2008/11/13 - 2008/11/13
284位(同エリア399件中)
ムッシュさん
旧街道「中山道」を高崎宿より安中宿、松井田宿までウォーキング。
群馬県の山間に向っての平らな街道筋です。
普段歩くこともない地区ですが、曇り空と風に助けられながら、軽井沢方向(西方向)に向けて進み、拙い歴史知識をかき出しながらの歩きです。
高崎宿 第十三宿(日本橋より106.5km)
関が原合戦の功績で彦根に十八万石で移封されるまで、井伊直正の
城下町として栄えた
板鼻宿 第十四宿(日本橋より113.5km)
宿の西側に「歩渡し」の「碓井川渡し場」があった。川 止めのたびに多数の旅人が滞留したことが、板鼻にとっ ては一層の繁栄をもたらした。天保14(1843年)には 旅籠の数54軒におよび、上州7宿で最も繁栄した。
安中宿 第十五宿(日本橋より116.5km)
中山道が開通するまで、古道は安中の北側を通ってい た。元和元年(1615年)に井伊直正の子直勝が町並みを 整備し、安中宿が形成された。
松井田宿 第十六宿(日本橋より126.5km)
本陣と脇本陣がともに2軒づつ備えられ、旅籠は14軒あ った。難所碓氷峠を控え多くの旅人で賑わった。南には 妙義山を望む。
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高崎城のお堀。 春の桜はきれいそう。
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慶長3年(1598年)井伊直政が箕輪から城を移し地名も高崎として城下町が発達した。
【高崎城】
高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城があった。和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われる。室町時代になり関東菅領の支配するところとなると、和田氏は菅領の上杉氏に帰属した。和田氏はその後武田信玄に付き、さらに北条氏に帰属した。豊臣秀吉の小田原城攻めの際には小田原城に籠城した。和田城は前田利家・上杉景勝の連合軍に敗れ落城し廃城した。徳川家康の江戸入城後、井伊直政がここに近世城郭を築いた。家康の関東入部とともに井伊直政は、近世城郭を築いた。この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為である。直政は入城に際し、当地を「高崎」と名付けたとされている。関ヶ原の戦い後、直政は近江の国佐和山城に移封となった。寛永10年(1633)には、三代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が自栽している。その後は、譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えた。 -
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【高崎神社】
高崎神社があります、慶長三年(1598)井伊直政が高崎城改築の際に建立したもので、歴代藩主の崇敬が篤く、高崎の総鎮守でした。 -
長松寺(ちょうしょうじ)
加賀藩が茶屋本陣とした。
徳川三代将軍家光の弟忠長が高崎城内で自刃した書院が庫裏(客間)として移築され現存。
曹洞宗赤坂山長松寺(ちょうしょうじ)。本堂は火災で焼失し、寛政元年(1789)に再建されました、当寺は加賀藩の茶屋本陣を勤めました。 -
鳥川にかかる君代橋。 R18号の下を潜っています。
明治11年(1878年)明治天皇行幸の際、この橋を渡ったことを記念し君が代橋と命名されました。 -
右に見えるのは高崎カントリー倶楽部(ゴルフ場)
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「「木曽街道 高崎宿
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高崎だるまの工房です。
まだ赤くなる前の張りぼて状態です。
街道筋にだるま工房があります、豊岡はダルマの里と呼ばれ、だるま作りの家が多数あります、これは達磨寺(だるまじ)の和尚が農民にだるま作りを指導し奨励したためです。 -
上豊岡の茶屋本陣
高崎宿と板鼻宿の間にあり、参勤交代や上級武士、公家の喫茶や昼食などのために用いられた休憩施設。
文久元年(1861年)には皇女和宮御下向の際には公卿などが客人として立ち寄られた由緒ある文化遺産。
高崎宿と板鼻宿のほぼ中間に位置し大名や日光例幣使の休憩用に作られたものだ -
茶屋本陣飯野家の説明板。
普通の茶屋は一般の旅人に昼食や茶菓を提供した休憩所であるが、茶屋本陣はそのうち特に大名や上級武士、公家などが用いた高級茶屋を言った。
宿場と宿場の間に設けられたもので、宿泊できる本陣とは異なる。
日光例幣使の公家や、文久元年(1861年)には皇女和宮降嫁の際に立ち寄ったとことも分かっている。
立場に置かれていた大名や公家用の休憩場所が茶屋本陣の建物が残っている。茶屋本陣には宿泊はできない。19世紀の初めに既にあった居住用の主屋と接続する離れ座敷として増築され、和宮御下向の際、公卿などが客人として立ち寄ったことがわかっている。土蔵と門を構えて豪壮な家で、中庭などが整備されている。 -
上豊岡の茶や本陣の中にある襖絵の一枚です。
大きな勢いのある筆触です。立派!! -
国道18号線。
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藤塚一里塚(南)
群馬県下唯一現存する藤塚の一里塚(南塚)
ここにある一里塚は、中山道に設けられたもので日本橋より7番目、江戸から28里(約112km)の距離にあります。南側のものは、旧状をよくとどめ、塚の上にある推定樹齢200年を越えると思われる榎の大樹が歴史の重みを伝えています。北側のものは、道路拡幅により原位置を移動していますが、中山道では唯一、両側の塚が残るものとして、全国にも全国的にも大変貴重なものです。 -
だるまの古里の大門屋さんです。結構大きな工房で、
2階に食事が出来るレストランあり。 -
「だるまの大門屋」を過ぎた左手に見える鼻高橋を渡り、対岸を250mほど戻ると山門(写真)に達する。黄檗宗(禅宗)の少林山達磨寺といい本殿等は階段をかなり登る。 縁起だるま発祥の寺。また、観音堂は開創当時(約300年前)の姿を保つ達磨寺最古のお堂である。
境内の東側にドイツの建築家ブルーノ・タウト夫妻が1934年から2年強住んだ「洗心亭」がある。 -
