2009/04/23 - 2009/04/23
203位(同エリア398件中)
ムッシュさん
軽井沢宿 第十八宿(日本橋より146.5km)
中山道随一の難所碓氷峠を控え、道中の往来が頻繁になるにつれてめざましく発展した。
標高950mの軽井沢は、明治以降、外国人宣教師ショーが別荘地適地として紹介して以来、日本有数の避暑地となり、宿場の面影は殆どとどめていない。つるや旅館付近に少し古い町並みが残る。
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
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碓氷峠は「木曽の桟(かけはし) 太田で渡し 碓氷峠がなくばよい」と唄われた中山道三大難所のひとつです。現在、木曽の桟も太田の渡しもありませんから、碓氷峠は唯一の一大難所です
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峠道を上ります。
【刎石坂(はねいしさか)】は碓氷峠一の難所である
以前には芭蕉の句碑もあったが今は坂本宿の上木戸に移されている
道の傍らには、南無阿弥陀仏の碑や、大日尊、馬頭観音上り地蔵、下り地蔵等が多数あるところである
如何にも旧中山道らしいところだまた、ここは火成岩の岩盤が露出したところで柱状節理の見える所である
多くの石造物(南無阿弥陀仏,大日尊,馬頭観音・・・・)があり,安全な旅を願った旅人の心が偲ばれる。坂本宿上の木戸に移されたの「芭蕉句碑」も,ここにあった。溶岩流でできた柱状節理,生暖かい空気が噴出してくる風穴,次いで急崖の上に「上り・下り地蔵」(室町時代の作と言われる。はね。刎石坂を登りつめた所にある。平らな石に線刻の地蔵像が刻まれている,一つが上り方向,もう一つが下り方向を向いている。) -
【念佛百萬遍供養塔】があります。
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【刎石坂(はねいしさか)】
溶岩節理の岩石がゴロゴロしている急坂、峠道の中でも一番の難所。
グングン登ると柱状節理(ちゅうじょうせつり)があり、火成岩が冷却、団結するとき、き裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたもの。
碓氷峠で一番の難所刎石坂(はねいしさか)に差し掛かると南無阿弥陀仏名号碑、大日尊、文政八年(1825年)建立の馬頭観世音文字塔、坂本宿の上木戸外にある芭蕉句碑は以前はここにあった。 -
このあたり石仏多し。【南無阿弥陀仏名号碑。
旅人の気持ちを偲ばせる。 -
【刎石坂(はねいしさか)標示】
刎石(はねいし)坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある -
大日尊石碑
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かなり上って来ました
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鬱蒼とした峠道が明るく開けると【覗(のぞき)】があります、
眼下に坂本宿が一望です、絶景です!
小林一茶はここで「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んでいます。
直下に、坂本宿の町並みを、その向うには中山道の道筋と碓井の関所跡方面を一望できる。
ここは、旅行パンフレットのフォトに必ず登場する撮影ポイントです。
この道をずっと歩いて来たのですよ。(感動!!) -
坂本宿を見下ろせる場所で山梨の老木がある。
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ここの標高約800m、円形タンクからの標高差約250m。
坂本宿を見下ろせる場所で山梨の老木がある。
一茶は「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだ。 -
天保7年(1836)建立の馬頭観世音文字塔
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空が見えてきたので、そろそろ登りは終了で、峠に到着かな・
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弘法の井戸
刎石茶屋に水が無いのを憐れみ、弘法大師が掘り当てたという伝説の井戸 -
「四軒茶屋のあづまや」
大名行列も一休みしたと言われる辺りに再現した休息所。
刎石山(標高810m)の頂上で小池小左衛門茶屋本陣、大和屋等四軒の茶屋があり四軒茶屋とも呼ばれた。力餅、わらび餅が名物。
刎石(はねいし)山の頂上(標高909m)にある
刎石(はねいし)立場(茶屋)跡である
茶屋本陣の他、茶屋が三軒あり、四軒茶屋と呼ばれていた
この途中に弘法の井戸があった
刎石茶屋に水が無いのを憐れみ、弘法大師が掘り当てたと言う
伝説のある井戸である -
しばらく、平らな稜線峠道を歩きます。
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【尾根道に堀切(ほりぎり)】
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家、上杉景勝率いる三万余りの軍勢を松井田城主大道寺政繁が防戦した場所。道の両側を掘り切り、細く道幅を狭め、通行困難な道とした。しかし、ここを突破され、城主政繁は松井田城に籠城するも、支えきれず開城降伏し、後に秀吉より切腹を命じられ自刃して果てた。
刎石(はねいし)茶屋跡を出ると堀切跡がある
天文十八年(1590年)、秀吉の小田原攻めの時北陸・信州軍を防ぐために松井田城主がここで防戦しようとして道の両側を掘り切って、道を狭くしたところ
そのためこの先は、細い尾根道となっている
刎石山の尾根が高さを落としちょっとした鞍部となっているところ。道の両側が切り落とされ狭くなっている。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際,北陸・信州から攻め込んだ前田軍などを松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所。 -
先に進むと右手の段上に寛政3年(1791)建立の南向馬頭観音像が段上に安置されています。
「この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。
昔、この付近には山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、
左手が 岩場となり、そこにまた馬頭観音が道端にある。」
坂本宿 施主 七之介 -
南向馬頭観音さんです
刎石山の緩い坂を下った絶壁となっている危険なところに、二つの馬頭観世音ある
南向馬頭観世音(フォト)と北向馬頭観世音と呼ばれている
南向馬頭観世音が寛政三年(1791年)北向馬頭観世音がと文化十五年(1818年)の建立とのこと -
峠道を歩きます
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こちら北向馬頭観音さんです。文化15年(1818)建立。
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【刎石の一里塚】標示
江戸日本橋より数えて35里目です。 -
こんな廃棄物も。なぜだ!
