、ブリュナは明治3年に英公使館の書記等と共に候補地の視察に出ます。武蔵国(東京都、埼玉、神奈川の一部)、上野国(群馬)、信濃国(長野、岐阜県中津川市の一部)を見て廻り、交通の便、動力源の石炭、水の豊富なこと、建材の石材が入手し易いことなどから富岡の陣屋予定地が建設地に選定されました。 -
ブリュナには9千円という高額な年俸が支払われていました。一般的な日本人職工の年俸が74円と比べると、いかに高額なものだったかが分かります。
明治9年(1876)に契約が終了し、帰仏しました。 -
昭和13年(1938)、株式会社富岡製糸場として独立しましたが、昭和14年(1939)に日本最大の製糸会社だった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されました。戦中、戦後と活躍しましたが、生糸値段の低迷等で、昭和62年(1987)3月に遂にその操業を停止しました。
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ブリュナ館の裏手にある寄宿舎です。
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明治5年(1872)に造られた煉瓦積排水溝は、繰糸場から出る糸を取った後の排水や各建物の雨水を集めて、鏑川に流す為に地下に建設された全長やく320mの下水道です。環境衛生を考えて造られた下水道は、明治時代には珍しく、この煉瓦積排水溝は、ほぼ完全な形で残されています。
眼下に見えるのが、鏑川です。大正7年(1918)にガソリンポンプで鏑川から揚水開始し、大正11年(1922)に電力(10馬力)で揚水開始となりました。 -
全体の配置です。
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明治6年(1873)に建設された女工館は、器械による糸取りの技術を教える為に雇われたフランス人女性教師の住居として使用されていました。ベランダの天井には、板が格子状に組まれ、木骨煉瓦造りの2階建て回廊様式で、ベランダ付き、ガラス戸の外側に付けられた直射日光を避ける為の工夫と考えられる鎧戸は当時の日本建築にはない特徴が見られます。
昭和14年(1939)所内に私立富岡女子青年学校が開設されました。 -
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2階
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建物は殆ど渡り廊下で続いています。冬、寒いからでしょうか。
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明治6年(1873)に建てられた検査人館は、生糸の検査などを担当したフランス人男性技術者の住居として使用されました。後に改修され、現在は事務所として使っています。2階には、皇族や政府の役人が訪れた際に使用された「貴賓室」があり、大理石のマントルピースなどがほぼ当時の状態で残されています。
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東繭倉庫の裏側
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明治30年(1897)に設置された乾燥場は、生糸の原料となる繭を乾燥させる建物です。繭の中の蛹を殺すことと繭の長期保存に備えて、繭から黴が発生するのを防ぐことを目的としています。
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昭和17年(1942)まで増築、改築され、操業停止まで使用されていました。現在残っている乾燥機は6台で、まず繭を1階からベルトコンベアーで2階に上げ、それを乾燥機に投入し、8段に分かれている内部を下段に移動して行く中で、約6〜8時間掛けて、温度調節しながら、繭を乾燥させます。
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明治5年(1872)に建てられた西繭倉庫は、長さ104,4m、幅12,3m、高さ14,8mで、、東繭倉庫と同じく2階を繭の貯蔵庫として使用していました。建物の構造はほぼ東繭倉庫と同じです。
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1階北半分は、建設当初は、煉瓦壁ではなく、蒸気エンジンを動かす為の石炭置き場として使用されていました。現在の状態になったのは、昭和後期になってからで、煉瓦の色がすこし異なっています。
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右手から副蚕場、蒸気釜所、煙突となっています。
昭和14年(1939)に建てられた鉄筋コンクリート製の煙突は、高さ37,5mで、直径が2,5mでした。明治5年には高さ36mの鉄製の煙突が現在の位置より西にありました。4,4mの煉瓦積の基礎の上に、高さ1m直径1,3m程の鉄製の筒を積み上げ、西方に鎖を張って支えていました。この初代の煙突は、明治17年(1884)に暴風で倒壊しましたが、高い煙突が造られたのは、燃焼効率を高めると共に、石炭を燃やす際に発生する煤煙対策のためでした。明治時代に使用された鉄製の煙突基部は、現在は井戸の囲いとして残されています。 -
富岡製糸場から直ぐのところにある時計店の建物が明治の頃のものでしょうか
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