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近年は、風水からの要望で、カラフルに色んな達磨さんがラインナップされているとのことでした。
これには驚きました。
青、黄、緑、パープル、オレンジ・・・・色もならんでますよ。 -
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少林山達磨寺
黄檗宗 昔、碓氷川のほとりに観音様を祀るお堂があり、ある年の大洪水のあと、村人たちが川の中から古木を引き上げて霊木として観音堂に納めて置いたところ、延宝八年(1680)一了居士という行者が霊夢によって訪れ、信心を凝らして一刀三礼、達磨大師の座像を彫り上げ観音堂にお祀りした。この噂は「達磨出現の霊地・少林山」として近隣に広まった。その頃の領主・酒井雅楽頭忠挙は前橋城の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依された中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄十年(1697)少林山達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創した。 -
少林山達磨寺の本堂にあたる霊符堂
ケヤキの権現造り[という、お寺なのに神社の雰囲気もある建築様式で明治44年に再建された本堂である。元禄十年(1696)前橋城主酒井雅楽頭忠挙が水戸光圀公にお願いして、中国僧心越禅師を迎え、禅の道場としてこのお寺が開かれた。 張り子の縁起達磨はこの寺から生まれた。今から200年程前天明の飢饉の後、農民救済のため九代東嶽和尚は、心越禅師の描かれた達磨大師の図を手本に木型を作り、農家の副業に張り子だるまを作らせ、七草大祭に売らせたところ評判となり、縁起だるまの少林山と言われる今日の隆盛をみるに至ったそうだ。 -
板鼻の道標、男女が寄り添っている双対道祖神
台座に京都、日光、江戸、善光寺への道程が刻まれてる。 -
板鼻の庚申塔
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道六拾九次之内 板鼻 英泉画】
宿場東側の板鼻堰用水路に架かる寒熱橋を描いている。 -
右手の板鼻公民館前に板鼻宿本陣跡標柱があります、木嶋本陣跡です
今は標識を残すのみであるが、右奥の公民館のところには旧本陣の書院が残されている
書院は,板鼻宿本陣敷地内の西側につながっていて,その上段の間は参勤交代の諸大名や多くの貴人の宿として使われた。幕末に皇女和宮が京都から江戸に下向の際,文久元年(1861)11月10日この書院に宿泊した。
江戸より14番目の板鼻宿は本陣1、脇本陣1、旅籠54軒の大きな宿場である
多くの飯盛女を抱え、中山道上州七宿の内、最大の宿場であった
旧中山道で、ここより大きい宿場は、この先40番目の塩尻宿しかない -
碓氷川
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碓氷川に架かる橋、久芳橋を渡って最初の信号を左に入った所が旧中山道である
そして、旧中山道15番目の宿場「安中宿」に入る
安中宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠17軒であった
安中宿は北側を流れる九十九川と、南側の碓氷川の間の河岸段丘の上にある宿場。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 安中 (広重)】 -
享和二年(1802)建立の庚申塔道標「従是一宮大日街道」があります。
徳川三代将軍家光が社殿(国重文)を再建した一之宮富岡貫前神社(ぬきさき)への道標です。
『板鼻庚申塔』(安中市中宿1丁目5-14)
一の宮道の道標を兼ねた共和2年(1802)の庚申塔。「従是 一宮,大日街道」とある。一の宮は富岡にある貫前神社のこと。 -
もう夕方で西に日がすっかり傾いています。
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原市近くの杉並木です。
けっこう背の高い巨木ですが、本数的には箱根杉並木が一枚上手かな。並木の間を車がびゅんびゅん走っています。
旧中山道の第15番目の宿場・安中宿を出ると、次は松井田宿となるその中間にあるのが、間の宿(あいのしゅく)原市(はらいち)です。ここです。
安中宿から原市の入口に掛けては、見事な杉並木となっている
往時は,1kmにわたり,日光の杉並木と並び称せられる名勝であったが,多くが枯死し,僅かに杉並木の体裁を保っている。
天保10年(1844)には735本あったというが,昭和56年に25本。昭和8年国の天然記念物に指定されるも,現在古木は7,8本しか残っていない。
(群馬県安中市原市) -
杉並木の一本です。相当背は高い。
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【松井田宿】
日本橋から31里35町(125.6Km)、京へ103里35町 (408.3Km)
天保14年(1843)で人口1009名、総家数252軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋14軒。
この宿場には信州各藩の城米が送られてきて,江戸廻し米の中継点となっていた。廻し米のおよそ半分が松井田宿の宿米(米商人)に売却(払い米)され,残りの米は,再び牛馬で倉賀野河岸へ運ばれ,舟で江戸へと回送された。
各藩の廻し米は多額の取扱高となり,松井田は「米宿」と呼ばれていたと言う。馬子唄には「雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らじゃこしましょ坂本へ」と唄われ,日のあるうちに面倒な関所を越しておきたいと,碓氷の関所を控え,松井田を通過してしまう大名や旅人が多かった。
次へ 中山道NO10松井田宿から坂本宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10293726/ -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 松井田 広重画】
次へ 中山道NO10松井田宿から坂本宿へ
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