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もう快適な峠道です。
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【山中茶屋跡】
「坂本宿と軽井沢宿のほぼ中間に位置する。碓氷峠の最も大きな休憩地点だったところで、当時は13軒ほどの茶屋が営業していた。
慶安年中(1648~)に峠町の人々が川水をくみ上げるところに茶屋を開いたのに始り、寛文二年(1662年)には立場茶屋があり、丸屋六右衛門茶屋本陣がありました、力餅、蕨餅が名物。
明治時代になると小学校が出来、山中に町があるといわれ、明治11年(1878)の明治天皇北陸巡行の際、教育の振興のために金二十五両が下賜された、当時児童は25名であったといわれます。」 -
拡大すると読める
<歌の意味>
子持山の若い楓が色づくまで 貴女と寝ていたい
あなたはどう思うだろうか -
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【思婦石(おもふいし)】
「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」がある。
群馬郡室田の国学者関橋守(せきのはしもり)の作で安政四年(1857)の建立。
日本武尊の故事を歌った碑 -
頂上熊野神社ももうすぐです。
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【赤門屋敷跡】
ここには加賀藩前田家の御守殿門に倣って造られた朱塗り門の赤門屋敷があった。熊野神社代々の社家峠開発の祖曽根氏の屋敷。
参勤の大名はここ迄来ると、赤門屋敷で休息し、無事碓氷峠到着を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。
「江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為「中山道」が碓氷峠「熊野神社」前を通り、此の赤門屋敷跡には「加賀藩前田家」の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿「追分・沓掛・軽井沢」を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(1861)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。」
明治十一年明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町「峠部落」も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。
此の屋敷は熊野神社代々の社家「峠開発の祖」曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門「御守殿門」及び格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている。
皇女和宮もここで休息し、明治十一年(1878)明治天皇北陸東山道御巡幸の際に休憩所になりました、しかしこの通行を以って、旅人は碓氷新道、そして信越線へと移り、坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となりました。 -
【熊野神社】
碓氷峠頂上の群馬県・長野県境に鎮座する。境内には有名な石の風車など多くの文化財がある。
神社前にある茶店”しげのや”の力餅は、江戸時代から続く名物で、今も営業を続けてる。
熊野皇大神社は、日本武尊が東国平定の帰途の際、碓氷峠にて濃霧にまかれた時、八咫烏(やたがらす)の道案内によって無事嶺に達することができたことにより熊野の大神を祀ったのが始まり。熊野皇大神社の新宮は上州側、本宮は國境上、那智宮は信州側に各々建っている。
この熊野神社は上野と信濃の国境の上にあり本宮、新宮(信濃側)、那智宮(上野側)の三社が13世紀頃より並んで、鎮座している
この旧中仙道の碓氷峠は中世(鎌倉時代)から利用されるようになった
なお、古代の上州と信州を結ぶ道は入山峠越え(今の碓氷バイパス)であった
「【熊野神社の由緒】
当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、八咫烏の道案内によって無事嶺に達することができたことより熊野の大神を祀ったと伝えられる。
碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬音耶(あずまはや)」と嘆かれたという。(日本書紀より)
これら御由緒より「日本太一」という烏牛王札が古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布されている。
【歴史概略】
鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け、群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。
江戸時代には諸大名を始め、多くの人々が中山道を行き来した。関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、権現信仰が最も盛んとなった。
「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わって行った。」 -
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碓氷峠に立つタゴール胸像
インド国歌の作詞もした詩聖タゴールの胸像
アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩人・思想家。生誕120年記念として建立。
タゴールが軽井沢の三井邸に滞在して日本女子大の学生に講義をした記念という -
見晴らし台からの大パノラマ眺望。
妙義山の方向です。
標高1180mで,信濃への出入り口で噴煙たなびく浅間山を一望できる景観の良い峠である。箱根と並び称されるほどの天下の険である。見晴台からの関東の山々,浅間山の眺めは絶景である。
古代より、東西と北を結ぶ重要な峠として位置づけられており、江戸時代には江戸側の麓に関所が置かれた。 -
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碓井峠見晴らし台に位置する群馬県・長野県の県境。
飛石を繋ぐラインが県境の線である。これは珍しいかも。 -
浅間山
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約1時間半下ると吊橋がある。この橋を渡ると、樹間に別荘が点在しているところとなる。いわゆる旧軽井沢です。
二手橋を渡ると、【ショー牧師の胸像、礼拝堂、敷地の奥にはショーハウス】があります。
「ショー牧師は軽井沢の恩人といわれている。 難所碓氷峠を控え賑わった軽井沢は明治17年(1884)碓氷新道(国道18号線)が開削され、その9年後には信越線が開通し、それらの主要路から外れた軽井沢は一気に衰退した。
しかしキリスト教布教の為に来日した英国聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが明治21年(1888)この地にショーハウス(軽井沢別荘第一号)を構えたのを機に避暑地として脚光を浴び今日に至っている」。 -
ようやくたどり着いた軽井沢 桜が満開だった
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旧軽井沢と新軽井沢の接点。
旧軽井沢ロータリーの桜は丁度満開でした。1ヶ月遅れの桜前線でした。
しかし、街道歩きが目的で、歴史的は興味がありますが、観光はスキップです。
次へ 中山道NO.12 (長野県) 軽井沢宿→沓掛宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10303534/
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